波佐見の狆

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牛久の星!

2017-01-31 11:41:24 | Miscellaneous

牛久の輝く星、稀勢の里関! 初優勝&横綱昇進、本当におめでとうございます!

市役所の垂れ幕。

我が家が、遅くとも5年以内にはこの牛久を去りUターンすることは、90%確定していると言っていいのですが・・・

「牛久での楽しい思い出」を反芻するのも、老後の楽しみの一つになるだろうと思っています。

そういう意味で、パレードを心から楽しみにしていたのです。

・・・が!!!!!

その日付が、なんと2月18日(土)に決まったと!!

よりによって、2/18にやるかぁ・・・・

だって、私はその日牛久にいないのです。。。。佐世保なのです。。。

父の命日で三回忌ですから。

はああ・・・がっくり。

もちろん、これからも何度も優勝してそのたびにパレードやってくれれば(きっとやってくれるから!)、今回見逃すからといって、そんなに落ち込まなくてもいいかもしれませんけど、やっぱり初優勝で横綱になったときって、縁起の良さは格別ですよねえ・・・

そのうえ・・・追い討ちをかけるように??

これも!

市役所で、写真を見て、その帰りすぐ2つのコンビニに寄って探したのですが、全然なかったので、あれえ???まだ発売してないのか、それともまさかのもう売り切れ??と不思議に思い、ほんの数日間油断していたら・・・・・コンビニではなくて、スーパーで派手に売りまくってたんですね・・・うちのすぐ近くの「カスミ」の特設コーナーの様子がテレビに出ていて、翌日行ってみたけど、あっけなく「完売」の立て札が立つのみ・・・・

アマゾンでもとっくに売り切れて再入荷の目処も立っていないらしい。。。。んっ、いやあ、今見てみたら、再入荷してるんだ!こちら。だけど、1箱(12個)も要らないし・・どうしようかなあ。たぶん、ほとぼりが冷めたころに、またカスミにも並ぶでしょう。バカ売れしているらしいので、メーカーも増産するでしょうしね。もうちょっと様子みてみようかな。

ラーメンはいいんですっ。

パレード・・・・見たかった・・・ぐすん。

でもね、いつも陽気で賑やかなことが大好きだった父ですから、その命日2/18が、こんな晴れやかな行事で記憶される日付になるっていうのは、ステキなことです。稀勢の里関に、感謝!

(帰省は私だけなので、ぱぱがしっかり見られたらいいんですが・・・その日はなんか用事があるらしい。)

父が旅立った日と同じように、もう春が来たかと思わせるような快晴となって、新横綱も牛久市民も、みんな揃って幸せいっぱいの1日になるよう、佐世保より祈りますからね~~~。

 

 


楽しい里帰り(その2:西海市)

2017-01-19 15:55:22 | 狆 (栗之介・恵之介・光之介・十兵衛)

さてさて。。。カバー写真の横瀬浦というところは、西海市のなかでも、歴史的に最も重要な地区です。

まずは、横瀬浦の歴史について、少しだけお話ししましょう。

ご存知のように、南蛮(ポルトガルとスペイン)から、交易船や宣教師が初めてやってきたのは、鹿児島でしたが、その後まもなく、長崎県平戸をザビエルの一行が訪れ、交易と布教活動が活発になりました。ところが、平戸の領主とのいざこざから、ポルトガル人が殺されたりしたたため、一行は、平戸をあきらめ、ほかに南蛮貿易のよい基点となる港がないかと調査をはじめ、天然の良港であるこの横瀬浦に着目したのです。当時、横瀬浦は大村氏の直轄領で、領主大村純忠(おおむらすみただ)が、南蛮船のために横瀬浦を正式に貿易港として開港し(1562年)、布教の許可も与えました。純忠自身、この地で洗礼を受けて日本初のキリシタン大名となって、横瀬浦そのものを、イエズス会に寄進。そして、横瀬浦は、国際貿易港として繁栄をきわめたのです。

「ここに、はるか遠くのヨーロッパから、でっかいお船が次々と入ってきたんだね。ポルトガル人から、Nossa Senhora de Ajuda(御助けの聖母の港)と呼ばれたんだって~。

黄色矢印のお椀をひっくり返したような可愛い島・・・カバー写真の左上にも見えるとおり、十字架が立っています。八ノ子島といって、南蛮船をこの港に導く目印でした。もともと十字架はなかったのですが・・・あるとき3日続けてこの島の上空に白い十字架が現れ、それを目撃した南蛮船の船長が、十字架を建てるように命じたのだそうです。なお、現在の十字架は1962年に地元の有志の方々により復元されたものです。

横瀬浦で活動したポルトガル人宣教師たちのなかに、日本の歴史上きわめて重要な人物がいました。日本史」の著者、ルイス・フロイスです。彼は、横瀬浦開港の翌年(1563年)に、この地に、日本上陸の第一歩を記し、その後30年にわたって日本に滞在して各地で布教の傍ら、信長、秀吉とも謁見し、とりわけ信長とは親交を深め、当時の武将たちの動きや庶民の文化・暮らしについて、膨大な詳細な記録を残したのでした。この「フロイス日本史」は、松田毅一氏によって完訳されていて、本当に面白いらしいので、私もぜひ読まねば、と思っています。(注1

港を見下ろす小高い丘の上に、フロイスの活動を称える記念公園があります(横瀬浦公園)。

「真ん中に建っている銅像が、フロイスさんだよ!」

「はじめまして~~~ 」(・・・・って、あっち向いてホイの光くん・・

公園内にある、タイル画。大村純忠が、家臣らとともに、洗礼を受ける様子が描かれています(純忠については、こちら)。

小さいですが、資料館もあり、フロイスの足取りが、ポルトガル語と日本語で解説されています。建物の写真取ってないので、こちらで。 

なお、ここは、当時教会があったところなので、「天主堂跡」という碑が片隅に建っています。

純忠やフロイスが、横瀬浦で活動していた時期は、信長がキリスト教を擁護していた時代でしたから、彼らにとってはもっとも幸福な時間だったわけですが・・・この輝く時間はたったの1年ほどしか続きませんでした。純忠の急激なキリスト教化政策に対する反発と、いわゆるお家騒動から、家臣の一部が反乱を起こし、横瀬浦は焼き討ちされて、教会も何もかも消滅してしまい、宣教師らも追い出されてしまいました。(注2) 

そういう経過を経て、南蛮船は最終的には長崎港を寄港地とするようになり、国際貿易港としての繁栄は長崎市に移ります。今、長崎にある「思案橋」「丸山」などの地名は、もともと横瀬浦にあったところなのです。

もし、焼き討ちにあっていなかったならば・・・この横瀬浦(西海市)こそが、県庁所在地となっていて現代でも国際都市として賑わっていたかもしれません。今ではもう、すっかりのんびりとした小さな集落ですが、地元の有志の方々が歴史を保存する活動をされているようです。

宣教師らと純忠の、「横瀬浦を神の国にする」という夢は、儚く消えました。

フロイスさん純忠さんらに思いを馳せながら散策していると、おなかも空いてきましたよ~~!

ランチは、、、港の側にある「船番所」というバイキングレストランで

赤矢印箇所が、テラス席になっており、わんこも入れますよ!(行って尋ねるまで、知りませんでした。ネット上にワンコテラスOKお店という情報は無し。本ブログで初発信ですよ!)

そしてこのテラス席が、八ノ子島を目の前に眺められる、絶好のビューポイントとなっているのです!カバー写真もこのデッキから写したものです。八ノ子島と紺碧の海の絶景を独り占めしながら、美味しい和食バイキングを堪能しました。

横瀬浦をあとにして・・・

道の駅「みかんドーム」に立ち寄り、西海みかん関連の美味しいものを物色。

「みかんソフト」を食べたかったのですが・・・・船番所のランチでお腹がパンパンで、ぐっとガマン~。

そして、この日のもうひとつの目的だった、「平原郷キリシタン墓碑」を目指します。去年10月に小佐々氏(ジュリアンの父上)墓参りの記事でも触れましたね(こちら)。

場所が大変わかりにくかったのですが、去年の記事内でもリンクしているトライックス・カフェさんの記事に詳しい道順の説明があったおかげで、たどり着けました。

相川勘解由左衛門尉(あいかわかげゆざえもんじょう)義武(よしたけ)という戦国武将のお墓で、花十字紋の上にINRI(ユダヤの王、ナザレのイエズスの意味)と刻まれています(西海市教育委員会のページ)。この墓石の隣には、「南無妙法蓮華経」が刻まれた日蓮宗の墓石が並んで立っていて、この武将の子孫が、江戸時代の禁教下においても、日蓮宗と平行して守り続けたのだそうです。(詳しくはこちらに興味深い考察があります。)

去年の記事では、小佐々氏墓所と比べるときれいに整備されているように見える、と言いました。実際に行ってみた感じとしては、それほどきちんとした公園という感じでもなく、小佐々氏が特別ないがしろにされているのではないか、というのは私の考えすぎだったかな・・・と、少しほっと??しました。とはいえ、こちらの墓石には、水やお酒を供えて定期的にお参りしている形跡があり、保存会の方がなんらかのお世話をされているように見受けられました。ともかく、ジュリアン父墓所にしろ、ここにしろ、400年以上も昔のキリシタン墓石です。これからもできるだけ大切にしていきたいものですね・・・

というわけで?!大村の華丸墓参りはやっぱり今回も叶いませんでしたが、横瀬浦と平原郷でキリシタンさるくができて、満足でした!

注1) フロイスと信長との交わりは、大河ドラマでも何回か描かれていますね。私が確認した限りでは、「黄金の日々」(1987年)や「信長 KING OF ZIPANGU](1992年)で見られます。とりわけ、後者は、フロイスの視点から信長とその時代を語るという手法なので、宣教師、修道士の描写がたっぷりです。

注2) 上記大河「信長」の、20回が、フロイスが横瀬浦に上陸してから焼き討ちに遭うまでを描いています。この中で、フロイスは、自分が横瀬浦に来てわずか1ヶ月と半で何もかも焼失したと言っています・・・!(史実では、1年くらいいたのでしょうか??) ちょっと暗いですが、YouTube で見られますよ~。(19:05あたりから横瀬浦のシーン)

 

 (せっかくなら、横瀬浦でロケしてくれたらよかったとにね~~ いつか、誰かここで映画録ってくれんかねぇ) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


楽しい里帰り(その1:佐世保)

2017-01-15 11:29:58 | 狆 (栗之介・恵之介・光之介・十兵衛)

楽しかった帰省の思い出の記事。。。長くなりそうなので、1.佐世保市編 2.西海市編 と二部に分けてアップすることにしました。

佐世保でのメインイベントは・・・なんといっても、ぐらんまのおべべレッスン!

というのは、話は年末に戻るのですが、神戸のお母ちゃんから、こんなに豪華なクリスマスプレゼントが届いたのです

素敵すぎる着物生地を7枚も!プラス、初春用おべべ!そして型紙まで!

この型紙は、「肩あり」おべべ制作のためのものです(黄色矢印の部分・・・肩幅をとるデザインですね)。

私が今まで作ってきたのは、シンプルな「肩なし」でした。初心者でも簡単に縫えるようにと、確かお母ちゃんが考案されたデザインでしたよね!

私が、肩ありにもチャレンジできるようにと、お母ちゃんが、型紙まで用意してくださったわけです。(肩がないと、どうしてもカジュアルな雰囲気になりますしね。生地・柄によっては、肩があったほうがいくらかフォーマルに見えて、映えるということなんですね。) お心遣いに感謝感謝!

それで、、その肩部分をどう縫うのか分からないため、実家に型紙を持っていき、ぐらんまからレッスンを受けたのです。

まずは、お母ちゃん型紙を少しだけ補正して、別の紙に作り直しさせていただきました。というのは、光くんがあまりにデカ狆になってしまったため、いただいたおべべがパツパツ気味でして・・・袖ぐりと襟ぐりを少しだけ広げておいたほうがいいかなと思ったので・・・。(って、作り直すのは、ぐらんまにやってもらったんですけどね)

いただいた7枚中のひとつをつかって、さっそく裁断・・

(ぐらんまの好きな三角形のチャコ。3色いつも使っています。なつかしい・・・)

ちょっと当ててみました・・・

ぐらんまの手取足取りレッスンのおかげで、肩の部分の処理が、よくわかりました!ふーーー勉強になったぁ。

ただ・・・私は相変わらずミシンができなくて手縫いばかりなので、お母ちゃんのおべべのようには裏地をつけることができませんから、袖ぐりはバイアスでくるんでいます。なので、やっぱりカジュアルかなあ??? (裏のことは・・・以前にもみゆきさんたちから教えていただきましたが、結局あれから何もできてないのです!

ぐらんまの家にずっとこもって縫い物ばかりしていれば、1着仕上がったはずですが、そうもいかないので、ここまででいったん終わり。肩の処理以外は同じなので、あとはまたぼちぼち進めるとしまま~す。

お母ちゃん&ぐらんま、これからもいろいろとご教示よろしくお願いしますね!

                       

 

お正月の初詣。近くの早岐(はいき)神社にて。

お墓の掃除。ぐらんぱは、お寺の納骨堂に眠っていますが、ここには、ぐらんぱの両親や兄など8人が眠っています。母一人では管理が大変で、蔦がからまり放題になっていたのですが、ぱぱがてきぱきと蔦を刈ってくれたので、だいぶきれいになりました。

< ぼく、現場監督頑張ったよ~~~ >

3日は、yumikoさんとちょっと会ってから、九十九島パールシーリゾートに行って、遊覧船で、九十九島クルーズ(詳しくはこちら。もちろん、わんこも乗れます。光くんは2回目です。

恵兄ちゃんの時代から何回かクルージングしていますが、いつ来ても、真っ青で透明度の高い海に心癒されますね・・・。以前にも書いたかと思いますが、東北の海のように荒れ狂ってあまたの命をのみこんだ悲しい経験もない、平和な海なので、いっそう美しく豊かに見えるのだと思うのです。

なお、「九十九島」(くじゅうくしま)とは、佐世保市の北部25キロにわたって島々が点在し、独特の景観をなす海域(西海国立公園の一部)の総称です。実際には、99どころか大小208もの島がありまして、その多くに名前がついていていろんな言い伝えも残っています。平家の落人伝説なんかもね(詳しくは、こちら)。シーカヤックなどのマリンスポーツ、そして牡蠣や真珠の養殖業も盛んです。

佐世保では、あと、従兄の家に行ったり恩師に会ったりして、時間をフルに使って有意義に過ごしました。

みなさん、ここまで読んでくださって、どうもありがとう!西海市編も見てね~~!

 

 

 

 


ただいま~~

2017-01-09 16:57:29 | 狆 (栗之介・恵之介・光之介・十兵衛)

皆さん、早くも松の内が過ぎ、すっかりご挨拶が遅れてしまいましたが、本年もどうぞよろしく~~!

どちら様も、有意義なお正月休みだったことと思います。

ぼくんちも、帰省を満喫しました。

お写真整理と記事書くのに、ままがまだまだ時間がかかるので、今日はご挨拶のみで~~す。

カバー写真は、西海市の横瀬浦という入り江です。きれいな海でしょ。(対岸は、佐世保市)

戦国時代、ポルトガルのお船がたくさん入港して繁栄したんだって。詳しくは、またあとで!