さてさて。。。カバー写真の横瀬浦というところは、西海市のなかでも、歴史的に最も重要な地区です。
まずは、横瀬浦の歴史について、少しだけお話ししましょう。
ご存知のように、南蛮(ポルトガルとスペイン)から、交易船や宣教師が初めてやってきたのは、鹿児島でしたが、その後まもなく、長崎県平戸をザビエルの一行が訪れ、交易と布教活動が活発になりました。ところが、平戸の領主とのいざこざから、ポルトガル人が殺されたりしたたため、一行は、平戸をあきらめ、ほかに南蛮貿易のよい基点となる港がないかと調査をはじめ、天然の良港であるこの横瀬浦に着目したのです。当時、横瀬浦は大村氏の直轄領で、領主大村純忠(おおむらすみただ)が、南蛮船のために横瀬浦を正式に貿易港として開港し(1562年)、布教の許可も与えました。純忠自身、この地で洗礼を受けて日本初のキリシタン大名となって、横瀬浦そのものを、イエズス会に寄進。そして、横瀬浦は、国際貿易港として繁栄をきわめたのです。
「ここに、はるか遠くのヨーロッパから、でっかいお船が次々と入ってきたんだね。ポルトガル人から、Nossa Senhora de Ajuda(御助けの聖母の港)と呼ばれたんだって~。 」
黄色矢印のお椀をひっくり返したような可愛い島・・・カバー写真の左上にも見えるとおり、十字架が立っています。八ノ子島といって、南蛮船をこの港に導く目印でした。もともと十字架はなかったのですが・・・あるとき3日続けてこの島の上空に白い十字架が現れ、それを目撃した南蛮船の船長が、十字架を建てるように命じたのだそうです 。なお、現在の十字架は1962年に地元の有志の方々により復元されたものです。
横瀬浦で活動したポルトガル人宣教師たちのなかに、日本の歴史上きわめて重要な人物がいました。「日本史」の著者、ルイス・フロイスです。彼は、横瀬浦開港の翌年(1563年)に、この地に、日本上陸の第一歩を記し 、その後30年にわたって日本に滞在して各地で布教の傍ら、信長、秀吉とも謁見し、とりわけ信長とは親交を深め、当時の武将たちの動きや庶民の文化・暮らしについて、膨大な詳細な記録を残したのでした。この「フロイス日本史 」は、松田毅一氏によって完訳されていて、本当に面白いらしいので、私もぜひ読まねば、と思っています。(注1 )
港を見下ろす小高い丘の上に、フロイスの活動を称える記念公園があります(横瀬浦公園)。
「真ん中に建っている銅像が、フロイスさんだよ!」
「はじめまして~~~ 」(・・・・って、あっち向いてホイの光くん・・ )
公園内にある、タイル画。大村純忠が、家臣らとともに、洗礼を受ける様子が描かれています(純忠については、こちら )。
小さいですが、資料館もあり、フロイスの足取りが、ポルトガル語と日本語で解説されています。建物の写真取ってないので、こちら で。
なお、ここは、当時教会があったところなので、「天主堂跡」という碑が片隅に建っています。
純忠やフロイスが、横瀬浦で活動していた時期は、信長がキリスト教を擁護していた時代でしたから、彼らにとってはもっとも幸福な時間だったわけですが・・・この輝く時間はたったの1年ほどしか続きませんでした。純忠の急激なキリスト教化政策に対する反発と、いわゆるお家騒動から、 家臣の一部が反乱を起こし、横瀬浦は焼き討ちされて、教会も何もかも消滅してしまい、宣教師らも追い出されてしまいました 。(注2 )
そういう経過を経て、南蛮船は最終的には長崎港を寄港地とするようになり、国際貿易港としての繁栄は長崎市に移ります。今、長崎にある「思案橋」「丸山」などの地名は、もともと横瀬浦にあったところなのです。
もし、焼き討ちにあっていなかったならば・・・この横瀬浦(西海市)こそが、県庁所在地となっていて現代でも国際都市として賑わっていたかもしれません。今ではもう、すっかりのんびりとした小さな集落ですが、 地元の有志の方々が歴史を保存する活動をされているようです。
宣教師らと純忠の、「横瀬浦を神の国にする」という夢は、儚く消えました。
フロイスさん純忠さんらに思いを馳せながら散策していると、おなかも空いてきましたよ~~!
ランチは、、、港の側にある「船番所 」というバイキングレストランで 。
赤矢印箇所が、テラス席になっており、わんこも入れますよ !(行って尋ねるまで、知りませんでした。ネット上にワンコテラスOKお店という情報は無し。本ブログで初発信ですよ!)
そしてこのテラス席が、八ノ子島を目の前に眺められる、絶好のビューポイントとなっているのです!カバー写真もこのデッキから写したものです。八ノ子島と紺碧の海の絶景を独り占めしながら、美味しい和食バイキングを堪能しました。
横瀬浦をあとにして・・・
道の駅「みかんドーム」に立ち寄り、西海みかん関連の美味しいものを物色。
「みかんソフト」を食べたかったのですが・・・・船番所のランチでお腹がパンパンで、ぐっとガマン~。
そして、この日のもうひとつの目的だった、「平原郷キリシタン墓碑」を目指します。去年10月に小佐々氏(ジュリアンの父上)墓参りの記事でも触れましたね(こちら )。
場所が大変わかりにくかったのですが、去年の記事内でもリンクしているトライックス・カフェさんの記事に詳しい道順の説明があったおかげで、たどり着けました。
相川勘解由左衛門尉(あいかわかげゆざえもんじょう)義武(よしたけ)という戦国武将のお墓で、花十字紋の上にINRI(ユダヤの王、ナザレのイエズスの意味)と刻まれています(西海市教育委員会のページ )。この墓石の隣には、「南無妙法蓮華経」が刻まれた日蓮宗の墓石が並んで立っていて、この武将の子孫が、江戸時代の禁教下においても、日蓮宗と平行して守り続けたのだそうです 。(詳しくはこちら に興味深い考察があります。)
去年の記事では、小佐々氏墓所と比べるときれいに整備されているように見える、と言いました。実際に行ってみた感じとしては、それほどきちんとした公園という感じでもなく、小佐々氏が特別ないがしろにされているのではないか、というのは私の考えすぎだったかな・・・と、少しほっと??しました。とはいえ、こちらの墓石には、水やお酒を供えて定期的にお参りしている形跡があり、保存会の方がなんらかのお世話をされているように見受けられました。ともかく、ジュリアン父墓所にしろ、ここにしろ、400年以上も昔のキリシタン墓石です。これからもできるだけ大切にしていきたいものですね・・・
というわけで?!大村の華丸墓参りはやっぱり今回も叶いませんでしたが、横瀬浦と平原郷でキリシタンさるくができて、満足でした!
注1) フロイスと信長との交わりは、大河ドラマでも何回か描かれていますね。私が確認した限りでは、「黄金の日々」(1987年)や「信長 KING OF ZIPANGU](1992年)で見られます。とりわけ、後者は、フロイスの視点から信長とその時代を語るという手法なので、宣教師、修道士の描写がたっぷりです。
注2) 上記大河「信長」の、20回が、フロイスが横瀬浦に上陸してから焼き討ちに遭うまでを描いています 。この中で、フロイスは、自分が横瀬浦に来てわずか1ヶ月と半で何もかも焼失したと言っています・・・!(史実では、1年くらいいたのでしょうか??) ちょっと暗いですが、YouTube で見られますよ~。(19:05あたりから横瀬浦のシーン)
VIDEO
(せっかくなら、横瀬浦でロケしてくれたらよかったとにね~~ いつか、誰かここで映画録ってくれんかねぇ)