★★ ★★ ★★ ★★ ★★ ★★
マッカーサー元帥と昭和天皇
「ゴードドドー、ゴードドドー」爆音 (roar)・地響き (rumbling of the ground) と共に3畳間の裸電球が揺れる。木の格子窓から覗くと、かなた遠方から砂埃 (dust) が舞い上がり、それが段々と近づいてくる。砂埃の切れ目から突然、進駐軍(のちに駐留軍と呼ばれる; occupation forces) の戦車 (tank) とジープ (jeep) の長い車列が目の前に現れる。沿道に出てきた人々は手を振ってチューインガム、チョコレートなどを車上の米兵 (service-persons) にせがむ...。それは3歳だった子供が毎朝見た光景で、いまだに昨日だったかのように鮮明に思い出される。1950年当時、五街道の一つと呼ばれていた甲州街道は東京都心の新宿でも舗装が全くされていない (unpaved) 土とじゃり道 (soil and gravel road) だった。敗戦間もなく傷心しきった人々が敵国の軍人を「歓迎・あこがれ (welcome/admiration)」のまなざしで受け入れたのは、やはり連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの力量 (ability) があった。米軍部隊 (US Forces) が日本に上陸したときには、日本の男は奴隷 (slave) にされ、女は強姦 (rape) されるだろうとの噂 (rumor) が日本中に流れていたのに180度反対の状況に変わっていった。[まさか16年後に自分自身がその在日米軍司令部(通常は第5空軍司令部が兼務)で働くとは夢にも思わなかったが...。ブログ『沖縄の嘉手納・普天間基地&在日米軍』参照。]
マッカーサー元帥が唯一、日本人とのツーショット写真(two-shot photo) を撮ったのは「昭和天皇(Showa Emperor Hirohito)」とだけである。[ブログ『アメリカ大使館公邸』参照。]マッカーサーは意図的 (intentionally) に天皇家・日本人との間に距離を置くことによってにカリスマ性 (charismatize) を日本国民に植えつけることに成功した。終戦直後の昭和20(1945)年8月30日、厚木飛行場(神奈川県厚木市)にコーン・パイプ(corn pipe) を口にくわえ飛行機から降り立つ写真は日本のみならず世界中にマッカーサーの名前を知らしめた。(それで後にアメリカ大統領候補をねらったが、それには失敗した。)自分も小さい頃から、他の人々と同様に「天皇も『神 (God)』だが、元帥も他国から来た『神の神 (God of Gods)』だ」と信じ切っていた。日本国憲法の作成・施行、象徴としての天皇の存続、ソ連側の要求の拒絶(北海道分離案)、画期的な教育制度の改革(6・3・3制の誕生)、宗教の自由、農地改革、公職追放指令(吉田茂首相の誕生)などなど現在の日本の民主主義 (democracy)・繁栄 (prosperity) の基礎 (foundation) を築き上げた功績 (achievement) は計り知れない。ただ「マッカーサー」の名前も60代以下の年齢層には忘れられた存在になりつつある。 "Time flies, doesn't it?"
余談だが (In this connection, I may add that..)、マッカーサーが日本人政治家の中で最も高く評価していたのが第45、48、49、51代内閣総理大臣の吉田茂だった。そして元帥 (General) と総理大臣 (Prime Minister) の面談は75回も行われており信頼関係を強固なものとしていった。(それでも彼らのツーショット写真は存在しない!)その証拠に1964年にマッカーサーが亡くなったとき、吉田は高齢(85歳)にもかかわらず渡米して葬儀に参列した。実は吉田茂氏は明治時代中期(1894年)、日本中学校(前東京英語学校、現日本学園中学校)で学んでおり、英語力はズバ抜けていた。[くしくも (strange to say) 自分も日本学園中学校の卒業生!] ■YS
★★ ★★ ★★ ★★ ★★ ★★
マッカーサー元帥と昭和天皇
「ゴードドドー、ゴードドドー」爆音 (roar)・地響き (rumbling of the ground) と共に3畳間の裸電球が揺れる。木の格子窓から覗くと、かなた遠方から砂埃 (dust) が舞い上がり、それが段々と近づいてくる。砂埃の切れ目から突然、進駐軍(のちに駐留軍と呼ばれる; occupation forces) の戦車 (tank) とジープ (jeep) の長い車列が目の前に現れる。沿道に出てきた人々は手を振ってチューインガム、チョコレートなどを車上の米兵 (service-persons) にせがむ...。それは3歳だった子供が毎朝見た光景で、いまだに昨日だったかのように鮮明に思い出される。1950年当時、五街道の一つと呼ばれていた甲州街道は東京都心の新宿でも舗装が全くされていない (unpaved) 土とじゃり道 (soil and gravel road) だった。敗戦間もなく傷心しきった人々が敵国の軍人を「歓迎・あこがれ (welcome/admiration)」のまなざしで受け入れたのは、やはり連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの力量 (ability) があった。米軍部隊 (US Forces) が日本に上陸したときには、日本の男は奴隷 (slave) にされ、女は強姦 (rape) されるだろうとの噂 (rumor) が日本中に流れていたのに180度反対の状況に変わっていった。[まさか16年後に自分自身がその在日米軍司令部(通常は第5空軍司令部が兼務)で働くとは夢にも思わなかったが...。ブログ『沖縄の嘉手納・普天間基地&在日米軍』参照。]
マッカーサー元帥が唯一、日本人とのツーショット写真(two-shot photo) を撮ったのは「昭和天皇(Showa Emperor Hirohito)」とだけである。[ブログ『アメリカ大使館公邸』参照。]マッカーサーは意図的 (intentionally) に天皇家・日本人との間に距離を置くことによってにカリスマ性 (charismatize) を日本国民に植えつけることに成功した。終戦直後の昭和20(1945)年8月30日、厚木飛行場(神奈川県厚木市)にコーン・パイプ(corn pipe) を口にくわえ飛行機から降り立つ写真は日本のみならず世界中にマッカーサーの名前を知らしめた。(それで後にアメリカ大統領候補をねらったが、それには失敗した。)自分も小さい頃から、他の人々と同様に「天皇も『神 (God)』だが、元帥も他国から来た『神の神 (God of Gods)』だ」と信じ切っていた。日本国憲法の作成・施行、象徴としての天皇の存続、ソ連側の要求の拒絶(北海道分離案)、画期的な教育制度の改革(6・3・3制の誕生)、宗教の自由、農地改革、公職追放指令(吉田茂首相の誕生)などなど現在の日本の民主主義 (democracy)・繁栄 (prosperity) の基礎 (foundation) を築き上げた功績 (achievement) は計り知れない。ただ「マッカーサー」の名前も60代以下の年齢層には忘れられた存在になりつつある。 "Time flies, doesn't it?"
余談だが (In this connection, I may add that..)、マッカーサーが日本人政治家の中で最も高く評価していたのが第45、48、49、51代内閣総理大臣の吉田茂だった。そして元帥 (General) と総理大臣 (Prime Minister) の面談は75回も行われており信頼関係を強固なものとしていった。(それでも彼らのツーショット写真は存在しない!)その証拠に1964年にマッカーサーが亡くなったとき、吉田は高齢(85歳)にもかかわらず渡米して葬儀に参列した。実は吉田茂氏は明治時代中期(1894年)、日本中学校(前東京英語学校、現日本学園中学校)で学んでおり、英語力はズバ抜けていた。[くしくも (strange to say) 自分も日本学園中学校の卒業生!] ■YS
★★ ★★ ★★ ★★ ★★ ★★