1.白い色は恋人の色/ベッツィ&クリス 1969年10月
この歌を聞いたときはすごく新鮮だった。
北山修と加藤和彦の作品を外人がカタコト風の日本語で歌う、ということが新鮮だったのか、それともこのような歌をテレビから聞いたことがなかったからなのか、たぶんどちらもなんだろう。
テレビから聞こえてくる歌は「大人の歌」ばっかりで、いい歌であるとは思うが「共感」ということからはちょいとずれている。
若い歌手、たとえば「いしだあゆみ」や「小川知子」のうたもやっぱりどこか大人だったような気がする。
もっとも、当時の私は子供だったことには違いないのである。
そういうときにこの歌は「身近」に感じられた。
そういう歌である。
2.真夜中のギター/千賀かほる 1969年8月
この歌も新鮮であった。というか、千賀かほる、という歌手が新鮮であった。
もちろん新人だからということもあるのだが、それまで見ていた芸能人とは違った感じがしたのである。
それは素人のようなカンジだったかもしれない。
しかし、歌いかたは玄人であったし、フォーク調の曲に無理に合わせているような、つまり「うまい」という歌い方を控えるようなそんな歌だったのだ、ということに今回気づいた。
もしこの歌をほんとうに素人のような人が歌ったら、こんなに評価はされなかったのではないかと思うのである。
3.君について行こう/ザ・シャデラックス 1966年6月発表
この歌は「生真面目」過ぎているようであまり好きではなかった。
『白い色は恋人の色』や『真夜中のギター』に比べれば、ストレートなカンジである。
つまり前2曲はどうしたら売れるだろうか、ということを検討・工夫し具現化したものであると思う。
ところが、この「君について行こう」は自分の歌いたい歌そして「いい歌」と思っているのを売るという、ストレートなカンジなのである。
4.ケメ子の歌/ザ・ダーツ 1968年2月
なんだかすごく変な歌だなあ、という印象であった。
「ケメ子」という名前も変だったし、詞の内容もこういうのを「歌」にしていいのかなあというカンジだったし、で、こんなバカバカしい歌をよくもまあ恥ずかしくもなくまじめに歌うなあ、という思いがあった。
その後には色々変な歌にも対応できたが、この「ケメ子の歌」だけはなんだか違和感がたっぷりだった。
5.白いサンゴ礁/ズー・ニー・ヴー 1969年4月
この歌は、ズー・ニー・ヴーの歌というより阿久悠の初作詞デビュー曲ということで有名である。(と思っているのはごくわずかかもしれないが)
実際にわたしはこの歌をリアルタイムで聞いたという覚えがなく、もし聞いていたとしても「聞き流していた」と思うのである。
というのはそれほどわたしの心を揺さぶるような歌ではないからなのである。
だから阿久悠のデビュー曲ということだけで、わたしの心の中では存在している歌なのである。
6.フランシーヌの場合/新谷のり子 1969年6月
この歌は流行した。
流行したが、よくわからなかった。
まずもってフランシーヌがなぜ「おばかさん」で「あまりにもさびしい」のかがわからなかったのである。
つまりフランシーヌがパリでなぜ死んだのか、ということがわからなかった。
続いてベトナム戦争などに対する抗議で死んだ、ということがなおわからなかった、のである。
当時中学生だと思うが、戦争や飢餓問題などの社会の問題に対してはほとんど無関心だった。
それよりも、身の回りの出来事に大きな関心を抱いていたのであった。
その日その日の出来事に一喜一憂していたのであった。
田舎の中学生にはパリのフランシーヌが何をしようと、それが歌になろうと、いわば「知ったことではない」という状態だったのである。
で、今はどうなのか?
今もあまり関心がないのである。残念!
「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
この歌を聞いたときはすごく新鮮だった。
北山修と加藤和彦の作品を外人がカタコト風の日本語で歌う、ということが新鮮だったのか、それともこのような歌をテレビから聞いたことがなかったからなのか、たぶんどちらもなんだろう。
テレビから聞こえてくる歌は「大人の歌」ばっかりで、いい歌であるとは思うが「共感」ということからはちょいとずれている。
若い歌手、たとえば「いしだあゆみ」や「小川知子」のうたもやっぱりどこか大人だったような気がする。
もっとも、当時の私は子供だったことには違いないのである。
そういうときにこの歌は「身近」に感じられた。
そういう歌である。
2.真夜中のギター/千賀かほる 1969年8月
この歌も新鮮であった。というか、千賀かほる、という歌手が新鮮であった。
もちろん新人だからということもあるのだが、それまで見ていた芸能人とは違った感じがしたのである。
それは素人のようなカンジだったかもしれない。
しかし、歌いかたは玄人であったし、フォーク調の曲に無理に合わせているような、つまり「うまい」という歌い方を控えるようなそんな歌だったのだ、ということに今回気づいた。
もしこの歌をほんとうに素人のような人が歌ったら、こんなに評価はされなかったのではないかと思うのである。
3.君について行こう/ザ・シャデラックス 1966年6月発表
この歌は「生真面目」過ぎているようであまり好きではなかった。
『白い色は恋人の色』や『真夜中のギター』に比べれば、ストレートなカンジである。
つまり前2曲はどうしたら売れるだろうか、ということを検討・工夫し具現化したものであると思う。
ところが、この「君について行こう」は自分の歌いたい歌そして「いい歌」と思っているのを売るという、ストレートなカンジなのである。
4.ケメ子の歌/ザ・ダーツ 1968年2月
なんだかすごく変な歌だなあ、という印象であった。
「ケメ子」という名前も変だったし、詞の内容もこういうのを「歌」にしていいのかなあというカンジだったし、で、こんなバカバカしい歌をよくもまあ恥ずかしくもなくまじめに歌うなあ、という思いがあった。
その後には色々変な歌にも対応できたが、この「ケメ子の歌」だけはなんだか違和感がたっぷりだった。
5.白いサンゴ礁/ズー・ニー・ヴー 1969年4月
この歌は、ズー・ニー・ヴーの歌というより阿久悠の初作詞デビュー曲ということで有名である。(と思っているのはごくわずかかもしれないが)
実際にわたしはこの歌をリアルタイムで聞いたという覚えがなく、もし聞いていたとしても「聞き流していた」と思うのである。
というのはそれほどわたしの心を揺さぶるような歌ではないからなのである。
だから阿久悠のデビュー曲ということだけで、わたしの心の中では存在している歌なのである。
6.フランシーヌの場合/新谷のり子 1969年6月
この歌は流行した。
流行したが、よくわからなかった。
まずもってフランシーヌがなぜ「おばかさん」で「あまりにもさびしい」のかがわからなかったのである。
つまりフランシーヌがパリでなぜ死んだのか、ということがわからなかった。
続いてベトナム戦争などに対する抗議で死んだ、ということがなおわからなかった、のである。
当時中学生だと思うが、戦争や飢餓問題などの社会の問題に対してはほとんど無関心だった。
それよりも、身の回りの出来事に大きな関心を抱いていたのであった。
その日その日の出来事に一喜一憂していたのであった。
田舎の中学生にはパリのフランシーヌが何をしようと、それが歌になろうと、いわば「知ったことではない」という状態だったのである。
で、今はどうなのか?
今もあまり関心がないのである。残念!
「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。