波佐見の狆

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LPレコードさん、さようなら

2014-03-27 11:53:52 | 平清盛ほか歴史関連

ちょっと故ありまして。。。隣の和室の断捨離を始めました。とりわけ、物置状態になっている床の間を片づけなくちゃ。

本来床の間に置くようなものでない物をいっぱいおいているのですが、

とりわけ、中学生時代からため込んだLPレコードが・・・

大学に入るとき結構処分したようだったけど、まだあったんだぁ。

70枚ほどです・・・

殆どがELP関係などイギリスのプログレですが、シカゴのLPなんかも今まで持っていたなんて、持っていたこと自体をすっかり忘れていました。

ままぁ・・・だんしゃり、やっと重いお尻を上げたね。まっ、がんばってよ。>こう

さっさと捨てようかとも思ったのですが、さすがにしのびなくて、ネットで調べて、ディスクユニオンのROCK買い取りセンターに

電話してみました。集荷料無料で査定し梱包材も無料で送ってくれるというので、お願いすることにしました。

これで現金になるとは期待していませんが、専門ジャンルの価値のわかるところで査定・処理してもらうだけでも、今すぐ燃えるゴミとして出してしまうよりましかなと思って。。

レコードさんたち、沢山の楽しい思い出をありがとう!

 


「耳なし芳一」再考(後編)

2013-10-06 14:06:07 | 平清盛ほか歴史関連

旅行記のこちらの記事で、下関の赤間神宮が「耳なし芳一」の舞台となったところだと書きました。

平家一門の墓(供養塔)や安徳天皇の御陵のすぐそばに鎮座する、芳一像(木像)の写真もお見せしましたね。

この像は、昔からあったのではなく、昭和に入ってから建立されたものではあるのですが・・・・・・(注1)実際、平家の墓碑群のすぐ脇に芳一像を安置したというのは、極めて意味深いことなのです。というのも・・・芳一が夜な夜な亡霊たちに琵琶を聞かせていた場所、つまり彼が高貴な身分のお方のお屋敷の大広間だと思っていたところが、まさにこの墓碑群の目の前だったのですよ!!

左手の石塀の向こうが安徳天皇御陵です。一門のお墓と隣接しているのですが、天皇陵の方は普段は見えないようになっています。芳一は、御陵の方を向きここに座っていたのです!幼帝をはじめとする一門の人々の魂が、鬼火となって、この天才的琵琶法師を取り囲み演奏に聴き入っていた様子を想像すると、恐ろしいというよりやはり切ない・・・

「赤間神宮」は、もともと「阿弥陀寺」という仏教寺院だったのですが、明治時代初頭に、いわゆる「廃仏毀釈」運動のあおりを受けて、神道の神社へと転換されたという歴史的経緯があります(注2)(「赤間」という名称は、下関が昔「赤間ヶ関」と呼ばれていたことによります)。ともかく、赤間神宮=阿弥陀寺、ということで、『耳なし芳一のはなし』の冒頭を少しみてみましょう。いかにも翻訳調ですが、あえて戸川訳そのままで。

 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。<中略> その海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。

 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮(もが)いていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然(ちゃん)と行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。

阿弥陀寺が建立されたのは、壇の浦合戦の6年後でした。また、一門の墓碑は、慶長年間(1600年代にはいるちょっと前)に、太閤秀吉の命により建てられたのです。こうして平家の鎮魂を祈ったものの、完全には静まらなかったということがここまででよくわかりますね。

最後の「彼らが完き平和を得ていなかったことの証拠として」(proving that they had not found the perfect peace. ) という一文はとりわけ強い重みをもっています。ハーンは、そんなに簡単に静まれるほど、平家の無念さは軽いものではなかったのだよ!と言いたかったのです。できるだけインパクトの強い恐ろしい話を描くことで、平家の哀しみをいつまでも伝えたい。語り部ハーンの熱い心を感じます。

そういうハーンの志は、下関市民によりちゃんと引き継がれています。毎年7月15日に、赤間神宮において「耳なし芳一まつり」という供養祭が行われていて、この時は、芳一像をお堂から出し、明るい本殿に座らせ、そしてこの芳一の前で琵琶演奏が奉納され、芳一と平家一門の慰霊が行われるのです。

それから、この慰霊祭に加えて、下関市民が大切に守り続けているのが、「歴史体感紙芝居」です。「耳なし芳一」「壇ノ浦合戦絵巻」「高杉晋作」という3つの紙芝居が、時期をずらして、ボランティアの語り部さんたちによって演じられています。私が下関を訪れた5月は、あいにく「高杉晋作」上演の時期だったため、観られませんでしたが、Nさんが、7月の「耳なし芳一」をビデオ撮影してくださいました。

赤間神宮の駐車場で行われた女性語り部さんによる、圧巻の17分間です!

どうでしょう、語り部さんの、迫真に迫る語り口!武者の足音などの効果音の巧みな演出(何かを叩いて出しておられるようですね)!盛り上げ方が上手いっ~~~!絵がまた良いですねぇ・・・・武者がどくろですよ!! Nさん、どくろのどアップ、かたじけないです!)

この、迎えの武者って・・・誰だと思いますか?私は当初、きっと知盛だと思っていましたが、もしかしたら教経(のりつね)だったかもしれないという思いも湧いてきました。教経は、知盛の従兄弟で、知盛と並ぶ勇将として一門を最期まで率いた人ですが、知盛よりもずっと猛々しく暴れまわって、鬼神のごとく薙刀でばっさばっさと敵を斬り捨て、知盛から「もう勝敗は決まったのだから、あまり罪作りなことはするな」と、たしなめられるほどでした。有名な義経の八艘跳びも、この教経の猛攻から逃げようとしてのことだったと、『(古典)平家物語』に描かれています。語弊があるかもしれませんが、耳をちぎり取る時のすさまじい形相と腕力は、教経のほうが似合うように思うのです。

ところで・・・・平家の怨霊たちを海底より呼び覚ましこれほどまでにも泣かしむる琵琶の名手の弾き語りというのは、どんな感じなのか、聞いてみたいでしょう?!皆さんにそれを聞かせずして、この記事を終われましょうや!

べんべんべんべん・・・・・・・ 素晴らしいビデオめっけ~~~

西原鶴真(にしはらかくしん)さんという女性の琵琶演奏家による「壇ノ浦」ですこちらより公式サイトに入ると、トップの写真の次に、ビデオがアップされていますので、クリックしてみてください(17分ほど)。まだ若い方のようですが、実に味わい深い美声に乗せて掻き鳴らされる薩摩琵琶のなんと力強いことか・・・巧みな撥さばきにより、シュルシュルと矢が飛び交う音、舟が突き進む音、などなど細かく表現されています。しかもこのビデオは撮影方法も素晴らしくて、演奏家の表情や手元が大変クリアに見え、まるで目の前で現代の芳一の弾き語りを見ているようです....難しいことはさておき、雰囲気だけでもこうして味わうことができて、有難いことですね。

 

 注1) 芳一像は、山口県周防市出身の彫刻家押田政夫氏が昭和32年に制作したもの。

注2) 「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)とは、私も清盛掲示板でsswさんから教えていただくまで全然知らなかったのですが、明治新政府の「神仏分離」の方針により、全国的に仏教を徹底して排除する動きが起こり、各地の仏寺が神道の神社に転換させられ大混乱を招いた状況を言います。

 注3) この西原さんの「壇ノ浦」は、YouTubeにウイーン公演の舞台の録画がアップされているのですが、そちらは、遠くから写しているらしく動きがほとんど見えないので、公式サイトのビデオのほうがずっと面白いです。

【お詫び】 「前編」の記事の最後に追記した件ですが・・・

 「開門」をローマ字書きするのに、kaimon ではなくwを入れて、kwaimonとすることで重々しい感じをつけて恐怖感を増した。。と書いたことは、大変恥ずかしながら、私の記憶違いというか、タイトルのkwaidanと一緒に思い込んでいたようです。英語原文を見て気づきました。。。なお、日本語の「開門」をローマ字書きで入れたこと自体は事実でして(それはセツが回想録で語っています)、こちらのアマゾンのレビューに、原文ではpath onと書いてあり、それは「死ぬ」という意味もかけてあるという主旨の発言がありますが、私に負けず劣らず記憶違いをしている人がいる模様・・・・  それとも、別のバージョンの原文があるのでしょうか???


「耳なし芳一」を考える(前編)

2013-09-15 10:26:26 | 平清盛ほか歴史関連

旅行記は、いったん終了としたのですが、下関の番外編ということで、もう少し語りたいことがあります。

『耳なし芳一』のことです。

ギリシャ人とアイルランド人とのハーフで明治29年に日本に帰化して小泉八雲となったラフカディオ・ハーンが、英語で書いたもので、正式には、'The Story of Mimi-Nashi-Hoichi' 『耳なし芳一のはなし』といいます。『雪おんな』」『ろくろ首』などのお馴染みの幽霊話とともに、明治37年に出版された『怪談』('Kwaidan')という怪奇文学集に納められたもので、われわれが小さいころから知っているのは、その日本語訳です。戸川明三という方の翻訳が最初だったようです。こちらで全訳が読めます。英語原文はこちら。YouTubeで朗読も聞けまして、日本語はこちら。英語はこちら(きれいなアメリカンです~)。

善良な盲目の琵琶法師にとりつき、耳を引きちぎる、というきわめて残忍な仕打ちをする平家の亡霊・・・このお話のおかげで、私は長いこと、平家に対して邪悪で暗いという相当ネガティブなイメージを持っていまして、自分を含めて大方の日本人によからぬ平家像をハーンが植え付けたと思っていました。あんまりじゃないですか、ハーンさん、あなたは源氏ファンですかっ!・・・なんて。

しかし、実際に下関を訪れ、平家落人の末裔であるNさんと語り合い、またいろいろと詳しく調べていくうちに、考えが変わってきて、このお話の美しさを改めて感じるようになりました。そのあたりについて2回に分けて書いてみようと思います。

                                                  

もしこのお話が、芳一は、平家の亡霊に連れられて夜な夜な、平家のお墓の前で平家物語を演じておりましたとさ、だけで終わっていたら...果たしてこれほど日本人の心に深く残る話になったでしょうか?

「このまま亡霊の言いなりになっていたら、きっとお前は八つ裂きにされる」と心配する住職の指示で、芳一の体中に書きつけられる般若心経・・・書き忘れられた二つの青白い耳が、暗闇に浮かび上がり、亡霊の突き刺さるような視線が注がれる。そして、鉄のような大きく冷たい指によって、耳は引きちぎられる・・・・と、強烈なインパクトのあるストーリーであったからこそ、これほどまでに怨念を抱いて彷徨わねばならないとは、いったい何があったのかと、平家の最期に深く思いを馳せ、彼等の無念を後世にいつまでも語り継ぐことができるのではないでしょうか。

ハーンは、もともと、孤独な生い立ちである上に、イギリスでの寄宿舎生活中に左目を失明したことで、感覚的にも非常に繊細になり、普通の人間が目に見えないような神秘的なものに没頭するようになりました。

妻となった節子(セツ)が、日本各地に伝わる民話、伝説などの中から選りすぐってハーンに聞かせた「幽霊話」は、とりわけ彼を夢中にしたのです。セツさんは、夫を喜ばせようと、いろいろとネタ探しをして、自分のものとして大変上手に語り聞かせたのですね。ハーンはそれにさらに独自の解釈を加え、ふたりでいろいろと話し合って細部を編み上げながら、詩情あふれる優れた英文学作品に創り上げて世界に紹介したのでした。

なかでも、平家物語の名手であった盲目の琵琶法師の話は、自身片目が盲目であり、常に全盲となる不安と闘っていたハーンを強く惹きつけました。盲人特有の鋭く生き生きとした聴覚表現で話を純化させ、怪談集の中でも彼が一番力を入れた作品になりました。そして・・・心優しく、常に「弱い者」に寄りっていたハーンですから、負け組となって滅びながらも誇りを失わなかった平家の無念を、日本人に決して忘れて欲しくないというメッセージを発信したかったのだと思うのです。注1)

ハーンのこの、視覚障害ゆえに聴覚表現が美しく研ぎ澄まされていた、という点については、文学における障害者像という観点から論じた素晴らしい論文があります。島根大学の銭本健二という先生の論文で、短いものですから、ぜひお読みください(こちら)。

この論文にも書いてあることですが、セツさんの回想録「思ひ出の記」によりますと・・・耳なし芳一を執筆しているとき、ハーンは日が暮れてもランプもつけず没頭しているので、彼女が隣の部屋から「芳一」と呼んでみると、「はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか」と真剣に答えたり、書斎の竹薮で、夜、笹の葉ずれがサラサラと聞こえると「あれ、平家が亡びて行きます」とか、風の音を聞いて「壇の浦の波の音です」とか、真面目に耳をすましていたのだそうです。

夫婦であちこちを旅行していたようですので、耳なし芳一をまとめるにあたって、下関にも立ち寄り、ゆかりの地を訪れ、平家末裔の人々から話を聞いたのは間違いありませんが、笹の葉ずれの音に平家の人々の嘆きを想い、風の音に壇ノ浦の激流を感じるなんて、ハーンがいかに平家を理解し、平家人たちの最期に優しい思いを寄せていたかがわかりますね・・・・。

ちなみに、ハーンが来日してから没するまでを描いたテレビドラマが、NHKでずいぶん昔に放送されたのをご存じでしょうか。「日本の面影」というタイトルで、1984年(昭和59年)放送でしたが、20代半ばだった私はリアルタイムで釘づけになって見ました。ハーン&セツは、ジョージ・チャキリス&檀ふみのコンビでしたが、この2人が本当にもう素朴で素敵で、決して忘れられないドラマです。残念ながら、もうその映像はNHKに残っていないのですが、ありがたいことに、ごく一部ではありますがYouTubeにちゃんとアップされていて、セツさんが耳なし芳一を語り聞かせる場面を見ることができます(アップしてくれた人に賞状をあげたい!)。

迎えの武者(長塚京三さんですよ~)が、芳一の手を引いて、大きなお屋敷(と芳一は思っている)を入るとき、「開門!」と言いますが、「門を開け」ではいまいち凄味がないので、ふたりでいろいろ考えて「開門」とした、ということも、セツさんが手記中で語っていました。しかも、ローマ字で、Kaimon!ではなく、wを入れてKwaimon!とすることで、さらに重みをつけ、盲目の主人公が聴覚で感じている恐怖感を出したわけで、ハーンがいかに細部に至るまで、日本語を繊細に表現していたかが解りますね。注2)  

ついでに、「雪おんな」を語る場面もどうぞ。美濃吉の役は、田中健一さんですね~

こちらは、ジョージ・チャキリスさんのブログです。檀ふみさんとの温かい交流など、撮影時の思い出を語ってくれています。「ウエストサイドストリー」で有名なアメリカ人名優さんですが、彼もご両親がギリシャ系とのこと。

前編は、このへんで。

後編では、赤間神宮と芳一について書きますね。紙芝居もありますよ~~~

注1) 『耳なし芳一』の原典となったのは、江戸時代中期に出版された一夕散人(いっせきさんじん)の『臥遊奇談』(がゆうきだん)という怪談本に納められている『琵琶秘曲泣幽霊』(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)です。耳をちぎられるくだりまで書いてあるそうですが、ただし全体的に短いので、いろいろと苦心してあれだけの長さに創り上げたと、セツさんの回想録にあります。

こちらをクリックすると、本の全体を手に取るように見ることができます。

注2)ハーンの怪談集のタイトルもKaidanではなくてKwaidanですね。なお、wが入るのは、出雲の方言の影響もあったとも言われているそうです。 このように、英文の中に、ローマ字書きの日本語がぽつぽつ入っているのがまたいいのです。

★ 追記です・・すみません、 開門!にもwが入っているというのは、私の大変な記憶違いだったようで、ちょっとそのへんのあたりから後編書くつもりです。

 


福岡・下関・宮島の旅(その6)まとめ

2013-08-06 10:24:31 | 平清盛ほか歴史関連

★ 宮島水族館で、ついに平家蟹と対話!

さて、水族館が大好きな私は、宮島水族館「みやじマリン」もまた楽しみでした。厳島神社から歩いて5分ちょっとのところです。

それほど大きくない水族館ですが、2年前にリニューアルしたとのことで、とてもきれいで、瀬戸内なりの珍しいものがいろいろありました。

たとえば、牡蠣の水槽。深さ6mの水槽に、牡蠣のいかだがびっしり密集して再現されている様は圧巻でした(こちらに写真が)。それから、タチウオの水槽。真っ青な壁に、藻とか岩石とか何もいれてなくて、タチウオだけがまっすぐに上を向いて列をなし、縦になって泳いでいるのですが、まるでキラキラと銀色に輝くリボンです。タチウオってこんなに美しいものだったのかと、しばらく見とれてしまいました。

そして・・・・下関の水族館で、よく見えなかった平家蟹にこちらで会えたのです!小さいですが、私が水槽の前に立つと、水槽の側面にへばりついていたのが、さささっと私の目の前にやってきて、ずーっとそのまま動かず、私に何か言いたげなのです。模様のある甲羅ではなくお腹をこちらに見せているのですが、お腹のシワでさえ、なんだか悲しそうなお顔に見えて、まるで宗盛のへたれ顔みたいなのです。彼が「よお参いってくれたのぅ・・・我らのことを忘れないでおくれ。」と言っているような気がして、なんだか切ない。思わずひざまづいて手を合わせてしまいました・・・。(思いっきり変なおばさんしちゃったかなぁ・・・) 

ちなみに、写真は原則NGで、写してもよい水槽が限られていたようです。

★ 清盛、後白河、二位の尼を偲ぶモニュメント

ところで、、みやじマリンへ行く途中、右手にある急な石段を登っていくと、小高い丘にひっそりと、清盛ゆかりの小さなモニュメントがあります。

「経の尾」というその丘には、素朴な石灯籠が祀られていて、「清盛塚」とか「経塚」とか言われています

清盛が平家一門の繁栄を祈願して一字一石経を埋めたところで、昭和19(1944年)年にこのあたりを開墾した際、その一部が発掘されたそうです。「一字一石経(いちじいっせききょう」とは、1個の石に、経文の1字を書いて奉納したもので、清盛は、大輪田泊の改修工事を行った際も、一字一石経を海に沈めて、港の普請の成功を祈ったのでしたね。 

で、この燈籠の下の方に見える文字...これがまさに清盛公が800年前に彫りつけたものなんだ!と、胸が熱くなった私ですが・・・この石灯籠は後世のもの、とも書いてありますので、いまいちよくわからないのです。でもともかく、素朴な石塔ながらも、清盛の祈りが強く伝わってくるのです。

この清盛塚のことは、事前に『平清盛』を引き続き楽しむ集い掲示板の常連さんsswさんから教えていただいていて、こちらのサイトなど見て下調べをしておいたので、すぐに見つけることができましたが、そうでなければ、きっとわからなかったと思うくらい、本当にひっそりとした一区画です(入口の石段のところには案内板もないので、よほど注意していないと見逃しそうなのです・・・『平清盛』放送期間は案内板があったそうですね)。

この丘からは、眼下遠くに社殿と大鳥居が見えますが、そちらの賑わいと比べると、ほとんど訪れる人もまばら。しかし、こういう素朴な石であっても、重要な歴史の証人であることは間違いありません。

歴史の証人といえば、、、こんな凄いものも発見!あの後白河法皇お手植の松の木です!

 

『平清盛』40回「はかなき歌」でもクローズアップされた通り、1174年、清盛が先導して、後白河法皇と滋子を宋船に乗せて、厳島への参詣に招待しました。 すっかり空洞になり、枯れ果ててはいますが、800年の時をこえて、こうして遺木として大切に保存されている・・・これこそ、清盛と後白河との間に確かに蜜月時期があった証拠です。

一見、単なる残骸なので、立ち止まる人も少ないです。私の前を歩いていたリッチな感じのご夫婦の奥さんが「なあにこれ、、、松だって。。」と怪訝そうに一瞥をくれて、行ってしまいました・・・これはもちろんガイドブックにも載っていませんし、私も神社裏手の道を歩いていて、偶然見つけたのですから、、、というか偶然とはいえ、これも平家一門のお引き合わせだと思いましたね。。。

ちなみに、、、、別の箇所には、重盛お手植えの遺木というのもあるのだそうで、『平清盛』集い掲示板のまた別の常連さん(インコさん)が実際に行って撮影されたのがこの写真。

インコさんの解説によれば、、、「重盛公お手植えの松は、厳島神社の西側にある「大願寺」というお寺の境内(だったかな?)にありました。私は松の写真だけドーンと撮って、看板などすっかり撮るのを忘れておりました。もう倒れてしまった松だけど、こうして大切にされているのって素敵だなと思って撮りました。」 これもまたガイドブックに乗らないスポットですが、インコさんよくぞ残してくださいました!

それにしても、、重盛遺木がこのように何にも入れられずお行儀よくしているのに比べて、後白河のは、檻にきっちり入れられて鍵までかかっていて、まるで猛獣扱いですね!皆が寝静まった夜に、この木が後白河そのものに化けて檻から抜け出し、「遊びをぉ~~せんとやぁ~~ケラケラケラ!」とか歌いながら、のっしのっしと廻廊を歩いているのではないでしょうか。

立ち止まる人も少ないといえば、、、これもそうでしょう。「二位殿燈籠」です。安徳天皇を抱いて入水した二位の尼のご遺体が、壇の浦から流れてきて、この浜辺(有の浦)に打ち上げられたという伝説があり、彼女を弔うため後世に建てられた石灯籠です。背後に大鳥居を眺め、見守るように建っています。

こちらの記事に書いたように、二位の尼のお墓は一門とともに下関の赤間神宮にあります、ここに漂着した御遺体を、一人ぼっちでは寂しいだろうと最終的には下関に埋葬したと考えることができないでしょうか。

この燈籠は、清盛塚や後白河遺木と比べると、ずいぶん人目につく位置にあるのですが、それにも拘わらず、手を合わせる人は勿論、立ち止まる人すら殆どいないのです。

★ 下関と宮島、どちらかといえば・・・

旅行の目的は、人それぞれです。宮島に世界中から集まる人々の大半が、大鳥居と社殿の美しさを堪能することや、弥山のハイキングや、商店街でのグルメ三昧や、あるいは秀吉公ゆかりの神社とか五重塔とかの見学などがメインの目的であっても、勿論それはそれで良いのです。

ですが・・・修学旅行の生徒さんたちは夜になってもあちこちではしゃいでいるし、私が廻廊を厳かな気持ちで歩いていると、後ろできゃあああ!!と奇声をあげて笑うギャル集団があったり、桟橋では、お酒が入っているらしいお兄さんたちが騒いでいるし・・・・いかにも物見遊山観光地と化している現代の宮島を、もし平家一門が見たならば・・・・苦笑するかもしれませんね?!まあ、宮島は平家が最も栄華を謳歌した時代の象徴ですから、この平和さ、豊かさが似合っているということでしょうか。

(私が泊まった「錦水館」の前の通りも、修学旅行生がしょっちゅう通っていました。)

それに対して、下関は、一門没落と滅亡の地。観光客も宮島ほど多くはないですし、静かでした。どこへ行っても何かしら胸にきゅんと迫るものがあり、私はどちらかというと下関の方が好きでしたし、どちらも1泊しかしていないのに、下関の方が何倍もの時間を過ごしたような気がしています。

と言いながらも、お土産はやっぱり宮島の方のが断然多いのですけどねっ・・・

もみまん(カスタードクリームあんが一番好き)、ホテルでサービスの宮島天然水、社殿で売っている大鳥居クリアファイル、因島のはっさくゼリー、大鳥居がプリントされたてぬぐい、お香。

可愛い風呂敷。これは栗と恵へのお土産です。

じゃーん!清盛の日招き扇じゃあ!(弥山の獅子岩駅売店でゲット~)

まだまだありますが、このへんにしときましょう。 

 

以上で、旅行記はおしまいといたします。毎回の長い記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。

なお、今回、平家と厳島との関わりの歴史も語るつもりだったのですが、

それについては、慎重にリサーチ中ですので、また独立した記事として後日じっくり書きます。

恵家は、11日から16日まで帰省です。皆様もどうぞ有意義なお盆休みをお過ごしください。

 

 

 

 

 

 


福岡・下関・宮島の旅(その5)

2013-07-31 16:30:47 | 平清盛ほか歴史関連

5月22日(水)・・・一人旅最後の宿泊地、広島県廿日市市宮島に着いたのは、もう夕方でした。

下関からの接続がスムーズでなくて、広島駅でだいぶ時間のロスがあったからですが・・・・それでも、引き続き天気に恵まれたおかげで、急ぎ足ながらも、満ち潮、引き潮、そして夜の満ち潮時のライトアップと、様々な表情の厳島を一通り楽しむことができ、翌日午後3時ころまで有意義な時間を過ごしました。

さっそく、写真からじゃんじゃんいきますか!

お宿(「錦水館」後述)の玄関口から5分ほど砂浜を歩いていくと、すぐに見えてくる憧れの大鳥居!ああ、ついに厳島にやってきた!と実感する眺めですね。

この大鳥居を右手に見ながらさらに左手に歩いていくと、社殿への入り口へ来ます。ここから拝観料(300円)を払って入場。

 廻廊の途中で、 !!

さてこの世界的にも類をみない海上神殿は、建築様式としては、平安時代の貴族の邸宅に用いられていた「寝殿造り」と言われるものですが、客(まろうど)神社、本殿、高舞台、能舞台などの建築物が廻廊(幅4m、長さ275m)で結ばれ、壁のないオープンな造りのため、大変広々と解放感があり、自然と見事に調和しています。これをデザインした清盛がいかに芸術的、美的センスに優れた人であったかを示すものですね。

なお、『平清盛』では、清盛が、設計図を広げながら、「これまでの公卿方は寺社のしつらえと申せば、上へ上へとのぼる意匠ばかりを凝らしてこられた。されど私はこれを、横へ横へと広げてゆきとう存じます。・・・それが私の思い描く国の姿にござります。」と説明していましたが(33回「清盛、五十の宴」)、そういう彼の志をしみじみ感じながら、私も廻廊を巡りました。注1)

足元の床板は、すべてこんなに2cmの隙間(「目透し」という)が空いています。

私のスマホなど油断するとするりと落っこちてしまいそうですが・・・高潮時に、床板の間から海水を海へ流し戻すことにより、床板に押し上げてくる海水の浮力を弱めるためですね。床板が水圧で浮いてしまわないように、わざと「あそび」を作ったわけです。実際、大潮のときは、lこの隙間から海水が水柱となって吹き出し、床板から10cm以上も海水が上がってきて、回廊全体が冠水するそうです(こちら)。見てみたいものです・・・

さて、、、廻廊を進みながら(なぜか一方通行で、一たん回廊に入ると後戻りはできません)海と反対側の地面に目をやると、こんなスポットが。

中央のホームベース状の岩は、「卒塔婆石」(そとばいし)といわれ、1177年の「鹿ケ谷の陰謀」に関わるものです。後白河法皇を囲んで平家打倒の密談が行われ、西光、藤原成親ら院の側近たちが死罪や流罪になりましたね

あのときの加担者のひとり平判官康頼(たいらのはんがんやすより)が、鬼界島に流されたとき、母恋しさに和歌を千本の卒塔婆に書きつけて流し、そのうちの1枚がこの岩のところまで流れ着き、そのことに気付いたある僧が、都に行って、この話を確か清盛の耳にも入れたのだと思います(すみません、まだにわかリサーチで。)。それで、康頼は放免になったのですね。鬼界が島って・・・鹿児島県沖の離島(今の硫黄島?)ですが・・・よくぞここまで。注2)

じゃーん、干潮時の大鳥居です(翌23日昼ごろ撮影)!海側から、神殿の方を向いて撮ったもの(一人旅人も多いので、みんな互いにシャッター押しあいっこ気軽にします)。

神殿から、200m沖合にそびえるこの巨大な鳥居(高さ16m・・・奈良の大仏と同じくらい)は、実は清盛のデザインではありません。注3) 清盛の時代のものは、もっと簡素なものだったらしく、「大鳥居」と呼ばれる様式になったのは、鎌倉時代でした。それから幾度か台風などで倒壊・焼失に遭い再建が繰り返され、現在の大鳥居は、明治8年(1875年)のものです

海底に固定されているように見えますが、自らの重さ(60t)で自立しているだけで、中央の「本柱」をそれぞれ前後2本の「袖柱」で支えて安定させるという「四脚鳥居」という様式です。

本柱は、こんなにデカい!(平均的な中学生の大きさと見比べてみてください。) 満潮時に浸かるところまで藤壺が沢山くっついています。

 

 鳥居の近くにこんな立て看板が・・・・

確かに、大鳥居より沖合で潮干狩りしている人は何人かいますが、鳥居の内側(神殿側)では誰も。

これはどういうことかというと・・・・古代より、この島そのものが神と崇められていたので、この鳥居は、「俗界」と「神域」との境界を明確に示すと考えられており、鳥居より内側、すなわち神域の物を取ってはならないという意味です。ですから、厳島神社を参拝するのも、側から舟でこの大鳥居をくぐり、神殿に渡るというのが、本来の正式な参拝方法なのです。私みたいに、旅館街のほうからスタスタ歩いてきて、いきなり本殿に入って、鳥居をパチパチ写すというのは、典型的な観光客なのです。

そこで!気持ちばかりの正式な参詣気分を味わう方法があります。それが、屋形舟でのナイトクルージング。ライトアップされた幻想的な大鳥居の中を屋形舟に乗ったまま、海側からくぐっていくのですアクアネット広島というところでやっていて、宿からオプショナルツアーとして予約してくれます。ガイドさんが付いて30分で1500円。日没以降6便出ていて、7:55からの第4便に乗ってみましたが、ちょうど満潮で、真っ暗な海のうえに浮かぶ朱の大鳥居のなんと神秘的なこと!

私の写真ではイマイチなので、屋形舟が進む感じをこちらの動画で見てみてください。

[Full HD]厳島神社大鳥居をくぐる船2

こちらの広島県制作のビデオの冒頭では、昼間の大鳥居くぐりの感じがわかります。

[美しき日本] 広島 厳島神社

お宿のことですが、厳島界隈で、一人旅でも受け入れてくれるところが、「錦水館」というところしかなくて、選択の余地がなかったのですが、なかなかよかったです。桟橋と神社の中間地点で、しかも表参道商店街に直結という好立地ということもあったのですが、女性の一人旅でも安心して快適に楽しめるように、いろいろと気配りが行き届いたホテルでした。

お料理も、本当に美味しいものが少しずつ、次々と出てくるという嬉しい懐石料理。バッテリ不足でスマホ充電していたので写真撮れませんでしたが、宮島産の牡蠣や穴子、広島牛その他シャコ海老(長崎では「シャッパ」といいますが)など、さまざまな瀬戸内の魚介類と野菜・・・薄味でなんとも上品な味付けで、まことにけっこうでござりました。

お品書もってきちゃいました。

全部は食べきれませんでした・・・)

食べ物がらみの話でついでながら、広島の定番スイーツ「もみじ饅頭」は、昔はアンコしか入っていなかったらしいですが、今はカスタードクリーム、チョコ、抹茶、チーズ、紅イモ、リンゴとかいろいろあって、焼き立てを食べさせてくれるお店が、表参道商店街にいくつもあります。ところが、私はそういうお店にたどり着くまでに、スイーツ渇望症になってしまい(翌23日午後の話ですが)、近くのカフェに入りました。商店街の賑わいからちょっと外れた裏通りにある、Sarasvati(サラスヴァティ)という、趣のあるカフェでした。

リンゴのバターケーキと、アイスカフェオーレ。自家焙煎のコーヒー専門店というだけあって、このカフェオーレが絶品!

さて23日朝に話を戻してと・・・8時にはチェックアウトして、まず弥山(みせん)へ。

宮島の主峰「弥山」は、古くから神が降臨する霊山として崇敬されており、806年に弘法大師(空海)がここを弥山と名付けて開基して真言宗の修行をしたそうです。登山は、中腹の「獅子岩駅」まで2台のロープウエイで上がり、そこから山頂までは徒歩というのが主なルート。山頂付近には、空海に関わるパワースポットがいろいろあって、恰好のハイキングコースらしいです。しかし、山頂付近まで行く時間的・体力的余裕がなくて、獅子岩駅で引き返してしまいました。

というわけで、弥山での収穫は何もなしかというと・・・・あったのです。そのロープウエイで、とても感じのいいイギリス人ご夫妻と一緒になり、獅子岩までの30分近く、楽しく英会話してました・・・。マンチェスターの方で、2週間の日本旅行の最後だそうです。私の英語もなんとか通じて、ほっとしました。これも弘法大師のお導きか?!

弥山から戻って宝物館へ。

宝物館は、大鳥居と社殿の次に私が楽しみにしていたところです。というのは、、、『平清盛』30回でも大きくクローズアップされた「平家納経」の展示が見られるからです!(こちらの記事にも書きましたが、平家納経とは何かについては、こちらを)。

ただし、、、レプリカ(複製)です。

清盛や盛国らの自筆による本物は、奥深いところに隠してあり(年2回公開)、レプリカの、しかもそのほんの一部を常設展示しているというわけです。このレプリカは、平安美術研究家の田中親美氏により大正時代に作成されたもので、『平清盛』の撮影でも使用されました。松山ケンイチさんが、著書の中で、「レプリカといっても国宝級のもので、そのあまりの見事さに(傷つけなりしてはならないと思って)緊張してしまい演技に集中できないくらいだった。」といった趣旨のことを書いていました。ともかく、これがドラマ中で実際に映し出された作品だと思うと、心震えました・・・。注4)

経典を収める三段重ねの経箱(金銀荘雲龍文銅製経箱)もまたなんという気品。。。表面に五重塔と双龍、側面に雲龍の文様が施されていますが、龍は海の守り神として、清盛がとりわけ好んだ意匠らしいです。 

展示物は写真NGなので、『平清盛』30回のDVDを写してみました。こちらがその経箱と松ケンさんの手です~

清盛が一門の主だった者を引き連れて、この「善美を尽くした」経典一揃いを厳島神社に納めたのは、1164年と言われていますが、その頃厳島の社はまだ創建当時のままで放置されており、大変さびれた神社だったのです。清盛が神主佐伯景弘に援助を申し出て社殿の大改築を進めるのはこの後なのです。

というところで、今日はここまで!

今回は、単純に観光客の視点で見物したことを書いてみましたが、次回は、旅行記最終回として、平家と厳島との関わりの歴史など交えながら、今の私の想いをもう少しだけ書きたいと思っています。帰省前に書かねばね~~

なお、今回および次回の記事を通して、「図説 平清盛がよくわかる!厳島神社と平家納経」(日下力監修 青春出版社)を参考資料として書いております。

 

注1) 神殿を海に造ったのは、宗教上の理由もあったようです。厳島は本来島全体が聖域としてあがめられており、土地を削ったりしてはならないとされていたそうです。そういう意味で、神の領域を傷つけない配慮として、海側に建てたのではないか、と考えられています。

注2) 『平家物語』に書かれていることで、史実かどうかはわかりませんが、そう信じられています。

注3) 清盛のデザインではないと断言的に書いてしまいましたが、今またちょっと別の本を読んでいて、私の間違いかもしれないと思っています。次回記事でフォローしますね。<3日追記>」

注4) 『平清盛』放送終了後に出版された、松山さんの自伝「敗者」(新潮社)p.179 から少しだけ転載させていただきますと・・・

「実際の平家納経の箱のレプリカを使っての撮影で、現場はものものしい雰囲気となった。なぜならそのレプリカも江戸時代に作られたもので、国宝級の価値があるからだ。」

大変僭越ですが、「江戸時代」は「大正時代」の間違いで、おそらく松山さんの記憶違いだと思いますが・・・撮影で用いたものが、大正時代の田中氏作成のレプリカであるということは、プロデューサーの磯氏もツイッターで、それから、崇徳上皇役の井浦新さんもインタビューで語っていました。田中氏のもの以外にもレプリカがあるということは考えられないのですが・・・

ともかく、松山さんほどの一流俳優でも演技に集中できなくなるほどに、レプリカとはいえ素晴らしい芸術品で強いオーラを発しているということですね。 

 

 


福岡・下関・宮島の旅(その4)

2013-07-05 17:39:58 | 平清盛ほか歴史関連

5/21日(火)朝です。もう4時半頃目が覚めてしまい、またバルコニーから海峡を眺めたり、ガイドブックを読んだりしていました。

7時から、4階にあるオーシャンビューのレストランでゆっくりと朝食(後からヨーグルトも来ました)。

1.関門トンネル人道 ― 壇の浦海底ウオーキング

8時頃にはチェックアウトし(荷物は預かってもらえます)、昨日来た知盛・義経像のある「みもすそ川公園」へ再びやってきました。

知盛と義経が見守る壇ノ浦の海の底には、「関門トンネル」が横たわっています。

本日朝一番の目的は、このトンネルの中を歩いて、対岸の門司まで渡ることです!

関門トンネルというのは、関門海峡の海面から56m下に掘られた、福岡県北九州市門司区と山口県下関市椋野町とを結ぶ海底トンネルです(海中トンネルではなくて、海底の土泥の中に掘られた海底トンネル)注1)。関門海峡の最も狭いところにトンネルを渡して、北九州市と下関市をたやすく行き来できるようにしたわけです。面白いのは、上下二重構造になっており、上は車が走るための車道、下は、人が歩くための「人道」となっていることです。全長780mですから、徒歩15分で渡れてしまいます。海峡の底を徒歩で渡れるトンネルというのは、世界唯一とのこと。

最峡部の海上には、橋を(車専用の高速道路で、人は通れない)、そして海底には、トンネル(車と人が別々に通れる)を作った、というわけです。注2)

それでは、壇ノ浦の海底散歩に参るといたしましょう。注3)

人道入口です(義経・知盛像とは、国道を挟んで反対側に位置しています)。ここからエレベーターで降りていき・・・・

30秒ほどで、人道の下関側出発点に降り立ちます。 8時半ころでしたが、既に何人もの人たちが歩いていました。適度に空調も利いているので、地域の人々の恰好のウオーキングコースになっているそうです

ほぼ半分まで歩くと、県境が!

張り切って早歩きになったからかな、10分ほどで渡り切り、門司側に着きました。再びエレベーターで地上に上がります。中で一緒になった地元の初老の紳士と話していたのですが、この方ももう30年近く下関⇔門司往復ウオーキングが毎朝の日課になっているとのこと。茨城からの旅行というと、自分も茨城に住んでいたことがあるとおっしゃっていました。昨日のNさんといい、ほんとに皆さん旅行者に親切です。この方に道案内していただき、次に訪れたのが、和布刈神社です。

2.和布刈神社(めかりじんじゃ) ― 門司側から壇ノ浦を見守る神社

壇の浦合戦の前夜、平家一門が集まり勝利祈願の酒宴を行ったと伝えられている、大変由緒ある神社です。注4)

創建は西暦200年でしたが、この社は1767年に建てられたもの。一門が祈願した時(1185年)の社はどんな感じだったんだろうなぁ・・・・

高浜虚子が昭和16年に訪れた際、平家を偲び読んだ句の句碑。「夏潮の今退く平家滅ぶ時も」

関門橋の真下に、まさに壇の浦の海を見渡すように鎮座している神社で、寂寥感あふれる海中燈籠がシンボルになっています。

(下関の対岸が見えます。みもすそ川公園の義経・知盛像があるところをピンクの矢印で示してみました)

この燈籠が平安時代からここにあって、一門の最期を見届けていたのかなあ・・・と胸に迫りましたが、後から調べてみると、 長崎県対馬の戦国時代の大名であった宗氏が航海の安全を祈願して寄進したものと言われているそうで、源平合戦当時はなかったのでした。

それにしても、とても心にしみるこの海中燈籠・・・

そもそもなぜわざわざ長崎県の藩主がここに寄進を??

さらに調べて驚いたことに・・・実はこの「宗氏(宗家)」、知盛の孫で重尚(しげひさ)という人物が、鎌倉時代に対馬を平定して開いた武家である、とする記録が残っているのです!残念ながら、現代の研究では、それは史実ではないとの見方が有力だそうですが、それでも、きっと宗家の歴代当主はその言い伝えを大切にしていて、だからこそ、わざわざこの壇ノ浦を見渡す神社に祈りの燈籠を立ててくれたに違いありません。長崎と知盛との幻の接点!おお、なんというロマン!!

平家とは関係ないことですが、社名となっている和布刈(めかり)とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える和布刈神事(めかりしんじ)が行われます(「福岡県徹底探検隊」というサイトから転載)。引き潮になると、この燈籠のところまで歩いて降りられるのですが、まだ夜明け前の真っ暗な海の、ちょうどこの燈籠のそばで、大きな松明を燃やしながらワカメを刈るのです。

いつまでもこの燈籠を見ていたい気持ちでいたが・・・・もう一か所、どうしても立ち寄りたい神社がありました。

3.甲宗八幡神社 ― 知盛のお墓

心地よい5月の陽ざしの中、和布刈神社から30分ほどのウオーキングで甲宗八幡神社にたどり着きました。ここに、知盛のお墓があるとNさんから教えていただき、はやる気持ちでやってきたのです。

そのお墓が、社殿の脇にひっそりとありました!

手前は、木の柵があり、そばまで寄れません・・・・

2つ前の記事でもお話ししましたが、赤間神宮の一門の墓地には、各自の遺体そのものが埋められているわけではなく、ご遺体はそれぞれ別の土地で見つかって葬られたか、あるいは見つかることなく壇の浦の海底の一部となってしまったか(こちらの方が遥かに多いでしょう)・・・なのですが、知盛の遺体は、Nさんのお話によると、壇の浦合戦直後に小倉の漁師たちの網にかかり、この神社の裏手の筆立山に葬られてお墓が建てられたそうです。

ところが、昭和28年の大水害で、お墓はこの神社の裏手まで流されてきたため、それを手厚く再祀したとのこと(このお墓については、「花橘亭~なぎの旅行記」というサイトに詳細が綴られています)。

ちなみに、この神社も西暦860年創建と古く、一連の源平合戦で荒廃してしまったので、壇の浦合戦後、義経と兄範頼により再建されたとのこと。平家追討を祈願していたのが成就した御礼に、という理由だったそうですが、そういう理由で源氏の手によりきれいになったお社に、知盛が一人ひっそりと眠っているというのも、切ないものですね・・・

なお、知盛のお墓と言われるものは、高知県の越知町横倉山や、福岡県久留米市などにも存在します。すべては歴史のミステリーです・・・注5)

はあ。。。それにしても、トンネル人道からずっとよく歩いたなあ!!時間もだいぶ過ぎたことだし、ここからタクシーに乗り、いよいよ関門海峡最後の見学スポットとなる「海峡ミュージアム」へ向かいました。

4.海峡ミュージアム ー 人形劇「平家物語」のお人形たちに会えた。

海峡ミュージアム(海峡ドラマシップ)」は、門司の桟橋の近く(門司港レトロ地区)にある5階建てのユニークな楕円形の建物です(建物そのものが船の形とのことで、それで「ドラマシップ」とも呼ぶらしいです)。関門海峡にまつわる歴史・文化・自然を紹介する施設で、私がとりわけ楽しみにしていたのが、3Fの海峡歴史回廊

古代から中世、近世、近代へと、時代の転換期ごとに大きな歴史ドラマが展開された関門海峡。その印象的シーンを、日本とチェコの人形美術家(10名)の人形アートによってたどる歴史絵巻」と、サイトの紹介文にもある通り、素晴らしいお人形たちにより名場面が繰り広げられていて、見応えたっぷりです!

そして、ここで私が一番見たかったものが!

それは、1993年~95年にかけてNHKで放送された、人形劇『人形歴史スペクタクル 平家物語』のお人形さんたちの実物です。作家は川本喜八郎。私は(これも!)まったく見ていなかったので、思い切って完全版DVDボックスを買ったのです(こちら)。この作品は、人形劇の域をはるかに超えた壮大な人形芸術で、それぞれの登場人物の表情、所作、衣装、セットのリアルさ等本当に豊かで繊細!NHKが大河ドラマに匹敵する製作費をかけたというのも頷けるのです。

(20分ほどのダイジェスト版が見られるサイトがありました。http://www.nicozon.net/watch/sm18963947

上記のダイジェスト版には知盛は出てません。私がDVDから写した写真をちらっと。これが人形バージョン知盛さまですよん~~かっけ~♪

(一の谷の合戦で長男知章を失うシーンより。。髪が乱れているところなど、細かいでしょう)

このミュージアムに、実際に放送に用いられたお人形の一部が展示されている、というのはホテルのインフォメーションで前日の夜に知り、とっても楽しみにしていました。写真はNGだったので、言葉で説明するのももどかしいのですが・・・平家方、源氏方からそれぞれ、9体ずつ(確か...もう記憶が。。。))姿勢を正して整列していました。身長1mほどでしょうか、予想より大きくて、みんな凛々しいこと!その中で、一人、いかにもお人よしでへたれなお顔の宗盛くんも愛しい。。。平家のみんなも源氏のみんなも、、、会えて嬉しかったよ!

さあて。。。そろそろ広島に向かわねばなるまいなぁ。。。今度またいつ来れるかわからないから、もういちどしっかりとこの海を目と心に焼付けようと、5階展望デッキに登りました。キラキラ光る海峡の水面、そして対岸の下関までよく見渡せます。5月の風が心地よい。。。

デッキと並んでいるレストランのテラスで、「ふくバーガー」のランチ!フグのフライがサンドイッチされていて、美味しかったです。

たった1泊だったのに、1週間くらいいたように多くを見て、深く感じ、思いを馳せ、出会い、満喫した下関、そして門司を含む関門海峡一帯。それでもまだ見逃したものもあり、大変名残惜しいけれど・・・きっといつかまた来よう!

連絡船で唐戸桟橋まで戻り、お昼過ぎに、下関駅を出発しました。

「その5」宮島編に続く。。。。

注1) 関門海峡の水深は、最も深いところで47mです。なので、海底から9mくらい下を掘ったわけです。このトンネルの工事が始まったのは、1937年で、太平洋戦争で中断しながらも、21年をかけて1958年に開通し、総工費は当時の金額で57億円!!じぇじぇじぇjjjjjj!!!

注2) 関門海峡の最狭部・・・・この区域こそが、壇ノ浦の戦の火ぶたが落とされた地点であり、一門の入水もここだったと言われています。早鞆(はやとも)の瀬戸とも呼ばれ、潮流がきわめて速く(最大で約10ノット=時速18km)、しかも1日に4回も潮流の向きが変わり、このことが、両者の運命に大きく影響したと考えられています詳細はまたあらためて別の記事を書くつもりです。

なお、正確に言えば、関門橋の真下の海底にトンネルが位置しているのではなく、トンネルは橋よりやや東ですが、おおよそ同じところだとイメージしていただいてOKだと思います。それから、もうひとつ、列車が通るための「関門鉄道トンネル」がもっと西側にあります。

注3) 「壇ノ浦」はまた、関門橋のすぐそばあたりの町名でもあり、壇ノ浦というバス停もありますし、火の山公園へのロープウェイの駅も「壇ノ浦駅」といいます。

注4) 酒宴といっても、どんちゃん騒ぎの酒盛りを想像しないでくださいね!皆、勝っても負けてもこれが最後の戦いだと分かっていて、悲痛の思いで静かにお神酒を頂き、互いに酌み交わしたのだと思うのです。いついかなる時も、雅であることを忘れなかった平家一門のことなので、もし誰かまだ笛などもっている者がいたら、管弦もできたかもしれませんが・・・笛の名手たち(敦盛など)はこの時すでに亡く、おそらくとても寂しい酒宴だったと想像されます。

注5) 歴史のミステリーといえば・・・草薙の剣が、結局どうなったかということについても、Nさんがそっと教えてくださいましたよ・・・壇ノ浦の合戦後、地元の漁師などが懸命に捜索し、見つかったのです!・・・・そして、宗教団体に納められたらしい、という言い伝えがこのあたりでは大切に語り継がれているとのことです。


福岡・下関・宮島の旅その(3)

2013-06-14 18:47:05 | 平清盛ほか歴史関連

下関1日目(5/20、月)の続きで~す。

ランチは、カモンワーフ内のレストラン「ふくの関」で軽めに「ふく雑炊」にして、さて次のスポットへ。

1.市立水族館「海響館」 

★ ふぐの仲間がいっぱい

赤間神宮の次に訪れたのは、「海響館」(下関市立しものせき水族館)です。

下関の水族館だけあって、フグ、ハリセンボンなど、いろんなフグの仲間がたくさんいました!なんと100種類もいるのだそうです!

★ 平家蟹とアントクメ

しかし私がこの水族館で最も見るのを楽しみにしていたのは、平家蟹でした。平家蟹も標本なら赤間神宮にもありましたけど、こちらには生体が飼育されているというので、いよいよあの怒れるお顔(甲羅)を生で見れるのかと、ゾクゾク・・・・

こちらにも、まずは、標本・・・確かに怖いです・・・

そして、この隣に小さな水槽があったのですが、、、、、蟹さんは、なんと砂の中に潜ってお昼寝中で、甲羅の模様も確認できず。がっくり・・・・。茨城から参りましてござりまするよーーー起きてくださりませーーーとお願いしても聞いてもらえません。

それでも、さすがは下関の水族館、平家にまつわる貴重な生物が他にもちゃんと見られたのです!

それが、この「アントクメ」というコンブです!

写真ではこのシワは分かりにくいですが、本当にチリメンのようなしわがついていて、前の記事でも紹介したこの安徳天皇の御衣のイメージそのもの。

伝説によれば、平家の武者たちは蟹に、帝は昆布に、そして、、女官たちは小鯛に(「小平家」と書いて「こべけ」と言われます。詳しくはこちら)・・・と、平家の人々がそれぞれに壇ノ浦の海の生物たちに生まれ変わり、今もなお、関門海峡を見守り続けているとのこと。切ないながらも大きなロマンですね・・・・ 

★ 狆アナゴもいっぱい

平家とは関係ないけど、これも嬉しかったな、狆アナゴくんがいっぱい!大きい水槽に、他の魚たちといっしょに飼育してあるのが珍しいです。

★ 帝がお待ちになっていたのかも

平家蟹さんにはフラれましたが、アントクメは、実は今年の5月10日より期間限定で展示が始まったばかりだったのです(こちら)。まるで私の海響館訪問を帝がお待ち下さっていたかのようで、感動的でした。

ちなみに、壇ノ浦漁協の漁師さんたちは、舟に乗り込んだらまず正座をして帝の御霊に祈りを捧げてから漁を開始するという伝統があったそうで、ベテラン漁師さんが、「帝がお亡くなりになった海のその上で漁をさせてもらうのだから、ということで、私も30年前くらいまではやっていました。」と、真剣な眼差しで語るのを去年テレビで見ましたっけ。(注1)

2.みもすそ川公園 

赤間神宮、海響館に次いで私が最も楽しみにしていたのが、「みもすそ川公園」。

昔「御裳(みもすそ)川」という小川があったことからついた地名ですが、現在は、海に面してきれいに整備された小さな公園になっています。

★ 知盛・義経の像・・・・大河「義経」放送記念?

バス停で降り、国道側を見ると、大きな関門橋の下に知盛と義経の銅像が見えてきます。

海の上で、源平の両雄が対決する姿です!

手前の義経は、八艘飛びをして平氏の追撃をかわす様子。すぐそばから写すとこんな感じ。台座の部分は波を表しています。

奥の方の知盛は、一門の最期を見届けたあと「見る程のものは見つ。もはや自害せん」といって碇を体にまきつけんとする瞬間。

説明の銘板もご覧くださいね。

源平物のファンとしては、側に寄るだけで胸が熱くなるような像ですが、ただ、二人ともお顔がとても現代風。というのも、この像が建立されたのは、ごく最近です。同じ個所に、2005年の大河『義経』の主な出演者さんたちの手形レリーフが飾ってあり、それに「義経知盛像 竣工記念」と書いてあるので、このドラマの放送を記念して2004年の年末に建てた像と思われました。あるいは、たまたま同時期になったのかな。

義経を演じたタッキーこと滝沢秀明さんの手形。

この大河は皆さんご覧になりましたか?私は、当時はまったく見ていませんでしたが、YouTubeなどである程度は見られますね。この中で知盛を演じたのは、阿部寛さん。彼が義経と対峙して入水するまでの悲愴なシーンがこちら(『義経』35話の一部です)。『平清盛』での小柳友さんの知盛も勿論よかったですが、出番少なかったし、壇ノ浦シーンもちょびっとでしたからねぇ・・・その点物足りなかったので。

・・と、話がそれてきました。

★ 思いがけない素敵な出会い

ともかく、憧れの知盛像を拝むことができた記念に、やはりここで知盛様とのツーショットを撮らせていただこうと、誰かいないかなーと思っていると、立派なカメラを持った一人の熟年紳士が現れ、熱心に像やら記念碑やらを撮影し始めました。上記の銘板をズームしておられて、その横顔になんとなく平家贔屓の雰囲気が・・・・。シャッターを押していただけますかと思い切って声をかけました。写し終わっても、「旅行ですか?どちらから?」などといろいろ聞いてこられて、私が一人で茨城くんだりから平家お参りのためやってきたというと、感激してくださり、話が弾みました。

なんと、このNさん、平家の落人の子孫なのだそうで、知盛が最後の砦とした彦島のご出身とのこと!「源氏による落人狩りは、ドラマ以上に残酷なものだったと聞いていますよ・・」などと、しみじみお話しくださいました。私が翌日お昼頃まで滞在するというと、それならと、特別のお薦めスポットも教えてもらって、すっかり意気投合!アドレスなど交換して、お別れしました。

普通、1泊旅行くらいで、地元の人から直接情報をもらえるというだけでもラッキーでしょうに、平家の血を引く方とお知り合いになれるなんて、知盛様のお引き合わせかもしれませんね!

3.回転すしで、ふく三昧

すっかりテンションあがりまくりで、歩いてホテルまで戻ると、お腹もすいてきました。ホテルは、朝食のみのプランなので、夕食はまたカモンワーフに戻って、回転すし「すし遊館」にに入りました。隣の唐戸市場で揚がる新鮮なネタが売り物のお店とあって、、、何でも美味でござりましたよ~~~(値段やや高めですが、納得)

ふく汁。

ふく刺。

写真へたっぴいですが、右側のは、アツアツのふくから揚げ(分厚い身を輪切りにしてあり、絶品)

その他、えんがわだとかサーモンだとか、なんでもですが、我が家の近所の100円回転すし屋さんのとは全然違うなぁ・・・と感激しながら、お代わりを注文して堪能しました。即ぱぱにメールして羨ましがらせちゃった・・・

実は・・・他にも「ふく白子焼き」など、食べようと思っていた名物B級グルメはいろいろあったのですが、、さすがにもう入らず(昼間食べとけばよかったっ・・・)またしばらく海を見てから、コンビニでデザートとコーヒーを買って、ホテルの部屋へ。

4.ホテルの部屋で心ゆくまで海峡旅情に浸る

部屋は、「海側 ツインルーム シングルユース」ということで、確実に海が見られる部屋を予約していました。シンプルながらも、明るく広くて落ち着くお部屋です。バスルームとトイレが別々になっているのも、良いですよ。下関グランドホテル、選んで正解!

9階ですし、バルコニーから遠くまで見渡せます。ちなみに、Nさんもおっしゃっていたのですが、このホテルは天皇陛下の下関御幸の歳のお宿になったことがあるそうで、後で調べたら、この9階にそのロイヤルスイートルームがあるとのこと。おおっ、知らなかったなぁ~~

左手に関門橋。行き交ういろんな船を眺めながら、800年前、このあたりに結集した木造手漕ぎ舟の大船団、つわもの達の雄叫び、矢の飛び交う音、激しい波しぶきなどなど思い浮かべました。源氏も平家もなくあまたの尊い命の犠牲の上に発展してきた、現代の平和な日本に生まれたことを感謝しなければとつくづく思いました・・・。

 

今日もなんと充実した1日であったことか・・・恵くん、ありがとうね!お空に向かって呼びかけ、Nさんのお薦めに従い翌日の計画を立て、早めに寝ました。

というわけで、その3は、ここまで。関門海峡旅情は、その4まで続きます!

(注1) 昨年、『平清盛』の特番として放送された「瀬戸内海 平清盛500キロクルーズ」の中で、伊藤忠清役の藤本隆宏さんが源平合戦の舞台を訪ねて、下関にやってきて、実際に漁師船に同乗して取材していた内容です。

 

 


博多・下関・宮島の旅その2

2013-05-29 18:49:33 | 平清盛ほか歴史関連

1.関門海峡を船でわたる

博多駅から下関へ行くには、幾通りかの経路があります。当初は、てっとり早くJRを利用して、陸路で関門トンネルを通過するつもりでしたが、 門司港駅そばの桟橋から連絡船が頻繁に出ていて、門司港~下関(唐戸)が5分だというので、門司港までJRで行って、桟橋へ向かいました。

一刻も早く、憧れの関門海峡を見たい、と気もそぞろだったから・・・

ボートという感じの小さな船ですが。。。こんな感じで速い速い・・・・

ああ、、ついに関門海峡にやって来た、ここに一門が散ったのだなあと思うだけで、早くも目が潤んでくる私です・・・

唐戸桟橋に到着すると、目の前が、本日の宿「下関グランドホテル」の裏口になっており、さっそく入って荷物だけ預け、散策へ。

2.赤間神宮詣で

何をさておき、まずは平家一門のお墓詣りをしなければ!というわけで、赤間神宮へ出かけました(ホテルから徒歩圏内です)。安徳天皇を祀る神社で、耳なし芳一の話の舞台ともなったところです。詳しい歴史などは、神社の公式サイトなどで読んでいただくとして・・・

この美しい水天門が目に入った途端、ああ、竜宮城とはまさにこれだったのだと、私は感慨深く思いました。

『(古典)平家物語』によれば・・・二位之尼と安徳帝の後を追って入水するも源氏により引き上げられた建礼門院徳子が、京へ護送される船のなかで、夢を見ます。そこは竜宮城で、清盛をはじめ一門の皆が幸せそうに暮していました・・・(注1)。つまり、二位之尼のいう「波の下の都」です。『平清盛』でも、最終回の最後のシーンがまさにこれでしたね・・・

★ 安徳天皇を偲ぶ

水天門を入り、一門のお墓はどこかなときょろきょろしていると、次に目にはいったのが、これです。

そうでした・・私は一門のお墓のことばかり思っていましたが、そもそもここは、安徳天皇の御陵があるところなのです。帝のお墓に手を合わせるのが先決でした。

これが安徳天皇の御陵で、中に入ることはできません。素朴ながらも厳かな雰囲気です。生後まもなく即位し数え8歳(つまり6歳)で入水しなければならなかった薄幸の幼帝の御霊にぬかづく気持ちで、深く一礼・・・。

たまたま居合わせたガイドさんの話で知ったのですが帝のご遺体が、壇ノ浦の合戦の数日後に、地元の漁師の網にかかって引き上げられたのだそうで、明治時代になって宮内庁が正式にここを安徳天皇陵と指定しました。注2)

ちなみに、その漁師というのは、元は平家の家臣だった中島四郎大夫正則という人で、漁師に身をやつして平家再興を願っていたそうです。そして、その子孫である中島家というご家族が現代も、赤間神宮との関わりが深いらしい・・・下関では毎年安徳帝を偲ぶための「先帝祭」という一大祭事があるのですが、(詳細はこちらまたはこちら)、その際この中島家が重要な役割を担うのだとか。幼帝入水から800年以上も毎年続けられているのですね!下関市民が平家をいかに誇りとし大切に思っているか、よ~~くわかりました。

京都の泉湧寺所蔵の安徳天皇像。作者不明。安土桃山時代。Wikipediaより転載。

★ 平家一門の墓は供養塔

そして。。。。こちらが一門の墓所です!

テレビなどでも何度も見てはいましたが、、、、実際に自分の目で見てみると、本当にあまりにひっそりとしたわびしい墓碑でした・・・思わす、涙が・・・ともかく、お線香をあげ、手を合わせました。
 
どんなにわびしい墓所であろうと、こうして14名でも一蓮托生で眠れるのは幸せなのではなどと、つくづく思ったのですが、、、、実は、私も後から知ったのですけれど、「墓」といっても、ここにそれぞれの御遺体が眠っているというわけではなく、ここはいわゆる供養塔なのだそうです。そうだったのかぁ・・・

では、御遺体はどこに? そのことについては、後述しますね。

★ 耳なし芳一さん

この供養塔群のすぐそばに、耳なし芳一の像というのが安置されています。

耳なし芳一については、、、いろいろと考えるところがあり、また別に記事を書くつもりでいます。というのは、、、、このお話のせいで、平家の恐ろしくて邪悪なイメージが日本人に根付いてしまったのですからね・・・。

ともかく、芳一さんにもちゃんとお線香をあげてお参りしましたよ~~。

★ 見どころいっぱいの宝物殿

次は、宝物殿に入ってみました。ここは何が展示してあるのか、下調べもせずぶらりと入っただけだったのですが、、、大変貴重な展示物がびっしりで驚きました。写真は不可なので、簡単に説明しますと・・・

【重要美術品】   平家一門肖像画十幅、源平合戦絵屏風、源平合戦図絵十幅、源平合戦絵屏風 

【重要文化財】   安徳天皇縁起絵図八幅、平家物語 二十冊 長門本平家物語 などなど・・・・

中に入ってまず目につくのが、一門の肖像画です。

普段テレビやネットでみかける、たとえば知盛のこの肖像・・・これの本物が展示されているのです!!

 <Wikipediaより転載>

知盛、教盛(のりもり)、経盛(つねもり)、資盛ら、男性6名、治部卿局(じぶきょうのつぼね; 知盛の北の方)、廊御方(ろうのおんかた; 清盛と常盤の子)など女性4名合計10枚があり、どれも雅な素晴らしい絵です。合戦の屏風絵も、圧巻!! なお、これらの絵師は誰だったのか、ということは明確にはわかっていないそうですが、研究により、狩野元信をはじめとする狩野派だと考えられています(16~17世紀)。

★ おみやげ

宝物図禄と、お守りを買いました。

確か、境内でワンコの散歩とかはダメだと書いてあったように思うのですが・・(うろ覚え)、でもこんな可愛い「ペット健康お守り」があり、つい買ってしまったのです。お空の栗と恵におみやげ?!

大変充実の赤間神宮参詣となり、一門のお墓には、また明日の朝もう一度お参りに来ますね!と言って、水天門から外へ出ました。

境内側から水天門の方を見て撮ったものですが、バス通りを挟んですぐ向かいが関門海峡・・・このあたりから先がまさに壇の浦の海です・・・!

ここから階段を降りて、道路をわたり、真向かいの海を見に行きました。すると、こんなオブジェが!

3.知盛を偲ぶ「碇」モニュメント

おお、これはもしや、知盛を偲ぶためのモニュメントの一つでは、、、と思うと、詳しい案内板が二つもありました。

なるほど・・・そういうことだったのか・・・知盛さまファンとしては、本当に感無量です....

下関にやってきて本当によかった!!

4.カモンワーフ

そろそろランチでもするか、と歩いてまたホテルの方にもどり、カモンワーフというシーサイドモールをぶらぶら・・・

下関はふくの町(注3)です。こんなユニークなでっかいふくさんが、海をバックに鎮座しております(私の背丈くらいあるんだよぉ~)

というところで、「その2」はここまで。「その3」に続く・・・・(下関旅行記がまだまだ続きます)。

注1)詳しくはWiki「平徳子」の大原御幸の項などにあります(こちら)。

注2) 安徳天皇の陵墓として、宮内庁が指定管理しているところは、実は他にも全国にいくつかあり、そのひとつが、長崎県対馬にも存在するとのことです。幼くして入水により崩御された帝を哀れに思う気持ちから、いろんな伝説が残っており、実は知盛とともに生き延びて大人になって崩御した、、などなど、ロマンですねえ・・・

注3) 下関では、「ふぐ」ではなくて、「ふく」という発音が好まれていて、「福」にあやかっている、とのことですが、まあ実際どちらも使っているようでしたね。 

 

 

 

 


49回、最終回、総括

2013-01-08 15:59:51 | 平清盛ほか歴史関連

49回と最終回について、実はお正月ころから書いていたのですが、これがいろいろと複雑な思いがあって、さっぱりまとまらず・・・・

もちろん、すでに、あちこちの清盛マニアさんのブログやYahoo「平清盛みんなの感想」掲示板、さらにYahoo知恵袋などで、語りつくされた感があり、さらに、この間開設した「『平清盛』を引き続き楽しむ集い」掲示板(こちら)も盛り上がっていますので、今更私がここで二番煎じ??するまでもないかもしれませんが・・・以下簡単に私なりに感じたことを記しておきたいと思います。

最終回、とにかくよかった。夫がそばでおじさんの漫画雑誌(ビッグコミックオリジナル)を読んでいるのもかまわず、おーーんおん声をあげて泣いてしまいました。

悲しかった。。だけど、深田恭子さんが「悲しいだけの最期ではない」と言っていたように、とても救われる最期でした。盛者必衰、諸行無常。一門は滅びようとも、一蓮托生のキーワードのもと、団結は揺るがない。そして、「武士の世をつくる」という清盛の大志は、頼朝にしっかりと受け継がれ、また宋との交易による国の発展は、子兎丸らにバトンタッチされていく。そして海の底の悠久の都では、一門の皆がいつまでも仲良く暮らし、清盛も屈託のない笑顔で子供のように「おもしろう」遊んでいる・・・・

これだけ国民に広く膾炙し、研究し尽くされ、テレビドラマや映画の材料としてすでに多くの作家や脚本家が手掛けてきた、平清盛とその一門の物語ですから、今までとは相当カラーの異なるオリジナリティあふれるドラマでなければ、いまさらわざわざ大河に登場させることもなかったでしょう。そういう意味で、藤本脚本は、あくまで史実に基いたうえで(これを歪曲することなく)、過去のイメージを打ち破り、素晴らしいニューウエイブ清盛像を見事に描いてくれました。

全回を通して藤本脚本がとことんこだわったのは、「武士の世をつくる」という志です。

これは、平家物語ではなく、平清盛物語ですが、もっといえば、平清盛の生涯の出来事がテーマではなく、平清盛の志がテーマなのです。

ですから、49回と最終回でも、「平清盛は武士の世への大きな第一ステップをつくって、あとを頼朝に託した」ということを強調するための場面に極力絞っていましたよね。そのため、今までの平家モノには欠かせなかったいろんな史実・・・・たとえば、都落ち(六波羅炎上、後白河の逐電)、木曽義仲軍に対する決定的大敗、一連の源平合戦の名場面(一の谷、敦盛最期など)・・・こういったお決まりの素材は、ナレーションでさらりと流すかあるいはまったく触れないということになりました。それは、ヒストリアの記事でも言いましたように、ある程度予想はしていたのですが、、、、ここまでやるとは!・・・・おそるべし、藤本脚本!拍手で讃えたい反面、やはり正直なところどこか物足りなさは残りました。

せめて60分取れなかったのでしょうか。さすがに駆け足すぎましたね。

いきなり壇ノ浦の時子ら入水場面。。。。ちょっと唐突じゃなかったかなあ。楽しみにしていた(というと不謹慎かもしれませんが)知盛碇かつぎのシーンも、少しは義経との戦いをやってからにしてほしかったような。

西行大活躍はいいのですが・・・・49回での、堀河局との再会とか、面白かったですけどね、強いて要らなかったのではと思います。高倉上皇をしのぶ歌会から堀河との対話、そしてさらにそのことを清盛に話す場面まで、かなり時間を使っていてもったいなかったなあと。

49回でもっといえば、後白河との最後の双六、これがまた長くて、ちょっとイライラしました。はい。回想シーンがしつこくない??。松ケンさんはインタビューで、このシーンが大好きだったようなことを言っていました。後白河に対する愛情をもって演じたそうです。つまり、二人がいろいろあったものの、最後にはやはり厚い友情で結ばれ、後白河は、清盛の「武士は朝廷の犬ではない」という主張を誰よりも理解してくれた人物だったということを確認できて、清盛は安心するのですね。清盛にはもう二度と会えないと悟った後白河の寂しげな表情・・・・「遊びをせんとや」を歌いながら遠くから盟友の死を悼む・・・

もちろん史実では、後白河は清盛に対しても、また清盛亡き後の一門に対しても、そんな愛情のある対処はしていません。たとえば、宗盛に対して・・・彼は、偉大な父亡きあと、自分の凡庸をよく知って分を守り、後白河には努めて恭順に接してきたのですが、そういう彼の気持ちをさんざん弄んだ挙句、都落ちに同行すると見せかけて逐電(つまりトンズラ)してしまうのですから。 

49回でのこれらのシーンがなかったら(あるいはもっと短くしていたら)、その分50回でもう少し合戦シーンなど入れられたのでは、、、と思うのです。私としては、都落ちを少しは観たかったなぁ。今『新・平家物語』第9巻の都落ちのあたりをちょうど読んでいますが、義仲軍の上洛を恐れて、あれほどの栄華を誇った六波羅に自ら火をつけ、すべてを灰にして、まるで大津波から避難するようにバタバタと大混乱のうちに西へ西へと落ちていく一門・・・あまりに哀れで、本を読みながら涙するなんて、わたしこの歳にして初めてじゃないかしらん。

最終回の、弁慶の仁王立ちと義経自害シーン。あれも必要でしたか?なにせ、合戦で華々しく活躍する義経が全くなくて、いきなりあのシーンでしたから、なんというか、とってつけたようで。。。しょぼい義経で終わってしまいましたねぇ。

とはいえ、全体的にきわめて芸術性が高くて、平家滅びの美学がよく表されていました。ひとりぼっちで餓死という死に様を選んだ盛国を弔う琵琶法師は、、、だれあろう、あの禿のリーダー刹羅です!あのとき、清盛が時忠に「始末せよ」と言ったのは、やはり「殺せ」という意味ではなかったということが、lこれでやっと明確になりましたが、ただ、刹羅のあのぎらぎらした魔性の瞳が盲目になってしまっている!

海中に沈んでいくのは草薙の剣ですが、くるんだ布がほどけてみると、それはいつのまにか宋剣になっていて、海底に突き刺さります。すると、、、、生き生きと顔を輝かせながらそれを引き抜く平太が!実は、この箇所については、ノベライズの第1回冒頭にこういう描写があるのです。あまりに素晴らしいので、ぜひ皆さんにも味わっていただきたく、そのまま転載させていただきます(ノベライズ、買いましょう~~~。)

静けさを取り戻した壇ノ浦の海面に気泡が立った。生命を吹き込まれたような何かが、泡の軌道を描いてゆっくりと、深く沈んでいき、海の底に突き刺さった。剣である。この時代に台頭した武士たちが、貴族たちの偏見や蔑みとせめぎ合い、大きく成長をとげた強さの象徴ともいうべき剣だ。

やがて、何者かの手が海の底の剣を引き抜き、海中に高々と掲げた。海の底に煌々とした光が差し込み、剣を照らした。

                                                      (ノベライズ『平清盛』一、p.7 より)

尻切れトンボですが・・・この記事はここでおしまいにします。最終回がらみで、都落ちのこと、合戦のこと、頼盛のこと、盛国のこと、知盛のこと、宗盛のこと、後白河のこと・・・いっぱい触れたいのですが、とても一つの記事では語りつくせません。これからまたポイントを絞ってぼちぼち書き綴りたいと思います。

父のことや恵のことで、重い日々が多かった私の2012年ですが、『平清盛』のおかげで、あらたな愉しみができて、随分救われました。そういう意味ではHappyな1年でありました。NHKさん、藤本有紀さん、俳優さんたち。。そして、Keith Emerson氏と吉松隆氏など、皆さんに心から感謝の意を表します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

 


『平清盛』最終回の余韻と新掲示板のお知らせ

2013-01-02 18:21:32 | 平清盛ほか歴史関連

『平清盛』が終わって数週間・・・・新年度の大河も始まったというのに、私の中では、なかなか終わりそうにありません。それどころか・・・今始まったばかりのような気すらします。これからさらにもっと時間をかけてしみじみ堪能して反芻したいーーー!

最初にお知らせです。新しい掲示板を開設しました。

「2012大河『平清盛』を引き続き楽しむ集い」 URLはこちら

解説: 『平清盛』放送がとうとう終わってしまいましたが、録画や完全版DVDなどを楽しみながらまた何か話したくなったらいつでもお気軽にご利用ください。2012の『平清盛』に限らず、『(古典)平家物語』や『新・平家物語』あるいは、過去の大河でも、その他本や映画など何でも、平家がらみなら何でもかまいませんので、楽しく情報交換いたしましょう!

ハイ、平家でも源氏でもなんでもいいんですよーー 『平清盛』を見ながら考えたこと、調べたこと、読んだ本、みつけた面白いサイト・・・・教えてくださいね!

さて、年内に書く時間がなかったので、今頃ですが、『平清盛』49回と50回について、少しばかり振り返っておきたいと思います・・・と、書き始めたのですが、やはりというか長くなって、今日はまとまりそうにありません(主婦のお仕事の時間だーー)。ここでいったん切りますね。

今日のところは掲示板のお知らせのみで、失礼しまーす。