何年ぶりか?の大河ドラマについての投稿です。
「鎌倉殿の13人」も、あと6回を残すところのみとなり、いよいよ、源実朝の暗殺~承久の乱~北条義時の最期というクライマックスへと突き進んでいきますね。
恥ずかしながら、私は、鎌倉時代のことは殆ど無知でして、、、北条義時?どういう人?主人公になるほど何かいろいろやった人?ともかく、やっとまた中世をやるんだな~~久々に源平合戦を見せてくれるとのことだから、楽しみだな~~くらいの気持ちで見始めたわけですが、、、回が進むにつれ、あまりの面白さにくぎ付けになり、今ではもう「平清盛」と並ぶくらい愛する大河になっています。
平家は、武士の世の基盤を作りました。武士がまだ貴族の用心棒でしかなかった時代からだんだん台頭して大きな力をつけ、公家と並んで中央政界を牛耳り、さらに、天皇家の外戚になる、つまり朝廷に組み込まれ同等のランクになることで、頂きに立ったわけですが、源氏そして北条氏は、鎌倉という新たな土地において、平家の作った土台の上に、幕府という組織を作ります。朝廷とは、当初はつかず離れずで、協力体制も見せますが、実朝の死去により、関係が冷えてしまい、ついに決定的対立となる(承久の乱)。結果、朝廷側を打ち負かして上皇らを追放。武家と朝廷の力関係を逆転させるほどまで強大化して、江戸時代まで続く武家政治体制を確立する。簡単に言えばこういう把握でいいんですよね?
つまり、平清盛がいたからこそ、頼朝も義時もやりたいことができたわけで、そういう意味で「平清盛」のいろんな名場面、名台詞に表された、武士の時代黎明期のスピリットが、この「鎌倉殿の13人」に引き継がれているように思われてなりません。そういう意味で、私には大変感慨深いです。
たとえば、、、
「鎌倉殿の13人」では、頼朝が弟らを殺したり、義時が父親を追放したり、という血縁間の悲惨な争いが一つの大きな鍵となっています。つまり、親兄弟でも、追い落としたり殺したりしてでも、自分が力をつけていかねばならない、それが武家の頂点に立つ者の宿命だ、ということですよね。この精神の原点が、「平清盛」にありました。それは、頼朝の父である源義朝が、その父為朝から、このような言葉をかけられる場面です。
「義朝、我が首をはねよ。源氏の棟梁の証の、この太刀で。親兄弟の屍の上にも雄々しく立て。それが、お前の選んだ道。源氏の栄華へと続く道じゃ。」
どういう状況かをざっと説明するとですね、、、
平治の乱において、義朝と為朝(および弟5名)は、袂を分かつことになり、義朝は後白河天皇側、為朝と弟らは崇徳上皇側について戦います。崇徳側が負けたので、義朝は、後白河の命により、為朝と弟らを斬首せざるをえなくなります。そんなことはできないと苦しむ義朝に、父がかける言葉がこれでした。私はこの放送の時は、こんなことがあるのかと大きな衝撃を受け、脚本の藤本有紀さんってすごいなーと強く印象に残ったわけですが、それでも、この台詞の真の意味、すごさが分かったのは、「鎌倉殿の13人」を見てからです。
「親兄弟の屍の上にも雄々しく立て!」特にここのところが、胸打ち震えるほど大好きです!
自らが大きくなるためには親兄弟の命も犠牲にする、といえば、この悪党!という感じですが、親兄弟の屍の上にも雄々しく立つ、といえば前向きでポジティブで、めちゃくちゃかっこいいです。
さらに言えば、、、
義朝がまだ迷うままに刑場に向かうとき、わずか9歳だった頼朝(幼少名:鬼武者)が、義朝に同行することになるのですが、それは、義朝の正室である由良御前が、「殿が大殿をお斬りになることとなった。そなたもその目で見てくるがよい。」と、彼に言ったからでした。母に命じられた通り、頼朝はすべてをその幼い目と心に焼き付けます。なんてスパルタな母だろうとぞっとしたのですが、、、こうして幼少期より、源氏の棟梁たるものの覚悟を植え付けられた頼朝だからこそ、あのように非情な身内粛清もできたのだなあと、「平清盛」「鎌倉殿の13人」の繋がりに思いを馳せてしまう私です。
(なお、義朝は結局父と弟を斬ることができず泣き崩れてしまい、彼の第一の忠臣である鎌田正清が代わりに太刀を下ろすことになり、そのすべてを頼朝は目撃しました。義朝が斬れなかったということも、頼朝が見ていたということも、たぶん藤本さんの創作だとは思いますけどね、実によい場面でした。)
さらに話はそれますが、「鎌倉殿の13人」41回の和田合戦の回で、義時が、実朝に、戦場へ出向いて和田義盛を説得してくれるよう依頼する場面。実朝の乳母である実衣は、流れ矢が当たったらどうするのだと猛反対しますが、政子は、源氏の棟梁たるもの流れ矢など恐れてどうする、自分の目で戦場がどんなものか見てきなさいと、きっぱり言い放ちます。さすがは北条政子!武家トップの母として息子をとことん鍛える、という気概が由良御前と重なるなと思って、ぐっときましたね。
(もっとも、実朝くんのほうは、母の言葉の意味よりも、仲良し義盛を助けたいという一心が大きすぎて、結果、まんまと義時に利用されましたが・・・)
ともかく、三谷幸喜さんはおそらく、「平清盛」へのオマージュを意識して書いておられる部分が随所にあるのではないかと思っている次第です。
それから、もうひとつ!
「鎌倉殿の13人」42回で、北条泰時が、実朝に向かって首を垂れ「鎌倉殿のためにこの身を捧げます。」と神妙に言う場面がありましたね。あれはつまり、北条に生まれた者として父親に従うことは後回しで、鎌倉殿に忠義を誓い命をも捧げます、鎌倉殿ファーストですよ、ということですが、「平清盛」でも、鎌田正清が、自分の父親通清にこんなことを言います。
「親子より主従!」
あまりに素朴で単刀直入な一言ですが、、、それだけに心に突き刺さります。これはですね、実は、義朝にどこまでも付いていきたいと思いながらも、父のことが気がかりで躊躇している正清の心を思いやった通清が、わざと正清に、義朝の悪口みたいなのを言うのですね。それで、正清が猛反発して、義朝とともに行く決心をするという場面だったと、記憶しています。
状況は大きく違いますが、親と離れてでも、この人だと決めた自分の主に忠義を尽くすという、当時の武士の精神をよく表していると思います。
ちなみに、正清は言葉通り、義朝と最期を共にします。ふたりが身を隠した正清の縁者の館で裏切りに遭い、雪が降りしきる庭で、太刀で互いに胸を刺し違えて絶命する場面、美しすぎました!
「鎌倉殿の13人」では、義朝の最期には触れず、伊豆で20年にもおよぶ流人生活を送りながら、父の仇を打って平家を倒すという悲願を心の支えとして頑張る頼朝が、北条と結びつくところからスタートしたわけですが、彼がついにその悲願を達成し、清盛の息子宗盛と対峙したとき、「不思議なものだ。わしは憎しみをみじんにも感じなかった。むしろ清盛への感謝の気持ちが湧いてきた。」みたいなことを言っていましたね。宗盛を処刑したくない気持ちはやまやまだが、そういうわけにもいかないから、、、と。自らが生かされたことへの清盛への感謝の言葉が、頼朝の口からはっきりと聞けて、それだけでも本当に嬉しく思いました。加えて、宗盛と義経の温かい心の交流も描かれ、よかったです~~!
武士の世を作る、という清盛の志を、源氏が、そして北条が立派に引き継ぐ。
「鎌倉殿の13人」の解説、感想については、YouTubeやSNSで山のような投稿がありまして、大変盛り上がっており、歴史に詳しい方も多いので、私などが語るのもおこがましすぎるのですが、「平清盛」からの流れという視点で個人的な感想をとりとめなく書いてみました。
長くなったので本日はここまでにいたしますが。。。
あの~~最後にこれを言いたいのですけどね、第42回「夢のゆくえ」に出てきた実朝さんの宋船、あれは、、清盛の撮影のときに作った船じゃないですかね?大きさといい、形と言い似てるなあ。
こちらにもある通り、清盛の船は、「おんな城主直虎」でも、見事に使いまわしされていました。今回も、宋船と聞いただけで即、あ、またあれを使うなと思いましたよ。そうだったら、嬉しいな・・・
というわけで、これからも、なんとか時間をみつけて、少しずつ語りたく思っています。
この原稿実は第43回「資格と死角」を見た時点でほぼ書き上げていたのですが、実はその後ちょっと体調を崩してしまったため、アップが随分遅くなりました。
以前私は大河ドラマ関係の記事を書いていたとき、テレビを録画したものやDVDの画像をカメラで写してその写真をじゃんじゃんこのブログにアップしていましたが、今回あらためてNHKのサイトを見ていたら、次のように明記されていますので、写真をアップすることは今後控えようと思います。写真がないと寂しいんですけどね、、、代わりにYouTubeで何か資料になりそうな動画など探してリンクするしかないみたいです。(その分、文章を充実させるようがんばります。)
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