波佐見の狆

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「平清盛」から「鎌倉殿の13人」へとつなぐ想い

2022-11-14 15:19:48 | 平清盛ほか歴史関連

何年ぶりか?の大河ドラマについての投稿です。

鎌倉殿の13人」も、あと6回を残すところのみとなり、いよいよ、源実朝の暗殺~承久の乱~北条義時の最期というクライマックスへと突き進んでいきますね。

恥ずかしながら、私は、鎌倉時代のことは殆ど無知でして、、、北条義時?どういう人?主人公になるほど何かいろいろやった人?ともかく、やっとまた中世をやるんだな~~久々に源平合戦を見せてくれるとのことだから、楽しみだな~~くらいの気持ちで見始めたわけですが、、、回が進むにつれ、あまりの面白さにくぎ付けになり、今ではもう「平清盛」と並ぶくらい愛する大河になっています。

平家は、武士の世の基盤を作りました。武士がまだ貴族の用心棒でしかなかった時代からだんだん台頭して大きな力をつけ、公家と並んで中央政界を牛耳り、さらに、天皇家の外戚になる、つまり朝廷に組み込まれ同等のランクになることで、頂きに立ったわけですが、源氏そして北条氏は、鎌倉という新たな土地において、平家の作った土台の上に、幕府という組織を作ります。朝廷とは、当初はつかず離れずで、協力体制も見せますが、実朝の死去により、関係が冷えてしまい、ついに決定的対立となる(承久の乱)。結果、朝廷側を打ち負かして上皇らを追放。武家と朝廷の力関係を逆転させるほどまで強大化して、江戸時代まで続く武家政治体制を確立する。簡単に言えばこういう把握でいいんですよね?

つまり、平清盛がいたからこそ、頼朝も義時もやりたいことができたわけで、そういう意味で「平清盛」のいろんな名場面、名台詞に表された、武士の時代黎明期のスピリットが、この「鎌倉殿の13人」に引き継がれているように思われてなりません。そういう意味で、私には大変感慨深いです。

たとえば、、、

「鎌倉殿の13人」では、頼朝が弟らを殺したり、義時が父親を追放したり、という血縁間の悲惨な争いが一つの大きな鍵となっています。つまり、親兄弟でも、追い落としたり殺したりしてでも、自分が力をつけていかねばならない、それが武家の頂点に立つ者の宿命だ、ということですよね。この精神の原点が、「平清盛」にありました。それは、頼朝の父である源義朝が、その父為朝から、このような言葉をかけられる場面です。

「義朝、我が首をはねよ。源氏の棟梁の証の、この太刀で。親兄弟の屍の上にも雄々しく立て。それが、お前の選んだ道。源氏の栄華へと続く道じゃ。」

どういう状況かをざっと説明するとですね、、、

平治の乱において、義朝と為朝(および弟5名)は、袂を分かつことになり、義朝は後白河天皇側、為朝と弟らは崇徳上皇側について戦います。崇徳側が負けたので、義朝は、後白河の命により、為朝と弟らを斬首せざるをえなくなります。そんなことはできないと苦しむ義朝に、父がかける言葉がこれでした。私はこの放送の時は、こんなことがあるのかと大きな衝撃を受け、脚本の藤本有紀さんってすごいなーと強く印象に残ったわけですが、それでも、この台詞の真の意味、すごさが分かったのは、「鎌倉殿の13人」を見てからです。

親兄弟の屍の上にも雄々しく立て!」特にここのところが、胸打ち震えるほど大好きです!

自らが大きくなるためには親兄弟の命も犠牲にする、といえば、この悪党!という感じですが、親兄弟の屍の上にも雄々しく立つ、といえば前向きでポジティブで、めちゃくちゃかっこいいです。

さらに言えば、、、

義朝がまだ迷うままに刑場に向かうとき、わずか9歳だった頼朝(幼少名:鬼武者)が、義朝に同行することになるのですが、それは、義朝の正室である由良御前が、「殿が大殿をお斬りになることとなった。そなたもその目で見てくるがよい。」と、彼に言ったからでした。母に命じられた通り、頼朝はすべてをその幼い目と心に焼き付けます。なんてスパルタな母だろうとぞっとしたのですが、、、こうして幼少期より、源氏の棟梁たるものの覚悟を植え付けられた頼朝だからこそ、あのように非情な身内粛清もできたのだなあと、「平清盛」「鎌倉殿の13人」の繋がりに思いを馳せてしまう私です。

(なお、義朝は結局父と弟を斬ることができず泣き崩れてしまい、彼の第一の忠臣である鎌田正清が代わりに太刀を下ろすことになり、そのすべてを頼朝は目撃しました。義朝が斬れなかったということも、頼朝が見ていたということも、たぶん藤本さんの創作だとは思いますけどね、実によい場面でした。)

さらに話はそれますが、「鎌倉殿の13人」41回の和田合戦の回で、義時が、実朝に、戦場へ出向いて和田義盛を説得してくれるよう依頼する場面。実朝の乳母である実衣は、流れ矢が当たったらどうするのだと猛反対しますが、政子は、源氏の棟梁たるもの流れ矢など恐れてどうする、自分の目で戦場がどんなものか見てきなさいと、きっぱり言い放ちます。さすがは北条政子!武家トップの母として息子をとことん鍛える、という気概が由良御前と重なるなと思って、ぐっときましたね。

(もっとも、実朝くんのほうは、母の言葉の意味よりも、仲良し義盛を助けたいという一心が大きすぎて、結果、まんまと義時に利用されましたが・・・)

ともかく、三谷幸喜さんはおそらく、「平清盛」へのオマージュを意識して書いておられる部分が随所にあるのではないかと思っている次第です。

それから、もうひとつ!

「鎌倉殿の13人」42回で、北条泰時が、実朝に向かって首を垂れ「鎌倉殿のためにこの身を捧げます。」と神妙に言う場面がありましたね。あれはつまり、北条に生まれた者として父親に従うことは後回しで、鎌倉殿に忠義を誓い命をも捧げます、鎌倉殿ファーストですよ、ということですが、「平清盛」でも、鎌田正清が、自分の父親通清にこんなことを言います。

「親子より主従!」

あまりに素朴で単刀直入な一言ですが、、、それだけに心に突き刺さります。これはですね、実は、義朝にどこまでも付いていきたいと思いながらも、父のことが気がかりで躊躇している正清の心を思いやった通清が、わざと正清に、義朝の悪口みたいなのを言うのですね。それで、正清が猛反発して、義朝とともに行く決心をするという場面だったと、記憶しています。

状況は大きく違いますが、親と離れてでも、この人だと決めた自分の主に忠義を尽くすという、当時の武士の精神をよく表していると思います。

ちなみに、正清は言葉通り、義朝と最期を共にします。ふたりが身を隠した正清の縁者の館で裏切りに遭い、雪が降りしきる庭で、太刀で互いに胸を刺し違えて絶命する場面、美しすぎました!

「鎌倉殿の13人」では、義朝の最期には触れず、伊豆で20年にもおよぶ流人生活を送りながら、父の仇を打って平家を倒すという悲願を心の支えとして頑張る頼朝が、北条と結びつくところからスタートしたわけですが、彼がついにその悲願を達成し、清盛の息子宗盛と対峙したとき、「不思議なものだ。わしは憎しみをみじんにも感じなかった。むしろ清盛への感謝の気持ちが湧いてきた。」みたいなことを言っていましたね。宗盛を処刑したくない気持ちはやまやまだが、そういうわけにもいかないから、、、と。自らが生かされたことへの清盛への感謝の言葉が、頼朝の口からはっきりと聞けて、それだけでも本当に嬉しく思いました。加えて、宗盛と義経の温かい心の交流も描かれ、よかったです~~!

武士の世を作る、という清盛の志を、源氏が、そして北条が立派に引き継ぐ。

「鎌倉殿の13人」の解説、感想については、YouTubeやSNSで山のような投稿がありまして、大変盛り上がっており、歴史に詳しい方も多いので、私などが語るのもおこがましすぎるのですが、「平清盛」からの流れという視点で個人的な感想をとりとめなく書いてみました。

長くなったので本日はここまでにいたしますが。。。

あの~~最後にこれを言いたいのですけどね、第42回「夢のゆくえ」に出てきた実朝さんの宋船、あれは、、清盛の撮影のときに作った船じゃないですかね?大きさといい、形と言い似てるなあ。

こちらにもある通り、清盛の船は、「おんな城主直虎」でも、見事に使いまわしされていました。今回も、宋船と聞いただけで即、あ、またあれを使うなと思いましたよ。そうだったら、嬉しいな・・・

というわけで、これからも、なんとか時間をみつけて、少しずつ語りたく思っています。

                        

この原稿実は第43回「資格と死角」を見た時点でほぼ書き上げていたのですが、実はその後ちょっと体調を崩してしまったため、アップが随分遅くなりました。

以前私は大河ドラマ関係の記事を書いていたとき、テレビを録画したものやDVDの画像をカメラで写してその写真をじゃんじゃんこのブログにアップしていましたが、今回あらためてNHKのサイトを見ていたら、次のように明記されていますので、写真をアップすることは今後控えようと思います。写真がないと寂しいんですけどね、、、代わりにYouTubeで何か資料になりそうな動画など探してリンクするしかないみたいです。(その分、文章を充実させるようがんばります。)

「ラジオの番組の画面や音声をパソコンに取り込んでインターネットに流すことは、著作権者、著作隣接権者の「複製権」や「送信可能化(インターネットでアクセス可能にすること)権」に抵触します。
著作権法では、自分のホームページにテレビやラジオの番組の画面や音声を取り込むこと自体、営利・非営利に関係なく、著作権者、著作隣接権者の許諾がなければ出来ないことになっています。「自分のホームページだから私的使用ではないか」という人がいますが、これは間違いです。」

https://www.nhk.or.jp/toppage/nhk_info/copyright.html


仙台・石巻一人旅♪ <後編>

2017-11-26 12:14:39 | 平清盛ほか歴史関連

翌朝(11/12 日曜日)です。

本日も天気は上々。帰りの新幹線は5:30なので、それまで、たっぷり一人旅を満喫することにしました。

テーマは・・・宮城県が産んだ偉人「支倉常長」(はせくらつねなが)へ、想いを馳せる1日です。

支倉常長さん。伊達藩の武士だったのですが、政宗の命により、慶長14年(1609年)、宣教師ルイス・ソテロらとともに、慶長遣欧使節を率いて渡欧。7年を費やし、キリシタンとなりながらスペインとの通商交渉を行うものの、目的は果たせず、帰国後失意のうちに没しました。私が、長崎の天正遣欧少年使節(天正10年;1582年)に大変興味があるのは、以前よりお話ししていますが、この、みちのくの遣欧使節にも、同様に心引かれ、ぜひ支倉常長ゆかりの地を訪れたいと以前から思っていました。

まずは、仙台駅から、仙石線、路線バスと乗り継いで、2時間かけて、石巻へとやってきました。

月の浦という入り江に建つ「サン・ファン館」です。

ここ月の浦こそ、まさに、慶長遣欧使節団が旅立ち、戻ってきた港で、支倉らが乗ったガレオン船「サン・ファン・バウチスタ号」を復元した実物大の船が係留展示されています。

「ガレオン船」とは、大航海時代にヨーロッパで活躍した大型の帆船で、日本にもその技術が持ち込まれ、徳川藩や伊達藩で建造されたのです。

(伊達藩の家紋が前面に)

この復元船、みゆきさんも、おっしゃっていたのですが、、現代の感覚で見ると、意外に小さい。しかし、確かに、この規模の船が総勢180人もの乗組員を乗せてヨーロッパ往復を成し遂げたのですから(実は2往復もしたそうな)、すごい性能だったのですね。なお、震災時の大津波で、流失こそしなかったものの、大きく破損。その後いったん修復されたのですが、やはり傷みが激しく腐食も進んでいるため、現在は外から眺められるだけで、船内の見学は禁止となっています。スタッフの方に尋ねてみたのですが、今後さらに修復して船内へ入れるようになる見込みはないそうです。船内は、蝋人形などによる展示説明があり、当時の人々が、長い航海を船内でどのように過ごしていたのかが、よくわかるようになっているとのことだったので、とても見たかったです!

しかし、この係留場所から、長いエスカレーターを上ったところにも、展示館があって、この慶長使節についてはもちろんのこと、大航海時代の世界情勢、航海技術について、ジオラマやパネルで詳しく学べるよう、いろいろと工夫されています。

また、「サンファンシアター」という、ミニ映画館みたいな立派な大型ハイビジョンルームがあって、「2つの大津波とサンファンバウチスタ」と「地の果てまでも」というプログラム(各20分)を上映しています。どちらも、素晴らしい作品で、特に後者は、大勢の俳優さんたちによる本格的なドラマ仕立てになっていて、太平洋のど真ん中で嵐に遭い悪戦苦闘する常長らの姿が、大迫力で伝わってきます。こんな映画まで見られて、入場料たったの350円は安すぎません?!(サンファン号の船内見学禁止になっていることで、料金を引き下げたそうです。)

晴天の日曜なのに、見学者は、まばらでした・・・・経営は大丈夫なのかなと気になったのですが・・・・実は、復元船は、オリンピックの年以降に、取り壊す方針だそうで、シンボルであるこの船がなくなれば、ますます、こんなアクセスの悪い施設を訪れる人は減るのでは、と心配になります。老朽化するいっぽうのこんな特殊な船は、修復に莫大な資金がかかり、もし資金面がなんとか工面できたとしても、船大工さんたちが高齢となり修復の技術自体が確保できないとのことで、解体しか選択肢はないのでしょうが・・・大変残念なことです。

遠かったけど、来てよかったなあとしみじみ思いつつ、仙台駅へ戻りました。 

4時すぎに、 「仙台市博物館」に到着。

ちょうど、「伊達政宗生誕450年記念特別展」をやっていました。

わたしのお目当ては、もちろん、慶長遣欧使節関連資料です。

とりわけ、日本史の教科書にも載っている有名な常長の肖像画を見たかったのです!

 <国宝・ユネスコ記憶遺産登録資料>

敬虔なキリシタンとしての常長の姿。17世紀にローマで制作されたとみられ、日本人を描いた油絵としては最古のものだそうです。使節団帰国後も支倉家に保管されていたのですが、支倉家は嫡男常頼の代にいったん断絶となったため(キリシタンの家臣がいたという理由で常頼は処刑)、この絵は仙台藩に没収されていました。

安らかな目をしています。南蛮との通商交渉を上手く運ぶため、状況的に仕方なく洗礼を受けざるをえず、そのことで深く苦悩したが、最終的には真の信仰を見出した、という、遠藤周作の小説における解釈(「侍」)に、あらためて頷けるものがありましたよ・・・。

もっと語りたいのですが、字数制限のため、ここで旅行記終わりといたします。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「おんな城主直虎」と「平清盛」

2017-06-28 11:07:24 | 平清盛ほか歴史関連

大河ドラマ「おんな城主直虎」 ご覧になっていますか?

去年の「真田丸」に続き、戦国もので、しかも、主人公はかなりマイナーな人物・・・とのことで、マイナーゆえの、物語としての面白さを期待していました。

25日放送分で、ちょうど前半が終わって折り返し地点に来たところですが、私は、かなり気に入っています。「真田丸」は、前半はまったく面白くなくて(真田一族の単なるホームドラマにしか見えなかった)、後半、秀吉が絡んできたころからいきなり面白くなり、最後まで超熱かったですが・・・・「直虎」は、前半からなかなかいいですね~~

女性の城主ということは、それほど強調されていないと思いますね。もちろん、許婚だった直親への想いというのはベースにあるわけですけれども、そういうことよりも、井伊谷(いいのや)という、弱小領地の領主として、次々と降りかかる難題とピンチを機転と奇策で乗り越えて成長して、家臣らや領民たちから信頼と尊敬を得ていく姿が、素晴らしいです。

とりわけ、主君である今川氏からは、理不尽な扱いを受けてばかりで、直親を、謀反のかどで暗殺されたことへの恨み・憎しみは、直虎の中ではどんなにか大きなものだったかと思うのですが、sそういう感情も、「井伊のため」にぐっとこらえて、今川に忠義を尽くそうとする姿勢に、胸きゅんです。領主である自分は、許婚を殺された遺恨をしつこく持ち続けるような「贅沢」は、許されない、というセリフがありましたが、なんでこんなひどいことをする今川に、ぺこぺこするんだろうと、じれったく見えていたので、この「贅沢」という言葉は衝撃でした・・・

ちなみに、今川氏って、義元が織田信長に討たれたあとも、あれほど権力を持っていたんですね。信長といえば、今回、信長役は、あの市川海老蔵さん。いつも大変お忙しい中で、奥様のことであれほど辛い思いを背負っておられたとは・・・。

さて、25日放送分は、ぱぱに録画を頼んでいたので、その日は実家では見ませんでした。ちょうど、母のことですっかり沈んだ気持ちでいるところに、Yumikoさんからのメール・・・「直虎見た?龍雲丸のあの船、やっぱり「清盛」に出ていたやつらしいよ!」 おおっ!と、心がちょっと明るくなりました。友よ、いいところに、楽しいメールをよこしてくれるじゃないかい!

 (録画をスマホで撮影)

龍雲丸・・・盗賊の首領で、最初は直虎に批判的であったが、次第に直虎のよき理解者となりその志を支える、という役どころが、「平清盛」に出てきた兎丸とそっくり!そして、龍雲丸たちが使うこの船が、「清盛」の撮影のために制作された宋船をそのまま使っているに違いない、という声がネット上で多く上がっているのです。NHKのサイトには特に書かれていませんが、間違いないですね!

龍雲丸役の柳楽優弥さん、目がステキ。朝ドラ「まれ」では、ちゃらい役だったし、好きになれませんでしたが・・・役柄が違うとがらりと印象も変わるもんです。

この写真中央に見える、ゴクウという少年役の前田航基さんは、「平清盛」で兎丸の少年時代を演じていました。(気づいていなかったよ、Yumikoさん、ありがとうね。) で、このように船のメインマストにくくりつけるところも、清盛が、兎丸に捕まってくくりつけられたシーンなどを想ってしまいます。あと、直虎が囲碁をするシーンが多用されているのも、清盛が双六をする姿を思い出します。

脚本担当の森下佳子さんが、意識的に、清盛オマージュとして、描いているのかどうかはわかりませんが、直虎と龍雲丸の関係が今後どう展開していくのか、とても楽しみですもっとも、清盛と兎丸の関係は、清盛が上り詰めるにつれて、冷たいものとなっていき、兎丸は大変悲しい最期を遂げました。そしてそのことが、平家一門の運命を予言していましたね。直虎にとっての龍雲丸は、そこまで深刻に関わる感じはしませんけどね。

脚本自体も、真田丸の三谷幸喜さんのより、私は好きです。真田一族の言葉遣いや所作が、あまりに現代風で(とくに、きりちゃん)、前半ついていけなかったですからね・・・まあ、最終回にちかづくにつれて、その「現代風」の効果と意義も分かったので、そういう特色を楽しめましたけどね。森下さんのは、言葉遣い自体は、ほぼ戦国時代の物言いで描かれているのではないでしょうか。

そして、毎回のように、心にぐっと迫るセリフがあるんです。18日の分でも、井伊を去っていく乳母、タケを直虎が追いかけるシーンで・・・タケが、自分はもう年老いてしまい、お役に立てないというと、「役に立たずともよい!よぼよぼになるまで伊井におれ!そなたは、我が看取ると決めているのじゃ!」と叫ぶ直虎・・・・私もこれからの母との人生を想い、涙ぽろぽろになってしまいました。

今年の大河のあと、来年は幕末で、再来年は、昭和だそうで、私は見る気がしないので、もしかしたら私にとって、今年が最後の大河になるかもしれないなと思っています。あと半年、とことんワクワクさせてくれぃ~~~ 皆さんの感想も聞かせてくださいませ~。 manamiさんやインコさんたちともまた語り合える嬉しいですね~

 

 


佐世保で「沈黙」を観ました。

2017-02-23 10:33:19 | 平清盛ほか歴史関連

あれほど、読むのも怖いと思って長いこと本棚に置いたままにしていた「沈黙」の原作を、やっと読み、そして、、映画も観てしまいました・・・!

父命日の2月18日。三回忌法要を済ませた後、急いで佐世保の繁華街へ。そこでYumikoさんと待ち合わせて、今では佐世保で一つだけになっている映画館へ入りました。

牛久では、ちょうどぱぱが稀勢の里優勝パレードを楽しんでいるころ・・・。

月並みすぎる言葉ですが・・・本当に素晴らしかった。

当初は、拷問・処刑シーンが酷く恐ろしくて、観終わったあとは、さぞ後味の悪い暗い気分になるだろうと覚悟していたのですが・・・・

確かに、そういうシーンは盛りだくさんでしたけれども、後味はそんな嫌なものではなく、むしろ心がさぶん、ざぶんと洗われ、たましいが純化されるような気持ちになりました。

それにしても、自分の、キリシタン関係に関する知識、認識が、いかに浅くて単純なものであったかが分かって、愕然としました。

細部については、ネタばれになるので、書かないほうがいいかもしれませんけど、たとえば、踏絵。踏みさえしたらOKで無罪放免となるのだと思っていたら・・・そうじゃなかったのですね。役人は「それでお上を騙したつもりか。お前らの息遣いが荒くなったのを見逃してはおらぬぞ。」と言って、さらに、マリア像につばをかけ、淫売だとののしれと命じるという、二段スクリーニング?!でキリシタンをあぶり出す・・・聖母を心から崇拝するキリシタンは、それはさすがにできず、ついに、処刑されてしまう(長崎奉行の井上筑後守が、自身、出世のために洗礼を受けたことがあるため、キリシタンの弱みを熟知していたからだと!)その方法が、予告編にも見えますが、水磔(すいたく)といって、海中に立てた十字架に縛り付けて徐々に溺死させるものですが(水面に首が浸かってしまわないくらいの位置に設定して、数日間苦しませる)、それを他の村人たち対する見せしめとする、というなんとも酷いやり方です。

そして、フェレイラ神父についてですが・・・

一人の神学者としても誰からも尊敬され、日本における宣教活動のトップとして大きな責任を負っていた彼が、中浦ジュリアンらとともに、穴吊りの拷問を受けたとき、ジュリアンらが最期まで耐えて勇敢な殉教を遂げたにもかかわらず、自分だけたったの5時間で我慢しきれなくなり、棄教した。神父としても人間としても卑怯でダメな人物だと、軽蔑していました。だからこそ、彼との対比で、どんなに痛めつけられようとゆるぎない信念を全うしたジュリアンが、立派で高潔な人だと、私はずっと思ってきました。つまり、穴吊りという、キリシタン拷問方法のなかでもおそらく最も心身を苦しめられるそのおぞましい時間に、耐えられなかった=× 耐えられた=○ という単純な公式しか、私の頭にはありませんでした。

しかし、この作品を読み、観て、そんなに単純なことではなかったのが、やっと分かり、さらにいろいろと考えさせられています。

フェレイラは、肉体の苦しみに負けたから、「転んだ」のではなかった。少なくともそれだけが理由ではなかった。このようなおぞましい拷問を、多くの信徒たちも同様に受けていて、お前が転ばねば、彼らの命は救えぬと脅されて、言われる通りにするしかなかった。そして、何より、自分がそれまで固く信じてきた神に対して不信感、絶望が大きくなり、キリスト教そのものに意味を感じなくなった・・・そういうことなんですね。だったら、フェレイラを卑怯者とか弱虫とか呼べないように思えます・・・

人間のあり方って、そういうふうに一方的に優劣をつけられるほど、単純なものではない。

「転び」は、確かに深い闇ではあるけれど、その闇に一筋の光を当てたのが、遠藤周作氏ですね・・・。

物語の最大のクライマックス、フェレイラがロドリゴに、転べと説得する場面。。。穴吊りされて苦しみもがく哀れな信徒たちを目の前に、パニックになるロドリゴに、フェレイラは、どんなにカトリック教会の汚点だとか裏切り者だとか言われようと、今、目の前で殺されようとしている人々を救うのは何より大きな愛の行為なのだと言います。基督だって、自分のすべてを犠牲にしてでも人々のために転んだだろうと・・・これは、もしかしたら、誰かを自分と同じ裏切り者の仲間に引き入れたいだけの詭弁かもしれないけれど・・・あのぎりぎりの状況で、愛弟子だったロドリゴに対してフェレイラがしてやれることは、そういう理詰めの説得だけだったのかもしれません。

話はそれますが・・・迫害下において日本国内で活動していた宣教師たちを大まかに分けると、「棄教派」と「殉教派」に分かれて、どちらのグループも、それぞれの考え、思いがあったでしょうから、一概には言えないでしょう。(中には、単に肉体の責苦に我慢できなかっただけの人だっていたのかもしれませんが。)でも、ジュリアンのような殉教派が、何があっても、純粋に神を見ることができ、誰かが目のでどんなに苦痛で呻いていても、その先に神の愛を確信できたというのは、強かったというより、本人は幸せでしたよね。というと、究極の自己満足のようにも聞こえるかもしれませんが、殉教派にとっては、他人はどうでも、自分はそうするのが務め(定め?=神のご意思)と信じていたからですよね。遣欧使節としてローマへ赴いたジュリアンには、なおさらのことだったでしょう。

話を「沈黙」に戻しますが・・・ロドリゴが、転んだ後どういう人生を送り、どういう死を迎えたのか、についても、丁寧に描かれます。転びバテレンと言われる人たちも、人生の最期が訪れたとき、表向きは仏教徒の顔を続け仏教徒として葬られながらも、心のコアの部分では、信仰に立ち返ることがあったのではなかろうか、いや、一度は転んだからこそ、最期は真の信仰をみつけたのではないだろうか、という大きなメッセージが発せられていました。それは、原作にはなかった、スコセッシ監督からの、すべての人々に対する贈り物でした・・・仏教とかキリスト教とかの問題ではなく、人間誰しも人生の終焉で、コアの部分がどうありたいか、自分にとって一番の真実は何か、、その答えを出せたら幸せだなと・・・。

(そういえば、天正遣欧使節団の4人のうち、棄教して弾圧側に回った千々石ミゲルも、最期にはキリスト教に戻ったのではないか、と言われていますしね・・・。)

大絶賛されている日本人役者さんたちのなかでも、私が特に気になったのは、水磔に処せられる3名のうちの2人「モキチ」を演じた塚本晋也さんと「イチゾウ」役の笈田(おいだ)ヨシさん

水磔のロケは、かなりの程度まで実際に海の中でやったとか、どこかに書いてありましたけど(注1)、塚本さんは、殉教シーンの撮影中にこのまま本当に死んでしまっても構わない、と思えるくらいだった。自分にとってはそれほどの映画だった、と話していました(こちら)。そういう言葉を事前に聞いていたからかもしれませんが、塚本さんの話し方、表情にとても引き込まれました。

そして・・・ 笈田ヨシさん。彼は日本ではほとんど?知られていないのですが、パリを拠点にヨーロッパで活動している俳優さん(オペラ歌手/演出家)で、欧米ではかなり有名な方だそうです(詳しくはこちら)。

実は、20年前に中浦ジュリアンを主人公として描いた「アジアの瞳」という映画が、日本とポルトガルの合作として制作されたのですが、そのなかで、ジュリアンを演じたのが彼だったのです。

私は、この映画のことをつい最近知ってDVDを買いました(こちら レビューが素晴らしい)。ダイジェストをYouTubeで見られます。

asia-edit.avi

「アジアの瞳」では、ジュリアンとフェレイラが獄中で対話するシーンがあり、フェレイラは既にある程度、神に対する猜疑心を持ち始めていて、心が覚めてきており、その考えをジュリアンに投げかけるのですが、ジュリアンは絶対に揺るぎません。「沈黙」には、中浦ジュリアンへの言及は一切ないのですが、「アジアの瞳」で崇高な殉教者の姿を演じきった笈田さんを、スコセッシ監督が是非とも自分の作品にも殉教者として出て欲しいと望んだのではないでしょうか・・・?!そして笈田さんが「沈黙」で演じたのが、トモギ村の長(つまりかくれキリシタンたちのリーダー)で、「じいさま」と呼ばれて尊敬され、パードレがいなかった長い年月、その代理的役割をしてきた老人、イチゾウ。笈田さんは、現在なんと80代半ばですし、誰よりも、この役にぴったりという感じでした。「アジアの瞳」では穴吊り。「沈黙」では水磔。2回もの勇敢な殉教で(お疲れ様です~)こんなに魂を揺さぶってくれるなんて、彼以外にいないでしょう!

「アジアの瞳」についても、「沈黙」についても、たくさんの想いが溢れますが、また後日おいおい語るということで、今日のところはここまで。クリスチャンでもない能天気な人間のとりとめない感想ですし、勉強不足でお恥ずかしいですが・・・少しでも書き留めておきたかったのです。

皆さんの感想もお聞かせください。 (イギリスのYukoさんもご覧になりましたか?)

Yumikoさんと、「沈黙」を一緒に見られて、本当に嬉しかったです。なにせ、びびりの私・・・1人で観る勇気がなかったのですが、うまい具合に、佐世保でも2月3週目まで上映されていて、父三回忌でたったの2泊3日という短い滞在期間中に、しかも、法要が終わってすぐにかけつけてぴったりの時間帯の上映だったおかげで、地元でYumikoさんと堪能できたのです。稀勢の里パレードは見逃してしまいましたが、それを埋め合わせるに余りある時間を、父がプレゼントしてくれたのでしょう。お父さん、粋な計らい、ありがとうね!

 注1) 後からまたよく読んでいてわかったのですが・・・正確にいえば、干潮時のみ実際に海で撮影して、 満潮になって顔に水かかかるシーンから先は、超大型撮影用プール(各種の波を再現できる装置を備えている) を利用し、背景をCG合成したそうです。でも、人工波とはいえ苦しいもので、恐怖と戦いながらの必死の撮影だった、という趣旨の話を塚本さんがしています。(詳しくは、こちら。プールについては、こちらの「ロケ地について」の撮影用タンクの説明を参照。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジュリアンの父上の墓参り

2016-10-05 10:22:03 | 平清盛ほか歴史関連

帰省のたびに、大村市の本経寺を訪れて華丸と小佐々前親のお墓詣りをしたいと思うのですが、未だ叶っていません。大村はちょっと遠いし、いつも法事やら何やらでなんだか忙しく、ゆっくり時間が取れないのです。

西海市界隈の、中浦ジュリアンやその他キリシタン関連史跡も、あまりに多くありすぎて、場所は込み入っているし・・とてもともて、ささっと回れるものではありません。そのあたりのゆかりの地巡りは、まあ、Uターンしてからの老後の楽しみにとっておこうと思います(・・って、いつも言ってますね。)教会群とキリシタン関連遺産の世界遺産登録が実現すれば、またいろいろと整備されて、見学しやすくなるかもしれませんしね。

最近の帰省で、私がカメラに収めることができたものを、ちょっと記しておきたいと思います。

まずは、西海市の多比良(たいら)地区にある、ジュリアンの父小佐々甚五郎純吉(こざさじんごろうすみよし)と大伯父小佐々弾正純俊(こざさだんじょうすみとし)を祀る墓所です(注1)。

国道から、脇道に入り、さらに狭く暗い坂を少し上がっていくと・・・

左手前の墓石が特によくわかりますが、かまぼこ型をしていますね。典型的なキリシタン墓の形状です(注2)。県の学芸文化課サイトによれば・・・純吉と純俊は、ともに今の佐世保市の宮(久津峠)で行われた合戦で、主君大村純忠を守って討死し(永禄12年(1569);ジュリアンが3歳のとき)、一旦そのまま佐世保に葬られましたが、のちに、純俊の本拠地である小佐々城(多比良城)があるこの地に移されて祀られたとのことです。この墓石が、1569年当時のものなのか、それとも、もっと後になって、移された時点でつくられたものなのか、わからないのですが・・・ジュリアンのルーツが確かにここにある、と思うと感無量でした

入口にこのような説明版があります。(文面は、ジュリアン直系の子孫で小佐々氏の歴史を研究されている小佐々学先生によります。)

黄色で囲んだところが、墓石のある個所。そこに立って奥のほうをみると、建材置き場のような広場?があるのですが(写真忘れたっ・・黄緑で囲みます)、それは、説明にもあるように、南蛮寺(教会)と馬術の調練場があったところだそうです。海外との交易で繁栄を極めた小佐々領国の勇将たちが、胸に十字架をつけ、立派な馬を引きながら闊歩していたのがこのあたりだったのだなあ。。。じっと見つめていると、戦国時代にタイムスリップして引きずり込まれるような感覚すら覚えて、ぞくっとしてしまいました。

それにしても、本当にひっそりとしていて、雑然と落ち葉が散らかり放題。薄暗くてあまりにも寂しい場所です。おそらく、徹底的に権力に歯向かって布教を続けて処刑された「大罪人」(ジュリアンのことですね)を出してしまった家系なので、墓地も江戸時代以降はずっとないがしろにされていたのではと、思うのです。でも、墓石が破壊されることもなく、こうして残されているというだけでも、驚くべきことかもしれません。実際、小佐々家の系譜と史実は一切、江戸時代に抹殺され現代まで闇に葬られていました。それを初めて、長年の調査により明るみに出し、中浦ジュリアンが、この優れた一族の血を受け継ぐ領主の嫡男小佐々甚吾であったという史実を突き止めたのが小佐々学先生だったわけです。詳しいことは、前にもご紹介した「小説中浦ジュリアン」のあとがきにあります。そのあたりについては、とても1回の記事では書けませんので、これからまたゆっくり語っていくつもりです。

ちなみに・・・西海市内では、また別の戦国時代のキリシタン武将の墓石がみつかっており(「平原郷の切支丹墓碑」)、その墓所は、写真で見る限りとてもきれいに整備されているのです。私自身はまたそこを見学していないので、こちらのきれいな写真をご覧ください(「トライックス・カフェ」さんのサイトです)。公園みたいですよ~。同じ弾圧時代のキリシタン墓でどちらも県指定文化財なのに、この整備状態の違いは、どうしてだろう・・・と、考えると、どうしても、幾世代にもわたって小佐々家に着せられた大罪人の家系、という汚名が、ひとつの要因ではと、推察せざるをえません(全くの私見なので、見当違いならすみません)。次回の帰省では、平原郷のほうもぜひ訪れたいと思います。私同様、ご主人の実家が西海市にある、親友のKさんからの貴重な情報でした。Kちゃん、ありがとう~。

話を戻して・・・と。

なぜ「小佐々ジュリアン」ではなくて、「中浦ジュリアン」なのか、ということについて、ちょっとだけ。

上に記した通り、このお墓のある「多比良」は、ジュリアンの大叔父純俊の本拠地でして、そこに、父純吉も一緒に眠っているということなのですね。で、純吉の本拠地というのは、ここからまたちょっとだけ離れた「中浦」というところでして、純吉は「中浦城」の城主として「中浦殿」と呼ばれ、その一帯の統治を任されていたわけです。その中浦殿の息子ということで「中浦ジュリアン」になった。それだけです注3)。

地元で無料で配っている可愛い中浦マップの一部です。西海市在住の画家タナカタケシさん作。

「さるくまち 西海マップ」 の下に書いてある詩が素晴らしいです!(ちなみに、「さるく」というのは、長崎弁で「歩き回る」の意味。)

こけむした石垣がたずねる者に語る。

時や人は過ぎ去るものである。

「どこへ行くのか」

ここから遠くローマへ旅した人もいる。

「どこへ行くのか」

御園には花咲き、光あれ。

ここは中浦、さいわいの海となり、山となり、空となる。

この文面もタナカタケシさんなのでしょうか。心に沁みますね・・・

そして、こんなのもあるんですよ!ジュリアンポーク!!

佐世保市内の繁華街にあるアンテナショップで販売しています。(yumikoさん、貴重な情報ありがとう!)

「中尾とんとん牧場」というところが生産しているとのことですが、肝心の西海市のスーパーとかでは、今まで見かけた記憶がないのです。。。(単に、私が今までジュリアンに興味がなかったから、気づかなかっただけかもしれませんが・・Kちゃんは、これ、見たことありました?)ともかく、地元のジュリアン愛を感じますね。

今回の記事は、帰省レポートということで、ここまで。

天正遣欧使節については、私はまだまだ入門者ですので、なにかと間違いもあるかと思いますので、お気づきの点ありましたら、どうぞご教示ください。

(実を言いますと・・・「小佐々」をずっと「こさざ」と読むと思っていたら・・「こざさ」だったということを、今回初めて知った次第・・(注4))

注1)ジュリアンにとって、純吉が父であることは史実なのですが、純俊のほうは、伯父なのか大伯父なのか、ちょっとわかりません。Wikiなどいくつかのサイトでは、純吉と純俊が兄弟と書かれていますが、小佐々学先生が「純吉は純俊の甥」と書いておられますので、こちらを採用。

注2)キリシタン墓石の形状は、このように横に寝せたもの(西洋式の伏碑)だけでなく、実はいろいろあり、仏教のお墓のように立てた物もあります。特に隠れキリシタンのお墓は、仏教にカムフラージュする目的があったので、仏塔のような形をして十字を刻印したものなどが多くありました。あるいは、カムフラージュというよりも、そもそもイエズス会が日本で布教を始めたとき、仏教に溶け込む形で日本人の文化・習慣に合わせながら、キリスト教に導く方法をとったので(これは史実)、和風の立型が一番古いキリシタン墓石である、という説も最近出ているとのことです。なんと興味深い!詳しくはこちらなどで。

注3)小佐々氏は、近江源氏の流れをくみ、もともとは、今の佐世保市小佐々町を支配した一族なので、「小佐々」氏と名乗り、その後、今の西海市に移動して(大村氏の家臣となるため?)多比良に本拠地を構え、さらに中浦と松島にも城主を置いて、西彼杵半島一帯に広く君臨しました。

注4)小佐々学先生自身が書かれているページ(こちら)にも、「こざさ」とフリガナしてあります。小佐々氏の出処が、小佐々町で、これは確かに「こさざちょう」というので、私はずっと「こさざ」だと思い込んでいましたが・・・苗字としては「こざさ」なのですね。難しい・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新春の鎌倉で能楽三昧

2016-01-10 14:21:55 | 平清盛ほか歴史関連

土曜日、うららかな晴天の下、早朝より鎌倉に出かけました。

目的は、鎌倉能舞台のこの公演!!

当初は、午後の部のみ考えていたのですが、せっかくわざわざ鎌倉まで行くのだからと、午前の部も観ることにしました!!

9時半ちょっとすぎ、鎌倉駅に着き、タクシーで能舞台まで向かいました。

住宅街にある小さな能楽堂だと聞いていましたが、確かに、、、!

隠れ家レストランかと思うような、ひっそりとした、たたずまいです。両隣りは、普通の民家ですよ!

 (お隣さんが能楽堂だなんて、、、すごいと思いませんか?!Yukoさんだったら、毎日でも入り浸っちゃいますよね?!

座席数155です。国立能楽堂が627であることから考えても、いかにこぢんまりした能楽堂か、想像がつくでしょう

玄関を入ると、靴を脱ぎます。まるで普通のおうちに招かれているようです。

中へ入ってみると・・・舞台と客席がすごく近い!(床は、絨毯または畳です。椅子には座布団。指定席にはきちんと名前が書いてありました。)

鎌倉能舞台は、観世流シテ方の中森晶三さんが創設した能楽堂で、現在はその息子さんの中森寛太さんが主催者だそうです。

演目の前に、必ず解説があり、終わると、質疑応答の時間までもうけてあります。(私も一つ質問させていただきました!)

(なお、今でこそ定番となっている、この解説付き公演というスタイルは、中森晶三氏が初めて行ったとのこと。)

                                                                                                    

午前の部】

解説 (中森寛太)

狂言 『節分』 

節分の夜、夫が留守で一人でいる女に恋をした鬼が、なんとか口説いて侵入しようとするが、結局女から騙され、隠れ蓑と打ち出の小づちを奪われ、豆で追い払われてしまう。 鬼の可愛い仕草が面白かったです。

能  『巴』  <シテ(巴の亡霊): 中森寛太>

巴は、木曽義仲の愛妾で、怪力・強弓の美しい女武者として、、戦場の義仲にどこまでもお供をした女性ですね。しかし、琵琶湖の湖畔の粟津が原で、義仲が義経の軍に追い詰められ、いよいよ最期を迎えるとき、お前は女であるからどこへでも落ち延びよ。最期まで女を連れていたと後々まで言われたくない、と命じて巴を逃がそうとします。巴は、主君でありかつ想い人である義仲とともに討死にするのが願いでしたが、それも許されず、泣く泣く、義仲の最期を見届けて去っていきます。

この演目では、木曽からきた旅の僧らが、粟津が原で、巴の亡霊と出会うところから始まります。

神前で、涙を流す女がいるので、僧らは不思議に思い、訳を訪ねると、女は、ここには木曽義仲様が祀られているので、あなた方も木曽の出なら、供養をしてほしいといって、消える。僧らが、その女はきっと巴の亡霊だと確信しつつ、夜になって読経していると、巴の亡霊が今度は長刀を持ち女武者姿で現れ、義仲と共に戦った日々のこと、最期の瞬間のことなど詳しく語り、一緒に自害を許されなかったことに対する無念と哀しみゆえに成仏できないので、どうかこの執心を弔って欲しいと僧らに頼み、再び普通の女の姿に変わって消えていく。詳しい解説は、こちらなどをお読みください。

女性がシテになる演目で、武者姿で長刀を持つのは、この作品だけだそうです。しかし、鬼神のような女武者としての勇ましい姿よりも、一人の女性として、正妻にもなれず、最期を共にすることもできなかったが、それでもいつまでも義仲を慕い崇めるという、一途な心情が、細やかに表現されていました。装束もそれは美しく、長刀も男性のものとは違う優しい色合いの物でした。

派手な所作はあまりないので、私はつい何度かうとうとしてしまい、馬に乗ってムチを打つ所作など、大事なところを見逃してしまったのですが・・最後に、義仲の形見である小袖とお守りをもって、普通の女の姿に変わり、静かに去っていく巴が可哀想でした。僧に弔ってもらい、彼女の御霊は救われたでしょうか。

ちなみに、大河『平清盛』には、巴も木曽義仲も出てこなかったのですが、私は、『新平家物語』を読んだり大河『義経』を見て、いろいろと知り、二人のことが大好きになりました。義仲は美男子で女性好きであったので、周りにはいつも何人か女性がいました。そんな中、いろいろと忍び耐え、最期まで義仲について行こうとしたのに叶わなかった巴の心情に、あらためて想いを馳せました。

<YouTube上で観られる『巴』>

 能 巴の亡霊が武者姿で現れて僧に語りかける

 

 

午前の部は12:30に終わり、いったん外に出ます。

午後の部の私の席は、前から6列目の右から2番目。午前の席よりさらに前で、ぐっと舞台が近いです。おそらく、、、5メートルくらいでは?

とてもワクワクしてきました。

 

【午後の部】

解説 (中森寛太)

狂言 『清水』

主人から、茶の湯の水汲みを命じられた太郎冠者は、それがいやで、仕事をさぼるために、鬼が出たと騒ぎ、その上主人の大事な手桶をわざと置いてくる。主人が手桶を取りに行こうとするので、太郎冠者は先回りして、鬼の面をつけ、主人を脅かし続ける。しかし、結局声でばれてしまう。

午前の部の狂言より、ストーリー的に更に面白くて、何度も笑ってしまいました。なにせ舞台が近いので、演者の方の顔の表情や手足の細かい動きまでよく見えるのです。太郎冠者の、悪だくみを次々考えるずる賢い顔、まんまと騙されて、全身であわてふためく主人。狂言の楽しさを初めて体感しました。

そしていよいよ最後に、私が一番楽しみにしていた、本日のハイライト・・・・

能 『船弁慶』 <前シテ(静): 中森寛太  後シテ(平知盛の亡霊): 中森健之介>  

平家討伐を果たしたものの、頼朝に追われる身となった義経が、弁慶ら一行と共に、西国へ落ち延びようと、摂津の国大物の浦へ到着する。それまで伴ってきた愛妾の静は都に戻るよう、義経が言い渡す。別れの宴が行われ、静は義経の幸運を祈って舞い、再会を願いながら、悲しみをこらえて義経らを見送る。<ここで前シテ退場>

風が強いからと、船出を躊躇する義経を、弁慶が、戦のときは、どんな嵐でも船を進めたではないですか、さあ出ましょうと、励まして船に乗せる。義経は、実は静のことが心残りで出発したくないのを、弁慶はわかっていた。船が出ると、まもなく、暴風となり、船頭が必死に船を制御しようとするが、荒れ狂うばかりで、にわかに波間から平家一門の亡霊が現れる。<ここで後シテ登場> 知盛の亡霊が、長刀を振りかざし、船を沈めようと襲い掛かる。義経は刀で応戦するが、弁慶が、相手は怨霊だから、刀ではかなわないだろうと、数珠をもみ経文を唱え続ける。激しい攻防戦の末、明け方には、知盛の霊は調伏されて消え失せ、白波が残るばかり。(詳しくはこちら

小柄な前シテが、きわめて優雅に祈りと哀愁を帯びる舞をまって退場したあと、怨念に満ちた長身の武将の後シテが、長刀を振り回しながら、荒々しい舞をまいます。

この変化に、眠気もいっぺんにふっとびました。(ハイ、実は・・・静の舞のときは、しっかりうとうとして、あまり見ていませんでしたっ!) 

後シテを務めるのは、中森寛太さんの長男さんでまだ20代だそうで、若々しく迫力のある、怨霊知盛を演じていました。お面は、『黒塚』の後シテのような般若ではなく、怪士(あやかし)という、恨みをもって死んだ武将を表す怨霊面(詳しくはこちら)で、頭には兜を象徴する角が突き出ています。装束がまた豪華さの中にも大将の気品に満ち、白木塗のシンプルな舞台の上で、きらきらと輝くのです。

先にも書いたように、舞台がとても近いので、美しく勇壮な知盛様を目の前で実感できて、夢のようなひと時でした。

 

<YouTube上の「船弁慶」>

能 船弁慶 シテ 野村四郎 2002 杉並セシオン

 

                                                      

・・・・ というわけで、わたしの本格的能舞台初体験は、素晴らしい1日となりました。

(酷い風邪でダウンにもかかわらず快く送り出してくれた、ぱぱに感謝・・・

ちなみに、知盛ファンの私としては、彼が苦悩する「怨霊」(悪霊?!)として現れ、義経に復讐しようと暴れて結局弁慶にやられてすごすご退散というストーリー自体に、どこか引っかかるものがあるのです。

そのあたりから、更に突っ込んで語りたいのですが、長くなるので、今日のところは、鎌倉公演の感想ということで、ここでおしまいにいたしましょう。

超ビギナーのにわか勉強ですので、また皆さんからのご教示お待ちしていますね。

 

 

 

 

 

 

 


義狆「華丸」のこと(ジュリアン一族との深い絆!)

2015-06-29 14:10:11 | 平清盛ほか歴史関連

長かった戦乱の世が終わり江戸幕府が樹立されて間もない頃の、長崎でのお話です。

華丸」という狆の男の子がおりました。

華丸は、大村藩の藩主の家老として仕える立派な武士の愛犬でしたが、その武士は、主君が32歳という若さで亡くなったため、後を追って切腹しました

そして、お寺で武士の火葬が行われていると、華丸が涙して鳴き、なんと荼毘の炎の中に身を投じて武士の後を追ったのでした。1650年(慶安3年)のことです。

高潔な華丸の殉死を深く悼んだ家人らが、武士の墓によりそうように彼のお墓を建ててあげ、「義犬」と讃えました。

華丸のお墓は、武士のそれと並んで、現代でも大切に保存されています(お寺は、「本経寺」)。

史実に残る動物の墓としては日本最古のもので、平成16年に、国の史跡として指定されました。

                                                      

これは、私が先日帰省した折、長崎新聞の報道を読んでいて初めて知ったことです。

ここで、さっそくそのお墓の写真をアップしたいところでしたが・・・・時間の都合上、今回は本教寺を訪れること叶わず・・・私自身が撮った写真がありませんので、マイナビニュースのこちらの記事で、ぜひご覧ください(写真をクリックすると大きくなります)。なお、この記事中の「前親」の読みが「まえちか」とあるのは誤記で、正しくは「あきちか」です。

それで、長崎新聞の記事というのは、今年が華丸の365回忌で、あらたに華丸の石像が建立され、大村市が顕彰記念行事を開催するという報道でした

(出席したかったなあ!)。その可愛い石像は、こちら(長崎新聞のサイト)。記念行事のレポートはこちら

                                 

そんな立派で健気な狆が、長崎にいたなんて、それだけでも感動したのですが・・・この「武士」の名前を知って、私はさらに驚きました!

その武士とは「小佐々市右衛門前親(こざさいちうえんもんあきちか)」という方ですが・・・・小佐々氏とは・・こちらの記事で紹介した、中浦ジュリアンの一族です! 

ジュリアンの殉教は1633年ですから、前親と華丸の死はそれから17年後の出来事であり、前親が、ジュリアンに対してどういう関係にあったのかは、私が調べた限りではまだ分からないのですが・・・推測するに、従兄弟とか、あるいはその子とかではなかったかと?? 

ともかく、中浦ジュリアンの一族と狆との間に、これほどまでに深い絆があったということを知って、現代の狆愛好家の一人として大変嬉しくまた誇らしい気持ちでいっぱいになりました。

(この前親だけが、たまたま狆が好きだったのだろうか・・いや、中浦城の城内でも、ジュリアンの家族らに可愛がられていたのではないか、と私は想像するのです。というのは、前の記事にも書いた通り、小佐々氏は、強大な水軍をもって五島灘海域に君臨して南蛮と交易し繁栄していましたから、狆が南蛮船に乗って中浦の地に渡来した可能性は十分考えられるのではと・・・。)

それから、小佐々家と大村家との関係について少しだけお話しておきますと・・・

ジュリアン記事でも触れたように、日本初のキリシタン大名であった大村純忠(すみただ)の統治の時代から、小佐々一族は、その臣下として仕えていました

ジュリアンの父も熱心なキリシタンであり、純忠を守るための戦で、ジュリアンが2歳のとき戦死したのだそうです。

そのこともあって、純忠は、聡明なジュリアンを可愛がったということらしく、天正遣欧少年使節が計画されたとき、自分の名代として一員に加えたのでした。

純忠が55歳で病死すると、その嫡男喜前(よしあき)が後を継ぎ、豊臣、徳川の軍門として軍功を上げたため、「大村藩」として所領安堵され、この善前が正式に初代「大村藩主」となります。注1)

喜前も、もともと父と同じようにキリシタンであったわけですが・・・ 

家康が弾圧を強化するに至ると、速やかに棄教し、親しかった加藤清正の勧めにより、日蓮宗に改宗します。そうして、大村藩の菩提寺として本教寺を建立しました。

本教寺には、善前以降代々の藩主とその重臣たちのお墓があります(この頃になると、小佐々家もやむなく主君に追随して棄教していました注2)

華丸の主人小佐々前親の主君は、大村純信(すみのぶ)という人で、三代目藩主でした。

漢学者でもあった前親は、純信が幼少のころから傳役(もりやく)として仕えていました。傳役とは、いわゆる養育係のことで、人格としても学者としても立派な、信頼のおける人物しか任命されませんでした。ですから、この主君が、江戸に赴いた際、急死してしまったという知らせを受けて、前親は大変動揺し、主君を護れなかったことに責任を感じて追腹しました。

そして、その前親に命を捧げた華丸・・・

それぞれに、「主」(あるじ)に対する義を貫きました。

華丸の墓碑には、132文字にもおよぶ漢文の由緒書が残されており、「前親と華丸はお互いに親しんでおり、前親は、常に華丸を愛して膝元に置いていた。」

云々と明記されているそうです。この中に華丸の犬種は狆だったということも明記されているのでしょう。注3)

                                          

どんな狆だったのでしょうか。栗之介のようにミニ狆だったのか、光之介のようなワイルドでか狆だったのか、、毛吹きはどんなだったのか・・

いろいろ想像してしまいますね。

白装束に着替えた前親さんが、華丸を抱きしめながら、こう言います。

「わしは、殿のもとに参らねばならぬ。もうお前のそばにいてやれぬ。新しい飼い主のもとで、穏やかに暮らすのじゃぞ。」 

大きなお目々に涙をためながらも、何かを決心する華丸・・

中浦ジュリアンの人物と生涯でも明らかなように、小佐々家は「義の精神」を重んじる高潔な一族でした。

奉じる宗教は変わっても、その精神は代々引き継がれ、人間ばかりでなく愛犬たちのなかにも、その精神が宿っていたのですね。

小佐々家の子孫の方々の会「小佐々会」では、6月21日に本教寺において、法要と華丸像の除幕式をしめやかに営んだそうです。

私も、お正月の帰省の際は、ぜひとも、本経寺を訪れて、華丸の墓参りをさせていただきたいと思っています。

 

注1 ですので、大村純忠の時代はまだ「大村藩」ではなく「大村氏」だったのですね。「藩」は江戸幕府が決めたものなので・・・私もそのあたり、混乱していました。

注2) ちなみに、天正遣欧少年使節のジュリアンの同僚千々石ミゲルは、この喜前の従兄弟です。

ミゲル自身いろいろあって、キリスト教に醒めていたころ、喜前が棄教したので、一緒にさっさと棄教してしまい、その後は、ふたりとも弾圧側に回ります。

それを知ったジュリアンは、絶望のどん底に叩き落とされた・・・と『小説中浦ジュリアン』にも書いてありました。

それから、喜前は、Wikiによれば、迫害を恨んだキリシタンにより毒殺されたのですって!(キリシタンがそのように仕返しをしたというのも驚きですが・・・) 

なお、上記では小佐々家が大村家に「仕えた」と簡単に書きましたが、両家がどのように関わり、その中でジュリアンがどう考え、行動したのか・・・などについては、また別記事で語るつもりです。

今日の記事の主役は、華丸と前親さんでしたので!

注3) このような碑文でも分かるように、義犬華丸のお話は単なる「伝説」レベルのことではなく、史実であり、ジュリアンのことなどと並んで、小佐々一族の大切な歴史の1ページとなっているわけですが・・・

「小佐々会」の代表を務めておられ、著名な獣医学者でもある小佐々学先生の「日本愛犬史 ヒューマン・アニマル・ボンドの視点から」という大変興味深い論文がこちらで全文読めます。全国の犬のお墓(犬塚)をつぶさに調査し、伝説か史実かに分類して、詳細に論じておられます。

華丸の墓碑について、p.13 に詳細がありますので、読んでみてください。 

佐々木先生によれば、この碑文は、「前親の高弟が選じたもので、『孟子』を引用した格調高い漢文で、前親と華丸の日頃の親密な交情が見事に活写されている。」とのことです。

 <やっとテンプレートをオリジナル写真が使えるのに変更したのですが、、、肝心の本文欄が見づらくてすみません。なお、現在の写真は、下関の壇ノ浦の海です!>

 

 

 

 

                          

 

 

 

 

 

 


中浦ジュリアンのこと(郷土史再発見)

2014-09-10 14:42:02 | 平清盛ほか歴史関連

『軍師官兵衛』36回・・

遂に秀吉が「伴天連追放令」を出し、キリシタン迫害が進んでいきます。

キリシタン大名のリーダー的存在であった高山右近は、主君より信仰を選び、マニラに追放されてそこで死去。そして、官兵衛は、信仰より主君を選んで、心の奥底はともかくも公的には棄教・・平たく言えばそういうことになるかと思いますが、いろんな状況を考えた結果、入信後わずか7年で棄教せざるを得ず、「私は弱い人間です。」と自分を責める官兵衛。すると右近が「人にはそれぞれ、デウスから与えられた使命というものがあります。それを全うして下さい。」と励ましたのが、大変感動的でした。あなたはそれでいいのです、軍師として戦乱の世を終わらせるのが使命だから、その道を生き抜きなさい、という意味ですよね。

私自身は、クリスチャンでもないし、ブログ上で、宗教という極めてプライベートな問題を談じるのが目的ではないのですが、ただ、長崎は、苦難のキリシタン弾圧の歴史とともに歩んできましたから、長崎人として、そのあたりのことをちゃんと知っておきたいと思いまして、調べたり本を読んだりしているので、感じたことをお話ししたいと思います。

とりわけ、この本は衝撃でした。

西海の聖者 小説 中浦ジュリアン』 (濱口賢治 葦書房 1998年) 

 

中浦ジュリアン

16世紀半ば(戦国時代)に、肥前国中浦(現在の長崎県西海市西海町中浦南郷)の領主の子として生まれる。10歳頃にキリスト教に入信し、大村藩主で日本初のキリシタン大名であった大村純忠に仕えました。

14歳頃、「天正遣欧少年使節」の一人としてローマへ赴き教皇に謁見。22歳ころ帰国し、イエズス会員となり精力的に布教活動を行うのですが、帰国後の日本は急速にキリシタン弾圧へと向かっており、他の司祭や宣教師らが次々と死亡したり棄教したりするなか、一人潜伏しながら九州各地を20年にわたって回り、迫害下の貧しい信者たちの心の支えとなります。1633年に遂に小倉で捕らえられ、長崎の西坂にて「穴吊りの刑」に処せられ殉教。没年65歳。2007年に法王庁により福者に列せられる(こちらのニュース)。

天正遣欧少年使節団が長崎港を出港したのは、1582年2月。信長の全盛期で、本能寺の変の4か月前だったのです。

織田信長は、平清盛と同じように、進取の気性に富み、異国との交易に積極的だったため宣教師たちの布教活動も保護したので(注1)、天正遣欧少年使節というのは、そういうイケイケムードの中で、日本国の未来のため、大いなる希望を持って実行された一大プロジェクトだったわけです。8年以上もの途方もない年月を費やして苦しい航海をして立派に勤めを果たし、ようやく帰国してみれば、権力者が交代しており、悲劇の生涯が待っていたのです・・・。

私が、天正遣欧少年使節、とりわけ、中浦ジュリアンに思いを馳せてしまうのは、実は8月に帰省したおり、思いがけなく、ジュリアンゆかりの地を訪れたからです

義父の一周忌を無事終え、義兄の家族らと、近隣のリゾートホテルのカフェでお茶を飲もうということになり、車で出かけたのですが、道すがら「中浦記念公園」という標識がふと目に留まり、その瞬間、中浦とはあの少年使節の中浦ジュリアンのことでは?!という思いがよぎりました。それで、カフェから帰る途中に夫と一緒に立ち寄ってみたのです。そここそが、西海市西海町中浦南郷、すなわちジュリアン生誕の地であったのです。つまり、中浦ジュリアンは、夫の郷里(同じ市内の隣町になりますが)で生まれていたのですね・・・!

何の変哲もないのどかな田舎の畑の脇道に、「公園」と呼ぶには、あまりに小さいのですが、不思議な神々しい雰囲気の一画がありました。

無人の資料館の中に入ってみると・・・ジュリアン直筆のポルトガル語の手紙や、年表などが展示されており、壁にはジュリアンの生涯を描いた美しい壁画が。

殉教のシーンです。この「穴吊り」については後述します。

 

資料館の屋上からは、五島灘が一望できるのですが、そこにブロンズ像のジュリアン少年が立っています。手を挙げて指さしているのは、遥か彼方のローマの方角だそうです。まさにこの地から、彼の大きな志が起こったのだなと思うと、胸が熱くなりました。

こちらに、もっときれいな写真と説明があります)

そのリゾートホテルへの道は、今までだって、何度か通っていて、「中浦記念公園」の標識はその度に目にはいっていたはずですが・・・今までは全く気にも留めていなかったのです。なのに今回は、まるでジュリアン様から呼ばれたかのように、ぐいっと心引かれるものがありました。

帰省から戻って、「小説中浦ジュリアン」を入手して、一気に読みました

中浦ジュリアンという人の人物像が深く掘り下げられ、彼の心の奥底まで美しい文章で綴られているのはもちろんのこと、時代背景や当地の情勢についても大変詳しく、私にとっては、驚きの事実がいっぱいでした

ジュリアンは洗礼名ですので、もともとの名前は「小佐々甚五」といいました。

小佐々氏は、南蛮との交易で大変栄えた裕福な戦国領主で、強大な水軍を有して五島灘海域を広く統治していました。甚五は、城主の後継ぎとして大切に育てられていましたから、キリシタンにさえならなかったら・・・いえ、なったとしても、無難に跡継ぎとなりキリシタン大名として地元に君臨し続けていたなら、裕福で穏やかな一生だったでしょう。少なくとも、あそこまで過酷な茨の道を歩むことはなかっただろうと思うのです。

後継ぎとはならず、イエズス会の修道士、さらに司祭となって、彼が生涯の信念としたのは、貧しい民の心に寄り添うということでした。秀吉の理不尽な圧政下で苦しい生活を余儀なくされていた農民たち(注2)の声を聴き、そんな不平等、不公平に泣く哀れな民のためにこそ、神の愛、キリストの教えがあるのだと信じて、自らの身の危険も顧みず、九州各地の農村を精力的に回ったのでした。

また、日本の民の魂を救うには、通訳を通してポルトガル人宣教師の言葉を聞かせるのではなく、同じ日本の魂をもつ者が日本語で語らねば、神とキリストの真の教えを伝えることはできないと考えたからでもありました(農民たちの苦しみ悩みを聞いてあげるにしても、彼らの強い方言ゆえに、通訳がうまく機能しないという問題もあった模様です。)

ジュリアンとともにローマへ行った千々石ミゲルが、早々と棄教し、ポルトガルによるキリスト教の日本布教は宗教を掲げた侵略行為だと、公然と言ったときも、ジュリアンは反論しました。侵略なんて、棄教を正当化する詭弁だ。もし仮にポルトガルにそんな意図があったとしても、それならなおのこと、日本人宣教師らが、本来の真正で普遍的な神の愛・キリストの愛を説いて回らねばならないのではないか・・・と。そして日本人神父として自分がたった一人になってしまっても、命の限り闘い抜くと決意するのでした。

百姓や僧侶などの姿に変装するなどして、地に這うような潜伏活動、いわる隠れ布教を20年間も続けたジュリアンは、ついに小倉で捕えられるのですが(注3)、その場面はこうです。貧しい童子が、いじめられた挙句川で溺れそうになっているところを通りかかるのですが、そばに役人がいるのを察知して、一瞬草むらに隠れます。しかし、「目の前の童子一人の命を救えずして、何が神の愛か!何が義に生きることか!」と思って結局僧衣を脱ぎ捨てて川に飛び込み子供を助け、潔く連行される・・・。なんともジュリアンらしい終焉でした。

小説だからかなり脚色あり、といってしまえばそれまでですが、膨大な史料に基づき(注4)、優れた作家により生き生きと綴られているジュリアン像ですし、彼の生涯の軌跡を考えれば、おそらくこのようなことがあったのでは、と思わずにはいられません。

小倉からすぐに長崎に送られ、さらに1年も投獄されて執拗に棄教を迫られてもなお、穏やかに笑みを浮かべ拒否し続けたジュリアンは、望んでいた十字架による磔刑ではなく、「穴吊り」という、きわめて惨めな方法で処刑されることになりました。これは、体を縄できつく縛り、汚物などを入れて異臭をきつくした穴に宙吊りにして放置するのですが、その際できるだけ苦痛が長引いてなかなか死ねないように処置をします(頭部に溜まる全身の血が少しずつ体外に出るように、耳たぶなどに穴をあける。その方が死ににくい)。ジュリアンは、65歳の老体でこの酷い拷問に3日間も耐え抜いて、立派な殉教を遂げました。

冒頭にも書きましたように、この記事の目的は、特定の宗教指導者の生涯を讃えることではないのです。ただ・・・現代ではよくも悪くも長閑な田舎(ひなびた僻地!失礼!)にすぎない、私ら夫婦の故郷西海市が、450年も昔は、立派な戦国領主のもとで大変繁栄し、その由緒ある血筋の城主の子が、崇高な志をもって信仰と、義と、愛を貫き、日本人の魂救済のため命を捧げた・・・ということを初めて知り大変感動したので、語りたくなりました。郷土の歴史再発見、しかも大発見というところでしょうか。

さらに、遠藤周作の『沈黙』との関連など、もっと書きたいことはあるのですが、果てしなく長くなるので、本日はここまで。

お時間割いて読んでくださってありがとうございました。

注1)     いわゆる源平交代思想というやつで、織田は平家の流れをくむと言われています。真偽のほどは別として、信長に、清盛のような、異国への強い思いがあったのは確かなようですね。

注2)     秀吉の朝鮮の役のために、夫や兄弟が雑兵として駆り出され、年貢は苦しく、農民たちの生活はどん底だったのです。

注3)     当初、外国人宣教師らと一緒に回っていたのですが、彼らはその背丈や容貌ゆえに人目を引きやすいため、探索が厳しくなると、ジュリアンが一人で信徒のところを回らざるをえなくなりました。50代、60代で、徒歩でどこまでも出かけていき、大変強靭な体力だったようです。

注4)     小佐々一族に関する史料や系譜は、江戸幕府下で闇に葬られていたのですが、近年になって直系の子孫の方が発掘と調査研究を進められました。その成果と、ローマのイエズス会に保存されているジュリアンに関する宣教師たちの記録などをもとに、初めて解明されたジュリアン像が、この本なのです。著者の濱口賢治氏も、西海市出身の方です。素晴らしい本を書いてくださったことに感謝です。

追記) こちらの、「羊たちのためにいのちを差し出す」というカトリック新聞の記事にも、ジュリアンがなぜそうまでして潜伏活動を続けたのか、ということについて書かれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


栗兄ちゃんの日

2014-06-27 12:26:39 | 平清盛ほか歴史関連

昨日26日は、栗之介がお空に引っ越した日でした。もう8年になります。

(2004年5月。。つまり栗が6歳8か月。恵が1歳11か月)

我が家の狆史(というか、犬史)は、すべて栗之介から始まりました!

そもそも、夫婦して猫派だった我が家が、なぜ、犬を、しかもワンコ初心者のくせいきなり狆を求めたのか・・

以下既にお話ししたこともあったかもしれませんが、栗兄ちゃんの日なので、あらためて聞いてやってください。

私は、人の言葉に非常に感化されやすい人間です

平成年度に入って間もなく、アパートから戸建てに移って以来ずっと、コンパニオンアニマルが欲しいと思っていたのですが・・・

犬好きの友人が、私の運動不足を気にかけてくれて、軽い気持ちで、「あなたも犬でも飼ったらどうかしら?散歩で外に出るから適度な運動になるし。」と言ったのです。

えっ、犬?!犬・・・・いぬ・・・

それからです・・・どういう犬がいいかというリサーチが始まり・・・といっても、ネットなどなかった時代ですから、本を数冊買って犬のことを勉強しました。

でも、ぱぽはやっぱり猫がよかったようで、私が急に犬、犬言いだしても、まったく乗ってくれませんでした。私はしつこく、なにかにつけ、わんこを飼おうよとせがみました。

そんなある日、近所の本屋さんでみつけたのが、愛犬の友シリーズの「狆」。コーヒーカップやスリッパにすっぽりはまった可愛らしい子狆の写真にすっかり心を奪われ、こんな可愛い生き物がこの世にいたのかと、愕然としたのです。それからはもう、狆一直線でした。

ただ・・どこで狆を探したらいいのか、わからない。

そう思っていた矢先・・・市内のタウン情報誌に、ペットショップの広告が載っていて、「自家繁殖・・・シーズー、狆、ポメラニアン・・」とか書いてあるのをめっけ

さっそく電話したところ、今ここにはいなくて、これから生まれるので、予約して欲しいとのこと。

そのショップに行ってみたら、、老夫婦が経営する小さくてあんまりきれいじゃない感じのお店でした。

言われるまま、「狆 オス 1匹」と予約し、数か月待つと・・・「10月初めに生まれるので、3か月くらい経ったら引き渡せる」との連絡。

これが、栗之介との出会いだったのです。

12月にショップに初めて会いに行ったとき、ケージにぴったりとお顔をくっつけて、じっと私を見つめてくれた栗のつぶらな瞳が真剣で・・・「はやく、ぼくをお家へ連れてって」

これからこの子の親になるんだという喜びとともに、責任感が湧いてきましたねぇ・・・。

実は、びっくりするほどの値段でしたが(はっきり言って、ぼったくり価格)、ぱぱは何も言わずに即キャッシュで払ってくれました。

今考えてみたら、近所の書店によりによって狆の本があったのも、それからすぐタウン誌で「狆」の文字を見つけたのも、すべて栗が我が家に来ようとして準備してくれていたのでしょうね。

ありがとう、栗くん!!!ショップのぼったくりオヤジさんにも、感謝!

不思議ですね、狆とのご縁って。

皆さんは、なぜ狆だったのですか?

 

 

 

 

 

 

 


大河ドラマのセット・小道具を見学!

2014-05-28 16:08:46 | 平清盛ほか歴史関連

現在放送中の大河ドラマ『軍師官兵衛』。皆さんご覧になっていますか~?

いよいよ手に汗握る展開になってきましたね・・・・

黒田官兵衛は、織田信長に謀反を起こした荒木村重の説得に失敗し、有岡城地下の陰惨な土牢に、1年にわたって幽閉されます。

この土牢のセットが、今東京のNHKスタジオパークに於いて展示されていまして、私も先週の土曜日(24日)に見学してきました!

軍師官兵衛ドラマセットの世界

混雑しているかなと思っていたのですが・・・まったく空いていまして、スタッフさんがいろいろ説明してくれました。

これが、土牢です!縦方向から中を見られるだけでなく、このように自由に中に入って、撮影したり触れたりすることができます。

まさにここで、岡田準一さんが迫真の演技をしたのだなあーーと、感激し恐れ多くなりながら、遠慮なく写してもらいました。

幽閉時代の着物は3着あるそうで、これが一番汚くなったときのもの。

木の格子の側からも写してもらいました。ちょっとブレブレですが、雰囲気は伝わるでしょうか・・・

光くん、助けてぇ~~~~

ところで、この格子、十字になっていますね。。。

それから、官兵衛を励まし続けるように美しく咲く藤の花が見える小さな明かり窓がありますが・・・

この枠も十字になっているのがよくわかりますね~。

これは、辛い幽閉時代を経て、官兵衛がキリシタンになることを示唆する伏線の意味があるのだそうです

25日の放送では、この窓がキーポイントみたいにいっぱい出てきましたから、前日にこの説明を聞いてきてよかったな~~!とほくそ笑みながら見ちゃいましたね。

窓の外から見るとこうなっています。

この土牢のデザインについて、軍師官兵衛の美術チーフデザイナーさんの詳しい解説があります(こちら)。< 注へ>

高さ×奥行×幅が、1.35 × 1 × 1.35mとのことですが、その中に岩がごつごつと張り出しているため、岡田さんが足をのばして寝ることすらできない狭さになっています。

こんな、劣悪、凄惨な地獄の環境に1年も閉じ込められるなんて、肉体的・生理的・精神的拷問ですよね・・・・(史実は、もしかしたらもっともっと恐ろしいものだったかもしれませんよ・・・・)

村重の妻だしや、心優しい牢番の支えがあったとはいえ、ここから復活するなんて、官兵衛の精神・肉体両面の強靭さはいかばかりだったろうと、驚かされます。

ただ一言、村重に味方する(織田を裏切る)と言いさえすれば、この地獄から解放されたでしょうに、「どんなに裏切られても絶対に裏切らない」という高潔な信念が彼を支えたのでしょうか!

こちらは、合戦場の本陣。

あと、姫路城の広間などありまして、展示物の数としては予想より少なかったですが、土牢だけでも見応え十分ですっかりテンションが上がりました~。

この「スタジオパーク」という建物には、他にも沢山見学できるところがありまして・・・歴代の大河ドラマと朝ドラの小道具や衣装なども展示されています。

朝ドラ「花子とアン」の特別展。

タイトルバックでアンがかぶっていて花子に渡る可愛い麦わら帽子ですね!こんなの欲しい~~

そしてそして・・・・・官兵衛展以上に私が興奮したのは・・・・

ドラマライブラリーというフロアにある、『平清盛』の小道具3点!

(ドラマライブラリーは、歴代の大河ドラマと朝ドラの小道具、衣装、資料などを展示するコーナーです。)

1.【清盛のサイコロ】

『平清盛』の全話を通して、最も重要な小道具のひとつであった、清盛のサイコロです!

2.【鹿の角で作った髪飾り】

魔除けでもある鹿の角は、清盛の生母舞子と忠盛との絆を表す小道具でした。

舞子を大切に想い始めた忠盛が、舞子に鹿の角をプレゼントし、彼女が嬉しそうに髪に飾るシーン(『平清盛』1回DVDより)。

この直後に舞子は捕われ、白河院の手にかかって、忠盛と赤子清盛の目前で殺されます。

.【清盛の指輪(こちらも鹿の角でつくったもの)】

清盛の指輪とは、皆さん気付いておられたでしょうか。

「平清盛を引き続き楽しむ集い」掲示板でも話題になっていまして、sswさんが「小道具インデックス」でこのように紹介してくださいました。

清盛の右手親指にはめられていたもの。弓の矢を引くための取っ掛かりで松ケンの発案だそうです。鳥羽院とのエア弓の時、「神輿を射たは、わざとか?手違いか?」と問われた時、清盛は手のひらのサイコロを握り締める。キリキリと。緊張感の中、この白い指輪が目立ってました。そして「嵐の中の一門」いわゆる血曼荼羅の回では、大日如来に筆を入れる直前、逆光の中で右手からそっと指輪を抜き取り盛国に渡す。こんな細かい演出も。また後白河と対峙する場面でも見られました。」

弓をひっかけるための指輪・・・松ケンさん自身のアイディアで、清盛は最初の頃、この指輪を常につけていました。つまり、あの宋剣と並んで、清盛の武士としての自覚と誇りの象徴だったのです。ですから、「平氏」が「平家」(公卿)になり、武門としての心を忘れていくと、清盛はこの指輪を外してしまいます。

このように、本当にちっちゃいながらも、見過ごしてはならない大切な小道具でした。

サイコロを握りしめる清盛の右手(DVD13回)。

神輿めがけてわざと矢を射たのか、単なる手違いか、という鳥羽院の問いに、どう答えるかでその後の平氏の運命が決まる、といってもいいほどの重要な瞬間でした。

賭けに出た清盛は、「わざとにござります!」とはっきりと答えます。

この返答を待っていましたとばかりに、鳥羽院は、「朕を射てみよ!」と清盛に挑むのです。三上博史さんのシュールな鳥羽院も素晴らしかったですね!

なお、こちらは宋剣のデッサンだそうです。絵ではなくて、実物見せてくれよ・・・と思いましたけどね。

あああ~~~~この記事を書くためにまた『平清盛』のDVDを見返していたのですが、放送から2年が経過してなお、心捉えて離さないドラマです!

官兵衛も面白いし、八重もよかったけど・・・、やっぱり私にとって『平清盛』は別格なのです。

ほかにも、『義経』で、松平健さん演じる弁慶が履いていた下駄だとか、こまごまとありましたが、『平清盛』の3点を見られただけでも、来た甲斐があったと大満足。

ちなみに、、ランチは、館内のスタジオカフェに行ってみました。

官兵衛にちなんだ「軍師官兵衛御膳」、花アンにちなんだ「甲州ほうとう」、そして「ごちそうさん」にちなんだ「昔ながらの洋食セット」、という、ドラマがらみのミーハーなメニューがあって、もちろん

官兵衛御膳にしました! 

官兵衛が築城して初代藩主となった中津城にちなんで、大分の食材でつくった膳だそうですが、鯛のゴマたれあえをご飯のにのっけて、だしをかけるお茶漬け、ふわふわのてんぷらなど、大変美味しく頂きました。

この官兵衛ドラマセットの世界は、6月22日まで。花アン特別展は、6月8日まで。ドラマライブラリーは常時展示。月曜は休館です。

アクセスも良いです。渋谷のマークシティ前の2番バス乗り場から、NHKスタジオパーク行き直行バスが出ていて、このバスがNHKの敷地内まで入っていきスタジオパークの建物のすぐそばで止まります(10分ほどです。スイカで206円)。

なお、スタジオパークに入るのに入場料が要るので最初びっくりしたのですが・・わずか200円。展示物の見応えを考えれば安いものだと思いました。

大河ドラマや朝ドラのセットや小道具って、どうなんでしょう・・・使い回しできるものは使ってはいるでしょうが、大半が、1回限りで終わったらさっさと破棄しているのでは?

もったいない話です。入館料がもっと高くてもいいので、展示物の数をもっと増やしてほしいものだと思いました。 

さて、『軍師官兵衛』、次回は早くも?!有岡城落城で、官兵衛救出です。逃亡する村重に見捨てられ、処刑される運命にあるだしのことも大変気がかり・・・今後の展開が楽しみですね。

 注>

土牢の解説は、3ページあります!

「有岡城 土牢①」と「有岡城・土牢②」、さらに、②を一番下までスクロールすると「写真で見る、有岡城・土牢ができるまで」をクリックして開けるようになっています。