11月25日 (日曜日)
一人の若者が土をこねているうちに、女の人形ができた。
古代の大王は大いに気に入り、たくさんつくるよう人々に、命じる。
それは「埴輪(はにわ)」と名付けられた。
詩人の茨木のり子さんの創作である。
ラジオドラマとして書いた作品『埴輪』だ。
▼穴でできた目や口、ユーモラスなポーズ…。
素朴で、親しみも感じる造形の数々は、
なんのために作り出されてきたかについて、謎も多いらしい。
想像力をかき立てよう。
ドラマでは、抑圧された若者が、埴輪づくりを機に創造に目覚め、自由を求めるまでになる。
▼仁徳天皇陵として宮内庁が管理する大山(だいせん)古墳について
想像力を刺激するような発表があった。
宮内庁と堺市の発掘調査で、周辺部の堤に土管状の円筒埴輪がびっしり並び、
精巧な石敷きがあったと分かった。
★新聞の片隅で少し読んだが・・詳しいことは書かれていなかった。{/face_cr
円筒埴輪が何千体もあったらしいことが?
こんな形のものが円筒埴輪というらしいが・・
▼研究者からは桁違いの労力という声があるそうだ。
堤にまで石敷きがあるのは異例で、円筒埴輪は約七千本も並ぶ計算になるという。
▼一日二千人が働いても古墳築造に十五年以上かかるという試算があったが、
それ以上労働力が必要だったようだ。
大掛かりな築造の現場が浮かび上がる。
▼日本最大の前方後円墳として知名度は高いが、謎は多い。
宮内庁が立ち入りを制限し調査は限られている。
だれが被葬者かさえ議論がある。
なぜこれほどの規模なのか。
ドラマのような逸話があるのではないか。
続きが知りたくなる。
===================================
大阪府堺市大仙町にある古墳時代中期の超大型の前方後円墳。
百舌鳥(もず)古墳群の盟主的存在。
墳丘の長さでは第1位で、仁徳(にんとく)天皇陵に指定されている。
現状では三重の周濠(しゅうごう)をもつが、
1892年(明治25)ころから約10年間、明治政府が濠の大規模な工事を行ったため、
本来の形は明らかでなくなっており、
少なくとも三重濠が周濠になったのは明治時代のことである。
~~~~~~~~~~
大山古墳の墳丘は、長さ486メートル、
後円部の径245メートル、
高さ34メートル、
前方部端の幅300メートル、
高さ34メートルあって、
後円部径の2倍がほぼ墳丘の長さになるという設計。
前方後円墳としては長細く、
したがって墳丘の総容量では誉田山(こんだやま)古墳(応神(おうじん)天皇陵に指定)より
やや小さく約141万立方メートルである。
墳丘全体に乱れた部分と整った部分とがあり、
整った部分は明治時代の修築を示すとする説がある。
したがって、墳丘を現地で検討できない現時点で本来の形状を復原することはむずかしいが、
両くびれ部に造り出しを備え、
ほぼ3段に築かれており、斜面には葺石(ふきいし)を用い、
円筒・人物・馬・鳥などの形象埴輪(はにわ)や須恵器(すえき)が出土しており、
円筒埴輪は濠の堤にも立てられている。
1872年(明治5)前方部で長持(ながもち)形石棺を納めた竪穴(たてあな)式石室が発掘され、
ガラスの皿や碗(わん)、金めっきをした短甲(たんこう)や眉庇付冑(まびさしつきかぶと)、
鉄刀などが出土した。現在ボストン美術館にある銅鏡と刀の環頭(かんとう)
(環状の飾りをつけた柄頭(つかがしら))もこのときの出土品であるとする伝えがある。
なお後円部にも江戸時代に長持形石棺があったとする、当時の記録がある。
前方部の石室が大山古墳造営時またはそれに近いころのものか、
それとも約半世紀を経てのものかによって、
大山古墳の年代推定は変わるけれども、
前方部の石室は5世紀末~6世紀初頭であろう。
なお陪塚(ばいづか)の塚廻(つかまわり)古墳から、
巨大な勾玉(まがたま)、銅鏡、鉄製刀剣などが出土している。
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一人の若者が土をこねているうちに、女の人形ができた。
古代の大王は大いに気に入り、たくさんつくるよう人々に、命じる。
それは「埴輪(はにわ)」と名付けられた。
詩人の茨木のり子さんの創作である。
ラジオドラマとして書いた作品『埴輪』だ。
▼穴でできた目や口、ユーモラスなポーズ…。
素朴で、親しみも感じる造形の数々は、
なんのために作り出されてきたかについて、謎も多いらしい。
想像力をかき立てよう。
ドラマでは、抑圧された若者が、埴輪づくりを機に創造に目覚め、自由を求めるまでになる。
▼仁徳天皇陵として宮内庁が管理する大山(だいせん)古墳について
想像力を刺激するような発表があった。
宮内庁と堺市の発掘調査で、周辺部の堤に土管状の円筒埴輪がびっしり並び、
精巧な石敷きがあったと分かった。
★新聞の片隅で少し読んだが・・詳しいことは書かれていなかった。{/face_cr
円筒埴輪が何千体もあったらしいことが?
こんな形のものが円筒埴輪というらしいが・・
▼研究者からは桁違いの労力という声があるそうだ。
堤にまで石敷きがあるのは異例で、円筒埴輪は約七千本も並ぶ計算になるという。
▼一日二千人が働いても古墳築造に十五年以上かかるという試算があったが、
それ以上労働力が必要だったようだ。
大掛かりな築造の現場が浮かび上がる。
▼日本最大の前方後円墳として知名度は高いが、謎は多い。
宮内庁が立ち入りを制限し調査は限られている。
だれが被葬者かさえ議論がある。
なぜこれほどの規模なのか。
ドラマのような逸話があるのではないか。
続きが知りたくなる。
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大阪府堺市大仙町にある古墳時代中期の超大型の前方後円墳。
百舌鳥(もず)古墳群の盟主的存在。
墳丘の長さでは第1位で、仁徳(にんとく)天皇陵に指定されている。
現状では三重の周濠(しゅうごう)をもつが、
1892年(明治25)ころから約10年間、明治政府が濠の大規模な工事を行ったため、
本来の形は明らかでなくなっており、
少なくとも三重濠が周濠になったのは明治時代のことである。
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大山古墳の墳丘は、長さ486メートル、
後円部の径245メートル、
高さ34メートル、
前方部端の幅300メートル、
高さ34メートルあって、
後円部径の2倍がほぼ墳丘の長さになるという設計。
前方後円墳としては長細く、
したがって墳丘の総容量では誉田山(こんだやま)古墳(応神(おうじん)天皇陵に指定)より
やや小さく約141万立方メートルである。
墳丘全体に乱れた部分と整った部分とがあり、
整った部分は明治時代の修築を示すとする説がある。
したがって、墳丘を現地で検討できない現時点で本来の形状を復原することはむずかしいが、
両くびれ部に造り出しを備え、
ほぼ3段に築かれており、斜面には葺石(ふきいし)を用い、
円筒・人物・馬・鳥などの形象埴輪(はにわ)や須恵器(すえき)が出土しており、
円筒埴輪は濠の堤にも立てられている。
1872年(明治5)前方部で長持(ながもち)形石棺を納めた竪穴(たてあな)式石室が発掘され、
ガラスの皿や碗(わん)、金めっきをした短甲(たんこう)や眉庇付冑(まびさしつきかぶと)、
鉄刀などが出土した。現在ボストン美術館にある銅鏡と刀の環頭(かんとう)
(環状の飾りをつけた柄頭(つかがしら))もこのときの出土品であるとする伝えがある。
なお後円部にも江戸時代に長持形石棺があったとする、当時の記録がある。
前方部の石室が大山古墳造営時またはそれに近いころのものか、
それとも約半世紀を経てのものかによって、
大山古墳の年代推定は変わるけれども、
前方部の石室は5世紀末~6世紀初頭であろう。
なお陪塚(ばいづか)の塚廻(つかまわり)古墳から、
巨大な勾玉(まがたま)、銅鏡、鉄製刀剣などが出土している。
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