★★★☆☆☆★★☆☆★☆
「真のアメリカを知るために」という不純な理由から教会で洗礼をうけたと前にブログで書いた。その際、購入したキリスト教・聖書関連の書籍の中の一冊を、「アメリカがわからない」と感じたときに必ず読み返すことにしている。鹿嶋春平太氏の著『聖書がわかればアメリカが読める Understand the Bible--Read Americans 』(PHP研究所)の本だ。
氏の記述には常に「120%」賛同する。たとえば、『アメリカ人には弱いものを軽視し、強いものを尊敬する傾向がある』。そう言えば、アメリカの大学での留学時代に自分が見たものは、一般の人々の「金持ち(の人々)」に対する姿勢は決して妬み(ねたみ)ではなく、憧れ(あこがれ)であって、努力さえすればーー実際は聖書の創造主・ゴッド・God の力によってーー「有名・金持ち」になれるというアメリカン・ドリームを常にもっている。
また、氏いわく、『「強い物好き」という気質の根底には「いかに強くても自由の敵とは結局戦うしかない」という意識層があり彼らの世界建設の使命感と結びついていること。』
鹿嶋氏の主張はこうだ。
アメリカ魂は下記の3つの重層構造になっていると。
(1)合理的なリアリズム=現実を動かすものは「力・パワー」であり、政治的、軍事的、経済的なパワーをどう獲得するか、そしてどう操るかが問題となる。
(2)肉体より霊=人の意識の本体は、脳神経などの肉体的なところでなく、霊にあるとし、現世で人が抱く意識は死後も霊のなかで存続すると考える。人生を、いずれ死んで無になると考える日本人と、霊となって永続すると考えるアメリカ人とでは、人生の意味も生き方も大きく違ってくる。
(3)「聖書主義」、あえて英訳するなら「バイブリズム=biblism 」で、キリスト教の教典である「聖書」に対して、その読み方も解釈も個人の自由にゆだねるというもの。聖書は比喩(ひゆ=たとえ)がふんだんに使われており、さまざまに解釈される余地を大きくもっていて、論理的に解釈したものの1つが「教理」(教義)だ。日本では、キリスト教は教理をもっているカトリックとプロテスタントという2大潮流で説明されているが、実は第3の大きな流れである「聖書主義」がヨーロッパにはあった。統一見解としての教理をみんなで共有しないと教団としての存続がむずかしく、この「聖書主義」は歴史の陰に隠れてしまった。この層がアメリカ人の意識の根底にある。
宗教というものは、そもそもは神秘に対面するときの人の姿勢から生まれ、不思議なものの存在を人がおそれ拝するときに生まれる。その際、2つのタイプがあって、日本型は「神秘な対象をただおそれ拝する姿勢で、神秘なものがどんなものかに関して、それを説明しようという理屈を巡らすことなく、ただ拝する」。いわゆるノン存在論。
もう1つは、「神秘な存在を説明する理屈をもっていて、かつ、それを拝する」という存在論。キリスト教の教典である聖書には、神秘な存在がどういうものかを説明する理屈がたくさん埋め込まれているので、ノン存在論の感覚的なものだという前提でそれを見たら、その理屈のあたりが見えなくなる。その結果、ほとんどが礼拝の儀式になってしまったり、どういう行いをしなければならないかを教えるだけのキリスト教になってしまう。だから、日本人はキリスト教がいつまでたってもわからない。イコール、アメリカがわからない。なぜなら、アメリカほどキリスト教の信仰が深く根づき、生きている国はないからである。
その証拠に、
①アメリカのドル紙幣・硬貨のすべてに "In God We Trust"(われわれはゴッドを信じる)と書かれている。
②アメリカを建国した初期の移民は上記の「聖書主義者」たちが多かった。アメリカ人は、根本的な意見が違っていても、それを相手に押しつけたり、圧殺したり、喧嘩したりせず、別々にやっていこうという意識が強い。どんな意見も尊重し、言わせておく。これはキリスト教の歴史のなかで、さまざまな迫害にあいながらも、独自の信仰を維持しようとしてきた「聖書主義」の伝統でもある。
③大統領宣誓式で大統領は聖書に左手を置き、右手を上にあげ、ゴッドに誓う。(40年前、国務省の職員になった際、同様の儀式を東京のアメリカ大使館でおこなった事を思い出す。)
④その他、数多くの事柄が聖書をベースとしている。
鹿嶋氏のこの本は、私にとってアメリカの本質を知る『バイブル・Bible』になっている!!!!! YS#
*注 緑字は本の著者の言葉をそのまま引用。
*注 「聖書主義(著者・鹿嶋氏の英訳はバイブリズム・biblism)」は、
「福音主義(Evangelicalism) エヴァンゲリカリズム」と類義語?
『福音主義:一般に、キリスト教の十字架による罪の赦(ゆる)しの福音を中心とし、
教会の権威や既成の神学にとらわれず、敬虔(けいけん)な心情と実践とを重んずる
運動・考え方。【出典:岩波書店「広辞苑」】
☆☆☆★★★☆☆★★☆★
「真のアメリカを知るために」という不純な理由から教会で洗礼をうけたと前にブログで書いた。その際、購入したキリスト教・聖書関連の書籍の中の一冊を、「アメリカがわからない」と感じたときに必ず読み返すことにしている。鹿嶋春平太氏の著『聖書がわかればアメリカが読める Understand the Bible--Read Americans 』(PHP研究所)の本だ。
氏の記述には常に「120%」賛同する。たとえば、『アメリカ人には弱いものを軽視し、強いものを尊敬する傾向がある』。そう言えば、アメリカの大学での留学時代に自分が見たものは、一般の人々の「金持ち(の人々)」に対する姿勢は決して妬み(ねたみ)ではなく、憧れ(あこがれ)であって、努力さえすればーー実際は聖書の創造主・ゴッド・God の力によってーー「有名・金持ち」になれるというアメリカン・ドリームを常にもっている。
また、氏いわく、『「強い物好き」という気質の根底には「いかに強くても自由の敵とは結局戦うしかない」という意識層があり彼らの世界建設の使命感と結びついていること。』
鹿嶋氏の主張はこうだ。
アメリカ魂は下記の3つの重層構造になっていると。
(1)合理的なリアリズム=現実を動かすものは「力・パワー」であり、政治的、軍事的、経済的なパワーをどう獲得するか、そしてどう操るかが問題となる。
(2)肉体より霊=人の意識の本体は、脳神経などの肉体的なところでなく、霊にあるとし、現世で人が抱く意識は死後も霊のなかで存続すると考える。人生を、いずれ死んで無になると考える日本人と、霊となって永続すると考えるアメリカ人とでは、人生の意味も生き方も大きく違ってくる。
(3)「聖書主義」、あえて英訳するなら「バイブリズム=biblism 」で、キリスト教の教典である「聖書」に対して、その読み方も解釈も個人の自由にゆだねるというもの。聖書は比喩(ひゆ=たとえ)がふんだんに使われており、さまざまに解釈される余地を大きくもっていて、論理的に解釈したものの1つが「教理」(教義)だ。日本では、キリスト教は教理をもっているカトリックとプロテスタントという2大潮流で説明されているが、実は第3の大きな流れである「聖書主義」がヨーロッパにはあった。統一見解としての教理をみんなで共有しないと教団としての存続がむずかしく、この「聖書主義」は歴史の陰に隠れてしまった。この層がアメリカ人の意識の根底にある。
宗教というものは、そもそもは神秘に対面するときの人の姿勢から生まれ、不思議なものの存在を人がおそれ拝するときに生まれる。その際、2つのタイプがあって、日本型は「神秘な対象をただおそれ拝する姿勢で、神秘なものがどんなものかに関して、それを説明しようという理屈を巡らすことなく、ただ拝する」。いわゆるノン存在論。
もう1つは、「神秘な存在を説明する理屈をもっていて、かつ、それを拝する」という存在論。キリスト教の教典である聖書には、神秘な存在がどういうものかを説明する理屈がたくさん埋め込まれているので、ノン存在論の感覚的なものだという前提でそれを見たら、その理屈のあたりが見えなくなる。その結果、ほとんどが礼拝の儀式になってしまったり、どういう行いをしなければならないかを教えるだけのキリスト教になってしまう。だから、日本人はキリスト教がいつまでたってもわからない。イコール、アメリカがわからない。なぜなら、アメリカほどキリスト教の信仰が深く根づき、生きている国はないからである。
その証拠に、
①アメリカのドル紙幣・硬貨のすべてに "In God We Trust"(われわれはゴッドを信じる)と書かれている。
②アメリカを建国した初期の移民は上記の「聖書主義者」たちが多かった。アメリカ人は、根本的な意見が違っていても、それを相手に押しつけたり、圧殺したり、喧嘩したりせず、別々にやっていこうという意識が強い。どんな意見も尊重し、言わせておく。これはキリスト教の歴史のなかで、さまざまな迫害にあいながらも、独自の信仰を維持しようとしてきた「聖書主義」の伝統でもある。
③大統領宣誓式で大統領は聖書に左手を置き、右手を上にあげ、ゴッドに誓う。(40年前、国務省の職員になった際、同様の儀式を東京のアメリカ大使館でおこなった事を思い出す。)
④その他、数多くの事柄が聖書をベースとしている。
鹿嶋氏のこの本は、私にとってアメリカの本質を知る『バイブル・Bible』になっている!!!!! YS#
*注 緑字は本の著者の言葉をそのまま引用。
*注 「聖書主義(著者・鹿嶋氏の英訳はバイブリズム・biblism)」は、
「福音主義(Evangelicalism) エヴァンゲリカリズム」と類義語?
『福音主義:一般に、キリスト教の十字架による罪の赦(ゆる)しの福音を中心とし、
教会の権威や既成の神学にとらわれず、敬虔(けいけん)な心情と実践とを重んずる
運動・考え方。【出典:岩波書店「広辞苑」】
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