おおくのひめみこ
661~701
天武天皇と大田皇女(天智天皇の娘)の間に生まれました。同母の弟に大津皇子がいます。 母の妹が後の持統天皇ですが、母の大田は持統叔母とは対照的な控えめでやさしい家庭的な人でした。ですから大切に育てられ気だてのいい少女に育ったことでしょう。
ところが、七歳の時にその母が伝染病でしょうか、あっけなく亡くなってしまいました。大津は五歳でした。その後は、多分、持統の元で育てられたのでしょう。持統には大津より一歳年上の草壁皇子がいました。大津と草壁は何事においても比較されます。しかもすべてにおいて大津の方が評判がよかったので持統は面白くありません。このままでは次期天皇の座も持っていかれるのではないかという危惧が既に生まれていたのかもしれません。
父の天武はこの姉弟を可愛がってはいたのですが細かいところまでは見えません。
そんな環境の中で育ちましたから、大伯と大津は二人で寄り添って生きていたのでしょう。とても、仲の良い姉弟でした。
母を亡くしてから五年後に「壬申の乱」が起こりました。これは、天武と天智の皇位継承をめぐる戦いです。天智亡き後、息子の大友皇子が相手でした。大伯はよく遊んでくれた大友さまやその后の十市さまが敵となったことがよくわかりませんでした。
しかし、天武の皇子である大津はまだ十歳だというのに戦場に駆けつけてそれなりの働きをするのです。そして、この戦いは天武側の勝利となって二人の父は天皇に即位されました。近江の宮はうち捨てられ飛鳥の新宮殿に都が移り、華やかな即位の式典が執り行われます。十市さまも天武のお子ですから可愛い葛野皇子の手を引いて参列されていました。背の君を父上から自害に追い込まれた胸の内を察するとお気の毒でたまりません。大伯は権力争いの恐ろしさが身に沁みました。時折、向けられる持統叔母さまの視線にふと不安を感じることもありました。大津大津こそ次期天皇にふさわしいという声が囁かれ始めていたからです。
十四歳になると大伯は天武の命によって伊勢神宮の斎王として赴任しました。斎宮制度は天武朝になってできたので、大伯は第一番目の斎王でした。これ以来、この制度は六百年も続くらしいです。仕事は、神に仕える巫女。天皇家の血を引く少女の中から選ばれ、天皇が代わると斎王も交代するというものです。
天武と持統は主な皇子六名を吉野の離宮に集めて兄弟団結して仲良くしていくことを誓わせました。そして、草壁を皇太子とするのですが、二年後には大津を政治に参加させました。出来のい子と良くない子とが出来るのは仕方がないことなのですが、これが、やはり、我が子可愛さの持統には不愉快でなりませんでした。天武は長子の高市皇子を次期天皇に最適だと思ってはいたのですが、母親の出が低かったので諦めていました。ですが、大津は持統の姉の子です。もし、生きておられたら皇后はその大田であった筈。そんなことから周囲の期待も大津に集中するのです。伊勢にいても、そうした噂が入ってくるたびに大伯はどんなにか胸を痛めたことでしょう。飛鳥に帰りたい、大津を守りたい。でも、帰りたいと願うことは父、天武の死を願うことに繋がるのですから悩みはさらに深いのです。
頭が良くて豪放磊落、漢詩も上手という大津を女人方が放ってはおきません。山辺皇女(天智の娘)を妃に迎え、石川郎女とも恋におちます。仕事に恋に華やかな青春時代が想像されますね。しかし、父の天武が亡くなってしまい、そうした日々に終止符を打つことになります。大津は二十四歳になっていました。父の死によって皇位継承問題が大きな問題として浮上してきました。
悲劇がその牙を剥きだしたのはその頃からだったでしょうか。当時から占いは盛んでした。もともと、占いは卑弥呼に代表されるように「神の声」を聞くものでした。それが政治の発祥でもあったようです。
ある時、新羅の僧で行心という者が訪ねてきて大津を褒め称え「あなたさまは天皇にならなければこの世で生きていけないでしょう」と言うのです。多少の不満はあったにしても吉野での盟約もあって大津にはそんな野心はありませんでした。この時までは…。そうなんだ、俺は天皇になるべきだった。だけど、持統はあのお馬鹿な草壁を即位させようとしてる。それでは、まだ若いこの国を正しく導いていくことは出来まい。謀反。それしかない。若いだけに押さえていたものに火を点じられると一直線です。大津は最愛の姉にこのことを相談しようと伊勢に向かって馬を走らせます。
突然の大津の訪問に大伯は驚きます。表情も尋常ではありません。心配していたことが現実になったことを知ったのです。二人はどんな話をしたのでしょうか。大津は謀反を起こす意志のあることを打ち明けたのでしょうか。それとも、命の危険にさらされていることを訴えたのでしょうか。大伯はきっと止めたり、諭したりしたのではないでしょうか。たった一人の可愛い弟です。生きていて欲しい。涙ながらに訴えたのに違いありません。やがて、夜の闇に紛れて大和へ帰って行く弟を見送らなければなりません…ついに大津を翻意させられなかった悔しさと、もう生きては会えないかもしれないという悲痛な思いで、 大伯皇女は弟の大津皇子を見送ったのです。
我が背子を大和へ遣ると小夜更けて 暁露に我が立ち濡れし
ふたり行けど行き過ぎかたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ
この時の心情を謳った大伯の歌です。弟を思いやる気持ちが切なく伝わってきます。
飛鳥に戻った大津は天智の息子で親友の川島皇子に思いを打ち明けました。最後には天武の敵となって亡くなった天智の息子であれば理解と協力を得られると思ったのでしょうか。 でも、この川島が打ち明けられた翌日に密告してしまいました。そして、大津はただちに捕らえられて、その翌日には死刑を実施されてしまったのです。西暦686年の10月3日のことで、天武が卒してから一ヶ月にも満たない日のことです。なんという早さでしょうか。諸々の情況を考え合わせると、これはもう、あの占い師の訪問からすべてが持統の仕組んだ罠だとしか思えません。急を聞いて大伯が駆けつけた時は既に愛しい弟は冷たい亡骸になっていました。残されていたのは歌が一首。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ
昨日もおとといも鳴いていた鴨、それがもう見ることが出来なくなる…私はもうこの世にはいられないのです…これを読んだ時の大伯の気持ちはどんなに切なかったことでしょうか。妃の山辺皇女は夫の死刑を聞くと裸足のまま髪を振り乱して死刑場まで走っていって大津のあとを追うように首を吊って亡くなったと伝えられています。
さすがに夫の愛した息子であり、姉の忘れ形見である大津を謀反に追い込んで殺したことには持統も後味が悪かったのでしょうか。それとも、大罪を犯しても罪を憎んで人を憎まずとばかりの政治的配慮なのでしょうか。三ヶ月もの長期間の殯を行い、丁寧に二上山に葬りました。
同じ年の11月、大伯皇女は斎王としての任を解かれて都へ帰ることになりました。
神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ君のあらなくに
神の国である伊勢に残っている方がよかった…わたしは何のために大和へなどもどって来たのでしょう。愛する弟はもうこの世にいないというのに。
見まくほり我がする君もあらなくに 何しか来けむ馬疲るるに
逢いたいと思う弟は、もうこの世にはいないのに わたしは何のために都へなど帰ってきたのでしょう。かわいそうに、馬が疲れるだけ。
二上山は奈良県葛城連峰にある、雌雄二峰に分かれた美しい山で、その雄岳の頂上に大津皇子のものと伝えられるお墓が今もあります。
うつそみの人にある我や 明日よりは二上山を弟背と我れ見む
現実の世に残された私…明日からは、あの二上山をいとしい弟だと思ってながめることにしましょう。残された大伯皇女は大津皇子が葬られた二上山を眺めては愛する弟を偲んでいたことでしょう。
大伯皇女はこのあと十五年生きて、大宝元年に四十一歳で亡くなりました。その十五年をどのように生きたのか、このあと史書には名前を見いだすことは出来ないようです。