黒部信一のブログ

病気の話、ワクチンの話、病気の予防の話など。ワクチンに批判的な立場です。現代医療にも批判的で、他の医師と違った見解です。

子ども医療講座 改訂版2続

2022-12-12 13:29:10 | 子ども医療講座シリーズ

    子ども医療講座 (改訂版)

   第2回  「子どもだって一人の人間だ」  (改訂版-2続き)

4)子どもに期待をかけないで 

 子どもに期待をかけないでください。子どもの数が少ないと、どうしても子どもに期待をかけてしまいます。しかし、お父さんとお母さんが作った子どもですから、両親より飛び抜けて優れた人ができる訳ではありません。自分と同じになればいいと思って下さい。身長も、成績も、性格も、病気もそうです。みんな受け継いでいます。

 早期教育というのがありますが、「才能が伸びる」というのは思い違いです。世界的には早期教育について判っていて、元ソニーの井深大(いぶかまさる)さんが書いていますが、早期教育した時に早くそこまで到達できますが、そこから先伸びるわけではないというのが正しいです。だから大人のレベルに早く到達するかもしれませんが、そこから伸びるわけではありません。よく言われることですが、小さい時は神童で、小学校では天才、中学では秀才、大人になったらただの人になってしまうことが多いです。早く到達できるのですが、そこから伸びることはまれです。

 ある人に言わせると、天才というのは2,000人に1人の確率でいると言います。だけど天才というのは、1%の才能と99%の努力で達成されます。だから多くの人は努力しないから天才は滅多に現れません。努力は本人の強い意志とそれを支える環境です。自分の意志がない限りそこまでいきません。

  あるお相撲さんの話ですが、高校生で日本のアマチュア横綱をとって、将来横綱を期待されて相撲界に入りました。高校、大学時代に取ったタイトルは20幾つにもかかわらず、小結にもなれないで引退しました。当然横綱になる素質があった筈なのになれなかったのです。その原因は、稽古が嫌いで努力をしません。幕内力士は1千5百万以上の年収は保障されますから、楽に生活できます。それでこの位でいいやと思っていて努力をしなかったのです。折角の能力があっても小物で終わる人も少なくありません。

5)子どもの食欲を奪わないで。 

☆子どもの食欲を奪わないで下さい。食事は楽しく食べるものです。お腹がすいたその空腹感を満たすのは楽しいことですが、食べなさいというと、食べたくなくなります。私の小さいころは食べなさいなんて言われる前から、食べちゃいました。なぜかというと食べ物がなくて、いつも飢えていましたから。しかし今の子は、いつでも食べたい物は食べられる時代です。要するに、贅沢さえしなければ、食事はしっかり食べられる時代です。今は、飢えで死ぬということは、滅多にありません。しかし、この30年で大きく変わり、子どもが満足な食事ができなくなり、子ども食堂が全国に作られる時代になりました。

 まれですが、飢え死にしたという新聞記事も見られます。

☆沢山食べれば大きくなるというのは、これは思い違いです。

  昔は大きくなる素質がある子が、食糧難のために食べられなくて大きくなれなかったのです。その子が、成長が止まる前のある時期、沢山食べられるようになるとどんどん成長します。ところが今は食糧事情が豊かですから、欲しいだけ食べられる時代です。そうすると大きくなる子は沢山食べます。つまり身体がどんどん大きくなるので、お腹がすいて沢山食べます。ところが元々小さい子は、体が必要としないからお腹がすかない。だから少ししか食べない。少ししか食べないから大きくなれないのではありません。

  大きくなる素質がないから、少ししか食べないのです。それを無理に食べさせようとするから、ますます食べなくなります。でも子どもはどんなに少食でも必要最小限の物は必ず食べます。少食の子はカロリーが少ないから動かない。動くとカロリーを消費するからお腹がすくから。脳を回転させることもカロリーを使うので、あまり考えなくなります。

少食にならないようにするためには、食事は時間で決めず、お腹がすいた時が食事の時間です。お腹が空いた時にお腹一杯食べる習慣をつけましょう。食事を時間や量で強制しないことです。お腹一杯になったらお終い。お腹がすかなかったら食べなくていい。お腹をすかせるには目いっぱい遊びまわらせることです。これを小さいうちからやっていると良いのです。日本の栄養学は、戦後から思い違いをして現在まで続いています。でもそういうやり方ではうまくいかないのです。時間を決めたり、量を決めたりするのは間違いです。朝食を食べないことも同じです。

  乳幼児期に無理やり食べさせようとすると、食物アレルギーになります。飽食の時代になって食物アレルギーが増えました。食べ物の好き嫌いも同じ原因で、食べることを強制したり、食べているのを見て嫌な思いをすると嫌いになります。母親が嫌いだと、嫌いになります。食物アレルギーを防ぐために、離乳食を遅らせることも誤りです。それで減らせたでしょうか。早期の離乳食がアレルギーを生んだのではありません。むしろ早期の離乳は、指しゃぶりや何でも口に入れることを無くします。誤飲事故の予防です。

 自然界の動物たちは栄養学を知らなくても餌さえ豊富にあれば肥満にも栄養失調にもなりません。つまり動物たちも人間の身体も、自分の身体が必要とするものをおいしく感じるようになっています。ちょうどよくなると、満腹するようになります。だから自然界には太り過ぎのライオンもキリンやしま馬はいません。

 ところが人聞に飼われると食欲が狂ってきて、太り過ぎや痩せ過ぎがでてきます。拒食症のコアラや肥満の猫などがそれです。

  せっかく食糧があってもストレスで食欲がおかしくなってきます。強制されたり、制限されたりすることがいけません。相撲の関取の世界は、食べることが仕事の世界ですが、自分で食べようとしてもどうしても食べられない関取もいます。無理に食べさせると吐いてしまいます。私も普段あまり食べないのですが、若い時にアイスホッケーの冬の合宿を赤城山頂の湖でしたことがありました。激しい運動と寒さで消耗し、一回の食事に丼で3杯食べ、夜食でラーメンかお汁粉を食べました。それでも太らず、家に帰ってから食べ続けてしまうために太ります。家に帰っていかに食べる量を減らすかが体重維持の問題でした。

  自然界のようにのびのびとしていればいいのです。そうすると太り過ぎにも痩せ過ぎにもならず、少食も偏食もおきません。食物アレルギーも起きません。

  その例をあげます。福島で原発事故を被災し、東京へ避難した幼児が私たちの所へ相談に連れて来られました。いろいろな食品にアレルギーがあるから困ったと母親から聞かされていましたが、母親が病気になり、東京へ避難したことで離婚されて母子家庭でしたので、児童相談所へ入りました。それでその子の状況を聞いたら、こちらでは何でも食べていますという返事でした。母親と離れて、食べるものがそれしかなかったらアレルギーが無くなったのです。

6)三つ子の魂、百まで。 

  三つ子の魂百までというけれど、三歳までに良い習慣をつけさせましょう。実は大人もそうです。お腹がすいた時にお腹一杯食べて、すかない時には食べないという習慣をしていると本来ストレスさえなければ、自然に良い体型を保って栄養失調や栄養が偏ることもありません。でもどうしてもいろんなことに惑わされたり、ストレスで食欲がなくなったり、逆にストレス解消で食べてしまったり、楽しいことがなく食べることにしか楽しみがないと太ってしまいます。

大体3歳から6歳くらいまでに子どもの性格の半分が決まります。だから生まれてからその年齢まで、できるだけのびのびと育ててあげましょう。叱ったり、強制したりしないことです。

  私も昔は間違った考え方をもっていました。子どもに我慢を教えなければいけないと思っていたのです。これは思い違いでした。我慢をさせると、子どもは大人になって我慢をしなくなります。つまり嫌だなと思うと、自分が主人公になれる大人になったら、ああいうことはすまいと思ってしまいます。あなたにそういうことはありませんか。誰でも何かしらあるのではないかと思います。嫌な思いをすると大人になってしなくなります。だから我慢をさせてはいけないのです。

  例えば盲導犬の訓練の話ですが、盲導犬は、生まれた時にすぐ親から離して犬好きの家庭でのびのびと育てます。決して「お手」なんて教えてはいけません。何も教えません。ただひたすら可愛がります。そして1年くらいの時期が来たら、育ての親から離して、人間の教官と犬の教官がぴったりくっついて、2匹と1人で行動します。猛烈な訓練ですから、それに耐えるためには、何にも教えてはいけません。それまでに犬が嫌だなと感じたことがあると、途中で訓練を拒否したり、訓練に抵抗したりします。それを避けるためには、それまでのびのびさせて育てます。そうすると頑張って盲導犬になっていくのです。人間もそうです。

☆のびのび育てられた人は、大人になって頑張ったり我慢できるようになります。子ども時代に嫌な思いをすると、大人になって我慢をしなくなります。

☆子どもを怖がらせてはいけません。子どもは、小学校の低学年くらい(サンタクロースを信じている年齢)までは空想と現実の境目がありません。だから怖がらせるとそれが現実と思い込んでしまいます。小さいうちはできるだけ怖がらせない。怖い思いをさせると怖がりになります。それを経験したことがない子が恐いもの知らずになります。私には、怖いものがありません。両親がそう育ててくれたのです。親に叱られた記憶がありません。私が外で、いろいろなこと、例えばよその家の高い木に登ったり、屋根に上がったりしても、父が謝りに行き、私は叱られませんでした。空襲にもあいましたから、死と隣合わせで生きてきましたから、死ぬことも怖くありません。いつ死んでもいいと生きてきました。

☆よく臆病な子がいますが、「母親が妊娠後期から乳児期の間にパニックになると子どもは臆病になる」と言います。そういう経験があると、その時期に育った子どもは臆病になります。できるだけ妊娠している時は、母親も楽しい妊娠生活を送ることが大切です。そのために妊娠中に胎教をすることがいいので、楽しくなれば何でもよいのです。そして生まれて来る子に不安をもってはいけません。

☆これは確定していませんが、生まれつきの異常をもっている子というのは、お母さんが妊娠中に何か精神的な問題があったのではないか、夫を信頼していなかったのではないかということが疑われます。だから相思相愛で良い結婚生活を送っているお母さんの子どもはそういうことはありません。夫やその両親に気をつかったり、何かひそかに悩みを抱えていたりしていると、子どもにそれが出ることがあります。物事を楽天的に、自分の望み通りに進むと考えて人生を送りましょう。もちろん現実は厳しいですが、思いだけは楽天的に、プラス思考でいきましょう。

☆昔、未熟児網膜症の訴訟を支援していた時に、ある未熟児網膜症の子の親の一人が、ある産婦人科医の所に来て「お医者さんは何か隠しているでしょう。未熟児網膜症に効く良い薬があるのではないですか。隠さないで教えて下さい」と言ってきた。「医者の子どもには未熟児網膜症がいない。だから何か薬があるのだろう」と考え、「だけど、貴重なものだから、一般には出さないのだ」と思ったようです。

  しかし、そうではなく、医者と結婚すると経済的に豊かになるから、未熟児を産む確率が減ります。特に極小未熟児と言われている未熟児を産む確率が低く、未熟児網膜症になる確率も非常に低いです。その上、未熟児として生まれたら、医師仲間の紹介で小児医療センターなどの未熟児医療施設に入院させます。そこでは、未熟児網膜症になりません。医師の子どもにいないのは、そういう理由だったのです。

☆科学史では、イギリスで有名な話があります。「美人に生まれるとその女性の産む子には体重の大きな子が産まれる」という相関関係を出した研究者がいます。これは思い違いでした。美人に生まれると、イギリスでは階級制度が未だに残っていて、1ランク、2ランク上の階級の男性と結婚できて経済的に豊かになり、豊かになると当然生まれる子も大きくなるというだけの話でした。そういう、偽の相関関係というのがいくらでもあります。

 だから新聞などで、○○が○○に良いなどのデータが出したとか、CMなどに惑わされないで下さい。

☆マナーを教えるというのは幼稚園に入る4歳頃が適当と、アメリカ小児科学会は言っています。マナーの意味を小さい子どもちには理解できません。今のお母さんたちに小さい子にマナーを教えようとすることが流行っていますが、1~2歳の子には無理です。例えば物を借りる時、「貸してくださいと言いなさい」と教えます。2歳ぐらいの子に言っても意味がわからないから、見ていますとその子は、相手の子に「貸してください」と言うと借りられるものだと思っていて、相手が嫌だと言っても「貸してください」と言ってとってしまう。そういうことがあります。それは「貸してください」ということにはならない、つまりマナーがわからないのです。

7)子どもは親(特に母親)をうつす鏡

 「子どもの振り見て我が振り治せ」。子どもは親の真似をして育つ。

  だから子どもにさせたければ、お母さんがやって見せることです。3歳ぐらいの女の子で、お母さんが「お邪魔しました」というと、一緒になって「お邪魔しました」と言う子がいますが、親の真似をして覚えていく。親が「これ貸してちょうだいね。〇〇ちゃん」と言うと相手がうんという。そこで「じゃお借りしますね。」ってこういうふうに言って借りて見せます。「いや」と言ったら「それではまた後でね」という。そうするとそれを子どもは見ていて覚えていくのです。

8)北風ではなく太陽になろう

理にやらせるのではなくやりたくなるように仕向けます。太陽のようにポカポカ照らして、上着を脱ぎたくなるようにさせましょう。北風のようにマントを引きはがそうとすると、子どもはしっかりマントにしがみつきます。

  したくなるようにさせます。そのためにはどうしたらいいか。楽しそうにやってみせます。一番真似をしたがるのは、少し年上の子どもがやっているのを見せることです。楽しそうにやっているのを見せるとやりたくなります。毎日毎日見せてあげます。そうするとやりたくなります。

 やりたがった時に正しいやり方を教えることが幼児教育のコツです。これは幼児教育だけではなく、何でも新しく始めるときは正しい教育を受けましょう。どんなスポーツでも自己流にしないこと。正しいやり方を教わる方が速く上達します。楽しければいいやというのならそれでもいいですが、速く上達したかったら、正しいやり方を身につけましょう。

  私は医学部学生時代にアイスホッケーをやっていましたが、カナダからアイスホッケーのコーチが来て大学のマネージャーを集めて講演しました。「日本人は小さいから不利だと言うけれどそんなことはない。小回りして速く動けばいい。」と言うのです。成程と思いました。その時に教えてくれたのが、「初心者に正しいやり方をきちんと教えなさい。へんな癖がつくと、一生治りません。ただ上手にそのくせを隠すだけです。」と言いました。実際そうです。私にも癖がありまして、治らないです。ただ上手に隠すけれども、ふっとしたはずみにまた出てしまいます。

☆幼児教育もそうです。最初から正しいやり方を教えます。お箸の持ち方。鉛筆の持ち方。何でもそうです。正しいやり方をやりたがった時に教える。それが嫌ならやらなくていいのです。お箸で変な持ち方をして、それをなおすといやがって箸を放り投げたりします。そしたら持たなくていい。持ちたくなったら正しい持ち方を教えます。そうしていると、だいたい3歳で小豆の豆がつまめます。

  はさみやナイフもそうです。小さいから危ないなんて言わないこと。幼稚園で料理している番組を見ましたが、4歳の子に包丁を使わせています。また別の保育所では、2歳の子にはさみを上手に使わせています。側についていて、こういうふうに使うものだと教えて、やりたかった時に上手に持たせてやらせます。教えるとそういう持ち方以外はしません。特に一年上の子に教えさせると、すぐ言うことを聞きます。はさみはこういうふうに持つものだとその子が教えると、それ以外の持ち方をしません。だから3歳になってナイフを教えたり、4歳になって包丁を教えたりしたってちっとも危険ではありません。正しい持ち方をきちんと教えることがコツなのです。教えないで、自分で勝手に使おうとすると危険です。

  子どもは親を映す鏡。お母さんは子どもを見て、自分を直して下さい。小さい子は必ず親の真似をします。特に母親の真似をします。お父さんも子育てに参加している方は、お父さんの真似もします。だから、こどもにどこか問題があったら、お父さんとお母さんが相談して、まず自分たちを治すようにしましょう。でないと子どもは治らない。子どもを治したかったら、自分を治すことです。

  一般的に言って、人を変えるのは難しいです。でも相手を変えたければ、まず自分が変わることです。そうすると、相手も変わってきます。人間関係は相対的な関係ですから、あなたが変われば、相手も変わります。夫を変えたかったら、自分が変わることです。つまり、夫との関係も、子どもとの関係も、貴方との相対的な関係です。常に、お互いに影響しあって生きています。それが家族であり社会です。だから自分が変わらなければ相手も変わってくれません。相手だけ変えようと思ったら無理です。

 お母さんが変わったら、まず子どもが変わります。そしてできるだけ、ほめて育てましょう。ほめ上手になりましょう。これはなかなか大変で難しいことです。なぜかというと、お母さん自身がほめて育てられた経験がないからです。だから尚更子どもをほめて育てましょう。それがあなた自身を変えることになります。幸いなことに私はあまり叱られたこともほめられたことも無く、放任されたような形でしたが、それでも自分の子どもが悪いことをすると、若い時は子どもを叱ってしまいました。

 だから全く叱ってはいけないというのは無理ですから、叱るのは3回に1回ぐらいにして、残りの2回はできるだけほめて育てましょう。絶対叱ってはいけないと言うと、今度はお母さんたちのストレスになりますから、時には叱ってもいいが、回数は減らしましょう。親だって人間ですから、子どもにもそう思ってもらうしかないのです。叱らず、ほめて、おだてて、育てましょう。動物の調教は、3割は餌で7割はほめること。鞭を使うと、すきあれば襲ってきます。

9)あなたも子どもだった頃を、思い出して下さい。

 子どもの立場、目線に立って下さい。子どもを信じて疑わないで、嘘(うそ)はつかないで下さい。子どもだってそれなりに判るのです。よく話を聞いてあげて、必ず説明して、話をして下さい。子どもを疑うと、嘘をつくようになります。嘘をついていても、信じた振りをして下さい。嘘を信じられると、子どもは嘘をつき続けられずに、あとで必ず「あれは嘘だった」と打ち明けます。それを嘘でしょとか、嘘つきねというと、今度は繰り返し嘘をつくようになります。なぜなら嘘つきだから、嘘をついていいのです。

10)悪い子にせず、良い子にしよう。 

子どもを叱る時に、子どもを全部否定するような叱り方はやめましょう。例えば「あなたは悪い子ね。あなたはぐずね。ばかね。のろまね。どじね。馬鹿ね。駄目な子ね。」など。こういう言葉はできるだけ子どもに使ってはいけません。

子どもの論理からいうと、悪い子は悪い事をしていいのです、悪い子ですから。良い子は、悪いことをしてはいけないのです。良い子は、良いことしかしてはいけないのです。ドジだねというと、ドジをしていい。なぜならドジな子だから。だからそういう言葉を使ったり、そういう言い方をしてはいけないのです。

「あなたは良い子だから、こういう悪いことをしてはいけませんよ。」と言う様にして良い子にします。そして言う通りにしたら、すかさず「あなたは良い子ね」と一言、言ってあげてください。そうすると子どもは、またしてくれます。何故なら、どんな子どもでもいい子になりたいのです。だから私の外来に来た子を、どこか必ずほめます。ほめる事によって子どもは気持ちが良いから、また来てくれるし、私の言うことを聞いてくれます。

私の診療所に代診できている東大小児科の先生たちはいろんな先生方がいますが、握手をしたり、どこか着ているものなどをほめたり、みんなそれぞれ医者によってやり方が違いますが、上手な医者は子どもをほめます。それで仲良くなり、うまく診療できます。だからお母さんたちも上手に子どもを操縦したかったら、「ほめ上手」になりましょう。そうするとお母さんの手の上で子どもは踊ってくれます。ただし、男の子は小学校を卒業するくらいまでが限度です。女の子はもう少し早く見抜いてしまい親の思い通りにならなくなります。

11)幼児教育は、やりたがった時に正しいやり方を教えるのが基本。 

  これから、いろんな習い事を教えることになります。習い事を教える時のコツがあります。決して強制しないこと。やめたかったらいつでもやめさせましょう。そうするとまたやりたくなり、やりたくなったら、また復活します。

  ところが「やりだしたからには最後までやりなさい。」と強制する人が多いです。これは特に、お父さんたちに多い。そうするとますます嫌になってしまう。嫌になると二度としなくなります。だからやりたくなかったら、いつでもやめてよい。そうすると、時間がたつとまたやりたい気持ちが出て来て、またやりだすことがあります。だからやめたかったら、いつでもやめさせましょう。それから、「ピアノ練習した?」「ピアノ練習した?」これを毎日言うとしなくなります。習い事は楽しいからやります。スポーツもそうで楽しいからやります。楽しくなければスポーツではありません。強制訓練です。

  以前、毎日新聞に載っていましたが、欧米ではスポ一ツは楽しいからやります。日本では楽しいからやるのではなく、身体を鍛えるためや健康のためにやるようです。

  身体を鍛える必要はありません。日本でもスポーツ医学を専門にやっている整形外科医などの医師たちに聞けば、「人間は何も身体を鍛える必要はないです。日常生活をきちんと送っていければいいのです。」と言います。運動やスポーツは楽しいからするのであって、楽しくなければする必要はありません。運動しないと身体が衰えてしまうという人がいますが、それは専門家に言わせれば思い違いです。日常生活をきちんと送っていければいいです。高齢になって動かなくなると、体の動きを維持するために体操や歩くことが必要になりますが、決してノルマにしないで下さい。

  でもこのことは昔の話になり、現代では特に都市では違ってきました。子ども時代に体を動かして走り回ることが骨を太く丈夫にするために必要になりました。私の子ども時代は、外遊びがほとんどで、遊ぶのは外でしたが、現代では家の中で遊ぶことが主になったのです。特に中学高校時代にスポーツをすることが骨を太くすると言います。それも自分からするように仕向けることです。

  小児科医の山田真さんが本に書いていますが、「体育というのはなぜ始まったか。小学校で体育をして整列させていっちにいっちにと並ばして歩かせていろんな体操をする。何のためにするかというと、明治時代の西南の役の後から始まりました。政府軍はお百姓さんが中心の軍隊でしたから、進軍の時に前進できない。普段、種蒔きや稲刈り、田植えなどみんな横へ横へと進んでやっているため、並んで前進できかったのです。武士は前に進めます。それで、百姓の部隊は武士に勝てなかったのです。そこから体育を始めました。」と言う。だから軍隊生活や、集団生活をするうえでは体育は必要ですが、人間が生きていく上では必要がありません。でも今は、大都市で日常生活を普通に送るだけでは、子どもは発達していけなくなったのです。

12) できるだけ子どもの立場に立って下さい。自分が子どもの時にはどうだったろうか。いつも自分が子どもの時のことを思い出して、子どもに接してあげて下さい。子どものしつけのポイントは叱らないこと。危険なことをした時には、叱らなければいけないと私も若い時は思っていました。でもそうではなかったのです。

 アメリカの小児科学教科書に書いてありますが、危険なことをしてほしくなかったら、子どもの目を見て何十回でも「これは危ないからしないでちょうだい。」と言う。3、4歳を過ぎたら、判ってくれます。これで言うことを聞いてくれたら、一人でいても決してしません。叱られていうことを聞くのであったら、叱られないところでこっそりやります。そうすると事故につながります。

  危険なことは親がやっているところを見られてはいけません。子どもは必ず真似をする。子どもだからやってはいけないが、大人だからやっていいというのは子どもには通用しない。子どもはみんな大人と同じだと思っていますから、同じことをやる。

13)着せすぎにしないように。

  着せ過ぎにしないようにしよう。昔は、「子どもは風の子」といって、みんな薄着だったのですが、最近は「かぜをひくといけない」と言って、一生懸命着せようとします。「寒いから着ていきなさい」というと、子どもが病気に対して関心が強くなり過ぎてしまいます。病気に神経質にならないで育てましょう。

  寒いから風邪をひくことはありません。寒いからかぜをひくのではなく、冬乾燥するとウイルスが繁殖しやすいからです。南極の観測隊では、しばらくかぜをひく人がいませんでした。極地ではウイルスは生存できません。所が誰か隊員の一人が風邪のウイルスを南極の観測基地内に持ち込み、それからかぜを引く人が出るようになりました。基地内は暖かいからです。ウイルスが持ち込まれ、誰かがそれを持っていて、体調を崩した人が感染して、かぜをひくのです。

14) 「そんなことしたら病気になるよ」と言って子どもがしていることをやめさせようとするのはやめましょう。逆にして欲しいことを言いましょう。「こういうふうにしましょう」とか、「こういうふうにしたらいいよ。」と言いましょう。決して命令してはいけないし、子どもを脅かして言うことを聞かせようとすることもやめましょう。命令すると子どもは反発します。選択肢のーつとしてこういうこともあるということを教えましょう。その中のどれかを選択させるようにします。

15) 子どもには、薄着を嫌う子と、薄着をしたがる子とがいます。これは強制できません。

 最近は厚着にする方が多い。それは赤ちゃんの時から親が厚着にさせるからですが、いくら厚着にしても嫌がる子と、親の言うなりになる子といます。しかし子どもに厚着をさせない方がいいです。子どもは一般に体温が高めですから寒さに強いです。だから、親より一枚薄着にさせるのが標準です。でも子どもが寒くて着たがったら着せて下さい。暑がったら脱がして、できるだけ薄着にさせて下さい。薄着保育をやっている保育所もありますが、嫌がるのを無理に強制するのもお勧めしません。薄着が嫌な子は着せなさい。薄着の方がいい子は薄着でいいです。最近減っているのですが、一時男の子に毛糸のパンツをはかせるお母さんが多いでした。毛糸のパンツを、男の子にはかせるのはやめましょう。

女性は「お尻が冷える」と言いますが、男はそんなことはないです。男の子のオチンチンがなぜ外に出ているかというと、睾丸の温度を低くするためです。睾丸というのは、温度がある程度低くないと働きません。その為暖めない方がいいので、生まれる直前にお腹の中から外に出てきます。だから毛糸のパンツはだめです。

 小さい時から厚着にしていると、大人になっても厚着の習慣になってしまいます。だからできるだけ薄着にした方がいいのですが、嫌がるのを無理にはしないで下さイ。

16)朝食を食べなくても構わない

  朝の食事を食べなくてはいけないと言う人がいますが、これも思い違いです。食べたくなければ食べなくていいです。というのは1日2食だって構わないのです。鎌倉時代頃までは朝と夜の1日2食が普通でした。それから現在でも相撲取りは1日2食だし、1日2食健康法を推進している民間のグループもあります。その人たちは2食しか食べませんがそれで健康です。体操の内村選手は、体重をコントロールするために、一日一食でした。

17) もう一つ、昔テレビや女性雑誌に出ましたが、「ブックスダイエット法」を提唱している九州大学藤野名誉教授は、「一日一回しっかり食べてあとは適当にする」というダイエット法を提唱していました。朝はできるだけ水分だけの食事で、昼は軽く食べ、夕食をしっかり食べます。そうする方がうまく痩せられます。朝食を食べることにこだわらないことです。子どもは朝お腹が空かなかったら、食べる必要がありません。お昼にお腹が空いたらいっぱい食べます。それで構わないです。

18) 朝しっかり食べさせたかったら、早起きをさせて運動させます。運動して時間がたつとお腹がすきます。食べないと動けないというのは思い違いです。お相撲さんは、朝食べずに稽古をしてから食事をします。昔私は高校時代に陸上ホッケー部に入っていましたが、夏の合宿では「朝マラ」と言って朝食前にマラソンをしました。と言っても距離は短かったですが。食べないと動けないというのは思い違いです。

19) またお父さんやお母さんが早起きをしないと子どもは早起きをしません。子どもだけ早起きさせるのは無理です。子どもに早寝早起きをさせなさいと言うけれど、親が遅寝でしたら早く寝させることは難しいです。子どもは親の真似をして生活しています。

親が遅く寝て早く起きる生活をしても、それは子どもにはまねをできません。子どもは体力を回復するためには、一定時間寝る必要があるからです。遅く寝たら早く起きられません。最近の子はなかなか早寝をしないというのは、大人の生活がそうだからです。

また小さいうちは、くたくたになるまで昼間遊ばせれば、早く眠くなります。しかしそういう体を動かして遊ぶ場所が少ないのです。走り回らせたり、外で遊ばせたりしないと、家の中で遊んだぐらいではくたくたに疲れません。屋外で身体を動かす遊びをすれば、くたくたになるけれど、そうはならないのが現状です。前にいた診療所は、待合室を広くとって椅子席の周りをゆったりとさせたら、子どもたちが走り回り困りました。それだけ走り回る場所が少ないからです。

 

 

 

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子ども医療講座 改訂版2

2022-12-12 10:21:31 | 子ども医療講座シリーズ

    子ども医療講座 改訂版

   第2回 子ども医療講座(改訂版-2)

  「 子 ど も だ っ て 一 人 の 人 間 だ 」

1)子どもは社会の子どもです。親の所有物ではありません。

 子どもは、今の社会では親の付属物的に扱われています。だからちょっと注意しても「うちの子に何をいうのと」親に言われてしまいますが、昔は町の中でいたずらすれば、注意するのは他の親だってしていましたが、今はしなくなっています。かえって親から何か言われるのが嫌だから言わないという時代になっています。

 しかし、子どもを産むのはお父さんとお母さんですが、育てるのは社会です。なぜかというと、子どもというのは、社会の中で人間になっていく。社会の中で育たなければ、人間として成長しないのです。

 昔、狼によって育てられた狼少年たちがいたし、また二十数年前、南アフリカで犬小屋の中で育てられた1歳半の子どもが見つかったことがありました。狼に育てられたという記録をねつ造だとする意見も少なくないですが、それにしては多数ありますし、いろいろな動物によって育てられた人の記録があり、全てを否定することはできないと考えます。犬小屋で見つかった子どもは、両親が育児放棄し、犬と同様に扱ったのです。小さい時に狼に連れ去られて、特に乳児から1歳頃までを狼に育てられた子どもたちはほとんど人間に戻れません。狼によって育てられると狼になるのです。狼に育てられた人間は四つ足で非常に早く走れて、人間が走るより速く、生肉を食べて、狼のように吠えて言葉が喋れるようになりません。人間の社会に戻れずに亡くなっています。狼に育てられたという人の中で、二人だけ言葉が喋れるようになった人がいたという記録が残っていますが、その人たちが言葉で喋れるのは、言葉を覚えてから以後のことだけでした。言葉を覚える以前のことは喋れません。これは言葉の問題と関連しますが、言葉を覚えて初めて物事を言葉で記憶出来るようになるようです。言葉として記憶するから、言葉がなければ、まわりの風景を見ていても、それを表現することも記憶することもできない。覚えている映像を言葉として表現できないのです。子どもも言葉をーつ覚えたから一つ言葉を喋れるのではなく、沢山の言葉を覚えて、初めて一言、二言出てきます。

 そこからも私は、発達障害を遺伝的に持った素質と育てられ方によってなるという説を支持します。人として生まれても赤ちゃんの時から動物に育てられると人間として成長しないのです。南アフリカでの犬小屋で見つけられた子どもは新聞で報道された事実です。その子がどうなったかは報道されていません。猿に連れ去られて、人間社会に戻った人の記録がありますが、言葉を覚えてから連れ去られた場合には、記憶として残り、後日話したことを本にしてもらった人がいます(マリーナ・チャップマン「失われた名前」)。

 明治時代には、1歳で猿にさらわれて育てられ、10年後救出されて小学校に入ったという大丸徹という東映の大部屋俳優がいて、その人が書いた文が少年雑誌に載っていて、それを少年時代に読んだ時に、非常に印象深くていつまでも覚えています。その話では、年に一回夏に山に戻るのです。何も持たないで行く。つまり猿と同じように何も道具を使わないで山の中に生えているものや、生きている物を食べて生活をします。猿と同じように火を使わない生活ができるのです。その人が都会で仕事をしているときに、時々ホ-ムシックになると動物園に行き、動物たちと会話をしたと言います。どうやって会話をするかというと、しぐさや声の出し方で会話をします。動物たちは、猿は猿同士しか会話をしないかというとそうではなく、いろいろな動物同士でしぐさで会話しているのです。ところが人間生活が長くなると、そのしぐさが低下してしまって、通じなくなってしまったと言っていました。

 それはさておき、子どもは社会の中で社会によって育てられています。社会の最小の単位は家庭です。(社会とは、三人からを言うようです。)家庭から地域社会へと広がります。そういう人間社会で人間として育って大きくなります。

 例えば、中国から日本人の残留孤児たちが引き上げて来ました。その人たちは、皆中国人の顔をしていて、見ると中国人としか見えません。ところが日本に長くいると、日本人の顔になります。外国人もそうです。日本に来たては外国人だけれども、日本に長くいると日本人的な顔になって来ます。逆に日本人がアメリカに長く行っていると、アメリカ的な顔になって帰ってくる。つまり人間は社会に育てられ、そこで生活していると、その社会による文化によって変わって来ます。

 子どももそうです。あくまで社会に育てられて、成長しています。人間は誰でも、人間として生きていくためには、社会がなければ生きていけません。たった一人では人間として成長しません。だから子育ても、社会的なものです。子どもにとっては産みの親より育ての親が大切であると昔から言われていました。育ててくれる親がいることによって子どものこころは安定します。

 母親が一人で子育てに悩む必要はありません。周りの人に相談したり、みんなで子育てすれば良いです。親は自分が産んだ子だとわかるけれども、子どもには判らないし、子どもには選択権がありません。育ててくれた親が自分の親なのです。

 虐待している親から子どもを引き離すことは、社会の義務ですし、離されることは子どもの権利です。虐待されている子どもは、自分が悪いから虐待されていると思うので、親を非難しませんし、親からなかなか離れたがりません。でも離すことが社会としての義務です。離されてから、だんだん子どもは自分の置かれていた状況を判るようになり、離されたことを感謝するようになります。虐待は、子どもの脳の発達を妨げたり、異常にします。(「虐待が脳を変える」友田明美、新曜社)早く離して、正常な発達に戻すことが必要です。25歳までにしないと、つまり成長が止まったら大変苦労しないと戻りません。

  以前イスラエルにキブツという集団農場がありました。今はどんどん崩壊して、残っているかは分かりませんが、昔はこれがやはり昔の日本のヤマギシ会と同じように、原始共産体制をとっていました。持ち物はほんの僅かな私有物だけで、あとはみんな共有財産として生活していました。化粧品もハンドバッグも共有です。夫婦はひとつの個室で生活しますが、子どもは全部1ヵ所に年齢毎にまとめられて、集団生活をします。子どもたちの日常の生活の介助をしてくれる人達も、他の仕事と同じように交替で勤務します。そういう社会の中で、子どもたちが親から離されて不安定になるかというとそうではありません。夕食を親と一緒に食べて、寝るまでの団らんの2時間ぐらいの間を一緒に過ごすと、子どもの心は安定します。別に精神的、心理的な問題は起きなかったと言います。当時イスラエルは(今でも)戦争状態でしたから、両親をなくした子どもが沢山いて、その子どもたちには、「この子はあなたが育ての親だ」ということで、育ての親を作ります。実際には夕食から寝るまでの間しか一緒にいないのですが、それでも親代わりの人を作ると子どもの心は安定します。そういう現実がありました。

   また、昔社会主義の時代だった中国で一週間保育という制度があって、月曜日の朝連れて行って、土曜日のお昼に連れて帰ります。親と一緒にいるのは、土曜日のお昼から月曜日の朝まで。だけど親がいて、その時間一緒にいれば子どもの心は安定します。特に問題は起きません。つまり子どもというのは、そういうものです。

日本の自民党や厚生労働省の幹部は、小さい子は親元で育てなければいけない、親が常時いなければならないと言っていますが、そんなことはない。子どもの心というのは、親がいるということだけで、安定します。

  国立病院に勤めていた時、入院している子どもたちで親が付き添っていない子どもたちは、面会時間になるとみんな病棟の入り口まで行って親が来るのを待っていて、お母さんが来ると一緒にくっついて病室まで戻るけれども、5分ぐらいしたらもう離れちゃって、ほかの子と遊んでいます。いると思うと、安心してノビノビ自分の好きなことをしています。そして、帰る時間になると、またやってきて、母親にピッタリくっついてしまい、帰る時には泣いたりします。でもお母さんが見えなくなると、けろっとしてまたほかの子と遊ぶようになります。つまり親がいるということ、そしてちゃんと会いに来てくれるということで、子どもの心は安定します。そして問題は起きません。

 だが今は、子どもは親の物などという風潮があります。その点欧米では随分社会化されています。例えば、アメリカでは子どもの物をとったということで子どもが親を訴えると親は処罰されます。日本は処罰されません。そういう法律がないから。子どもの物をとってはいけないというのは、アメリカでは当たり前。もちろんアメリカの税制も全部個人が単位です。

 一人一人の人権を尊重して、北欧諸国からフランスあたりまでの国では、子どもの虐待に対して厳しくて、誰かが虐待をしているのを見て通報すれば、親が処罰されますし、強制的に子どもを離されます。親が必死で子どもを取り戻すためには、法律上では裁判で争わないと、取り戻せません。子どもの虐待を防ぐということが隨分進んでいます。

しかしまだ日本では、子どもが虐待されているのを見過ごしていて、虐待で死んでいる子どもが年々増えています。まだ福祉事務所や、警察がなかなか介入できません。それは、法的な整備がされてないから、し難いということと、子どもは親の物というのが社会的に一般的に思われているからです。その二つの問題点があります。

旧統一教会の二世信者問題も同じです。昔は、「ものみの塔」というキリスト教系の信仰宗教があって、輸血を拒否することで知られていました。子どもに必要になった時に、どうするかが小児科医の間でも議論されました。結論は、本人が判れば本人の承諾で輸血をしました。本人の意思が確認できない、低年齢では医師の判断でしていたと思います。

 子どもだって一人の人間です。 親の所有物ではなく、親とは別個の人格があります。だから親の言いなりになることはないのです。子どもには子どもの人権があり、例え乳児であろうと、一人の人間なのです。子どもは親が生みますが、子どもはその親の元に生まれたくて生まれたのではありません。親とは別の人格があるし、基本的人権を持っています。

  旧統一教会の二世信者問題が浮上したら、他の宗教の二世信者たちが立ち上がるきっかけとなりました。マインド・コントロールのことは問題になりません。なぜなら、日本では知りませんが、アメリカでは催眠術を使って自白させることもあるという噂があります。ナチスが使ったのも集団催眠ですし、学童の車酔いを無くすために集団催眠をすることもありましたから。金銭を要求する宗教は認めてはいけません。自発的にするのはよいですが。子どもの教育費が問題になるのは、日本は教育費が公費負担ではないからです。

また、校則の問題があります。学校の制服は、一部の国から囚人服だと言われたこともあります。私は、中学から自由な校風の学校で過ごしたので、あまり自覚しませんでしたが、高校で自動車免許を取り、四輪車を運転していましたし、たばこも酒も吸ったり飲んだりする現場を押さえられなければ処分されませんでした。喫茶店も禁止でしたが、喫茶店のマッチを集めて高校祭に展示した先輩もいました。

校則で規制するのは、憲法違反ではないかと思います。個人の自由の侵害です。法律で認められているのに、学校で禁止するのはおかしいです。都立高校で男女交際や下着の色や髪の色、ピアスなどを禁止している学校もまだあるようです。私の息子も自由な校風の都立高校でしたし、娘も制服のない学校でしたから、校則でしばることなどあまり考えたことがなかったのです。最近、すべての都立高校の校則で髪の毛の色を黒にすることを廃止したと聞き、驚きました。もう15歳になったら大人として育てるべきだし、大人としての自覚を持たせる必要があります。昔は、男子は15歳で元服したと思います。選挙権がなくても、一人の人間としての基本的人権があると思います。

☆いつから子どもの人権を認めるかという議論が日本ではなされていません。

 子どもにいつから人権があるかというのは日本では問題になっていませんが、世界的には問題になっています。子どもが人権を持つのは、卵子が受精した時か、それとも妊娠中絶がいけないという時期(妊娠23週になると中絶できない)つまり23週以後か、おぎゃーと誕生した時なのか、いろいろと各国で議論があります。さらに自我意識が出る3歳過ぎか、月経が出るとか精液ができる時からか、元服の時か、選挙権を持つ時かということが、どこでも議論されていません。これはおかしいことです。

☆やはり子どもを育てるのは社会で、みんなで子どもを育てていくという感覚がないとなかなか難しい。確実に少子化が進んでいますが、「子どもを産むのは自分たち夫婦二人で、特に女性の方にかかってしまうから大変だから、子どもは一人でいいや。もう2人3人と、育てるのは大変。」という思いにつながってしまうとだんだん産まなくなってしまう。それが少子化につながっています。保育所とか子育ての仕組みをもっと社会的に充実させていかないと、少子化の進行は防げない。「子どもは社会で育てる」ということがまだ日本では遅れていますし、行政や官僚の中ではそういう感覚は育っていません。

 近年、父親の育児休業もとれるようになりました。子どもの介護のための休業も必要です。子どもが病気になると父親か母親がどちらか片方が勤めを休んで看護することができることが必要です。そのことをやっぱり社会的に作り上げていく必要があります。まだ社会的に、自民党の政策の下で、子どもは母親が育てるものという意識が強いのです。それが女性の社会進出を妨げています。

2)生まれたら一人前。子どもの個人の権利と義務。 

 子どもは生まれたら一人前、子どもの権利は子どもが生まれた時からあるというのが私の立場です。国際的な子どもの権利法案がありますが、日本はまだ正式には批准していません。それは、批准するための環境整備が非常に遅れているからです。日本は先進国に仲間入りしたはずなのに、先進国に比べて子どもの権利というのは、はるかに遅れています。だから批准するためにはいろいろなことを整備しなければならない。だからすぐにとは政府は批准できない。

 給食もそうです。給食を食べなければいけないと強制すること自体がおかしいです。

食べなくたっていいのです。むしろ今は、給食の無償化が必要です。給食で食を満たす子どもが増えています。子ども食堂はない方が良いのです。政府や行政がしないから、してるに過ぎません。

 「服装の乱れや、生活の乱れは非行につながる」と言う人達がいます。でもそれは思い違いです。それが証明されてはいません。その人たちの思い込みに過ぎません。規則で縛るから反発してそういう服装をしたがります。言うことを聞かないのだとの意志表示でわざとそういう事をしたりするのです。

今の中学は、朝練から夕方の練習まで一日中部活で縛って何もできないようにしています。「そうすると非行に走らない」という感覚でいる先生方が未だに多いようです。行動を規制すれば、非行に走らないというのは思い違いです。

法律を作って規制すれば、法律をかいくぐっていろいろ悪いことをする人が必ず出て来ます。いくら規制をしても、非行に走る子は走ってしまう。それよりも子どもたちに生きる目標を与えることです。何かしたいこと、やりたいことをやらせる。そして目標をもって本気になったら、その子たちはその目標にまい進します。

少なくない有名人が、中学や高校時代に警察に手を焼かせたりしています。でもその人たちは、その人の人生を変えてくれた人が居て、良い人生をたどることができたのです。

だから、今でも暴走族がいて、車を乗り回しているのですが、暴走族が一番少なかった時期はいつかというと、全共闘運動が華やかで、高校生共闘もでき、若い世代が学生運動に入ってきた時期が一番暴走族が少なかった。自分の学校や社会に対する不満がある子たちは皆そっちに吸収されてしまった。今は、そういう運動が何もないから、暴走族になって反抗しているだけです。

 だから、子どもたちの権利を認めて、自主性を認めて、自分たちでやらせるということ。それは何歳からかというと、私は生まれた時からと思っています。

日本ではまだ議論されていないし、子どもの人権とか権利そのものが、議論されていない時代です。だから子どもの権利が認められていないから、子どもの自由も認められていません。

 子どもはちゃんと意識していますから、ちゃんと教えて行けば、いろいろ成長して行きます。赤ちゃんの時だって、教え方があります。

☆前述の猿に育てられた人の話を聞いて、ああそうかと赤ちゃんと会話をしようと思いました。赤ちゃんとどうやって会話するかと言ったら、しぐさと目つきです。しぐさや目つきでうまく表現すると赤ちゃんは笑ったりして反応してくれます。

今は、赤ちゃんや子どもたちと、しぐさや顔付きや目で会話するようにしています。それで赤ちゃんたちが笑ったりします。親は不思議そうな顔をすることが多いのですが、おもちゃを使ったりもしますが、泣きわめいていた子どもがちゃんと私の言うことを聞いてくれるようになるのを見て驚かれます。

だけど人間はなかなかしぐさができません。言葉を使わないとできません。だから言葉をかけてあげます。言葉をかけると自然にそのしぐさをとります。だから言葉をかけていろいろしてあげましょう。通じているのは言葉ではなくてしぐさだと思います。だから言葉を出さなくても、しぐさですぐばれてしまう。こっそり薬を混ぜようとしても、そのしぐさでばれてしまう。隠れて何かしようとしてもばれてしまう。表情や雰囲気に表れてしまうのです。

動物たちはしぐさで会話をしていたし、赤ちゃんたちはそれを読み取ります。しぐさを読み取る能力が言葉のコミュニケーションがないほど高いです。言葉で会話をするようになると、だんだんその能力が落ちていってしまいます。言葉に頼ってしまいます。  

子どもが大きくなると、言葉だけになります。子どもは会話を通していろいろ学んでいきます。大きくなっていくと、保育所とか幼稚園に行きます。

☆子どもに対して、「朝食を食べないといけない」とか、「毎日ウンチをしなさい」とか、「給食は全部食べなくちゃいけない」、「牛乳は飲まなくちゃいけない」と強制をします。学校だって毎日行かなければいけない。そういうことは強制する必要はありません。なぜかというと、全く根拠を持たない思い違いです。どこにそれを証明するデータや事実があるのでしょうか。

☆「学校は楽しくなくて当たり前だ」と書いていた人がありましたが、楽しくなかったら、学校へ行かなくなります。保育所でも幼稚園でも楽しいことがあるから行くのです。楽しくすることが、ポイントです。

☆飽食の時代に食を強制することはおかしいと思います。私は「食育」という言葉は好きではありません。食べ物アレルギーは、親による食の強制にあると思っています。実例もあります。だから治すことができます。食べることで教えるのは、おかしいです。食べることは楽しいことなのに、楽しくなくなります。

  • 子どもに強制はしない方が良いです。

例えば小さい子どもの脳性麻痺のリハビリがあります。現在大人になっている脳性麻痺の人達は口をきくのも、身体を動かすのも非常に不便です。ところが小さい時にトレ-ニングをすると、ずっと改善します。そのトレ-ニング法が二つあります。

一つは決まり切ったやり方で、このトレ-ニングをしたら、次のトレ-ニングをしてと決めたとおりに赤ちゃんたちにやらせる方法です。数カ月間続けます。ところが赤ちゃんたちはそれにのってくれないで、いやがります。

それに対してもうーつのやり方は、その時その時に赤ちゃんの好んだやり方で次々とトレーニングを変えて行って、終わった時には一通り全部やっているという方法です。これは非常にテクニックが必要です。誰でもできることではありません。でもそのやり方だと子どもは喜んでやります。

その二通りがあります。手はかかるけれども、子どもの気持ちを尊重してやるリハビリというのは、子どもたちも喜びますし、それで発達します。決まった手順でやっていくやり方は、子どもが嫌うのでなかなか発達しません。嫌がってやらなくなってしまいます。

つまりこれは一つの例ですが、どんなことでも子どもを上手に扱えば、うまく子どもの気持ちを嫌がらないようにしていろんな訓練ができるのです。

☆昔ドイツにボリスベッカーと言うテニスコーチがいて、男性と女性の二人の選手を世界一にしたのです。子ども時代から指導したのですが、その方法は子どもたちにテニスをやらせる時、ボールを打つ練習をさせます。するとボールが飛んで行ってしまい、ボールを拾いにいく必要がありますが、子どもは嫌がります。それを一個一個のボールにひもをつけて、ボールを取るときはひもを引っぱれば集まるようにしました。とにかくあれが嫌、これが嫌というと、そのたびその度に嫌なことをなくすようにしたのです。

それでテニスの練習をさせたら一生懸命練習をするようになり、世界一のプレーヤーが二人育ったのです。嫌なことをなくして練習させるのがこのコーチのやり方でした。だから喜んで一生懸命練習をして世界一になりました。嫌なのが当たり前だなんて言って、子どもたちに押し付けたら、だんだん練習しなくなってしまいます。だからどうやってやりたくなるように仕向けるか。そこがポイントです。

☆ アメリカのケネディ家とか、ロックフェラー家とか開拓時代からの大家族というのは、決して強制しないです。子どもに後を継ぐことや、仕事を強制しない。ところがその家族集団の一族の中で、必ず上手に誰かが一族をまとめて、誰かが後を継いでいくように仕向けていくのです。自然に誰かが継いで一族を守っていきます。長く続いている家というのは、そういう仕組みがうまくできているのです。またそれだけ一族で結集しています。

だけど、新興のいわゆる成り金といわれるような一代で一族を築き上げた人というのは大概うまくいかないのです。自分の子どもに後を継ぐことを強制します。するとうまくいかないのです。江戸時代でも、「売り家と唐様で書く3代目」なんていう川柳がありますが、3代目になると、一族は潰れてしまう。大体そういうのが普通です。強制して子どもたちに継がせようとするとうまくいかないのです。大体反発して辞めたりしてしまいます。

上手にまわりから持っていくのがこつです。長く代々続いている家というのは、そのやり方が自然に伝わっているのです。だから自然に親は子どもにそういうふうに教える。すると自然にその子は親の後を継ぐようになってしまうのです。

☆ 昔、お嬢様ブームといって、お嬢様という呼び方が流行った時期があります。お嬢様というのは、自分が受けた教育を一番良い教育だと思って自分の娘に教育します。そして育てられた娘というのが、お嬢様なのです。ということはある程度、家庭が裕福でなければできません。子ども時代自分は惨めだったから子どもにはそんな思いはさせたくないと思ってしまうと、子どもは別な道を進んでしまいます。それが現実です。自分と同じことをさせないと自分と同じように育ちません。裕福な家庭でないとそれはできません。そうして育てられたのがお嬢様なのです。

でも現実に、自分と同じくさせたいと思うとなかなかうまくいきません。ではどうしたらいいか。子どもは子どもの人生を歩んでもらうしかありません。それは自分の人生を見せて、よければ選んでもらうし、別の道がよければ別の道を選んでもらう方法しかありません。子どもに強制することはできません。一人一人の意志、一人一人の個性を見つけてあげて、育てて下さい。でも別々の道を歩んで行きます。同じように育ててもみんな違います。沢山の子どもを育てれば判りますが、一人や二人では判りません。

だからのびのび育てて下さい。あなたにはあなたの人生があり、子どもには子どもの人生がありますから。

3)自然にのびのび育てよう。よく遊べ、よく学べ。

明治時代は「良く遊べ、良く学べ」というのがスローガンでした。学校では「学校でよく勉強しなさい。家に帰ったら、家の手伝いをしたり、よく遊びなさい。」と教えていた時代です。その時代にいろんな大企業の創立者たちが育っていますが、今、アメリカではそういう時代だそうです。家に教科書を持って帰ってはいけない。つまり、学校で教えることは知的な教育ですけど、家で教えることは勉強ではなく社会的な勉強や人間関係、そういうことを教えて行くのです。

子どもは遊びの中で、自然に社会関係を学んでいきます。子どもたちの遊びというのは、非常に大切なことなのです。だけど今それが無視されていて、子どもたちが仲間と遊ばなくなりましたし、遊びも違ってきました。人間関係が作れない子どもたちが大人になって、苦労している人たちがいます。人間関係がうまく築けず、人前に出ると喋れないとか、ものが言えなくなるとか、いろんな大人の人たちが出てきた。それは子ども時代にそういうことをしていないからです。

☆だから幼稚園、保育所、学校というのは、楽しいところでなければならないのに、楽しくなくて行くから、不登校とか、幼稚園いくのが嫌だとかいうことになってしまう。だから本当に上手な幼稚園や保育所の先生たちは、子どもに強制をしません。私の知っているある幼稚園では、費用は高いのですが、やりたければいつまででも運動場で遊んでいていいのです。他の子は部屋に入って、ピアノで歌を歌ったり、絵を描いたりしているのに、遊びたい子は外で遊んでいていいのです。男性保育士さんも二人いました。女の子でサッカーがやりたければやらしてくれる。そういう身体を動かすことを外でもやれるし、部屋で絵を描いたりしていたければそれもできる。運動会の参加も自由です。さらにオペレッタを子どもたちにやらせるのですが、劇というのは主役が一人いて、あといろんな役があるでしょう。ところがやりたい人はみんなその役になれるのです。海賊船の船長さんが3人出てきて同じ歌を歌ったり、お姫様が4人いたりするのです。やりたくなければ出なくてもいい。だからやりたいものをやりたいようにさせてあげる。子どもたちは喜んでやります。

また子どもたちにはこうしたらいい、ああしたらいいという提案をさせます。そうするとそれを受け入れて一緒に考えてオペレッタを作っていく仕組みができてきます。非常に面白い所で、楽しくてみんな行くわけです。嫌がる子はあまりいない。仲間に入れない子は、ほかの子が誘うのです。運動会に出ない子、走らない子がいるけれども、ほかの子が一緒に行こうよとか、みんなで誘う。そうするとそのうちにやるようになります。そうして仲良くなってみんな一緒にやるから、最後は出ない子はいなくなります。自由にさせています。それで子どもたちはのびのび育っていきます。園長先生たちは、じっとそれを見ているだけで、主役は子どもたちです。

学校も本来そうあるべきだと思います。ただ学校の場合はもう少し規則があっても良いかもしれないけど、今はあり過ぎです。子どもの自由な想像力を奪っています。

 

4)「闇教育」―― 子どもに間違ったことを教え、子どもに服従と従順を教え込むという教育原理(「楽園を追われた子どもたち」より)

19世紀の終わりから20世紀の初頭に子どもたちを親に従属させた、特にフランスを中心に行われた教育です。親や大人のいうとおりにさせる教育です。それを現代の研究者たちは「闇教育」と呼んでいます。つまり、「親のいうことは必ず聞く。親はいつも正しい。親は尊敬されなければならない。親は子どもの要求に屈する必要はない。子どもは尊敬に値しない。子どもの価値を評価してはいけない。子どもにやさしくするのは有害である。服従する人は強くなる。外見の方が心より重要である。見せかけの謝意の方が感謝の気持ちが欠けているよりましである。激しい感情の動きは有害である。肉体は不潔で嫌らしいものである。」というようなことを、まだまだいろいろありますが、子どもに小さい時から教え込むのです。そういうことによって、子どもに従順と服従を教える。そして親の言うなりにさせる教育です。闇教育については、別に書きました。(ブログ参照)

「スパルタ教育」というのは、フランスの乳幼児精神分析医が書いているのですが、「今では経済社会が生んだ精神病のーつとされ、同時に両親や教育者のサディズム的欲望の結果であると見なされています。」(前出書より)。フランスや北欧諸国では、スパルタ教育はおかしいとされてきました。だけど日本ではまだスパルタ教育は教育法として通用しています。スパルタ教育が教育法ではないとされるのはあと30年や50年はかかるかもしれません。

 ですから、体罰は教育としての有効性を持たないのですが、まだ日本では教育に体罰は必要であるという考えがなくなりません。子どもに体罰をして、良いということは一つもありません。体罰されても言うことを聞かず、隠れてやるだけになります。中学、高校になって体罰をされると必ず仕返しを考える生徒が出てきます。

だから学校が荒れるのです。子どもを教師の言う通りにさせようとするから、問題が起きるのです。

 

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子ども医療講座 改訂版1

2022-12-01 10:49:51 | 子ども医療講座シリーズ

                 子ども医療講座 改訂版

          子 ど も 医 療 講 座 (改訂版)

         第1回「 健 康 は 自 分 で 守 る も の 」

1)医療は病気をなおす技術であり、医者は医療の専門技術者である。

 ➀医師は多くは、細分化された分野の専門家である

 医者は、素人から見れば医学医療全般の専門家に見えるが、内科、外科、小児科などの多くの科に分かれており、その上小児科を始めすべての科が、皆それぞれ更に細分化した専門分野に分かれている。

 小児科は、普通は小児内科を指し、新生児・未熟児科、循環器科(心臓)、呼吸器科、血液・悪性腫瘍科、感染症科、アレルギー科、内分泌科、神経科、腎臓科、肝臓または消化器科などに分かれている。外科系も、小児外科、小児整形外科、小児眼科、小児耳鼻科、小児皮膚科、小児泌尿器科、小児婦人科、心臓外科先天性部門、小児形成外科、更に小児精神科、小児放射線科、小児歯科があり、さらに矯正歯科、脳外科、麻酔科、移植外科なども子どもの医療にかかわっている。

 専門医としては、日本ではまだ麻酔科だけが信頼されている制度になっている。認定医とか専門医という制度は他の科でも実施されているが、博士号と同じで、信頼度が低い。現在は、専門に勉強し、専門に患者の診療にあたることで、専門医になることが多く、試験はあるが、専門医の資格をとったからといって、標準化された医療をしている保証はない。日本の医療が標準化されていないことにも問題があるし、専門医を養成する制度ができていないことにも問題がある。すべて個人の努力に負っていては、標準化されない。

 さらに日本では、勝手に専門科名を名乗れるので、病院の小児科は小児科専門医であるが、診療所の小児科のほとんどは小児科専門医ではない。小児科しか名乗っていないか、小児科内科と名乗っていれば、小児科専門医であると考えてよいが、内科小児科というのは内科医である。小児科だけでは診療所の経営が成り立たないので、小児科医になりたがらないので、小児科医だけでは日本の子どもの2割くらいしかカバーできないためである。

 しかも小児科専門医と言っても、さらに細分化されて未熟児・新生児、呼吸、循環、腎臓、内分泌などの専門分野に分かれます。それが大学病院で生み出されています。大学病院に残ると必ずどこかの分野に配属され、細かく細分化されるのです。

 私は、総合小児科医であり、子どもの病気を浅く広く知っていて、小児の耳、鼻、目、口の中、泌尿器などの簡単な病気を治療します。アトピー性皮膚炎、花粉症、気管支喘息などのアレルギーの病気の治療をします。大人を専門とする耳鼻科、眼科、皮膚科より、子どもの病気に関しては上手に治してきました。総合小児科医は、日本では教育システムがなく、ほとんどいません。

 専門医の中でも腕の上手下手はあるし、よく説明してくれるか否か、優しいか否かなどの違いもある。しかし小児の専門医で腕の良い医者は、何科にかかわらず子どもを扱うのが上手で優しい。病気がよくならない時や、専門的な治療を要する時は、子ども専門の医者にかかることをお薦めする。良い専門医を知っていることが、医者の腕である。あくまで選ぶのは医師個人であり、病院ではない。

 知識というものは、誰を知っているかが、何を知っているかである。自分では知らなくても、知っている医者を紹介するか、電話などで相談することができれば、知っているうちに入る。良い医者は良い医者を紹介してくれる。しかし、必ずしも近い所に居るとは限らないのが難点である。

当たりはずれのある医療

 一般に医者は、専門医として教育され、大病院に勤務するので、自分の専門分野以外については詳しくは知らないことが多い。そういう専門医が、開業したり、一般病院に勤めたりする。そこで同じ科を標榜していても当たりはずれがある。これは日本の医師の卒業後の教育制度の欠陥からくる問題でもあるし、日本の医療が標準化されていないことにもよっていて、当たりはずれのある医療を生んでいる。アメリカでは、1970年代に医療の標準化が進み、一般的な日常の医療に関してはどこでもいつでも最高の水準の医療が受けられるようになっている。

 日本は当たりはずれがあり、開業医でも良い医者にあたれば、良い医療を受けられる利点もあるし、大学病院、小児医療センターや大病院に行っても良い医者に当たるとは限らず、はずれの医者もいる。結局は、どこにかかるかではなく、医者個人の腕に左右される。どの医者が本当によく知っていて、腕が良いか、優しいかは、会っただけでは医者でも判らない。一緒に診療をしたり、患者さんを紹介して初めて判ることもあるし、上手な医師や上手な診療を知って、判ることもある。

 元日本医師会長だった故村瀬敏郎先生は、出身は外科医だったが、開業してから内科を加え、さらに小児科も始めた。私のアイスホッケー部の先輩で、部のOB会長だったので、小児科を始めた時に部のOBの小児科医たちが、いろいろ質問したがすべてに正しく答えたので、その後は誰も何も言わなくなった。先生はその後育児書を書き、医師会に予防接種センターを作り、日本小児科学会の予防接種専門委員会の委員にまでなった。後に日本医師会長になったが、医師会長としての評価は知らないが、医者としてはよく勉強していた。

 私自身は、大学における医局講座制度(医師と関連病院の人事を左右している、教授を頂点とする制度)を批判し、小児科の中の細分化された専門家にならず、小児医療全般に浅く広く知識を持つ総合小児科医(小児科総合科医師)を目指してきたので、小児医療(小児内科でなく、子どもの医療全般)を浅く広く知っているが、細かい専門的なことはその分野の専門医に依頼している。

だから私は専門医資格を持っていないし、博士号も持たない。私の腕が勝負である。

 予約制の小児科が多いが、私のいた診療所は予約制ではなかった。子どもの病気は、ある日突然起きることが多いので、予約しないと診てもらえないのはおかしいし、私の外来はそれほど混雑しなかった。それは何度も来なくて治るからです。例えば、アトピー性皮膚炎や喘息様気管支炎の乳児なら2~3回、かぜなら1回、気管支喘息なら年数回、大抵の病気は1回で済みました。それは薬だけでなく、予防や食事療法など教えていたからです。最初にいた吹上共立診療所時代には治ってしまうし、予防を教えますから、患者さんがどんどん減ってしまい、経営的には苦労しました。

知識というものは、知っているか知らないかであって知っていれば100%、知らなければ0%である。知らない医者にいくら聞いても、答えないか、またはいい加減なことを知ったかぶりで言うだけである。専門家やプロの人たちは、素人にやさしく判りやすく説明してくれるものである。よく知っているからそうできるのであって、生半可な知識では上手に説明できない。だから医者に、よく質問することである。答えてくれない医者は敬遠しよう。

 医者の言うなりになってはいけない。言うなりではなく、納得することが大切である。医師の言うことに納得したら、医師の言う通りにしてよい。

人はなぜ病気になるのか

 私は「人はなぜ病気になるのか」について、「人は環境にうまく適応できない時に、その遺伝的に持つ弱点に病気が出る」と考える。この説はアメリカのロックフェラー大学環境医学の故デュボス教授の説で、欧米でも日本でも基礎医学者や精神科医に支持者が多く、臨床医にはほとんど支持者がいません。私はデュボスの本を読んで、病原環境説の方が病気をうまく説明できるし、病気の治療に応用するとうまく行くので考え方が変わりました。この考え方は、「ヒポクラテスへ帰れ」というデュボスの言葉の通り、世界ではネオヒポクラテス学派と呼ばれています。

➃自分自身で健康を維持しよう。

 自分で自分の健康を守ろう。病気を治すよりも、病気を予防する方がやさしい。

 病気にかかった時には、医療技術は医者に学ぶが、実際に治すのは自分であるから、自分で病気を治すようにしよう。薬をもらっても、きちんと薬を飲み続けるのも、食事療法をするのも、リハビリをするのも自分の意志である。

北野(ビート)武に学ぼう。彼は医者にとっては不可能と思われた顔面の麻痺を、信じられない程の努力で治してしまった。彼は、外傷による顔面神経麻痺を、努力して自分で治した。普通では回復は困難と思われる程の神経症状でしたが、毎日毎日自分の努力で、動かない顔の筋肉を動かし、ついにほとんど判らないくらいに治してしまった。始めは顔の一部がピクピクしていたが、それも今はほとんど見られない。私は、その努力をしたというだけで敬意を表する。

 医者は、人が豊かな人生を送るためのお手伝いや援助をするだけで、自分の健康を守り、病気を治すのは自分自身である。その為のノウハウを教えましょう。但し自己過信はけがのもと。一度は腕の良い医者に診てもらい、治療法を教えてもらうこと。

2)病気は人間の生物学的過程だけで起きる訳ではない。

病気は、人間と環境(自然環境と社会環境)の相互作用の中で発生する(病原環境論=ネオヒポクラテス医学)。人間は、他の動物や植物と違って、地球のすべての場所に適応して生きていける力がある。そして人間は、地球の自然環境を変えてきたが、地球が変わると人間も変わっていく。

 人は南極も北極も、熱帯も、3000メートルを超える高山地帯にも住んでいます。

 人が環境にうまく適応できない時に、病気になる。自然環境に適応できない時も、社会環境に適応できない時にも、病気になる。

 ウィルスや細菌に違いがないのに、軽く済んだり重症化したりする違いがあるのは、人間の側に違いがあるからで、その違いは、環境によって人間が変化してつくられたのである。

人は身体とこころを持つ社会的存在である

 人間は身体とこころ(精神)をもち、社会的に左右される存在である。社会の最小単位は家庭である。社会は地域、職場、学校、民族、国、世界と拡大される。

 こころは社会的に左右される。特に赤ちゃんから幼児の頃のこころの成長が、人間のこころを左右する。そして人間の社会的な生活がこころを左右し、それが病気を左右する。一般には物心がつく頃と思われてきたが、記憶にない乳幼児期のこころが人生を決めることが分かってきた。

 一般の精神科医や児童精神科医も、記憶にない時代を取り扱わないが、乳幼児精神科医は乳幼児期の心を大切に考えている。特に虐待を受けていると、脳の発達が変化する。でも成長が止まる25歳頃までは、変わることが容易である。それを過ぎるとかなりの努力がないと、人は変われない。

 心身共に充実している時には、風邪をひきにくい。身体がいくら充実していても、精神面に問題があると病気になる。

子どもを上手に育てると、病気をしなくなります。「病気をするたびに免疫ができて強くなる」と言うことは間違いです。人間は自然に免疫システムを完備し、それを上手に働かせれば病気をしないし、かかっても軽く済むのです。それを利根川進さんが証明してくれました。利根川さんは「人は1億もの抗原(病原体や異物)に対し、抗体を作る能力を持つことを証明したのです。ウイルスや細菌が入ると必ず病気になると考えている医師が多いですが、そうではなく、その時に体力や抵抗力が落ちている時に病気になるのです。

 WHO(世界保健機構)の健康の定義では、「健康とは」「病気でないだけでなく、身体的にも精神的にも、さらに社会的にも調和のとれて完全に良好な状態をいう」

 

精神神経免疫内分泌学

 こころと免疫の働きが連動していて、さらにホルモン分泌などの内分泌にも影響することが、近年証明されました。ホルモンの働きも免疫と共に、こころと連動することも判ってきたのです。この30年位前からアメリカのハーバード大学の精神科を中心とした「精神神経免疫学」の動きで、ストレスによって免疫の働きが低下することも、動物実験で証明されました。その後ホルモンの分泌も心に左右されることも、動物実験で証明されたのです。

 そのために、ストレスがあると抵抗力が落ち、その時に病気になりやすくなる。よく幼稚園や学校の行事があると、その前後に子どもが病気になるのもその例である。インフルエンザにかかるのは、通常10%と言われ、受験などのストレス状態にある子どもがかかりやすい。こころと体の健康を維持していれば、かかることはない。また病気を怖がったり、不安があると病気が悪くなり、重症化しやすい。

◇マウスの実験では、過密の状態で飼うと、妊娠し難く、まばらに飼育するとすぐ妊娠するという。不妊症もストレスが関与しているのである。

◇犬の実験では、ストレス状態におくと病気になりやすいことも判った。

◇重症の火傷を負った時に、病気と闘うように催眠をかけると回復が早いことも判っている。

自然治癒力。人は誰でも自然免疫のシステムを持っている。

人間には、病気を治す力がある。それが妨げられた時が病気である。

 昆虫の研究では、蠅(はえ)の一種は体内で抗細菌、抗真菌の蛋白質を作り、抗ウィルス性や抗がん性の蛋白質も作っていると見られることが判ってきた。進化の過程で自分に有利な機能を落とすことはないから、人間はそれに替わるもっと進んだ生体防御機構を持っていると考えられる。そこから「人間には元々病気を治す力(自然治癒力)が備わっていて、その力が妨げられ、発揮されない時に病気になる。」と考える。この考えだと、宗教によって病気が治ったり、癌の自然治癒なども説明がつく。免疫の仕組みには、自然免疫と獲得免疫がある。

3)文明は人間の病気を発生させた一つの要因である。

 人間が自然の中で暮らしている方が病気は少なかった。文明が社会を変え、社会が変わることによって、病気が増えてきた。交通機関が発達するに連れて、地方の土着病が世界的な病気になり、また薬害、公害などが登場してきて、ますます増加している。アマゾンのピダハン族やアフリカのブッシュマン族は、現在でも平等で争いのない社会を作っていて、病気がない。ピダハン族は、外部から隔絶されて守られている。

 社会が進むに連れて新しい病気が増える。放射線や発癌物質の増加により癌が増え、人間社会の入り組んだ関係からストレスが増え、精神病、心身症、アレルギー性疾患が増加している。その為先進国の方が病気が多く、医療費が増えて国の財政を圧迫している。

 文明は健康を増進させてもくれたが、その武器の一つが医学であるが、武器は医学だけではない。社会が変化したことによって病気に打ち勝ったものもある。

 天然痘が撲滅されたことや、伝染病が減少したのは、医学の力と共に、検疫や隔離など社会的施策によることも大きい。結核やライ病の減少は、主に社会的対策による所が大きい。

4)長寿日本一は・・・。日本一の長寿県は長野県です。昔は日本一の医療過疎県、沖縄県でした。

 令和三年の平均寿命は、女性87.57歳、男性81.47歳ですが、都道府県別では、女性は長野県が1位、2位は岡山県。男性は滋賀県が1位、2位は長野県。

 自然環境や質素な食事が寿命を延ばすのか。

 人間の寿命に医療はほんの僅かしか寄与していない。寿命が大きく延びたのは、赤ちゃんや子どもや青少年。江戸時代には五歳までに25%以上が死んでいた。これは現代では難民キャンプの乳幼児死亡率に匹敵する。新生児や乳児の死亡や青少年の死亡が少なくなった分を中心に平均寿命が延びていた。日本の乳児死亡は世界一少ないから、平均寿命も世界一になった。ひと昔前まで、男の子の死亡率が高く、生まれた時には男が多く、20歳では女の方が多くなっていたが、今は20歳でも男が多い。

 老人の寿命も延びている。老人は環境の変化に弱く、暑さ寒さの気候の変化や、土地や家が変わったりすると変化について行けないが、冷暖房の普及や住居の改善、また食料の充足や老人の趣味なども広がり、寿命が延びている。しかし、中年の男性を中心として癌、心筋梗塞、脳梗塞などの成人病による死亡が増加し、平均寿命の延びを鈍らせている。

5)健康を守る方法について。

 健康を守るには、第一に暮らしやすい社会にすること。それには自分の住んでいる地域から変えていくこと。暮らしやすく、住みやすい町にする。世界の町を見て、住みやすい町にしていこう。なぜなら自分のこころが落ち着くからである。人間は一人だけでは生きていけず、社会があって初めて人間として生きていける。

 人間は生まれながらにして、人間ではない。人間に育てられて初めて人間になる。狼に育てられれば狼に、犬に育てられれば犬になってしまう。1990年11月、南アフリカで2年余にわたり犬に育てられていた2歳半の男の子が見つかったが、行動は犬であった。子どもはまず家庭と言う社会で育てられる。そして保育所や幼稚園、地域社会へ出て行き、育っていく。うまくその環境に適応していれれば、病気をしないで育つが、適応できないと病気になる。だから、集団生活に入るとしばらく病気を繰り返すことが多いが、慣れて来ると病気をしなくなる。でも、くよくよしないタイプの子どもは病気をしない。

 健康を守る第二は、くよくよしないことである。不安があれば、不安を無くすか、不安を忘れること。これがなかなか難しい。いつも楽しいことを考え、嫌なことは棚上げすること。

 第三は、健康に良いと言われることを実践してみること。禁煙、節酒、体重のコントロール、運動など。でも無理せず、健康に悪いことでも、好きでやめられなければやめなくてよい。運動もし過ぎると体をこわす。

 第四は、生きがいをもつか、生活の中での楽しみをもつこと。 

6)以上に関連したいろいろな感想

◇新生児・未熟児科の医師は、500グラムの未熟児でも救命したりするし、750グラムの未熟児ならそんなに難しくないというのだが、小学生以上になると体も大きいし、薬の量も多いので、診療するのが不安になるという。500グラムの未熟児は大人の手のひらに乗ってしまう大きさである。

 ところがその医師が、退院後の指導が上手でない。入院中の医療は世界の最先端を行っているのに、退院後の外来での診療は大きく先進国に遅れている。それは離乳食の指導にある。日本の離乳食は先進国では一番遅い。その為食事が原因でのいろいろな病気が絶えない。指しゃぶり、物をすぐ口に入れる、少食、偏食、過食、甘い物好き、子どもの肥満、食事アレルギーなど食事関連の病気が少なくなく、その多くは適切な離乳食指導で予防できる。

◇ある子どもが、転んで前歯が折れてしまった。近くの歯科(一般歯科)に行ったら、取るしかないと言われたという。母親はちゅうちょしていたが、たまたま風邪で私の所へ来たので見たら、折れ曲がっているがまだついたままなので、これならつくはずだと思い、知り合いの矯正歯科医を紹介した。その結果、その子の前歯はうまくついて元どおりになり、取らずに済んだ。

◇麻酔科が未熟児の呼吸管理をしていることが、余り知られていない。麻酔科は、現代では呼吸と循環の管理が専門であり、痛みをとることもしている科と考えた方がよい。国立成育医療センターでは、院内の呼吸管理はすべて麻酔科医がしている。子どもの麻酔は、どんな麻酔でも全身麻酔がよく、麻酔科専門医に任せた方がよい。麻酔に大きい小さいはない。心臓の手術でも、扁桃摘出の手術でもすべて同じ麻酔である。

◇麻酔科の専門医制度が信頼されているのは、きちんとした教育のシステムと専門医試験の公正さにある。元々麻酔科は、アメリカでの教育を受けてアメリカの専門医の資格を取った医師が日本へ戻り、各大学の麻酔科教授になって、日本の麻酔科を作った歴史がある。それで、アメリカの教育システムを導入し、専門医試験も私的感情を入れずに判定する仕組みが作られて維持されている。それで信頼されている。

 日本の他の学会の専門医や認定医は、博士号と同じで、適当に作られ、資格を持っていると言っても信頼できない。教育のシステムができていないのでペーパーテストに偏りやすい。

◇小児外科医は、離乳食も知っているし、子どもへの注射が一番うまい。それは新生児外科が多いし、入院する子どもの全員に注射点滴をするから、注射点滴が上手になるのである。大人と違って子ども特に乳幼児、さらに新生児未熟児の注射点滴は至難で看護師にはできない。未熟児科医師は500グラムの未熟児にも注射点滴をする。大人用よりも極めて細いと言っても、未熟児の血管の太さより太い注射針を血管に入れるのであるからすごい。若い時にしかできない技術である。

◇私は、今までの実績から国立成育医療研究センター、都立小児医療センター、埼玉県立小児医療センターや各府県の小児医療センターに紹介している。しかし、開業の医師を紹介することもあるが、私が信頼する医師だけである。紹介するのはすべて医師個人が対象であるべきだが、最近はなかなかうまく見つからず、次善の病院へ紹介せざるを得ない時もある。

◇私の後輩に、優れた内科医がいて、先輩を追い越して内科講師になり、40代で某大学の内科教授になったのに、突然辞めて開業してしまった。内科はどこの大学でも、トップクラスがいく科であり、内科教授にはなかなかなれない。(私の同級生でも、定年まで内科助教のままの人がいた)私が信頼する後輩であったが、何があったのか、教授を辞めて開業してしまった。彼が開業した土地の人は、期せずして優秀な内科医に診てもらうことになったのである。一般には、教授が良い医者とは限らないが、開業医の息子であったから上手にしていると思う。周りの住民は幸運である。

◇小児科の先輩で、慶応の講師から愛知県の私立大学の教授になった人がいた。しかし、赴任すると当初の約束と違って、研究設備はほとんど揃っていないし、外来を毎日させられるし、一番怒ったのは連れて来た自分の弟子の研究ができないことであった。しかし、それでも我慢していたが、丁度その時に名古屋大学小児科教授が退職するので、後任の教授選が始まった。たまたま名古屋で開業していた慶応の先輩が、兄弟が名古屋大学の小児科を出ていたので、実績や人柄から名古屋大学小児科の教授に推薦し、名古屋大学も受け入れて最終選考にあたって母校の推薦状が必要になった。ところがなぜか慶応小児科教授が推薦状を出さなかったので、最終選考からはずれてしまった。 彼は激怒して、勤めていた大学教授の職を辞めて開業してしまった。その後某私立医大の客員教授になった。ところが、その反響はどうかというと、善し悪しは半々であった。何故なら、小児科の教授を定年退職した後の就職先がないことが多く、現役時代はよくても退職後は惨めになることが少なくないからで、開業だったら年齢に関係なく自分の働けるまでできるから、その方が良かったという声が教授クラスに少なくなかったという。

◇一般に医師は、診断や治療が難しい病気はよく勉強するが、日常にありふれた病気や自然に治ることの多い病気は、軽視して勉強しないことが少なくない。だから難病や癌は日本やアメリカの専門書を読んだりするが、風邪やインフルエンザ、胃腸炎などの診断や治療がおろそかになっていることが多い。診断や治療が適切で無くても、患者の方が自然に治ってしまうから、医者に反省させることがないからである。

 これはどの科でも同じである。小児科以外の科は、主に大人が対象のため、子どもの扱いも、子どもの病気の治療も上手で無いことが多い。どうしても大人の治りにくい病気の治療が主で、子どもの病気が軽視される。

 例えば、蓄膿症(副鼻腔炎)、滲出性中耳炎、斜視、弱視、包茎、亀頭包皮炎、とびひ、水いぼ、蕁麻疹、アトピー性皮膚炎など。

 耳鼻科では、耳鼻科医と小児科医向けに、小児耳鼻科の本が出ているくらいである。

 内科医に子どもがかかった時の問題点は、すぐ解熱剤やステロイドの内服を使う医師が多いこと。子どもの病気を充分には知らないから、説明が不十分だし、診断も当てになら無いことが少なくない。特に突発性発疹、風疹、おたふく風の診断があてにならない。

 小児科医でも、一般に嘔吐下痢症の治療が下手である。私の知人の小児科医の中には、診察室の隣に点滴部屋というのを作って、6ベッドも置き、多いとそこが満員になるくらい点滴をしているという。私の診療所で大人も含めて最大で同時に点滴をしたのは二人で、子どもの点滴は滅多にありません。他の医者は嘔吐の初期治療が下手なので、脱水にしてしまうからである。それを私はマッチ・ポンプだと思っている。(マッチで火をつけて、その火をポンプで消すこと。政治家を揶揄する例えから来ている)

知識というものは、丸い球の様なもので、知識が少ない時は、球は小さくその表面積は少なく、知らないことも少なく、知識が増えると、球が大きくなると表面積も広がって、知らないことも広がる。知識が少ないと、何でも知っている気持ちになり、知識が増えるとほんの僅かしか知らないという気持ちになり、謙虚になる。

こころと身体はメタルの裏表である。こころが動けば、体も動揺する。体の具合が悪ければ、こころも健康ではなくなる。

◇アメリカの医療の標準化とは、例えば時差が3時間ある東海岸から西海岸へ移っても、同じ治療をするから、看護師は就職してもすぐ翌日から、何年も前から働いていたかのように、仕事ができる。アメリカは看護師も専門化し、自分の専門の科に勤務することが普通である。だから手術室の看護師は手術室に勤務する。しかも地域や病院や医師が替わっても、手術の方式も、注射や投薬の仕方も、伝票の形式も同じになっている。病院ごとの違いや、医師が変わると方法が変わるというような日本とは全く違う。だから就職の翌日から、他の同僚と同じように仕事ができる。

 その背景には、専門医制度の確立と医療保険制度の違い、それに消費者運動の要求と盛り上がりがある。専門医制度は、一般に4年くらいだが、日本の十年に相当するくらい密度の濃い勉強と経験を積むことができるシステムになっている。

 医療保険も任意加入制が中心で、手術もいろいろな病気の治療も、病気ごとにこのレベル以上の医師というような条件があり、ほとんどの手術は専門医でないとできないし、その方法も決められていることが多い。その条件を満たさないと、保険金の支払いが得られないので、みなそれに従うことになる。

 消費者運動もラルフ・ネーダーを中心に活発で、議会対策も行われ、医療費が高いことからも、医師に対する要求が強いと思われる。

◇腕の良し悪しは、かかって見なければ判らないのが、日本の現実である。アメリカでは金を出しさえすれば良い医療が受けられるが、日本では金を出しても最高の医療が受けられる保証はない。大学教授であっても、良い医師とは限らないのが日本の現状である。私の同級生もかなりいろいろの大学の教授になってはいるが、私がかかりたいと思う人はわずかであり、だから紹介しない。私が出身は慶応でも、慶応に紹介しないのは信頼できる医師が少ないことと、いても遠いことである。

◇しかし慶応小児科の松尾名誉教授は信頼できる人で、若い時から優秀でひらめきがあり、私の小児科医になりたての頃に教えていただき、私の医療技術と医療理念の形成を大きく左右した人で、慶応小児科から干されていた時にも分け隔てなく応援してくれた人です。

 私が、子どもが病気になった時に、安静も栄養も保温も必要ないと言っているのは、実は松尾名誉教授が卒業後四年目頃に言っていたことで、私はその時小児科1年目で、それに感心してその後ずっとそれでやって来たが、本当にその方がうまくいくので続けている。

 当時松尾先生は、小児科の看護師の病棟主任が小児看護の本を書いていた時にその医学面のチェックを頼まれて、その文の中の「安静、栄養、保温」という言葉を全部削除していた。その時それがアメリカの文献に裏打ちされていることを知ったのである。

◇札幌の麻布脳外科病院の話がNHKテレビで2度放送されたが、ほとんど全身麻痺で植物状態と思われる患者さんを受け入れて、ほんの僅かに残されている機能、例えば目を動かすことや口を開けることなどを使って、話しかけたり、紙に書いた字を見せたりした、それに対する返事をイエス・ノーで答えさせ、意思の疎通をはかって、リハビリをさせ、努力して体を動かすようにさせ、半年1年かかって車椅子で生活できるようにさせ、驚異的な回復をさせる。この時の病棟の師長はその後筑波大学教授になりました。それを指導した院長を始め脳外科の医師たちも大したものである。

◇だから私は、脳死をもって人の死とすることに異論がある。生きる意思があるから生きているのではないのか。それが外から判らないだけではないのか。

 と言うのは、私の経験では、意識がなくなると急速に抵抗力が落ちて、外からの細菌やウィルスに対する感染を起こしやすくなり、死に到ることが多い。

 またいろいろな事故や遭難事件での生存者に共通することは、生きることに対する執念であった。こんなことでは死ねないという一念が生還に繋がるのだと思う。「もうだめだ死んでしまう」と思う人は、すぐに死んでしまいやすい。

◇気管支喘息で突然死があるが、ある心療内科の医師の話では、パニックになるからだという。パニックになって、「呼吸が苦しい、呼吸が止まってしまう、もう死んでしまう。ああもうだめだ。」とどんどん悪化し、呼吸が止まってしまうのだという。確かに乳児は別にして、幼児の突然死は少なく、年齢が高くなるに従って突然死が増え、成人になってピークになる。子どものパニックは、母親がパニックになるとなるようで、母親が冷静になって子どもを励まし、必要なら救急病院へ連れて行くようにすると突然死にはならない。

 

 

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来たれ新たな社会主義

2022-10-27 18:18:40 | 社会主義

           新たな社会主義を求めて

         新たな社会主義

 私は今まで、世界の動きを少ししか見ていず、取り残されていました。

ところが最近、ある遺伝子学者の友人から、日本では科学ジャーナリズムが育っていず、世界から10年は遅れていると言われて驚きました。

 そこへコロナウイルス肺炎のパンデミックが起きました。私の持っている知識と蔵書から、すぐに分析してブログに載せました。2020年2月だったと思います。今でもそれが通用します。そこへ斎藤幸平の「人新世の資本論」と「未来への大分岐」です。その流れでジジェクの「パンデミック」、ボヌイユの「人新世とは何か」、その他に「暴力と不平等の人類史」、「反穀物の人類史」、「サピエンス全史、上下」、「暴力の人類史」、「資本主義と危機」、「なぜ脱成長なのか」、「人体600万年史」などで、遅れているのに気づきました。

 そこで考えたのは、人は本来の体の働きを発揮していれば、病気をしないのではないかということです。けがは別です。特に感染症も、がんも生活習慣病も精神病もです。それで医療はコモンではないと思っていました。感染症は、すべて動物由来であり、動物を飼育したり、売買するようになって生じたものです。野生動物にうかつに近づいてはいけません。

 がんも生活習慣病も、精神神経免疫学から言うと、ほとんどが現代病であり、なりやすい遺伝子とそれを発現させる環境、特にがんなら発がん物質などや、それとストレスです。

 そしてそれに加えて、じっと我慢する性格はがんになりやすく、仕事人間のように、仕事に命を懸けているように働き続けるタイプは、心臓血管病つまり、心筋梗塞になりやすく、

高血圧があると脳卒中になりやすくなります。これらの病気の治療を開発しようとするよりも、発生を減らすことの方が早いのです。

 だから国によって、つまり社会システムによって発生する病気が違います。旧社会主義国は、社会主義体制をとっていた時と、社会主義をやめて以後では病気の発生頻度が変化しているはずです。今でも、自給自足の生活をしている民族はがんや生活習慣病が少ないはずです。遺伝子病も含めて先天性疾患の発生頻度は、ほとんど変化していません。

 医療は文化によって変わります。それはその社会によって変化します。狩猟と採集の世界では、医療はコモンではなく、電気と同じく、現代社会になってコモンとなってきたのではないかと思います。世界の歴史の見直しが必要だと思います。

 

 そこへ世界10月号の「戦争と奴隷制のサピエンス史」三宅芳夫の文でした。「地球生態系との関係(地球温暖化)で「人新世」という概念が提唱され」、「人類史規模の社会システム転換の必要性が認知されつつある」と言います。「大転換」が必要なことは疑う余地がないと。

 つまり地球温暖化の炭酸ガス原因説にはふれず、地球の生態系が壊されることにだけ触れています。政治的に避けているのかも知れません。人が原因の「人新世」ということには、結果的に賛同しかねますが、これが世の中の見直しが始まるきっかけになりました。

 斎藤幸平の言う脱成長のコミュニズムをはじめ、サンダースやいろいろな形で社会主義が提唱されています。「21世紀の資本論」を書いたピケティも社会主義者に転換したと言われていましたが、「来たれ、新しい社会主義」が出ました。その本の冒頭と、奴隷制の論文、それに「世界」の三宅論文を読むことをお薦めします。

 三宅は、「資本蓄積最大化の公理(つまり資本主義)を廃棄」し、「組織的に独占された暴力を最小化するシステム」が人類最後の希望であると述べています。

 今や、世界の先進国(北)内の貧困層(南)と発展途上国の多く(南)が、分断されています。かっての社会主義諸国や植民地から独立した諸国は、格差社会と貧困層、内戦などで多くの難民を出して難民社会を形成しています。

 私は、コロナによって気づかされました。パンデミックの起きる世界的な基盤、つまり格差社会と貧困層の拡大、福祉社会の削減が、世界中に渦巻いていたのです。その中で、その程度が比較的少ない日本や東アジア諸国に、コロナ感染が少なかったのです。

 中華文明は奴隷人口が顕著に少ないと言いますが、日本はどうなのでしょうか。

 債務により縛られる労働者も債務奴隷でありますから、遊郭の遊女たちは奴隷でした。それが東欧の旧社会主義諸国で広がっていると言います。

 狩猟と採集の社会、今でも残っているアフリカのブッシュマン族やアマゾンのピダハン族の社会では、戦争も奴隷制もない社会ですし、病気も少なかったのです。

 農耕と栽培、そして酪農の社会では、奴隷制と戦争と病気は切り離せません。そのつながりを、文明史、人類史として取り上げられてきたことに、私は気づかされたのです。

 これは急進啓蒙だけでは不十分です。多くの学者たちは、どうしたらよいかを口にせず、格差社会と貧困層の拡大をいうだけです。アメリカの社会学者デューイの社会分析を知り、それを実践したのがカストロでした。現代のカストロは、どこにいるのでしょうか。

 私は、慶応の学費闘争の原点に戻り、直接民主制による政治の決定、そのためには自主的な教育・自主講座や高等教育の普及、が必須と考えます。すべての重要事項の住民投票制、市町村の長だけでなく、首相の公選制など。

 沖縄が県知事選、衆参議員選ではオール沖縄側が勝つのに、地方自治体では負けるのは、自分の生活に密着した自治体でのことでは投票行動が違うのだと考えます。

 安倍政権が長く持続したのは、浮動票が投票されない状況、つまり焦点をぼかして選挙すること、固定票だけで戦う手法をとったのだという評論家もいました。

 そしてウクライナ問題では、世界10月号のムスト論文をお読みください。

                     

 

 

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戦争と奴隷制のサピエンス史

2022-10-25 11:39:09 | 戦争と奴隷制

             戦争と奴隷制のサピエンス史

 「戦争と奴隷制のサピエンス史」三宅芳夫論文を読んで、感想と抜粋。

 戦争と奴隷制のサピエンス史を読んで

 これは雑誌世界の2022年10月号に載った「戦争と奴隷制のサピエンス史」を読んで、抜粋と感想である。ぜひ原文を読んで欲しい。

 私は、文明の歴史に興味を持ってきたが、ギリシャ時代以降しか知らなかったが、その頃には既に戦争も奴隷制もあった。民主主義も奴隷制の上に成り立っていた。だから、民主主義は、支配層による政治を正当化するための方便ではないかと考えている。特に現代では、代議制民主主義は、統治層である資本家たちのための手段でしかない。当面それに代わる手段は、直接民主制つまり一人一人の意思を反映させる住民投票しかないだろう。

 それと同時に旧社会主義が市民の意思を反映しなくなり崩壊したが、その結末は悲惨なものであったことである。まだ旧社会主義の方が生活はましだったのである。それで「21世紀の資本」を書いたピケティは、「来たれ、新たな社会主義」と2020年になって社会主義に転換した。斎藤幸平はその前から「脱成長のコミュニズム」を提唱している。私はマルクス主義を捨てず、旧ソ連の社会主義は間違っていると批判してきたが、崩壊してからの貧困層や高齢者たちの悲惨さは目に余るものである。それは毛沢東主義を捨てた中国も同じであった。

 それをこの論文で確認できた。現代世界の戦争は、中東やアフリカだけでなく、チトーの死後のユーゴスラビアから始まり、旧社会主義国全体へ広がった。現在のウクライナ戦争もその一部である。そしてその国が奴隷の供給源になったのである。香港の貧民窟は中国に併合されてなくなったが、社会主義をやめた中国は、膨大な貧民層である農民工を生み出した。それがコロナウイルスの流行の温床になった。そしてイタリアなどへの債務奴隷労働者や性奴隷を生んでいる。旧ソ連邦諸国も、モルドバをはじめウクライナ、ルーマニア、ロシア、アルバニアなどが性的人身取引つまり性奴隷の供給源である。それを教えてくれたのが、この論文であった。その行先は、西欧諸国や東南アジアの性市場である。

 奴隷制が資本主義ではなくならないようだ。日本でも奨学金という名の高利貸しが若者たちを債務奴隷にしている。銀行の利息がないのに、どうして奨学金に利息が付き、強制返還をさせられるのか。アジアからの研修生名目の労働者も債務奴隷である。それが出入国管理に現れている。

 ☆コロナウイルスが、第一に教えてくれたのは、貧困と格差社会の世界的な広がりであり、それがコロナの温床となった。そして次に教えてくれたことは、アメリカと西欧も貧困層をかかえる格差社会であり、貧困層がコロナの被害を受けたのである。西欧社会は、福祉社会を新自由主義の名で崩され、コロナの被害にあった。北欧と東アジアはまだ新自由主義がそれほどでなかったので、初期のコロナの被害が少なかったが、日本は経済の低迷と円安でこれから被害が目に見えてくるであろう。

 

 抜き書きと()内はコメント。

〇戦争は「建前」としては、国連憲章や国際法からすれば、違法なものであった。

  (だから戦争、内戦などはすべて犯罪であり、正しい戦争などはない。ロシアもウクライナもそれを支援して兵器を供給しているNATO諸国もアメリカも犯罪国である)

〇奴隷制はどうか。

肯定するものはいないが、現実には、状況は全く逆だ。

 数百万人の性奴隷が世界に存在する。それが冷戦終結後は、ウクライナ、モルドヴァ、ルーマニア、アルバニアなどから。多くは北米、西欧へ輸送された。

 また、タイ、フィリピン、ネパール、インドなど南アジア、東南アジアにおける人身売買による性奴隷制の拡大も留まるところを知らない。

 タイを中心とした東南アジアの性奴隷ビジネスは「中心地域」(または「北」)の「ペドフィリア=小児性愛者」の男たちに「性の楽園」を提供している。

〇債務奴隷は数千万人規模に上がる。

 BRICSと呼ばれるインド、ブラジル、南アフリカでも債務奴隷は深刻な問題だ。

 日本のいわゆる「技能実習生」問題も、グローバルな文脈では人身売買による債務奴隷問題と位置付けられる。(パスポートを取り上げることを犯罪とすべきである。人権侵害であるから。)                                   

◎現在、地球生態系との関係で「人新世」という概念が提唱され、人類史規模の社会システム転換の必要性が認知されつつある。もちろん、この意味での「大転換」が必要なことには疑う余地はない。 (確かに、地球生態系は企業つまり資本家階級によって破壊されてきた。)

 我々は、来るべき人類史的スケールの「パラダイム・チェンジ」において、地球生態系との関係を革命的に変革するとともに、戦争と奴隷制という「呪縛」からも解放されなければならない。

〇さかのぼれば、すべての古代の文明には戦争も奴隷制があった。

 もっとも好戦的であり、奴隷労働を社会の根幹に据えていたのは、古典古代のギリシャ・ヘレニズム・ローマ文明であった。アテネの奴隷は。全人口の30%を占めていたとすいていされた。中華文明も、全人口の中に占める奴隷の割合が顕著に低いとみられるが、戦争と奴隷が条件で成立していた。(日本はどうだったのか。研究者の登場を待ちたい。)

〇戦争の定義に「組織化された暴力の行使」があるとすれば、現在のアフリカのブッシュマンやアマゾンのピダハンは、暴力行為を忌避し、強制力もほぼ存在しない平等な社会においては、戦争はほぼ不可能になる。

 しかし、他のすべての先住民族たちには、戦争は存在した。北米の先住民も戦争を繰り返し、奴隷も所有していた。

 北西アメリカの先住民社会には、貴族、平民、奴隷という身分も存在した。

 アフリカの部族社会でも戦争と奴隷は存在した。

〇16-18世紀の大西洋奴隷貿易に際して、奴隷商人たちに奴隷を提供したのは、ベニン王国をはじめとするアフリカ部族国家であった。

 現在は観察されていないが、ブッシュマンやアイヌは、昔は戦争をしていたし、アイヌには「ウタレ」という奴隷も存在していた。

 多くの狩猟採集民は、戦争をしていたが、少なくともアフリカのピグミー諸族、ハツァ、ブッシュマン、北極圏のエスキモーたちは、1960年代には、戦争と奴隷制を放棄していた。

 このことは、少なくとも人類は状況と選択によっては、戦争と奴隷制という「呪い」から解放されうる、ということを意味している。

 しかし、近代世界システムからはいずれにせよ、次の、あるいは「他の」社会システムへと移行する、「させる」ことは避けられない。

〇スピノザは徹底した平等に基づいた民主制を構想し、構成員は「自然権」と「抵抗権」を保持するとした。

 スピノザの平等主義と民主制の思想を継承した「急進啓蒙」は、奴隷制の即時廃止、戦争の廃絶、民主制か否か、寛容の適用の範囲、経済的自由主義の是非、そして格差の是正など、はすべて穏健啓蒙と対立した。

 1793年フランスは、全フランス領の奴隷制を廃止した。それでハイチが、1801年黒人立憲共和国が誕生した。(その為に、莫大な債務をフランスの奴隷所有者から背負わされた。払い終わったのはつい最近のはず。それで政情は安定していない。)

〇この動きに不安を感じた穏健啓蒙は、保守主義を生んだ。

 この穏健啓蒙と急進啓蒙の対立は、19世紀には自由主義・保守主義と民主主義・社会主義の対立へと再編されていく。

 近代世界システムを主導したのは当然のことながら、統治階級の思想である自由主義・保守主義であった。この人たちは人種主義の信者であった。(日本の明治時代の統治者たちも同じで、植民地主義者であり、人種主義者である。)

 世界の主な運河も、大陸横断鉄道も、すべて奴隷労働で作られた。

〇自由とは何か。自由の概念は、アナーキズムの概念と資本主義やリベラリズムの概念とでは異なる。

 個人間の平等がなければ、自由はない。支配や強制があれば、自由ではない。

 (日本の政治は、どうか。)

〇戦争の主体は国家である。国家の暴力は戦争であり、国家以外の暴力はテロとされる。

 資本主義での利潤の最大化は、奴隷制であり、特に性奴隷制は純利益率約70%である。

〇戦争と奴隷制の克服のためには、近代社会システムから新しい社会システムへの移行は避けられない。

 従って、来るべき「カタストロフ」を回避するには、資本蓄積最大化の公理を廃棄し、組織的に独占された暴力を最小化するシステム、、これこそがわれわれ人類に残された最後の希望である。

 (人身取引の実態は、「性的人身取引」明石書店、に書かれています)。

 

 

 

 

 

 

 

 

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気候変動の真実

2022-10-24 17:04:31 | 地球温暖化

   

  気候変動の真実

 この本の著者はニューヨーク代物理学科教授であるが、アメリカ政府や国連が評価しているのは、

 ・ 過去100年間、人間はハリケーンに明確な影響を及ぼしてはいない。

 ・ グリーンランドの氷床の縮小スピードは80年前と変わっていない。

 ・ 人間が引き起こす気候変動の最終的な経済的影響は、少なくとも今世紀末までは最小限にとどまる。

という。そして気候科学がこれほど未熟であったことに驚く。

 

  地球温暖化は、人間活動による炭酸ガスによるものか

      ―批判的グループの形成を呼びかける―

 二酸化炭素(炭酸ガス)地球温暖化説はおかしい。これもコロナウイルスの流行から学んだこと。

    私が疑問に思う訳は、一つは、地球は昔から氷期と間氷期を繰り返して来たはずでした。

だからちっぽけな人間が環境を変えることができるのは、核(原爆、原発など)しかないと思っていました。それでも、IPCCという専門家たちが言うのだからと、何も知らずに言われれるままに、地球温暖化はよくないと思い込んでいました。

 でもSGDsは麻薬だという斎藤浩平さんの意見を聞き、なるほどと思いました。新しい社会主義が必要だと思います。なぜなら、マルクスの社会民主党を引き継いできた北欧諸国の政治は、今一番人にやさしい社会ですから。

 そこで「人新世」という言葉を調べ、「人新世とは何か」という書を読みました。そこには人文社会科学と自然科学が分断されてきており、それは私が提唱する医学は社会科学であるということと同じことでした。気候学も社会学と分断されていたのです。すべての分野の科学を統合して判断すべなのでした。

 環境問題は、1972年の国連人間環境会議(ストックホルム)以後、環境問題は棚上げされ、リオデジャネイロ会議は開発会議であり、1997年の京都議定書は、国連気候変動枠組み条約の締結国会議でしかなかったのです。人間環境会議はどこへ行ってしまったのでしょうか。人間の環境問題は、主に福祉社会を追求する北欧諸国の提起であり、私の今の考えに進んだきっかけのロックフェラー大学の環境医学教授であったルネ・デュボスが議長でした。

 その後は、国連人間環境会議は開かれていません。

 気候変動は炭酸ガスによるものとの説は、突然出てきました。元々先進国は、炭酸ガスを出し続け、ロンドンの黒い霧から、アメリカの沈黙の春、ドイツの黒い森、日本も川崎と四日市の公害、東京も一時は都心部が排気ガスであふれ、光化学スモッグもあったのが、今はようやくそこから抜け出しました。しかし、原爆被害者も、その後の水俣病、カネミ油症などの被害者たちは、一部だけの救済で、多くの被害者は救済から外されています。

 福島第一原発事故も、いまだに原発事故緊急事態宣言が解除されていないのに、避難地区の一部が解除され、住民の復帰を促しています。

 しかし、世界の資本家たちは、第二次世界大戦(日本では15年戦争)で労働者の協力を得る為に譲った利益の分配を取り戻すべく、小さい社会を提唱し、新自由主義として、福祉社会を崩して、資本への利益を増やしていった。その一つが消費税であり、公営企業の民営化

であった。それが分かったのは、斉藤幸平さんの「人新世の資本主義」でした。

それで人新世を勉強しました。そこでアメリカの公衆衛生学者シゲリストや、全共闘時代の東大医学部長白木博次が提唱した、「医学は社会科学である」ということを、「人新世とは何か」では、分断された人文社会科学と自然科学の統合が必要であると、その歴史を明らかにしたのです。私の立ち位置は、そこでは「世界の周縁に追いやられた、ネオヒポクラテス学派」であったのです。確かにルネ・デュボスはヒポクラテスへ帰れと提唱していました。

私は、小児科医師連合の運動から、森永ヒ素ミルク中毒被害者の救援活動や、未熟児網膜症の被害者の救援から始まって、ワクチンの被害者救済、医療事故被害者の救済、そこからチェルノブイリ原発事故の被害者である子どもたちの救援に取り組んでいました。私がしてきた安保闘争などの運動は、私の子どもたちが若者になったら、継承してくれると信じていたら、その世代は氷河期世代で、正規雇用されず、労働組合にも無縁で、若くてもホームレスになってしまう世代でした。それを生み出したのは新自由主義です。それは国鉄民営化から始まったのです。その後の大きなことは郵政の民営化でした。それで新自由主義は大学や公務員まで派遣労働者だらけにして、所得税の累進性を廃止して上限をなくし、法人税も減税し、企業は内部留保をたっぷりとし、経営者たちは高額給与をとっています。

 私は、地球温暖化はよくないと思わされ、しかし、それに対してのSDGsやグリーンニューディールは、まやかしだと思っていました。確かに、消費社会はやめる必要がありました。日本の「もったいない」精神を生かすべきでした。

それもコロナ禍の社会が必然的にその方向へ進んだし、発展途上国の人々や先進国の貧困層がすべて文化的水準な生活を送ることを求めることは必然でした。

 ところが広瀬隆さんが、季刊「季節」で地球温暖化の炭酸ガス説は間違いとの論説を出して気が付きました。そこで広瀬隆さんの論文に出ていた本を読みあさりました。

 「二酸化炭素CO2によって地球が温暖化しているという説は科学的に全く根拠がないデマである」広瀬隆、講演録パンフ

 「地球温暖化説はSF小説だった」広瀬隆、八月書館

 「『地球温暖化』狂騒曲」渡辺正、丸善出版

 「気候変動の真実」S.E.クーニン、日経BP

 「地球46億年気候大変動」横山祐典、講談社ブルーバックス

 「異常気象が変えた人類の歴史」田家康、日経プレミアシリーズ

 「不機嫌な太陽」スベンスマルク/コールダー、恒星社厚生閣

 そこでやっとわかりました。「気候変動の真実」というクーニンの本では、アメリカやイギリスでは、Red グループという、地球温暖化二酸化炭素原因説に批判的なグループが形成されているというのです。日本ではそれがないようです。これから作る必要があると思います。

それで、私が一番説得的だと思った「不機嫌な太陽」を、あまりにも難しいので、私なりに書き直して、ブログに載せることにしました。翻訳もうまくありません。私すら読み続けるのが困難でしたから。順を変え、一部は文を書き直しました。

 宇宙線が雲を作り、雲が地球の温暖化と寒冷化の主因である。その宇宙線の変動は太陽と銀河系とさらに数十の銀河をもつ天空にあるというものです。前半だけでもお読みください。宇宙の話は、その説の裏付けにしか過ぎませんから。ただ、寒冷化が生物の進化や人間の登場を生んだという考えも納得しました。 「不機嫌な太陽」は、9章まであり、一度に載せられないので、少しずつ書き直した順に載せています。 

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不機嫌な太陽 ―気候変動のもう一つのシナリオ― No.9

2022-09-14 17:49:53 | 地球温暖化

             不機嫌な太陽

     ー気候変動のもう一つのシナリオ―  No.9

§10.炭酸ガスによる地球温暖化説は、確かに温暖化を早めてはいるが、その効果は小さい。

 コロナが明らかにした、世界の現実。

 しかし、消費社会は止めなくてはならないし、先進国だけが文化を享受し、発展途上国を取り残してはいけない。私(黒部)は、炭酸ガス地球温暖化説は、電気自動車をはじめとして、新たな投資先を作り出す資本家たちの画策ではないかと考える。さらにクリーンな電力として原発を推進する魂胆もあると思う。コロナウイルスの騒ぎは、一つは資本家たちがその流行の土壌を作り出した結果である。世界のすべてに高額所得者と貧困層の格差社会が生じており、福祉社会は切り崩されていたのである。その典型がイタリアとイギリスであった。 日本も、伝染病棟を無くして、一般病院の病床稼働率を上げさせていたために、対応ができなかった。伝染病(流行する感染症)は都道府県の仕事であり、一般病院はその責を問われないはずなのに、行き詰って厚労省官僚は病院のせいにしている。これは、自民党一党支配のためであり、官僚の安倍派への忖度もあるだろう。政権が変わらないので、官僚は内閣の顔色を伺うからである。それを安倍元首相は作ったのである。

9章 2008年における追記 

炭酸ガスの温室効果は微弱である

 宇宙線の詰まった空間領域に太陽系が入ったことが、我々の先祖の運命を決めてしまったのだろうか。ガンマ線は天の川銀河内で爆発性の星の多い渦状腕を浮かび上がらせる。太陽が昔から継続して果たしている気候変動への役割を否定しようとする試みは、失敗に帰した。今では、炭酸ガスの気候への影響は明らかに小さいことが分かっている。地球が寒冷化すれば、この論争に勝つことになるが、それは最悪の事態である。

1節 新しい実験と局所泡への取り組み

 スベンスマルクの実験

 自然に到来する宇宙線が、厚さ1kmの岩の層により断ち切られた場合には、化学反応が起こらないことを確認するために、SKY反応箱を英国のボウルビーの鉱山の中に作った。またドイツのカールスルーエ研究センターで、コペンハーゲンの10倍も大きい反応室での実験を計画した。

 275万年前の寒冷化を起こした原因

 地球の気候と生物の歴史が、星の爆発から響く太鼓の音と、祖先のDNAに魔法をかける宇宙線からの呼びかけと、いかに一緒に歩調を合わせて進行したかを、宇宙のシナリオは教えてくれた。 アフリカの森の喪失と、道具を作り肉を食べる二足歩行動物の出現とを引き起こした275万年前の寒冷化を宇宙線で説明できたことは、「輝かしい業績」であろう。 しかし、これはニューヨーク市にあるNASA気候モデル作成集団によって嘲笑された。その後2つの進展があったので、それは時代遅れとなった。

 第1に、太平洋の海底から得た物質中に、近くの超新星の痕跡が存在することを発見したミュンヘン工科大学のコルシネックのチームは、2004年に我々を支援するように、その出来事に対して約280万年前という、彼らの最初の年代に再び戻したのである。コルシネックのチームは、この年代から閃めいて、宇宙線、気候の寒冷化、および人間の進化、という3者につながっている可能性があると、提案したのである。(その時に本書は出ていなかった)

 第2に、個々の出来事の年代は、当時の一般的な気候とのつながりを追跡するためには、予想に反して、それ程重要でないことが分かったのである。2007年に、グールドベルトに属する爆発性の星の間を太陽系が現在通過中なので、強い宇宙線にさらされているのである。

 星の爆発は、熱くて希薄なガスを局所泡に吹き込んでいる。局所泡の殻は、衝撃波と強力な磁場を含んでおり、太陽自身を保護する、いわば太陽圏の境界の殻を巨大化したものに似ている。この局所泡の殻は、宇宙線を跳ね返す傾向にある。また逆にこの泡は、局所泡内に起こった超新星の発する宇宙線を外側に逃げられないようにしている。この泡は、宇宙線の詰まった「瓶」のようなものであり、それゆえ、個々の星の爆発した年代と場所には関係なく、そこは寒い場所なのである。

 局所泡による過去500万年の気候変動の説明

 100万年ごとに約6つの巨星が爆発して死に至るとすると、局所泡内の宇宙線の強度は、泡の外側の周辺より、20%は高いだろうと推定した。地球の気候にとって、この局所泡の出現と成長の時刻表、そして太陽と地球がそれに遭遇したのはいつかといった経緯が重要である。これらのことを単純に推定すると、過去500万年の間に地球が宇宙空間で遭遇した出来事の歴史が、気候の記録に驚くほど一致していた。

 450~400万年前までの温暖期は、太陽と地球がこの局所泡の殻を通過している時であった。殻の部分は宇宙線は少なかったのだろう。殻の内部へ入ると宇宙線は強力になり、寒冷化が起こった。それが275万年前の寒冷化で、氷が北大西洋で広がり、アフリカが乾燥化し始めた。コルシネックの見つけた超新星は280万年前なので、この寒冷化を強めた。 それからの寒冷化は遅くなる。地球は局所泡の中に閉じ込められ、気候は宇宙線の放射と平衡状態に入ったのである。地球は現在、この状況にあり、長期間の氷室条件が続き、これ以上悪化することはないようである。この局所泡は、熱いガスを銀河のハロー(銀河の外側を包む星間物質の領域)中へ放出する煙突の役割を果たすので、将来は宇宙線は減少し、氷室気候は少し和らぐであろう。

2節 天の川銀河における宇宙線分布図の作成

 天の川銀河の構造

 宇宙気候学は、シャバイブが地球の歴史における氷期への突入と、天の川銀河の渦状腕への地球の侵入との間の結びつきを見出して大きな一歩を踏み出した。 宇宙線が地球大気に衝突した時に生成される放射性原子は、その寿命の長さ上、天の川銀河内で起こった出来事に結び付けることにより、過去に遡れる年代が100倍も拡大された。

 銀河内にある宇宙線の強い発生源

 シャバイブは自分の推論を裏付けを、宇宙線にさらされた古代鉄隕石中に見つけた。しかし、宇宙線はその発生源を教えてくれなかった。だが宇宙線は、はるか彼方で星間ガスと相互作用した時に発せられる高エネルギーのガンマ線である。光と同類のガンマ線は、極めて長い距離を一直線に進める。 1991年に打ち上げられた、NASAのコンプトンガンマ線観測衛星は、搭載した高性能のガンマ線望遠鏡で、近くの月から遠くの爆発している銀河の星まで、多くの発生源を見つけ、宇宙線により作られたガンマ線からなる背景放射の強い領域の方向分布を明らかにし、それが天の川銀河の至る所に存在することを明らかにした。 高エネルギーの領域は、いずれかの渦状腕の方向とよく一致した。その中で最もエネルギーレベルの高いものは、オリオン腕からのガンマ線であった。

 注目すべき2つの最新情報

 2007年の天文学上の2つの報告に引き付けられた。 1つは、地球の全球凍結と関係するスターバーストのこと。もう1つは、天の川銀河における星の生成率の変動性に関するものであった。大小のマゼラン星雲が近くに到来するかも知れないということであった。 24~20億年前の天の川銀河の星のベビーブームと小マゼラン星雲の接近は、同時発生かも知れないのである。この天の川銀河は、他の大半の渦巻状銀河に比べて、星の生成が異常に少なく平穏すぎる歴史であるというものであった。以下略。

3節  “以前とは全く異なる手合わせをしている”

 気候科学者による予言

 本書が提案したことは、化石燃料の消費により悲惨な気候災害が怒る、という予言に対して疑問符を投げかけることであった。本書の出版されたのと同じ月に、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の作業部会Ⅰは、2007年版の「気候変動の政策立案者用最新概要」を発行した。それは21世紀中に気温が数℃上昇するというもので、太陽の効果は、炭酸ガスの効果の約7%でしかないとされた。

 ロックウッドらの論文

 ロックウッドはスベンスマルクへの支持をやめて、スイスのダボスの世界放射線センターのフレーリッヒの方へ行った。それは、太陽は現在の気候変動に関与していないことを確証したものであった。「太陽の気候に対する強制効果と地球全体の平均表面気温の変動に見られる最近の逆向き傾向」という表題で、ロックウッドとフレーリッヒは、数千年にわたる気候変動には、多くの場合太陽が関係しているという。また20世紀の間における気候温暖化に、太陽がある程度関係しているともいう。それに続く1985年頃に太陽活動の活発化は終了したという。その後太陽活動は低下しているので、現在の地球全体の平均気温の上昇は、太陽活動では説明できないと主張した。 二人が間違ったのは、ここである。 なぜなら、地球温暖化は、太陽の”機嫌 (mood)”の変化に対応して、既に止まっており、温室効果による予想に逆らっている。

 ロックウッドらが間違った認識をした理由

 スベンスマルクは、クリステンセンと共に文書で反論した。第1に、ロックウッドらが表面気温のデータを用いていることに疑問を表明した。なぜなら、「表面気温が太陽の周期に対応していない」というが、上空の温度と海洋の水面下の温度は、双方とも、太陽周期に対応して明白に上昇し、下降していた。重要なのは、ロックウッドたちは9~13年という長期間の平均を用いたので、21世紀の初頭においても、まだ急激に上昇しているという幻想を生み出した。その一つは、1998年から2002年までの間に0.1℃上昇したという。 実際にはその時には気温は横ばいで、気球で測定された上層の気温は、はっきり、より長い期間地球温暖化が休止していたのである。 スベンスマルクらは、「過去10~15年間に二酸化炭素の濃度は、急激な上昇を続けているが、温度を上げることができずに平坦化している。これは、太陽の時期活動が高いレベルに落ち着いており、それ以上、上昇せずにいるからである」という。これは、宇宙線を太陽圏から追い出す役割を太陽が怠り始めたためであった。

 記録映画「雲の不思議」

 デンマークの映画製作者のモーテンセンは、1990年代末以来、スベンスマルクに寄り添って、「雲の不思議」という記録映画を2008年に完成させた。この出演者の中に、ヴァイツァーやシャバイブが入っていた。最後に、批判家からの忠告を扱いたいと言い出した。そこで、海洋の水深50mにおける水の温度を示したグラフを用いることにした。それは宇宙線が少ない時には上昇し、多い時には下降していいた。1990年以降、このデータは全般的に寒冷化傾向を示していた。地球の温暖化は休止しただけではなく、逆の寒冷化に入った可能性があると述べた。

4 破綻した炭酸ガス原因説

 CO2説に対するスベンスマルクの考え

 二人の著者は、できるだけ地球温暖化という政治問題を避けてきた。人々が燃料消費で生じた炭酸ガスは、現在の気候変動を引き起こしていると信じて、石油、石炭、天然ガスの消費を節約しているなら、それは間違った考えに基づく害のない結果である。 スベンスマルクは、南極大陸だけが逆の気候変動をすることを説明できた時が、気候変動の新しい地域地理学が始まったと考えている。この気候変動の地域地理学では、雲と温室効果ガスが、地域ごとにそれぞれ独特の役割を果たすのである。 各種の温室ガスの温暖化効果は、炭酸ガスよりも水蒸気の方を重視すべきであると考えた。

 炭酸ガスと気温との関係

  • 過去5億年の間には、気候と炭酸ガス濃度との間に相関関係は存在しない。
  • 過去100万年の間には、炭酸ガスと温度とのつながりがあった。しかし、そのつながりは主客転倒であった。なぜなら、炭酸ガスの変化が、温度変化より先行するのではなく、温度変化の後を追っているからである。
  • 過去1万年の間には、炭酸ガスと温度との間に相関関係は存在しない。
  • 過去100年の間には、炭酸ガスの増加と温度の上昇との間に、全般的に見れば大まかなつながりがあった。

 しかし、この100年間のデータを検討すると、

  • 20世紀の温暖化の半分は、1905~1940年の間に起こった。この間の炭酸ガスの濃度は、まだ低いものであった。
  • しばしの地球寒冷化が、1950年代と1960年代に起こった。この間の炭酸ガス濃度は、上昇中であった。
  • 21世紀初頭には、炭酸ガス濃度が急激な上昇を続けているにもかかわらず、地球温暖化は、再び中断した。
  • もしも、炭酸ガスによる温室作用が、温暖化を起こすなら、上空の空気は表面の空気よりも速く温まらなければならない。しかし、観測結果は、その反対であることを示している。

 宇宙線と気温との関係

  • 過去5億年の間の温度変化には、4つの絶頂期と4つの谷底期が存在するが、それらは、鉄隕石中に観察された宇宙線の変動に一致するし、また、太陽系が銀河内を周回中に4本の腕と遭遇したことに一致したのである。
  • 数千年の間のリズミカルな気候変動は、宇宙線により放射性炭素や他の放射性核種が生成される量の変動と一致している。
  • 過去100年間の温暖化率の変化も、宇宙線強度の変動と一致している。
  • 宇宙線が気候に影響を及ぼす作用機構の検証は、低い雲が宇宙線の変動に合わせて変動することを観測することによってなされたし、また、宇宙線が雲の凝集核の形成を加速する微細な物理機構が存在することを実験で証明することによってなされた。

5節 小氷期の再来は御免だ

 小氷期再来の可能性

 地球は再び小氷期に向かっているのであろうか。 20世紀の後半における太陽の活動は、非常に活発だったので、1990年以降は、上昇に転じるよりも、下降を続ける可能性が大きいからである。 太陽と炭酸ガスとのどちらが、地球の気候温暖化を取り仕切っているかという問題は、自然の寒冷化ということで解答が与えられるであろう。

 本書の読者の質問

 スベンスマルクは、読者へこう語った。

 できれば政治のことは忘れて下さい。その代わり、次のことは忘れないで頂きたい。発見が行なわれるような最先端の領域では、そこで実際に起こっていることについては、科学者でも、一般の人々と同じように、正確には判らないということです。 ですから、しばしばこの新しい発見者は、学術上の手続きを省略して、その発見を一般社会にできるだけ迅速に、しかもできるだけ直接的に、知らせるのです。ガリレオ、ダーウィン、アインシュタインは、すべてそうしたのです。読者が科学者であろうとなかろうと、この議論を検討して、自分自身の意見を持ってもらえれば、それで充分満足なのです。

 (私の医学医療の理論-ネオヒポクラテス学派∔精神神経免疫学-も同じで、つまり世界の少数派であり、医学界からは認められていないが、実践的には有効であり、医学で因果関係不明とか、原因不明とか、特発性と言われるものをすべて説明できるのです。同じ立場なのでよく分ります。 2013年12月に位置天文学用の宇宙望遠鏡ガイアは、ソユーズロケットで打ち上げられた。2016年から2年ごとに送られてくるデータが公開され、2022年6月にも公開されているが、まだ帰還していないし、データの持つ意味は解析されていない。帰還して、すべてのデータが公開され、それをどう解析するかが期待される。黒部信一)

局所泡の図

地球温暖化は、停止したのだろうか。

上図は、地表気温

中図は、高度1500mの気温

下図は、海面下52.5mの海水温

 

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不機嫌な太陽 ―気候変動のもう一つのシナリオ― No.8

2022-09-14 16:41:44 | 地球温暖化

           不機嫌な太陽 

   -気候変動のもう一つのシナリオ―  No.8

§9.人文社会科学と自然科学の統合

 すべての科学は、統合すべきである。自然科学の中でも、気候学も地質学も、天文学から遺伝子学、医学まで、すべての分野の科学が統合されねばならない時代に来ている。医学は社会科学であると、シゲリストや白木博次たちが言ったが、医学だけでなく、気候学も同じであったのである。私は、若い時は、WHOを信頼し、その健康の定義、「健康とは、肉体的、精神的、社会的に良好な状態であって、単に疾病や虚弱のないことではない」を信条にし、WHOの委員にも「ネオヒポクラテス学派」の人がいるのではないかと思っていました。その後シゲリストの「医学は社会科学であり、病気は社会によって起きる。医学は、社会が病気と闘うための道具の一つに過ぎない」との言葉に出会い、さらにルネ・デュボスの言う「生体論的で環境的な医学」を目指すべく研究してきました。そして実践的なアメリカ医学を指針とし、アメリカ小児科学会のリコメンデーションに従い、アメリカの医学書で勉強してきました。しかし、1990年代後半からアメリカ医学も怪しくなり、2000年代には信頼できなくなりました。2009年には、WHOの新型インフルエンザのパンデミックの判定が、ヨーロッパの2人の委員の主張を入れて2段階も上げられました。その後その委員の利益相反が明らかになり糾弾されたのです。それに前後して、地球温暖化問題が登場したのですが、気候学も医学と同じ構造にあるとは思わなかったのです。その後、薬学も遺伝学も同じであることも分かりました。今は、何が正しいか、何を喜寿にしてよいかわからない時代です。アメリカのCDCもFDAも、IAEAもすべて信頼できない状況です。

8章 宇宙気候学の為の行動計画

 気候変動の歴史は、高エネルギーの宇宙線により説明できる。今後、我々の天の川銀河の歴史を、より明確にする必要がある。それに、地球における気候変動の年代記も、より完全なものにする必要がある。我々が太陽に依存している現状を調査すれば、異星生物の探査に有効な情報が与えられる。気候科学は、将来の気候変動に対して対策を立てるのに役立つ情報を提供せねばならず、予言的なものであってはならない。

1節 宇宙線による気候変動の説明

 特別な場合のミューオン量の変化

 2006年、ドイツのコルシカ(CORSIKA)プログラムで計算し、地球大気中で宇宙線は、地球磁場が弱くなっても、気候に顕著な影響を及ぼさないことを説明できた。宇宙線の中で、大気の最も低い高度まで届くミューオンを生じるものは、エネルギーが高いので、地球磁場の影響を受けず、しかもミューオンは気候へたった3%しか影響しないのである。 また、コルシカ(CORSIKA)での計算により、宇宙線と気候を左右する地球以外の天体や太陽の活動過程が新たに解明された。 近くの超新星が爆発して発せられた宇宙線は高エネルギー粒子の比率が高いので、地球に届く前に銀河の外へ飛び出し、地球に届く時には、通常時と比べて、宇宙線量はそれほど変わらないが、ミューオンは3倍に増加する。したがって、10Beや他の原子が記録した宇宙線量から気候を推定する方法は、近くの超新星が気候に及ぼす影響を軽視することになる。 太陽磁場は、地球磁場よりもはるかに強い。太陽の11年周期の間に、高度2kmまで届くミューオンは、10%変化することが予想される。それは海面近くのミューオンの数値と一致しており、そのため太陽の1周期の間、地球を覆う雲の面積が3~4%変化する。

 もう一つの問題は、フォービッシュ減少と呼ばれるもので、太陽表面での大爆発により生じた磁気衝撃波はしばしば、地球に届く宇宙線のカウントを、5~10%、時にはそれ以上、突然減少させる。この現象により、地球を覆う雲が大量に減少するはずなのに起きなかった。 これが、宇宙線が雲の形成に影響を及ぼすという理論を否定する根拠になった。 しかし、この場合もCORSIKAの計算により、太陽からの衝撃波が、通常の宇宙線の影響に比べて、ミューオンを生成する宇宙線に及ぼす影響は小さいことが確認された。このためフォービッシュ減少時に、雲の減少が期待できないのである。それでも1991年には、太陽の表面で数回起こった時に、僅かに雲の量は減少したことがある。

 スベンスマルクの研究態勢   2006年には、宇宙線と気候に関する研究は、急成長する科学の一分野となり、「宇宙気候学」と命名し、宇宙気候学研究センターを創設した。 

2節 雲の分子機構の研究(クラウドCLOUD)

 巨大科学としての取り組み   ジュネーブにある2節欧州原子核研究機構(CERN)が、宇宙線と雲の繋がりを研究するために、クラウド(CLOUD)を作った。これは米英露など17の各種研究所から選抜された50名の研究者集団であった。

 熱心な研究者集団      スベンスマルクのSKY実験装置をコペンハーゲンから、ジュネーブへ移して再実験を行った後の、2010年にはより精巧なクラウド(CLOUD)の設備が稼働することになる。

 時間編              これは、1秒の数分の1から数時間、数日間まで、電子や分子が起こす変化を追跡できる。しかもこの装置は、古代の大気組成を再現して宇宙線の作用を調べることもできる。それで数十億年の時間枠の荷中に入って研究できる。

将来の研究課題  今後は、気球や研究用航空機を用いて、極微細粒子の計測をして、大気の理論と雲の形成の分子機構を精緻化させねばならない。

3節 この天の川銀河をもっと良く知るために

 宇宙線の発生源

 宇宙線の発生源から始めて、宇宙線の生成は、星の爆発から10万年後に強くなると考えられている。ナミビアのヘス高感度望遠鏡は、新たに数個のガンマ線天体を発見した。 今後人工衛星新たな望遠鏡によって、さらなる発見が期待される。

 天の川銀河の磁場

 銀河には腕に沿って磁場が組み込まれているので、宇宙線は、その方向に導かれる。その為、地球が渦状腕の中か外を通るごとに、宇宙線の流入量は増加したり、減少したりする。 地球が受けた宇宙線の流入量を過去に遡って調べるためには、銀河内における磁場の強弱を示したチャートを改善する必要がある。それには電波望遠鏡群を1km平方に配列した観測装置が良いと考え、南アフリカに準備している。また太陽が天の川銀河の円盤の上から下に、下から上に、3200万年の間隔で斜めに横切ることを繰り返すが、この円盤内の宇宙線の濃度も不明確である。

 星間ガス

 太陽が天の川銀河内を周回中に、星間ガスの比較的濃度の高い雲の中に入った時には、いつも、その雲により太陽圏と太陽の磁場は締め付けられる。これはグリーンランドと南極の6万年前と3万3千年前の氷中の10Beに高い宇宙線の強度が記録されていることから考え出されたものである。星間ガスの研究をしているシカゴ大学のフリッシュは、現在、太陽がある領域は、星間ガスが非常に薄い。だが「太陽の気道は、少なくとも数百万年以上は、大きくて濃いガス雲には遭遇しないであろう」という。

 星の分布地図の作成

 ヒッパルコス計画で、最も明るい星について、以前よりも正確な星の地図を作製できた。しかし、不正確さが残り、星生成の歴史は、未完成で、各星の誕生を4億年の間隔でしか把握できなかった。それを引き継いだガイア計画は、完成すれば、100億年にわたる星生成全体の歴史を語れるようになるが、まだ完成していない。また太陽の気道が、円形か楕円形かにも明確な答えが出る。そうすると太陽系が渦状腕を通過した時期をより正確に計算できる。その時期が氷室期に対応するのである。

 他の銀河から得られる情報

 ガイア計画での、宇宙探査機は打ち上げられて5年はかかる。ガイアは2015年に打ち上げられたので、それによって多くの知見が得られる見込みである。

 4節 不可解なリズムで揺れる惑星

 気候に及ぼす各種要因

 今まで述べたのは、地球の気候の直接的調査とその地質学上の歴史的調査から、宇宙線が気候に数十億年にわたって強い影響を及ぼしてきたことを示す証拠についての概要でしかない。宇宙線にたいする評価を完全なものにするには、気候に影響を及ぼす他の多くの要因を把握しなければならない。それは、大陸の成長、山の形成、火山の一斉爆発、海流と極周辺の氷床に影響を及ぼす大陸の移動、大気組成の変化、生物の地球化学的作用、および彗星と小惑星の長期にわたる一連の衝突などである。

 ミランコビッチ効果の実在性

 セルビアの気候研究のアマチュアであったミランコビッチが1920年代に、それまでに氷期を説明するのに出されていたアイデアを精緻化した。それは、「世界の各地域における季節ごとの太陽光の当たり方が、数千年の間に、どのように変化するのかということを説明した。その根拠は、太陽系の他の天体から受ける引力が、宇宙空間に対する地球の姿勢に影響を及ぼし、太陽の周りを回る地球の軌道を変えるというものである」。  天文学者は、この変化を計算できる。地軸はふらついているコマのようにゆっくりと旋回するので、それにより北方領域における季節ごとの太陽光の当たり方が2万年のリズムで変化するのである。また地軸は、横揺れも起こすので、それにより空に昇る太陽の高さが、4万年の周期で変化する。そして10万年の周期で地球の公転軌道の形状が変化するので、これにより、季節ごとに地球は太陽に近づいたり、遠ざかったりする。 1970年代に、海底コアー中の重い酸素原子の含量の変化、気候変動の尺度に、ミランコビッチのリズムが明確に存在することを検出した。 1976年に英米の科学者は、地球軌道の変動を、氷期のペースメーカーと呼んでいた。その後、数億年前という、進行中の氷期が存在しなかった時代にまで遡った古代の堆積物中にも、このミランコビッチ・リズムが見つかった。それどころか地質学者は、堆積物に年代の目盛りをつけるのに、このリズムを用いている。

 氷期における宇宙線の影響

 他方、最近の氷期においては、このミランコビッチ効果の役割は、当てにならなくなった。過去100万年の気候の記録では、一般的な凍結状態から、比較的短い温暖な期間に切り替わった後、再び氷期に戻るということは、ほぼ10万年ごとに繰り返していることであった。 地球の気道の変化では説明できない。 気候の記録上に宇宙線の記録を重ねると、急激な温暖化または寒冷化した非常に短い期間は、宇宙線流入量の大きい変化を伴った。したがって、これらの気候変動は、空にのぼる太陽の高さよりも、むしろ太陽の磁気作用に結びつけられた。宇宙線の増減が気候に及ぼす影響は、現在の温暖な一時期よりも、一般的な氷期の方がずっと顕著であった。これはミランコビッチ効果以外の何らかの要因が、気候変動を起こし、地球の応答感度が変えられている可能性がある。 この謎を解くには、気候におよぼす感度を変える原因を見つけられるかにかかっている。氷期の間には膨大な量の水が、海から陸上の氷床に引き上げられて、海面は非常に非常に低くなっていることが、1つの要因である。寒冷期に広大な面積の大陸棚が露出されるのは、①欧州の北海、英仏海峡、アイルランド海、アドリア海、②ベーリング海峡とシベリア北方の広大な領域(ベリンジア)、③南シナ海、そしてインドネシアの島々の間、が干上がって海流を塞いでしまう。氷期の海面が低いことから、気候変動力に対する感度は、氷期の方が高いことが理解できる。しかし、温暖な間氷期の状態に急速に切り替わることについては、ミランコビッチ効果では説明できない。

 今後の課題     ミランコビッチの意味は、過去200万年前までは、よく理解されるが、時間をさらに遡ると、気候変動の概要とそれを引き起こしたと考えられる理由が、ずっとあいまいになる。

5節 地球の過去の気候をもっと良く知るために

最近分かった過去の気候    2003年に、1億4000年前の白亜紀に氷河が存在していた証拠が発見された。さらに1990年代以降に、その白亜紀よりさらに古い年代に、全球凍結期が存在していた証拠も出てきたのである。これらの大きな発見がごく最近になされた。

 掘削調査

 過去の気候の説明は、1960年代以降に行われた海底掘削と氷床掘削の膨大な実績に基づいている。しかし、最も古いものは、1億8000万年前の海底堆積物でしかない。氷床コアーは、もっと新しいものでしかない。地球の歴史の残り95%を追求するには、最も古い岩石の形成が38億年前に起こっているので、それを探索するしかない。しかし、今までの古い岩石は、偶然見つけられたものでしかない。2004年に米国国立科学財団により組織された「過去の気候に関する学術会議」は、海洋の掘削経験をモデルにした大陸掘削計画を要請した。

 気候変動モデルの作成

 さしあたり、宇宙線の推定値を、他のいくつかの実働要因に関する知識と組み合わせて、単純な計算モデルを試みることは可能である。デンマークでは既に過去200万年よりはるかに古い時代にまで伸ばそうという提案がなされている。① 銀河の渦巻を横切ったこととの関連がよく理解されている5億万年前の顕生代まで、② 全球凍結が起こった25億年前の原生代まで、そして③ 最古の46億年前の冥王代や、比較的弱い太陽光の下での生命活動が始まった38億年前の始生代まで、と言うようである。気候に影響を及ぼした可能性のある全ての実働要因のうちで、数十億年前から数カ月までの総ての時間幅で、明確な足跡を残しているものは、宇宙線のみである。

6節 荒れ狂う宇宙における生物

異星生物の探査計画

 21世紀初頭に研究者が目指す目標の中で、上位に占めるのが、他の星に生存する生物の探査である。欧州宇宙機構(ESA)とNASAが、他の惑星の大気中に、生物生存の可能性を示す水蒸気や他のガスが存在しないかを調べるために、赤外線を検出できるように設計することになっている。

 生物の出現に必要な条件

 地球そのものは、微惑星同士が高速で衝突することにより作られた。そして、海洋は、彗星の氷からもたらされたものであろう。その後、微惑星や彗星が地球に衝突する割合は、ずっと減少したが、それでも引き続いて起きており、時々、大規模な生物の死滅と環境破壊をもたらし続けている。 2005年にイタリアの宇宙物理学者ビグナミは、「宇宙構想: 2015~2025年の欧州のための宇宙科学」という報告書の作成を指導した。これには宇宙における生物の出現に必要な物理的条件を理解することの必要性から書き始められ、そして、1つの恒星とその惑星系との間に磁気結合が必要であると強調している。 「地球の居住性は、特に、ゆっくり進化している太陽により維持されている。というのは、この太陽は、ほぼ一定の日照を与え、また、銀河内の超新星からやってくる粒子群から、我々を守っているからである。高温の太陽コロナから発している太陽風は、太陽圏全体に広がり、荒れ狂う時期を太陽系末端の外まで運ぶことにより、宇宙線の流入量を劇的に減少させている。それ故、我々は、生命―特に進化した形態をした生物の生命―の維持に必要とされる条件を完全に明らかにするために、① 太陽の磁気体系、② その変動、③ 大規模な太陽爆発におけるフレア(太陽面爆発)の噴出、④ 太陽圏、各惑星の磁気圏及び大気の相互作用、を理解せねばならない」。

 したがって、宇宙気候学は、星生成率が高い期間には、強い宇宙線により、太陽の磁気遮蔽圏が押し潰されてしまうことを示している。しかし、それにより、地球が全球凍結になった時でも、生物はしがみついて耐え忍んでいれば生き延びられるのである。我々の惑星は、太陽によって作られた宇宙線防護の太陽圏の内側で、特定の位置と環境にあることから、生物の棲み処として長い間、寄与してこられたのであろうか。その点で地球は、どれだけ特異的なのであろうか。そして地球上の生物の出現は、若い太陽からの強い太陽風により、強い宇宙線が存在しなかっただけで可能となったのであろうか。この疑問が異星生物を探索する鍵となろう。

 生物の隆盛、多様化、および進化をもたらす条件

 もう一つの発見は、生物存在のための条件について、何か重大なことを我々に語り掛けている。それは、強力な宇宙線強度と生物の生産性の極端なバラツキとが、驚くほど密接に結び付いていることである。この生物の生産性のバラツキが大きいことは、13C(炭素13)原子のカウントにより示された記録上に、最も高い生産性と最も低い生産性とが混在しているのである。このことから強力な宇宙線というストレスは、生物圏の生産性に有害な影響だけでなく、有益な影響も、もたらしていることは明らかである。 もしも、生物の生産性が気候変動に関係しているのなら、生物の多様性―全ての生物種の数―についてはどうであろうか。生物の多様性は、生物圏の良好さのもう一つの、しかし全く異なる尺度である。 変化した環境に古い生物種よりうまく適合した新しい生物種が出現し、古い生物種が絶滅する時には、気候の変化が進化を推し進めることができる。このことは古生物学者ははるか以前から認識していた。宇宙線に関係付けて語られた生物の歴史は、彗星や小惑星の衝突で、その時の気候状態に関係なく、生物の多様性を最も多く失わせ、大量の絶滅を引き起こすことは間違いない。このような絶滅の後には、多数の新しい生物種が出現して絶滅分の穴埋めがなされ、生物の生産性は、かえって以前にも増して急速に回復する。この生物の復元力は、ある意味で荒れ狂う宇宙の危機に対するために、あらかじめプログラム化されていることを暗示させる。 宇宙線は、直接的に、遺伝子の突然変異を引き起こすことにより、進化の速度に影響を及ぼしたのかもしれない。遺伝子の非連続的な(突然)変異に基づいている。その変異を見出すのである。比較遺伝子学によって、宇宙気候学は生物学の最先端に出会う。

7節 太陽活動の盛衰を読み取る

 気候に及ぼす太陽の影響

 ESA(欧州宇宙機構)は、太陽の幅広い研究を推進した。ESAのプロジェクトは、太陽が自分の存在を示すものとして3つの作用を評価している。それは、① 可視光と不可視光の放射作用、② 太陽風が地球磁場に影響を及ぼす作用、③ 宇宙線を制御する作用。

 大気の低いレベルまで到達できる宇宙線が、気候変動に対して最も大きい影響を及ぼすが、それと比較して、① 太陽活動によると考えられている他の作用、② 火山爆発や、東太平洋と世界全体を温暖化させるエルニーニョ現象を含む、地球のいかなる他の自然現象から来る気候への強制は、気候に対して小さな影響しか及ぼさない。 宇宙線、雲、および気候間のつながりは、数十億年を対象にした場合に重要であるように、現代でも重要である。数年先や数十年先を予測するような短い期間では、銀河内の環境は変わらないので、気候変動に重要な宇宙線の変動は、太陽の磁気活動の変化に依存することになる。

 黒点数の変化の影響

 太陽の黒点数の予測はできない。黒点数とフレア(太陽面における爆発現象)発生頻度との間に関連性があるが、おおよそでしかない。宇宙線もまた、太陽の黒点との関連性も余り強くない。一般的には、宇宙線の流入量は、黒点少ない時には高く、多い時には低いが、関連性は少ない。

 太陽の磁気活動の予測

 放射性原子による宇宙線の記録は、太陽活動に長い期間が存在し、それに伴って、時期による宇宙線の遮蔽圏が、約200年と1400年との間隔で、強化と弱体化を繰り返すことを示している。しかし、太陽の磁気活動は誰も予測できていない。

 星の磁気の観測

 パーカーは、太陽類似星の数を10から1000へと増やすべきであるという。それによって、稀にしか起こらない現象を検出する機会が増えるから。 太陽の将来を予測することはまだできていないし、太陽の極の一方はまだ見えていない。

 太陽活動の予報

 21世紀の間には、予報された太陽活動と宇宙線の値を基礎に用いて、気候変動を本格的に予測できることが期待されている。しかし、太陽の物理学は現時点では不明確なので、宇宙気候学者は、21世紀に起こることについて、いかなる結論も出すべきでないだろう。

8節 今日の気候変動についての建設的な見解

予報士による長期気候予報の問題点

 宇宙線が気候変動を引き起こす重要な要因なのに、その予測ができない現時点では、数十年先の気候予報をすることは科学的にはできない。1970年代にプリンストンのスマゴリンスキーは、「間違った気候予報を出すくらいなら、全く出さない方がましである」と警鐘を鳴らしたが、いまでも真実である。気候モデルはまだ仮定や簡略化が用いられているので、まだ疑わしい。 地球の気温への炭酸ガスの影響の可能性は、今でも、気候モデル作成者の自由裁量によって決まり、幅広い範囲内から選ばれた予測値に依存している。21世紀の間にやってくる温暖化の予測値は、今では0.5~6℃近辺にまで及んでおり、多い予測値は3~4℃あたりである。

 この炭酸ガスの温暖化効果の明らかな過大評価を下方修正することは、炭酸ガスを生成することとなる化石燃料の無駄遣いを推奨することではない。気候とは関係なく、化石燃料消費の節約を要請する理由は、他にいくらでもある。例えば、① 健康を害するスモッグをできるだけ削減するため、② 地球の限られた燃料資源を長持ちさせるため、③ 貧しい国のためにエネルギー価格を低く維持するため、などである。

 宇宙線の変化により雲の形成量が変化するという因果関係は、現在の気候変動を10年ごとに見た場合の重要な特徴を今でも説明している。炭酸ガスの影響は、予想値よりもはるかに小さいように思われることが度々あるのはなぜか、説明することが気候科学において緊急の課題である。 20世紀末の気候モデル作成者にとって、炭酸ガスに焦点を当てたことによって、長期の気候予側が実現可能に見えたのであろう。しかし、当分の間、長期の気候予測は原理的に不可能である。なぜなら太陽は今後、どのように変わっていくのか、また地球の雲量に今後どれだけ影響を及ぼすか、ということに誰も答えられないからである。 地球温暖化を警告している大部分の予測が、大げさすぎるようだということが分かっただけではない。世界の貧困地域の人々にとって、気候変動は貧困や餓死を意味するが、気候変動の機構が正しく理解されれば、より有意義な忠告がその人たちにすることができ、それが活用されることになるだろう。 破壊的な、洪水、渇水、防風に対処している人にとって、それは地球温暖化による災害だと言っても何の役にも立たない。それは建設的な行動を起こすことに何も貢献しないからである。

宇宙気候学者が貢献できること

 宇宙気候学は、長期の気候予報はできないにしても、地域ごとの気候変動の理由とパターンに関しては、深い見識を提供できるはずである。それにより、被災民は助けられ、為政者は最悪の結果を回避できるだろう。 地球を覆う雲量が変化するパーセント(%)を特定することにより、各緯度帯に地表の気温が温暖化か、それとも寒冷化することを示す利点がある。南極だけは他の地点とは逆の変動をすると示せるのも、その一つの例である。 アジア・モンスーンは、熱帯および亜熱帯地域を照射する夏の太陽と、広大な領域を覆う雲の塊を、動力源としており、数十億の人々はモンスーンの雨に依存して繁栄している。過去にモンスーンが発生しなかった時には、大規模な飢饉が度々起こり、時には文明が崩壊している。反対に雨が多すぎた時には、インド、バングラデシュ、中国に大洪水が起こっている。

 2005年に南京師範大学のワン・ヨンチンのチームは、南中国の洞窟から得た石灰質の層状石(石筍)を調査し、過去9000年の間に、太陽活動が雨季の雨量に繰り返し影響を及ぼしていること示して、太陽の明るさが原因であると推定した。 しかし、そのデータそのものは、別の原因、つまり、宇宙線流入量が多い時には、モンスーンが弱められて降雨量が少なくなり、宇宙線流入量が少ない時には、モンスーンが強められて降雨量が多くなっている。 その理由は、宇宙線量が少なくて熱帯海域上の雲が少ないと、海水の表面温度は高く温められ、余分な水分が風の中に供給されるので、水分の多い風が、数日後に陸上のモンスーン地帯に雨をもたらすからである。 同じ関係が、太陽の活動と夏の雨との間にも存在することが、過去50年の間に、アジアだけでなく、アフリカのサヘル(サハラの南縁の半乾燥草原地帯)でも確認されている。

 インド宇宙物理学研究所の太陽物理学者のヒレマスは、インド・モンスーンの過去130年にわたる変動を調査し、2006年の「太陽圏と地球環境に及ぼす太陽の影響に関する国際宇宙科学研究会議」で、スベンスマルクの理論を引用して、「降雨量の変動幅、太陽活動、および銀河宇宙線の間に因果関係が存在するように思われる」と語った。それは① モンスーンの発生、② 太陽活動の活発化、③ 赤道直下の太平洋における海水温を上昇させるエルニーニョ現象の発生、という3者のつながりに関してのパズルである。 エルニーニョが発生すると、その後にはいつもではないが時々、インドで厳しい干ばつが起こる。そして季節予報に太平洋のデータしか用いないと、干ばつ警報を出しても起こらなかったり、出さないのに干ばつが起こることがある。それに対し、予報士が太陽活動をも考慮に入れると、ずっとよく当たるのである。 そしてヒレマスが示唆しているように、もしも、雨期の雨量が多くなったり、少なくなったりする周期が、太陽の磁気活動の22年周期に結び付いているなら、それに合わせて計画を立てることができる。そうすれば、農民は、現在の宇宙線強度に合わせて、彼らの収穫量、および灌漑用水の排水量を加減することができるだろう。食料援助を担う救助機関にとっては、これは重要である。

 予言の戒め  気候科学は、対策を立てるのに役立つものでなければならない。太陽活動の全貌を充分に理解できていないうちに、将来を予言することは邪道である。当たる確率は低く、世間を惑わせることでしかないからである。

 

 

 

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不機嫌な太陽 ―気候変動のもう一つのシナリオ― No.7

2022-09-14 05:49:02 | 地球温暖化

        不機嫌な太陽

        ―気候変動のもう一つのシナリオ―  No.7

§8.  300万年前からの気候変動、寒冷化が、人間を登場させたのか。

7章 人間は超新星の子どもか

  気候の変動と人間の出現は、密接に関係していた。人間の出現は、現在の氷期が始まった時期と一致していた。その頃に、地球に極めて近い星の1つが爆発し、それで生じた「宇宙線による冬」が、生物の進化を起こさせたのであろう。天文学者は、地球を奇襲した超新星を探している。

1節 概説

 275万年前に近傍で爆発した星

 その星の候補地は、南十字星の近くで輝いていたか、北方のプレアデス星団(かってはスバルと呼ばれていた七つ星)の星の間にいたか、論争されている。200万年以前の時代に、地球ではまだ類人猿の時代に起こったことである。 爆発してから数十万年の間、その超新星の残骸が地球に吹き付けた宇宙線は増加したに違いない。その星からエネルギーの弱い別の種類の飛沫、それは星の爆発中の核反応で生じた地球には存在しない原子核が、地球に届いたのである。それが届いたのは、その超新星がわずか100光年程度しか地球から離れていなかったからである。ドイツの物理学者が、それがその地球には珍しい原子核であったことから、その超新星の爆発を突き止めた。 275年前に厳しい寒冷化が起こったことと、人間の作り出した道具や人間特有の遺伝子が初めて出現するのに都合のよい環境に変化したこととの関連性をしている。

 275万年前の寒冷化の原因

 1400万年前までに、南極の大部分は氷で覆われて、その後グリーンランドも氷で覆われてるようになった。そして世界全体は地形の変化中であった。この地形の変化が275万年前の寒冷化の舞台を整えた。 それは、アフリカ大陸では、東部の大地溝帯の両側が隆起し、高台のドームが沢山出来、東アフリカは雨が少なくなった。 インド大陸は、アジア大陸の底部に入り込み、ヒマラヤとチベット高原を押し上げた。このため、亜熱帯に寒気の停留地帯が生じた。 オーストラリア大陸が、アジア大陸と衝突し熱帯海流のルートをふさいだ。 北アメリカ大陸と南アメリカ大陸は別々に漂流し、300万年前に、パナマ地峡が完成して両大陸はつながった。大西洋と太平洋は断ち切られ、海流の流れが変わった。地形の変化の 大陸の漂流する速度は爪の延びる程度なので、500万年前から先行期間が始まり、その頃は暖かく、海面は10~20m高く、気温は数度高かったのである。

 これは、宇宙線による気候変動で説明できる。 6000万年前に太陽系は地球を伴って、天の川銀河のオリオン腕の中に入った。そこは5章に書いたように、短命の星が多く存在し、通過するのに3000年前まで続いた。それで6000~3000年前の間、地球全体は寒冷化した。その後、過去数百万年の間、太陽系の各惑星は、宇宙線という風によって揺られたのである。

2節 アフリカのサヘルが埃っぽくなった時

 海底地層の調査

 1995年イギリスの西側の大西洋の海中の、地下1kmの深さまで堆積物の試料コアーを掘削した。ドイツのブレーメン大学のバウマンらは、その堆積物の中の、色の変化した部分を診て、寒冷気候の始まった印と直感した。氷山が運んだ岩屑がその場所に到着して、それが地球の気候変動の歴史における現在の寒冷相が開始したことを示していた。それ以来氷床は、たびたび拡大して行った。他の地の岩屑が、この地にもたらされたのは、275万年前であった。 この試料コアーを調べたら、ある時点から海水中の重い酸素原子の比率がはね上がり、同時に凍結の形跡が示された。その時点からさらにさかのぼった270万年前まで、かなりの氷床がユーラシア大陸と北米にあったことが判った。 

 熱帯地方の気候変動の結果を示す為に、南下した。 サハラ砂漠の南端のサヘル(サハラ砂漠の南縁部に東西に帯状に広がる半乾燥地帯)周辺は、季節的降雨がなく、飢饉が続いていた。乾期の北東の風は、砂塵を沖合へ運ぶ。 1986年にその風の通り道で、1500km沖合の大西洋の海底を掘削した。そこで採取した堆積物から判ったことは、風で運ばれた大量の砂塵が、そこの海底に最初に現れたのは約280年前であった。その時から乾燥化が始まった。

 他の海底掘削地は、西アフリカの海岸に近い場所と、アラビアの沖でアフリカの東の地点であった。そこでは、砂塵はさらにさかのぼった時代にも普通に存在していた。その頃には世界の各地に砂漠が存在していた。その変わり目の280万年前のあとは、砂塵の値は増加した。

 アフリカの乾燥化の影響

 このアフリカの乾燥化の研究は、ニューヨーク市の近くにあるラモントドハティ地球観測研究所のデメノカルが行なった。1995年最初の報告書を書き、その後海洋のデータを、アフリカの陸上生物の化石の記録と比較したのち、「これらの結果は、気候変動が、生物の起源に重要な役割を演じていることを示している。」と語った。 アフリカにはほとんど雨が降らなかった。その為に大きな森林地帯は縮小し、類人猿は果実の実を見つけにくくなった。類人猿は、アフリカの草原で生活をするようになり、草原には大きな動物たちがいた。肉を食べるためにあごが進化し、硬い生肉を切る為に、石器が作られた。

3節 石包丁と新しいあごの筋肉

 猿型生物から人間の出現まで

 600万年頃に二足で走り動き回っていた猿に似た生物の化石骨が、2000年と2001年に、ケニア、エチオピア、チャドで発見された。この時に発見された女性たちの化石は、後ろ足で立てることを示しているだけだった。 発見されたこれらの初期の猿人への進化は、数百万年強もかかった。猿人は、その従兄弟である通常の類人猿と比較すると、希少な存在であり、脳は小さく、習性と食生活はまだ類人猿のようであり、まだ自然が生んだ実験的な二足歩行動物であり、足の長いチンパンジーのようであった。 エチオピアのオモ川下流域(エチオピア最南部の山岳からケニアのトゥルカナ湖にそそぐ川)は、前人間、および初期の人間の数百万年にわたる化石(人骨)が残っているが、そこで出土した動物の化石の全数調査により、その地は、以前は木々の茂った林や森で覆われていたことが示された。(オモ川下流域で最古の打製石器も発見された) 350万年前から、そこの森林は木々が減り始めた。 280万年前以降に、世界が強烈に寒冷化した時には、草原に適応した動物の比率が著しく増加し始め、それから40万年以内には、草原に適応した動物が森林性動物を上回ることとなった。その間に人間が最初の足跡を残した。

 草原への適応

 アフリカは草原が拡大し、生物はそれに適応していった。アンテロープ(カモシカの仲間)という新種がおびただしい数になったので、大きな猫科の動物や他の肉食動物の恰好な獲物になった。しかし、類人猿や猿人は採食用のあごや骨格のために、生存の為に生肉を食べるためには、鋭い歯か、鋭い刃物が必要であった。 生物が作ったもので最古のものは、1990年代にエチオピアで発掘された石器であり、ほぼ260年前のものである。それはこぶし大の丸石を素材にした鋭い肉切り包丁であった。 エチオピアの道具研究者のセマウは、2000年の報告に、「形を整えた石を使うことは、技術上の大きな突破口であった。動物から肉や骨髄などの食料を効率よく利用できるようになり、生存を可能にした。切った痕跡や骨破砕の証拠があり、250万年前という時代にヒト科の動物の食事の中に肉が取り入れられた証拠である」という。

 人間の脳の発達

 なぜ人間の脳は、類人猿の脳より大きくなったのであろうか。 ペンシルベニア大学のステッドマンらは、すべてのサルと類人猿の、あごを咀嚼筋肉の熱さと強さを決定しているmyth16と(命名された)いう遺伝子を同定した。その筋肉は、頭蓋骨を完全に取り囲み、脳の成長を制限していた。 現代人は、その遺伝子の突然変異型を持ち、弱体化した咀嚼筋を持っている。この人間のあごの弱体化に伴って顔は平たく、歯は小さく、そして頭蓋骨は丸くなった。この突然変異が起こったのは、約240万年前であった。この遺伝子の変化した年代は正確ではないので、最初に道具を作ったのは誰かということで、議論は二つに分かれている。

 一つは、当時エチオピアに住んでいたアウストラロピテクス・ガルヒと呼ばれる猿人が関与しているというもので、遺伝子の突然変異は彼らに定着していたから。彼らは小さい脳で、既に石包丁を使っていたから、弱いあごでも生き延びられた。 もう一つは、突然変異が最初に起こり、それで賢くなった人類の祖先が丸石を加工したというものである。

4 ハエ取り紙に捕らえられた超新星の原子

 海底の調査

 1870年代に、海底調査船HMSチャレンジャーに乗り組んでいた英国の海洋学者は、平らな鉱床や丸い団塊状のマンガン鉄の堆積物を発見した。それは地球で成長した金属原鉱石の塊で、その塊の中に重い鉄原子の形で異星の遺物(超新星の証拠)として保存されていた。 その100年後に海底からそのマンガンを採掘しようとした。 1976年にドイツの研究船が、深い太平洋の海底からその沈殿していた資料を救いあげた。このマンガン鉄の堆積物は、ハエ取り紙のように、星が吹き飛ばした原子を捕まえており、遠くの宇宙で起こったことを記録していた。それが判ったのは1990年代後半にミュンヘン工科大学のコルシネックたちで、過去数百万年前に地球の近くで起こった超新星爆発を探し始めていた時だった。

 超新星からの飛来物の探索

 爆発している星では、核反応が大規模に起こり、1つの元素を別の元素に変換し、惑星と生物の為の、新しい原材料を作り出す。それで生じた原子は、四方八方に飛び散り、その一部は偶然にでも地球の一部に届くであろう。 しかし、爆発した星から飛び散った材料が、宇宙空間のほんの1点である地球に届く量は極めて微量になる。超新星がかなり近い時でさえ、極く僅かしか届かない。 その上、地球と地球上のすべての物は、同様の起源で生じているので、太陽と太陽系の星たちと同様に、生存して死に至った星たちから得られた元素からなっている。したがって、最近の超新星から普通の鉄原子が届いても、それがこの地球の始まった時から存在していたものと区別できない。 それで、爆発した超新星からの原子のうち、この地球に存在しない原子を見つけ出すしかない。したがってそれらは地球の年令よりずっと短い放射性元素でなければならない。 たとえ同じ原子が地球上に存在していても、それははるか前に他の原子に変化しているからである。また寿命が短かすぎても、地球に到達するまでに寿命が尽きているので、それを見つけることができない。それで寿命が中間の長さの原子を、調査対象にした。 そこで最適の候補になったのは、通常の鉄原子56Feよりかなり重い60Feであった。これが放射線を出して崩壊し半減する速度は、150万年かかる。従って、1000万年以上経ったら微量しか残らない。

 これを検出する技術を、ミュンヘンの研究所のコルシネックは持っていた。それは加速型質量分析器と呼ばれる大型の装置で、試料を高速に加速し、強力な磁石でその進行方向を急に曲げることにより、各種の原子をその質量に応じて分類することができる。この方法で、分子量がほとんど同じ原子同士の混同を最小限に食い止めることができる。これにより、100万×100万×1万個の中のたった1個の特別な鉄原子を見つけることが可能であった。 2004年に、コルシネックたちは世界で初めて、近くの超新星から届いた原子を見つけた。 ハワイの南東の海底の掘削基地で、ほぼ5000mの深さの海底から取ってからでも約30年経過していた。その場所は(237kdと命名された)マンガン鉱床で、そこから採取された試料から60Feが検出された。 既にコルシネックたちは1999年に太平洋の別の場所から得た数百万年前のマンガン鉄鉱床中に60Fe(鉄60という放射性同位元素)を見つけていたが、その鉱床は証拠が少なくデータとしての確実性に欠けていた。しかし、それを裏付けたこの研究で太平洋の遠く離れた場所で見つけられた証拠として重要であった。 その鉱床237kdは、その後詳細に分析された。ハワイ沖の海底では地層の成長が遅く、1cm成長するのに400万年かかった。それで28の異なる層の各年代を測定でき、1300万年前まで遡ることができた。 各層中の60Fe の原子を質量分析器でカウントし、280万年前あたりの隣接する3つの層だけが高い濃度であった。

 宇宙の60Fe が放出するガンマ(γ)線の検出

 理論上は、古代の隕石中に60Fe が存在することは判っていたが、検出したのは初めてであった。同じ頃にNASAの人工衛星の高エネルギー太陽分光撮像装置は、宇宙空間中に60Fe を見つけていた。それらの60Fe が放射性崩壊する時に出すガンマ線により、天の川銀河で最近起きた星の爆発により生じた原子と混在していることが判った。2006年までに、欧州宇宙機構のインテグラル衛星により、60Fe を天文学的に特定する体制が確立された。

4節 宇宙線による冬

 60Fe 発見の意義

 イリノイ大学のフィールズは、コルシネックたちの発見に対して、「60Feを検出できたことは、深海での放射性物質に対して他の調査をすれば、それぞれの超新星の性質を解明できる、という希望を与えてくれる。観察された各種の放射性物質の比率を用いて、超新星の核燃焼後の灰を研究すれば、爆発している星の原動力である核の火を究明することができる」。

 超新星と宇宙線

 コルシネックらは、「この超新星が、気候変動を引き起こし、それがおそらく、ヒト科の進化を著しく発展させたのであろう」と報告書を締めくくった。 コルシネックらは、また宇宙線、雲、および気候がつながっている可能性があるというスベンスマルクの説を引用した。スベンスマルクは、数年前から近傍の超新星についての推測をしていた。 イリノイ大学のフィールズは、CERN原子核研究機構のエリスと組んで、その超新星の出来事が、「宇宙線による冬」を引き起こしうると提案した。CERNの物理学者カークビーは、宇宙線が雲に影響を及ぼす可能性があることをコールダーから聞いて、エリスに伝えた。カークビーはクラウド(CLOUD=雲)という実験を提案し、仲間に支援を要請していた。

 ミュンヘンの超新星

 ミュンヘンのコルシネックのチームは、超新星の60Fe が信号を出した地層の年代を、特定しようとし、宇宙線による冬というアイデアを検討し、ウィーンの天文学研究所のドルフィに相談した。ドルフィは、計算により、爆発した星の膨張中の残骸における自然の粒子加速器が、超新星爆発後の数十万年の間、宇宙線を量産し続け、それにより地球への宇宙線の流入量が、通常より15%高くなると予測した。 60Fe の原子に関する2004年報告書の主筆クラウス・ニーは、「超新星爆発に伴う宇宙線が、地球大気を照射すると、それと同時期の地球は寒冷化を引き起こし、これが引き金となって、人間への進化が大きく前進したのだろう」と明言した。 この超新星は、その年代が280万年前だったので、275万年前から始まった氷期を伴う大きな寒冷化は、その超新星に誘発されたと思われた。

 しかし、別の技術で、このコルシネックの見つけたマンガン鉱床の別の部分を分析し、それより後の年代にたどり着いた(9章1節)。このことは超新星は、210万年前に激しくなった後期の寒冷化に結び付いているかもしれないが、初期の氷期には遅すぎた(7節)。そうすると人類の進化には寄与していないことになる。

 今後の課題

 宇宙線による冬というアイデアは、その後も生き延びた。地球の近傍で生じた超新星は、それだけではなかったからである。未だ他にあるはずであった。

6節 ミュンヘンの超新星の候補

 100光年の速さと近さ    その超新星は100光年しか離れていない所から、60Fe を届けたが、それに対してもっと本格的な超新星で爆発しそうな大質量の星は、すべて100光年をよりも遠くにあった。

 近くで超新星が生じやすい領域

 約400光年先にあるオリオン座のペテルギウスとその一群の「オリオンOB1アソシエーション」の星団の中にある。アソシエーションと呼ばれる一群は、すべて同じ時に生まれ、夜空で近くに集まって見える星団のことである。OB星の多くは太陽の10~50倍の質量と3000万年~1億年の寿命であり、この星たちが超新星爆発を起こす可能性が最も高い。 NASAのコンプトン衛星はオリオンOB1星群内で、過去100万年以内に起こった星の爆発によって作られた26Al(アルミニウム放射性同位体26)が、ガンマ線を出していることを観測した。 1870年代にアルゼンチンで研究中の米国の天文学者グールドが、巨人オリオンのベルトの位置にOBアソシエーションたちがあるので、グールドベルトと名づけられた。

 グールドベルトは、それを構成する数個のOBアソシエーションが、縦2400光年、横1500光年の楕円形で、太陽系の星はグールドベルトの内側にいるので、爆発性の可能性の高いOB星たちは、地球の周りをぐるりと取り囲むように点在している。 このOB星は、連鎖反応を起こす。①同一世代の星々から出る風と衝撃が、星同士間の空間に充満していた薄いガスを強く押し付ける。②それにより圧縮されたガスは、新たなOB星を誕生させる。③それらは寿命が尽きると爆発し、再び①に戻り、同じことを繰り返す。

 天の川銀河のオリオン腕内にいる地球の周辺領域は、星間ガスは、超新星の爆発により、希薄なプラズマという帯電した原子に置き換えられており、それは高温なのでX線を放っている。この領域は、天の川銀河の円盤全体からはみだしているので、熱いプラズマが天の川銀河の外の空間へ噴出しているので、天文学者は局所泡とか局所煙突と呼んでいる。

 ミュンヘンの超新星の候補

 コルシネックたちの発見した超新星はどれであろうか。60Fe を同定できる程の量を、地球にまき散らせるほど、近くで爆発した星は、いろいろと探索されている。1つの候補は、ほぼ南十字星の方向にある星。 もう1つの候補は、牡牛座内のプレアデス星団(かってはスバルと呼ばれた七つ星) しかし、決着はついていない。またこの星以外かも知れない。

7節 超新星の残骸の探査

 超新星の研究方向

 多くの超新星を探しだすことに向井、南極の古代の氷や海底の地層の調査は続いている。

 グールドベルトの星の統計は、過去300万年間に数回、星の爆発による宇宙線の急増をもたらしていることを示唆し、その度に宇宙線による冬が起きたであろう。

 海底の微化石中の重い酸素原子のカウントから得られる気候変動の記録は、270、210、130、70、50万年前に急冷期が起こったことを示している。それを起こした特定の超新星を探している。

 超新星の残骸の探査

 一片の雲として見える超新星の残骸は、全天 で250個見つけられている。しかし、この方法では星の歴史を数千年しか遡れない。 星の爆発した時の放射性原子をさがすことは、それぞれ特定のエネルギーのガンマ線を出しているので、人工衛星に載っているガンマ線望遠鏡で見つけられる。 地球外物理研究所のディールたちは、NASAのコンプトン衛星(1991~2000)で26Al(アルミニウム放射性同位体26)の散乱を見つけた。またディールは、欧州のインテグラル衛星(2002~2010)ガンマ線と26Alを測定した。 3種類目の証拠は、中性子星からもたらされた。中性子星は、大質量の星の爆発の跡で、高度に圧縮された中心部分の遺物である。これは当初、脈動星として発見され、1000個以上見つかっている。それでいくつもの最低20個以上見つかっているが、まだ決められていない。今後の人工衛星のデータが待たれる。

 超新星による寒冷化と生物への影響

 ディールはガンマ線天文学者として、超新星と生物が密接に結びついていると考えている。「生物学者は、暴風雨や火山等が、次いで小惑星や彗星が、種の多様性や障害に影響及ぼすと考えている。しかし、星からの宇宙線については論じられていない。宇宙線が及ぼす正確な影響はまだ確認されていないが、それでも宇宙線が地球上の生物の歴史に、たびたび関与していることは間違いない。天文学と地質学と化石学とを我々は結び付けている。」

8節 新しい知識の連鎖

 本書で問い訪ねた広範囲の分野

 本章ではアフリカ沖の海底や南十字星に近い星を訪ねた。生物の歴史の1万分の1である40万年(280~240万年前)にわたって続いた気候変動を追跡した。 新しい知識は、宇宙線という糸でつながれた人つづりの連鎖である。

 研究の細分化の問題点

 19世紀から今まで、自然科学は、範囲の狭い多くの専門分野に細分化されてきた。 研究者は、自分たちの扱いやすいように、明らかにする分野に分割するので、自然が互いに関連しあっていることに、ほとんど気がつかない。

 幅広い知識の融合の必要性

 21世紀には、自然科学は、自然の世界に残っている謎を解こうと務めている人は、極端に異なる種類の手がかりを数多く組み合わせねばならない。

 スベンスマルクの研究の仕方

 スベンスマルクは、宇宙線が雲量に影響を及ぼしうることから始まって、① 大気中の硫酸の物理化学から、② 天の川銀河の運動力学、③南極気候の異常、④ 生物圏の生産性が常に変動していること、にまで至っている。 宇宙線、雲、および気候がつながった連鎖の輪は完成しているが、まだ新しいことが判る可能性が残されている。

北半球と南極における気温の平均値を、

20世紀の100年間にわたりプロットした図

宇宙線流入量の比率と生物圏の生産性の類似

 

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不機嫌な太陽―気候変動のもう一つのシナリオ― No.6

2022-09-14 05:00:16 | 地球温暖化

       不機嫌な太陽

   ― 気候変動のもう一つのシナリオ―  No.6

§7.地球の気候の歴史と宇宙線との関係

 気候変動は、天の川銀河の渦巻きの中を周回する太陽の位置によって決まるようだ。 そして小惑星の衝突も気候変動の一因であった。恐竜はそのために絶滅した。しかし、小さい恐竜だけが羽をはやして寒さをしのぎ、鳥へと進化した。毛のある動物たちは、そのまま進化した。鳥は、始めは飛べず、飛ぶのは滑空する動物から始まったという。炭酸ガスの影響は小さいだろう。

5 恐竜が天の川銀河を案内する

気候は、数百万年の間にリズミカルに切り替わる。氷期は、太陽系が天の川銀河内の明るい腕を進行中に起こる。気候の寒冷化は、たとえば、鳥を出現させたように生物の進化に影響を及ぼす。炭酸ガスによる温暖化は、世間で騒がれているよりも小さいだろう。現在では、気候変動のデータから、天の川銀河についての正確な情報が得られる。

1節 押し曲げられた石灰層

 押し曲げられた石灰層

 デンマークのコペンハーゲンの南東にあるモンス(ミュン)島の海蝕断崖にあるモンス(ミュン)クリントにそびえる白い石灰岩は、約7000万年前にできた。巨大な恐竜が世界を支配していた時代である。当時の気候は非常に暖かく、両極地に氷が無く、南極大陸にも恐竜が棲んでいた。海面は非常に高く、微細藻類の外套であった炭酸カルシウムの板は、藻類が死んで海底に蓄積された。バルティック海ではそれが厚さ100mの石灰岩になった。  当時同じことが世界各地で起こった。それでその地質年代が白亜紀と名づけられた。白亜とは白色の石灰岩のことである。南イングランドのドーバー海峡にも白い断崖があるが、モンスクリントとは大きく違った。デンマークの地質学者プガールは、「(ミュン島の)石灰岩の地層は、ねじられ、曲げられ、へし折られている。S字状、Z字状、半円状、またはあぶみ状になっていて、更にそこへ深い裂け目が入っている」と記した。

 石灰層の押し曲げと気候変動

 欧州の各地で見られる他の石灰岩層はそれ程ゆがんでいず、その理由は、約7万年前に始まった直近の氷期中に、大きな氷河がバルティック海を横切って西方に進み、氷河の先端が石灰岩の表面をはぎ取って前に持っていき、温室期(間氷期)が来て、氷河が残した荷物「末端堆積」としてミュン島ができた。  約5000万年前に、温度は著しく低下した。南極にはその後3000万年の間、氷床が存在した。275万年前に北大西洋は寒冷状態になり、世界は氷室期となった。氷河と氷床が常に景色の一部となった。

☆ミュン島の石灰岩を生み出した温室期から、それをめちゃくちゃに押しつぶした氷室期に切り替わったことに対する説明として、

〇1つの説は、大陸移動により地形が変化して気候変動が起こったからと考えた。この頃オーストラリア大陸は南極から離れ、南極は南極大陸のみとなり、南極の周りに環南極海流が生じ、それが暖かい海流を遮断して、その時から南極は孤立し氷床が続いている。インド大陸とアジア大陸が衝突し、ヒマラヤを高く押し上げ、熱帯地方に寒気のプールを作った。

〇第二の説は、大気中の炭酸ガス量が低下したので、それが原因で寒冷化したというもの。

〇第三の説は、イスラエルのラカー物理学研究所の天体物理学者シャヴィブは、太陽系が、天の川銀河の中の「射手―竜骨腕」と呼ばれている非常に明るい領域内に、入ったためであるという。

 天の川銀河の渦状腕との遭遇による寒冷化

 約6000万年前に、地球を伴った太陽は、(現在と同様に当時も)明るくて短命の星が多く存在していた腕(射手―竜骨腕)の領域に入ったのである。太陽系は、その明るい腕の遠い方の後端部に入り、約3000万年前には、その近い方の前端部に現れた。その前端部では、爆発している星の数が頂点に達したので、そこから発する宇宙線の強度も頂点に達していた。シャヴィブは、スベンスマルクの「宇宙線が地球を覆う低い雲を増やすことにより地球を冷却しうる」という理論を採用した。この解釈により、約6000万年前から3000万年前の間に、地球全体の温度が低下し、南極大陸は氷床を作り出した。「射手―竜骨腕」から遠ざかるにつれ、寒冷化は弱まった。 そして気候は逆転して温暖期に入るはずだったが、太陽系が天の川銀河の中を放浪して「オリオン腕」と呼ばれる明るい星の集まった特別の分岐腕の中に突入したので、再び寒冷化した。この「オリオン腕」が今我々のいる所である。したがって、現在氷期と氷期の間の比較的暖かい期間にいるが、まだ氷室期の深部にいて、氷河作用は小休止しているだけなのである。 2002年に発表されたシャヴィブの解析は、5億年前の地球上に動物の存在が初めて認められるようになった頃より、更に少し遡った時から起こった4回の氷室期をすべて説明した。

 考察

 今まで述べてきたことは、天文学的時間または地質学的時間としては非常に短いので、この間には、天の川銀河から太陽系への宇宙線の流入は、ほとんど変わらなかった。従って過去10万年の間には、太陽活動の変化が、地球大気の最も低い位置まで到達する宇宙線の強度を変化させる第一の理由であった。地球が太陽と一緒の時間を過ごして、数百万光年や数千光年を移動する時には、宇宙線の流入量はその変化幅がより大きく、周期がより長くなる。  (太陽活動の変化を、「不機嫌な太陽」と著者は評したのではないか。)

2節 鉄隕石に託された伝言

 渦巻状銀河の形状

 銀河には各種の形があるが、渦巻状銀河が最も美しい天体である。渦巻状銀河は、数十億の星からなっており、中央部分では、古くて赤みがかった星が球状または棒状に分布しており、その外周部分では、中央部分から放射状に出て弯曲して伸びる数本の腕に沿った部分に、最も明るくて青い星が主に点在している。重力が渦巻状銀河を平板化し、横から見ると目玉焼きのように中央部が膨らんでいる。

 天の川銀河について

 我々の居る天の川銀河は、我々がその内側にいるために、全天に伸びた光の帯のように見える。その為に天の川と名づけられた。その後、夜空一面に散らばっている星たちと同じように、これは「島宇宙」であると認められた。1950年代以前にオランダの電波望遠鏡が、水素ガスの分布をチャート化したことにより、アンドロメダ銀河などと同じように渦巻状銀河の形であることが判った。 星同士の間に働く重力は、物質の密度の高い所と低い所からなる波動を生じる。それにより渦巻の構造ができる。その渦は天の川の中心の周りをゆっくり周回する。

 この密度波は、星間ガスをかき乱し、密度の高い雲を生じ、その雲からこの銀河を活性化させる新しい星が生まれる。その結果、質量が大きくて明るい青い星が生まれて、天の川の腕の部分を飾る。しかし、それらの星は余りにも短命なので、その星が生まれた所から遠く離れた所まで行きつく前に爆発して宇宙線を吐き出す。 太陽のような小さい星は寿命が長いので、銀河の中心の周りを何回も周回することができる。しかし、渦状腕が回転する速度と太陽の速度が違うので、太陽は渦の腕の中に一方から入り、その腕の反対側から出ていくということを繰り返す。 太陽と太陽系の星たちは、渦状腕を出る時に宇宙線を受ける量は頂点に達する。それは大きな星の多くが渦巻の先頭部分で作られ、爆発する前にはその渦巻の少し前方を周回しているからである。(これが気候に大きく影響している)

 シャヴィブは、「宇宙線の中で、地球の低空をイオン化させることができる高エネルギーの宇宙線が、天の川銀河内での太陽の周回によって、「腕」との位置関係で増減する変化は、太陽活動の強弱によって増減する変化よりも10倍も大きい。 太陽が世界の気候を1℃変化させるなら、「渦状腕」を通過することによる変化は約10℃となろう。この10℃の変化は地球の極地迄が温室の気候である温室相から、現在の両極地方に氷床がある氷室相にまで変化させるよりも、もっと影響が大きい。事実「渦状腕」の影響が、1億年の期間にわたる気候変動の最も大きな駆動要因と予想されている」。 天の川銀河の4つの主要「腕」、および数本の分岐「腕」は、太陽と地球が天の川銀河の中を周回する軌道と交差している。(主要腕は、ペルセウス腕、定規腕、楯―南十字腕、射手―竜骨腕)

 我々が現在居るところは、ペルセウス腕から枝分かれした、オリオン腕という明るい星々からなる分岐腕の部分である。(肉眼で見える星のうち、アンドロメダ星雲、大・小のマゼラン星雲以外は、すべて天の川銀河の星である) 銀河内の太陽の軌道における周回速度には異論がないが、渦状腕の圧力波が回転する速度に関しては、論争されている。渦状腕との遭遇と気候変動を結び付けるには、太陽と渦状腕との相対速度が重要である。そこが論争中である。

 太陽系の周回に伴う宇宙線の増減周期

 シャヴィブは、鉄隕石中の放射性元素に関するドイツの研究者のデータを解析し直すことにより、宇宙線増減のリズムを見出した。 小惑星同士が太陽系内の遠くで衝突した時に、空間に放出された破片に鉄の塊が含まれていることがある。それらは数億年の間、太陽の周りを公転し続ける。公転している間に宇宙線の衝撃を受けて放射性元素を作る。最終的にその破片のいくつかが、鉄の隕石として地球上に落下する。それに含まれる放射性のカリウム原子の量を、安定な原子に対する比率で、鉄隕石がどれだけ放浪したかの時間を測定できる。しかし、太陽系が受けた宇宙線の強度が変化していると違ってくる。 鉄隕石の見かけ上の年令が不自然なものを除外して、残った約10億年の間に広がる50個の鉄隕石の年令を推定して、それらの年令から、太陽系が繰り返し銀河の渦状腕の中を通過することにより、宇宙線の強度が増減する周期は、1億4300万年±1000万年であると推定した。この結果は、気候変動の長期の記録と不思議なほど一致した。

 以降の内容

 シャヴィブの解析は、過去10億年に広げられた。その周期の最初の部分は、宇宙と気候の他の種類のできごとを含んでいるので、6章に述べる。 5億4200万年前から始まったカンブリア紀に、初めて多くの種類の動物が化石として保存されていた。その5億4200万年前から現在までの全期間は、顕生代と呼ばれる。

3節 各腕との遭遇による気候と生物の変化

 射手―竜骨腕からの脱出

 カンブリア紀の初めは、(太陽系が天の川銀河の射手―竜骨腕を通り抜けた後で)、厳しい氷室気候から逃れたばかりであった。厳しい気候は、生物に生き残りのための進化上の革新を誘発することができた。 このことは1970年代に、カリフォルニア大バークレー校のヴァレンタインにより指摘されていた。その指摘通りに、海底に潜伏していた虫が大量発生した初期の段階に、動物の新体制が始まった。 季節ごとの気候変化や長期にわたる気候変動は、動物たちを飢餓状態に追いやっても、虫たちには小さな影響しか与えなかった。

 温室相がカンブリア紀として始まった時に、動物たちの主要な「門」(分類学では、動物はすべてどこかの「門」に分類されている)の全ての先祖が出現した。(太陽と地球は、天の川銀河の渦状腕の間にあったので、宇宙線の強度は低く、海面は高い位置にあった)。それで、生物は、大陸棚で繁栄した。無脊椎動物の中で早熟で繁殖できるようなオタマジャクシのような「幼生」がいた。(幼生とは、幼児のままに成熟して、繁殖できるようになること) それが魚や背骨を持った他の動物すべての先祖になったのである。

 ペルセウス腕への移行

 温暖な気候は、オルドビス紀にも続いたが、約4億5千万年前に終了し、急激な氷室相に入って、氷河が来て海面は低下した。これはその時、太陽系が天の川銀河のペルセウス腕を通過したからであった。ペルセウス腕を出て、宇宙線の強度が頂点に達した時であった。 この寒冷な期間の直後の温暖なシルル紀では、陸上で生きる最初の植物と動物が現れた。骨のある魚も現れた。それが背骨を持つ動物の端緒となった。次のデボン紀も温室期だった。

 定規腕(じょうぎわん)への侵入

 宇宙線に関する隕石のデータと石炭紀が終わった約3億年前の最大の寒冷期と一致した。 石炭―二畳(ペルム)紀の氷室期は短くはなかった。石炭紀の名前は、沼地の森に大量の石炭が埋蔵されたことに由来する。この氷期に、もっぱら陸上で生活できる背骨を持った動物として爬虫類が出現した。この時は、大陸は一つでパンゲアと呼ばれた超大陸であった。二畳紀の終わりの2億5千万年前に大異変が起こって、大量の種が絶滅した。(これはおそらく偶然侵入した彗星か小惑星が地球に衝突したためであろう)それがきっかけで中生代に入る。この時代に恐竜が出現した。二畳紀後期と三畳紀は温室気候が続いた。

 楯―南十字腕への侵入

 楯―南十字腕を通過したので、ジュラ紀と白亜紀の初期は寒冷期になった。この時現れた生物は、花を咲かす最初の植物や最初の鳥がいた。

 以降の内容  特筆すべきことは、鳥の起源に関することである。

4節 小さい恐竜を寒冷気候から守る羽根

 小さな恐竜の活躍した時代

 最初の小さな恐竜と哺乳動物が登場したのは、約2億3千万年前である。そのときの太陽と地球の位置は今と同じであった。その時から太陽系は天の川銀河の周りを一周し、それには5億年以上かかった。恐竜は地球を支配し、哺乳動物をおとなしくさせていたが、一周しない6500万年前に絶滅した。

 宇宙線から予想された寒冷な中世代中期

 シャバイブは、中世代中期(ジュラ紀)はその前後の三畳紀と白亜紀よりも寒かった、と書かれている本を見つけた。シャバイブの理論では、三畳紀は温暖であったが、太陽系はその後、楯―南十字腕のそばを通り、ジュラ紀と白亜紀は氷室期となった。

 寒冷な中世代中期を示す証拠

 2002年にシャバイブが、渦状腕を通過することによる寒冷化するという説を裏付ける証拠が、氷山が海底に落とした岩屑からもたらされた。 1988年アデレード大学のフレイクスは、浮氷がそれに含まれていた砂を亜寒帯の海上で落としていたことを示した。さらに2003年にフレイクたちは、白亜紀の陸上の地層に氷の存在を示す証拠を見つけた。それは南オーストラリアのアデレードの北方にあるフリンダース山脈の近くに、氷河によって押しつぶされた粘土、小さな丸石、それに石英粒が存在することを見つけたのである。それが始まったのは、白亜紀初期の約1億4000万年前で、恐竜は気候の激変に遭遇していた。

 寒冷期に小さい恐竜は、体が小さいために大きい恐竜より早く体温を奪われるために、鱗状の皮膚しかなく、それを羽毛や羽根に変形させることにより体温を保ったのである。 オーストラリアでの発見と同じ頃、中国の遼寧省の湖の跡の底の、1億2000万年前の白亜紀初期の氷室期の地層から、① 羽毛をつけた小さな恐竜、および② 恐竜の一部が鳥に進化したもの、の化石が発見された。 これによって、羽根は鳥に特有なものではないこと、飛行は木立に棲む生物が滑空することから進化したかもしれないことを、などを示唆した。

 天体との衝突

 その後充分時間があったので、羽根を付けた鳥の先祖は鳥へと進化した。約7500万年前の氷室期が小さな恐竜の羽根のジャケットで保温性を実証し、その羽根でできる別の生き方を見つけさせた(それで飛ぶようになったのではないか)。6500万年前の小惑星がメキシコに衝突した時には、インドから噴出した大量の火山性溶岩が地球の反対側まで押し寄せて、生物の大量絶滅が起こったが、多くの鳥と哺乳動物は生き残った。

 1980年にイタリア中央の山脈中のグッビオにある渓谷の石灰岩層を横切る赤い粘土層の中から地球外に起源をもつ希元素(イリジウム?)が見つけられた。このことから恐竜を絶滅させた小惑星の衝突の最初の証拠となった。一般的には、彗星や小惑星が衝突した後には、短期間の気候の混乱は起きるが、その後は、衝突する前の気候状態(氷室相または温室相)に戻るのである。

5節 炭酸ガスについての議論

 シャバイブの研究

 銀河と気候との結びつきに関するシャバイブの研究は、雑誌”Discover”の2003年の科学上の発見の上位100選に選ばれた。他人の研究分野を侵すことのない、全く未踏の分野に踏み込んだ研究として高く評価された。

 ヴァイツァーの研究

 ヴァイツァーはドイツのルール大学の研究室で、過去5億5000万年前までの、熱帯の海洋に生息している生物の化石貝殻中に含まれる重い酸素原子(17O、18O)の比率を調べ、大量のデータを蓄積していた。そのデータは、温室気候と氷室気候を交互に繰り返すことと、ほぼ歩調を合わせて、熱帯の温度が、約4℃の上昇と下降を繰り返すことを示した。 ヴァイツァーは、このデータから、大気中の炭酸ガス濃度の変化から温度変化を求めるための「係数」が間違っていると結論付けた。海の温度が合わなかったからである。 貝殻の示す温度変化の歴史は、約1億3500万年という周期をしめし、シャバイブが銀河の渦状腕との交差から予測した1億4300万年に近い値となった。

 2人の共同研究

 この時、この天文学者シャバイブと地質学者ヴァイツァーは、相互に協力して、気候変動における宇宙線の有効性を評価できると考えた。そこで二人は米国の地質学会の学会誌「GAS today」に「顕生代の気候変動を起こしたのは天体か」という論文を載せ、そこに二人のデータと共に宇宙線と雲に関するスベンスマルクの研究成果の説明を載せた。 二人は、顕生代の気候は、宇宙線と結びついているが、他方、気候に及ぼす炭酸ガスの影響は、一般に言われるよりずっと小さいと結論した。地質学的に記録されている炭酸ガスの濃度と海水温度との関係は、現在信じられている関係と一致しないことから、将来炭酸ガスの濃度が2倍に増加した時の温度変化は「気候変動に関する政府間パネル(ICCP)の予想よりずっと低いと判断した。

 その論文に対する反論

 気候への影響を研究するポツダム研究所のラームストルフの反論(略)。 ペンシルベニア州立大のローヤーの反論。(推定された温度を海水中の酸性度に対して補正すべきだ。補正すると温度の変化と炭酸ガスの変化が一致するという。)

 温度に影響する炭酸ガスと宇宙線

 過去5億5000万年の間に、炭酸ガスの濃度は2回の上昇と2回の下降を示したのに対して、宇宙線量は4回の上昇と4回の下降を示している。そして気候変動には4回の温室期と4回の氷室期が存在する。このパターンはシャバイブとヴァイツァーの説を支持している。 しかし、氷室期の厳しさが違っているのは、何かが関与しているのだろう。

 キールのゲオマール研究センターのウォールマンは、宇宙線と炭酸ガスのどちらが重要かの論争に対して、「温暖期(カンブリア紀、デボン紀、三畳紀、白亜紀)は、少ない宇宙線量によって特徴づけられ、寒冷期(石炭期後期~二畳紀初期、および新生代後期(現在)―)は、多い宇宙線量と低い炭酸ガス濃度によって特徴づけられる。・・・オルドビス紀~シルル紀の間、ジュラ紀~白亜紀初期の間、という2つの冷却期間は高い炭酸ガス濃度と多い宇宙線量により、炭酸ガスの温室効果が、低い雲の冷却効果を保証した結果であると特徴づけられる」とした。

 炭酸ガスの温度に及ぼす影響

 太古における炭酸ガスの影響は・・・。空気中の炭酸ガスの濃度は、温度の低下した各時期、3億年前および現在の氷室期には数百ppmであったが、温度の上昇した各時期には2000ppmとか5000ppmであった。 これを気候感受性と呼ばれている「炭酸ガスの濃度が280から560ppmに増加した場合、つまり工業化される前の値が2倍になった場合、温度上昇はどのくらいになるのか」については、「気候変動に関する政府間パネル」は、おそらく1.5~4.5℃であろうと考えた。 これに対してシャバイブとヴァイツァーの二人が5億年の気候の研究から出した最初の答えは、0.5℃でしかないというものであった。その後、酸性度に対する補正が必要であることを認めて約1.1℃という推定値を出した。これはマサチューセッツ工科大学の気象学者リンツェンによる大気の評価と一致している。リンツェンが2005年に英国貴族院に提出した文書では、「もしも主な温室効果物質である水蒸気と雲が一定なら、CO2が2倍になると、世界的に平均約1℃の温度上昇を招くこととなる」とした。 スベンスマルクは炭酸ガスの温暖化効果に対する数値を出すことを拒んでいる。それはその数値が地質学上のどの地点でも同じか、また炭酸ガスの濃度が変化した時にどうなるかに疑問を抱いている。 21世紀における人間活動による地球温暖化に対して予想されている数値より、シャバイブとヴァイツァーの出した結果はずっと低い。これはスベンスマルクの宇宙線説から、大きな温暖化は起こらないとの説とほぼ一致している。

6節 天体望遠鏡の役割を果たす貝殻

 スベンスマルクの古代への取り組み

 SKYの実験から最初の一連の結果が出揃い、それを解釈できてからは、スベンスマルクは星と岩石とが、太古から現代まで相互に同じ対応関係を維持してきたという真実に取り組むようになった。

 貝殻のデータによる天の川銀河の調査

 スベンスマルクは、天の川銀河のことや、天の川銀河の渦状腕と遭遇する時期についての天文学者の間の意見の対立に悩まされた。それでヴァイツァーの化石による海の温度の記録を用いて、天文学をすることにした。 海に棲む貝の殻は、自然の検出器として作用し、変化していく星の環境を測定し記録している。貝が生きている時に、海水中と同じ比率の重い酸素を取り入れているので、宇宙線の強度を記録した「天体望遠鏡」であった。

 イルカ様運動を伴う太陽の周回

 化石に記録された気候変動は、地球が渦状腕を通過することによる計算上の気候変動よりも速いリズムを持ち、比較的短い周期を示している。その理由は太陽が遊び好きのイルカのように振る舞うからである。(詳細は略)  太陽は天の川銀河の円盤の中を周回しながら、円盤のふくらみの中で上へ行ったり下へ行ったりしている。地球上の宇宙線の強度は、太陽が上から下でもその逆でも、中央の円盤を横切る時に強くなる。中央を横切るのは約3400万年の間隔で起こる。これは海の温度変化の分析により、太陽系が円盤と交差するタイミングが規定されていることが、地質学者によって確定されている。

 数学手法の利用

 スベンスマルクは、過去2億年にわたるヴァイツァーのデータから天の川銀河と太陽の動きを関係づける最適の組み合わせをたった一つ見つけたのが、イルカ様運動であった。

 得られた情報 

ベンスマルクの解析によって得られたのは、太陽と回転している渦状腕のパターンとの相対速度は、12km/秒(光速30万km/秒の2万5千分の1)である。楯―南十字腕への到達は1億4200万年に起こり、射手―竜骨腕への到達は、3400万年前に起こった。

 考察 これらの数値は、以前に天文学で示唆されていたことで、化石がどの数値が正しいかを教えてくれたのである。「気候から天文学へ」という推論の逆転が成功し、天の川銀河内の動きが地球の気候を支配していることを確実にした。

(今回、今までの載せた図がダウンロードするとうまく入らなかったのが判ったで、縮小して書き直しました。)

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