同じである事は、つまらない事だろう、そんな想いを描いたのは、12~13歳の事だった。何故にそんな事を思ったのかは、はっきりとは解らないし、その当時、自分なりの確たるビジョンがあった訳でもなく、ただ、何か周囲と違う人間でありたい、という漠然とした想いがあった。
時は流れて今、「同じに成れぬ」事で悩まされる事になり、何なんだろうこれは、と言う想いが胸の中で渦巻いている。
同じである事を否定して、否定され続けた長い時間。否定される事に慣れている筈が、許されなくなる。それは1つの見えない制裁と言える。
制裁なんか無視して行けば良いのだが、否定に疲弊した心がそれをやり過ごす事が出来ない。それを「自尊心の高さ」と言ってせせら笑われるのを許す事が出来ないのは我が儘なんだろうか?
同じである事を否定し続けた後に受けた弊害。ため息の先にあるものは、単なる同じような日々である。
時は流れて今、「同じに成れぬ」事で悩まされる事になり、何なんだろうこれは、と言う想いが胸の中で渦巻いている。
同じである事を否定して、否定され続けた長い時間。否定される事に慣れている筈が、許されなくなる。それは1つの見えない制裁と言える。
制裁なんか無視して行けば良いのだが、否定に疲弊した心がそれをやり過ごす事が出来ない。それを「自尊心の高さ」と言ってせせら笑われるのを許す事が出来ないのは我が儘なんだろうか?
同じである事を否定し続けた後に受けた弊害。ため息の先にあるものは、単なる同じような日々である。