2025 3月7日 (金曜日) 晴
今日も強風注意報が出ている。

縦の等圧線が風の強く吹く様子を示している。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◉ふり返ってみると・・昨年の3月は強風で随分荒れた日も多かった。
ベランダの屋根の天板がすっ飛んだり
母屋のTV アンテナが倒れてしまい修復費用もバカにならなかった。
今年も風の強い日が多いので、何もなければと思っている。
~~~~~~~~~~~~~~~~
◆午前中に自治会の用事を済ませる。
◆午後は通院だ。脳神経外科で血圧測定。薬を6W分もらって約1時間半程度。
今のところ体調は良い様に感じている。
途中、2度程帽子が飛ばされた。
===========================
◉新潟日報 日報 コラム 記事
その医師は患者が亡くなると半紙に俳句をしたため、
死亡診断書と一緒に遺族に渡していた。
例えば、こんな句である。〈よき人ら残して一人冬の旅〉。
打ちひしがれた遺族の心に、小さな明かりがともったのではないか
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼医師であり俳人。医学史の研究家であり、ユーモアたっぷりのエッセーでも親しまれた。

県立がんセンター新潟病院の副院長などを務めた蒲原宏さんの訃報が届いた。
101歳。 みっしりと濃密な人生だったはずだ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼「俳句をやっていると、小さな命にも気が向くんだよね」。
本紙の取材に話してくれた。
街路樹の下にかれんな花が咲いている。花の中には小さな虫がいる。
そんな景色を見つめながら、命を慈しむ心を持てるようになったという
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼命に真正面から向き合うゆえだろう。
時には、べらんめえ調で患者と渡り合った。
胃の手術を渋る男性に「手術しねで帰れば、来年の今頃はお前さんの一周忌だぜ」。
手術は成功した。新聞のおくやみ欄で男性の名を見つけたのは15年後。
93歳まで命をつないでいた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼医師として科学や技術を信奉する一方、言葉の力も信じていた。
言葉は人を動かしたり、癒やしたりする。
己の口から出た言葉に慰められることもある。
言葉もまた、医療の一角をなす大切な要素と考えていたようだ。
★これは実感している。言葉は武器にもなる注意が必要だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼こうも述べていた。
「病気をすべて体から追い出そうとせずに、
いなしながら共生する多病息災も長生きのこつの一つ」。
言葉通りの大往生だ。その生き方に憧れる。人生の達人が旅立った。
=~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
メモ
新潟医科大(現新潟大医学部)医学専門部卒。
元海軍軍医。県立がんセンター新潟病院で整形外科部長、副院長を歴任し、
1989年3月に退任した。医学生時代から俳人の中田みづほ、高野素十らの指導を受け、
🔵俳人としても活躍。「蒲原ひろし」の俳号で俳誌「雪」を主宰した。
医学史研究にも打ち込み、「整骨・整形外科典籍大系」を完成させた功績などで
84年に新潟日報文化賞を受賞した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
軍医時代の戦争体験を本紙などに語ってきた。
随筆集「新潟うき世話」など著書多数。


今日も強風注意報が出ている。


縦の等圧線が風の強く吹く様子を示している。
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◉ふり返ってみると・・昨年の3月は強風で随分荒れた日も多かった。
ベランダの屋根の天板がすっ飛んだり

母屋のTV アンテナが倒れてしまい修復費用もバカにならなかった。

今年も風の強い日が多いので、何もなければと思っている。
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◆午前中に自治会の用事を済ませる。
◆午後は通院だ。脳神経外科で血圧測定。薬を6W分もらって約1時間半程度。
今のところ体調は良い様に感じている。
途中、2度程帽子が飛ばされた。

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◉新潟日報 日報 コラム 記事

その医師は患者が亡くなると半紙に俳句をしたため、
死亡診断書と一緒に遺族に渡していた。
例えば、こんな句である。〈よき人ら残して一人冬の旅〉。
打ちひしがれた遺族の心に、小さな明かりがともったのではないか
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▼医師であり俳人。医学史の研究家であり、ユーモアたっぷりのエッセーでも親しまれた。

県立がんセンター新潟病院の副院長などを務めた蒲原宏さんの訃報が届いた。
101歳。 みっしりと濃密な人生だったはずだ
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▼「俳句をやっていると、小さな命にも気が向くんだよね」。
本紙の取材に話してくれた。
街路樹の下にかれんな花が咲いている。花の中には小さな虫がいる。
そんな景色を見つめながら、命を慈しむ心を持てるようになったという
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▼命に真正面から向き合うゆえだろう。
時には、べらんめえ調で患者と渡り合った。
胃の手術を渋る男性に「手術しねで帰れば、来年の今頃はお前さんの一周忌だぜ」。
手術は成功した。新聞のおくやみ欄で男性の名を見つけたのは15年後。
93歳まで命をつないでいた。

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▼医師として科学や技術を信奉する一方、言葉の力も信じていた。
言葉は人を動かしたり、癒やしたりする。

己の口から出た言葉に慰められることもある。
言葉もまた、医療の一角をなす大切な要素と考えていたようだ。
★これは実感している。言葉は武器にもなる注意が必要だ。
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▼こうも述べていた。
「病気をすべて体から追い出そうとせずに、
いなしながら共生する多病息災も長生きのこつの一つ」。
言葉通りの大往生だ。その生き方に憧れる。人生の達人が旅立った。
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メモ

新潟医科大(現新潟大医学部)医学専門部卒。
元海軍軍医。県立がんセンター新潟病院で整形外科部長、副院長を歴任し、
1989年3月に退任した。医学生時代から俳人の中田みづほ、高野素十らの指導を受け、
🔵俳人としても活躍。「蒲原ひろし」の俳号で俳誌「雪」を主宰した。
医学史研究にも打ち込み、「整骨・整形外科典籍大系」を完成させた功績などで
84年に新潟日報文化賞を受賞した。
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軍医時代の戦争体験を本紙などに語ってきた。
随筆集「新潟うき世話」など著書多数。
