5月22日(水)・・・一人旅最後の宿泊地、広島県廿日市市宮島に着いたのは、もう夕方でした。
下関からの接続がスムーズでなくて、広島駅でだいぶ時間のロスがあったからですが・・・・それでも、引き続き天気に恵まれたおかげで、急ぎ足ながらも、満ち潮、引き潮、そして夜の満ち潮時のライトアップと、様々な表情の厳島を一通り楽しむことができ、翌日午後3時ころまで有意義な時間を過ごしました。
さっそく、写真からじゃんじゃんいきますか!
お宿(「錦水館」後述)の玄関口から5分ほど砂浜を歩いていくと、すぐに見えてくる憧れの大鳥居!ああ、ついに厳島にやってきた!と実感する眺めですね。
この大鳥居を右手に見ながらさらに左手に歩いていくと、社殿への入り口へ来ます。ここから拝観料(300円)を払って入場。
廻廊の途中で、 !!
さてこの世界的にも類をみない海上神殿は、建築様式としては、平安時代の貴族の邸宅に用いられていた「寝殿造り」と言われるものですが、客(まろうど)神社、本殿、高舞台、能舞台などの建築物が廻廊(幅4m、長さ275m)で結ばれ、壁のないオープンな造りのため、大変広々と解放感があり、自然と見事に調和しています。これをデザインした清盛がいかに芸術的、美的センスに優れた人であったかを示すものですね。
なお、『平清盛』では、清盛が、設計図を広げながら、「これまでの公卿方は、寺社のしつらえと申せば、上へ上へとのぼる意匠ばかりを凝らしてこられた。されど私はこれを、横へ横へと広げてゆきとう存じます。・・・それが私の思い描く国の姿にござります。」と説明していましたが(33回「清盛、五十の宴」)、そういう彼の志をしみじみ感じながら、私も廻廊を巡りました。注1)
足元の床板は、すべてこんなに2cmの隙間(「目透し」という)が空いています。
私のスマホなど油断するとするりと落っこちてしまいそうですが・・・高潮時に、床板の間から海水を海へ流し戻すことにより、床板に押し上げてくる海水の浮力を弱めるためですね。床板が水圧で浮いてしまわないように、わざと「あそび」を作ったわけです。実際、大潮のときは、lこの隙間から海水が水柱となって吹き出し、床板から10cm以上も海水が上がってきて、回廊全体が冠水するそうです(こちら)。見てみたいものです・・・
さて、、、廻廊を進みながら(なぜか一方通行で、一たん回廊に入ると後戻りはできません)海と反対側の地面に目をやると、こんなスポットが。
中央のホームベース状の岩は、「卒塔婆石」(そとばいし)といわれ、1177年の「鹿ケ谷の陰謀」に関わるものです。後白河法皇を囲んで平家打倒の密談が行われ、西光、藤原成親ら院の側近たちが死罪や流罪になりましたね。
あのときの加担者のひとり平判官康頼(たいらのはんがんやすより)が、鬼界島に流されたとき、母恋しさに和歌を千本の卒塔婆に書きつけて流し、そのうちの1枚がこの岩のところまで流れ着き、そのことに気付いたある僧が、都に行って、この話を確か清盛の耳にも入れたのだと思います(すみません、まだにわかリサーチで。)。それで、康頼は放免になったのですね。鬼界が島って・・・鹿児島県沖の離島(今の硫黄島?)ですが・・・よくぞここまで。注2)
じゃーん、干潮時の大鳥居です(翌23日昼ごろ撮影)!海側から、神殿の方を向いて撮ったもの(一人旅人も多いので、みんな互いにシャッター押しあいっこ気軽にします)。
神殿から、200m沖合にそびえるこの巨大な鳥居(高さ16m・・・奈良の大仏と同じくらい)は、実は清盛のデザインではありません。注3) 清盛の時代のものは、もっと簡素なものだったらしく、「大鳥居」と呼ばれる様式になったのは、鎌倉時代でした。それから幾度か台風などで倒壊・焼失に遭い再建が繰り返され、現在の大鳥居は、明治8年(1875年)のものです。
海底に固定されているように見えますが、自らの重さ(60t)で自立しているだけで、中央の「本柱」をそれぞれ前後2本の「袖柱」で支えて安定させるという「四脚鳥居」という様式です。
本柱は、こんなにデカい!(平均的な中学生の大きさと見比べてみてください。) 満潮時に浸かるところまで藤壺が沢山くっついています。
鳥居の近くにこんな立て看板が・・・・
確かに、大鳥居より沖合で潮干狩りしている人は何人かいますが、鳥居の内側(神殿側)では誰も。
これはどういうことかというと・・・・古代より、この島そのものが神と崇められていたので、この鳥居は、「俗界」と「神域」との境界を明確に示すと考えられており、鳥居より内側、すなわち神域の物を取ってはならないという意味です。ですから、厳島神社を参拝するのも、海側から舟でこの大鳥居をくぐり、神殿に渡るというのが、本来の正式な参拝方法なのです。私みたいに、旅館街のほうからスタスタ歩いてきて、いきなり本殿に入って、鳥居をパチパチ写すというのは、典型的な観光客なのです。
そこで!気持ちばかりの正式な参詣気分を味わう方法があります。それが、屋形舟でのナイトクルージング。ライトアップされた幻想的な大鳥居の中を屋形舟に乗ったまま、海側からくぐっていくのです。アクアネット広島というところでやっていて、宿からオプショナルツアーとして予約してくれます。ガイドさんが付いて30分で1500円。日没以降6便出ていて、7:55からの第4便に乗ってみましたが、ちょうど満潮で、真っ暗な海のうえに浮かぶ朱の大鳥居のなんと神秘的なこと!
私の写真ではイマイチなので、屋形舟が進む感じをこちらの動画で見てみてください。
[Full HD]厳島神社大鳥居をくぐる船2
こちらの広島県制作のビデオの冒頭では、昼間の大鳥居くぐりの感じがわかります。
[美しき日本] 広島 厳島神社
お宿のことですが、厳島界隈で、一人旅でも受け入れてくれるところが、「錦水館」というところしかなくて、選択の余地がなかったのですが、なかなかよかったです。桟橋と神社の中間地点で、しかも表参道商店街に直結という好立地ということもあったのですが、女性の一人旅でも安心して快適に楽しめるように、いろいろと気配りが行き届いたホテルでした。
お料理も、本当に美味しいものが少しずつ、次々と出てくるという嬉しい懐石料理。バッテリ不足でスマホ充電していたので写真撮れませんでしたが、宮島産の牡蠣や穴子、広島牛その他シャコ海老(長崎では「シャッパ」といいますが)など、さまざまな瀬戸内の魚介類と野菜・・・薄味でなんとも上品な味付けで、まことにけっこうでござりました。
お品書もってきちゃいました。
(全部は食べきれませんでした・・・)
食べ物がらみの話でついでながら、広島の定番スイーツ「もみじ饅頭」は、昔はアンコしか入っていなかったらしいですが、今はカスタードクリーム、チョコ、抹茶、チーズ、紅イモ、リンゴとかいろいろあって、焼き立てを食べさせてくれるお店が、表参道商店街にいくつもあります。ところが、私はそういうお店にたどり着くまでに、スイーツ渇望症になってしまい(翌23日午後の話ですが)、近くのカフェに入りました。商店街の賑わいからちょっと外れた裏通りにある、Sarasvati(サラスヴァティ)という、趣のあるカフェでした。
リンゴのバターケーキと、アイスカフェオーレ。自家焙煎のコーヒー専門店というだけあって、このカフェオーレが絶品!
さて23日朝に話を戻してと・・・8時にはチェックアウトして、まず弥山(みせん)へ。
宮島の主峰「弥山」は、古くから神が降臨する霊山として崇敬されており、806年に弘法大師(空海)がここを弥山と名付けて開基して真言宗の修行をしたそうです。登山は、中腹の「獅子岩駅」まで2台のロープウエイで上がり、そこから山頂までは徒歩というのが主なルート。山頂付近には、空海に関わるパワースポットがいろいろあって、恰好のハイキングコースらしいです。しかし、山頂付近まで行く時間的・体力的余裕がなくて、獅子岩駅で引き返してしまいました。
というわけで、弥山での収穫は何もなしかというと・・・・あったのです。そのロープウエイで、とても感じのいいイギリス人ご夫妻と一緒になり、獅子岩までの30分近く、楽しく英会話してました・・・。マンチェスターの方で、2週間の日本旅行の最後だそうです。私の英語もなんとか通じて、ほっとしました。これも弘法大師のお導きか?!
弥山から戻って宝物館へ。
宝物館は、大鳥居と社殿の次に私が楽しみにしていたところです。というのは、、、『平清盛』30回でも大きくクローズアップされた「平家納経」の展示が見られるからです!(こちらの記事にも書きましたが、平家納経とは何かについては、こちらを)。
ただし、、、レプリカ(複製)です。
清盛や盛国らの自筆による本物は、奥深いところに隠してあり(年2回公開)、レプリカの、しかもそのほんの一部を常設展示しているというわけです。このレプリカは、平安美術研究家の田中親美氏により大正時代に作成されたもので、『平清盛』の撮影でも使用されました。松山ケンイチさんが、著書の中で、「レプリカといっても国宝級のもので、そのあまりの見事さに(傷つけなりしてはならないと思って)緊張してしまい演技に集中できないくらいだった。」といった趣旨のことを書いていました。ともかく、これがドラマ中で実際に映し出された作品だと思うと、心震えました・・・。注4)
経典を収める三段重ねの経箱(金銀荘雲龍文銅製経箱)もまたなんという気品。。。表面に五重塔と双龍、側面に雲龍の文様が施されていますが、龍は海の守り神として、清盛がとりわけ好んだ意匠らしいです。
展示物は写真NGなので、『平清盛』30回のDVDを写してみました。こちらがその経箱と松ケンさんの手です~
清盛が一門の主だった者を引き連れて、この「善美を尽くした」経典一揃いを厳島神社に納めたのは、1164年と言われていますが、その頃厳島の社はまだ創建当時のままで放置されており、大変さびれた神社だったのです。清盛が神主佐伯景弘に援助を申し出て社殿の大改築を進めるのはこの後なのです。
というところで、今日はここまで!
今回は、単純に観光客の視点で見物したことを書いてみましたが、次回は、旅行記最終回として、平家と厳島との関わりの歴史など交えながら、今の私の想いをもう少しだけ書きたいと思っています。帰省前に書かねばね~~
なお、今回および次回の記事を通して、「図説 平清盛がよくわかる!厳島神社と平家納経」(日下力監修 青春出版社)を参考資料として書いております。
注1) 神殿を海に造ったのは、宗教上の理由もあったようです。厳島は本来島全体が聖域としてあがめられており、土地を削ったりしてはならないとされていたそうです。そういう意味で、神の領域を傷つけない配慮として、海側に建てたのではないか、と考えられています。
注2) 『平家物語』に書かれていることで、史実かどうかはわかりませんが、そう信じられています。
注3) 清盛のデザインではないと断言的に書いてしまいましたが、今またちょっと別の本を読んでいて、私の間違いかもしれないと思っています。次回記事でフォローしますね。<3日追記>」
注4) 『平清盛』放送終了後に出版された、松山さんの自伝「敗者」(新潮社)p.179 から少しだけ転載させていただきますと・・・
「実際の平家納経の箱のレプリカを使っての撮影で、現場はものものしい雰囲気となった。なぜならそのレプリカも江戸時代に作られたもので、国宝級の価値があるからだ。」
大変僭越ですが、「江戸時代」は「大正時代」の間違いで、おそらく松山さんの記憶違いだと思いますが・・・撮影で用いたものが、大正時代の田中氏作成のレプリカであるということは、プロデューサーの磯氏もツイッターで、それから、崇徳上皇役の井浦新さんもインタビューで語っていました。田中氏のもの以外にもレプリカがあるということは考えられないのですが・・・
ともかく、松山さんほどの一流俳優でも演技に集中できなくなるほどに、レプリカとはいえ素晴らしい芸術品で強いオーラを発しているということですね。