~~~田舎での思い出の続きです~~~
夏休みの間、子供たちを田舎に丸投げして、
母はきっと自宅で一人のんびり過ごしていた事でしょう。
もちろん、服飾の内職などの仕事はしていましたが
三度三度の食事の支度も世話もしなくていいのは楽だったと思います。
夏休みの子供がいる生活というのは、私自身が実際に体験して
その大変さは身に染みています。
うちは一人っ子なので兄弟ケンカはありませんでしたが。
子供が退屈しないように、博物館・プラネタリウム・水族館など
子供が涼しく楽しめる所にあっちこっち連れて行っていました。
田舎にいる間、家から小包が届くのが楽しみでした。
中には母が作った新しい洋服、小学〇年生という学年雑誌などが入っていました。
私達の食事、基本的に田畑で採れた農作物を使ったメニューです。
さすがにそれでは、都会っ子には物足りません。
「カレーが食べたい」「ラーメンが食べたい」「お肉が食べたい」と言って祖母を困らせました。
祖母がよろず屋に行って、ボンカレー・インスタントラーメンを買ってくれました。
よろず屋には生ものは売っていないので、お肉は缶詰の牛肉の大和煮でした。
子供が4人いると、ちょっとした事で衝突してケンカになります。
最後に泣くのは、一番年下だったうちの弟でした。
祖父が泣く弟を仏間に連れて行って、何も言わずにうちわであおいで慰めていました。
祖父は寡黙で穏やかで仏様のような人でした。
反対に祖母は明るく大きな声の人でした。
遠く離れた田畑で作業している、同じ集落の人と大声で会話していました。
今思うと、更年期で体調が良くなかったのか、
こっそり鎮痛剤を飲んでいるのを何度か見た事があります。
お盆が近づくと、盆休みになった親や親戚がやってきました。
大人たちがやってくると一気に賑やかになります。
子供たちだけの時よりも、行動範囲が広がります。
川に魚釣りに行ったり、庭でバーベキューをしたり、夜には花火をしたり。
畑でスイカを採ってきて、井戸水を冷やして、みんなで食べました。
お墓参りに行ったり、仏様を迎えたりのお盆の行事もありました。
15日の夜中には、川にお供え物などを流しに行きました。
子供たちは早くに寝ますが「一緒に行くから絶対に起こしてね」と頼んで
一緒に行きました。
いくらきれいな川であっても、さすがに今の時代は環境問題でもう流していないと思います。
私達が帰るのは17日ぐらいだったと思います。
今のように宅配便がなかった時代なので、荷物は全部自分で持って帰りました。
浮き輪などの水泳道具は納屋に残しておきました。
田舎で虫取り網を持って走り回って、採取した昆虫は自由研究のネタでした。
いとこが昆虫採集セットを持ってきていたので、防腐剤を注射してくれました。
それを持ち帰って、家で空き箱に並べてピンで固定して、学校に提出しました。
昆虫採集セット、子供が使うものに注射器は危険という事で
今ではもう売っていないそうです。
田舎から大阪の自宅に帰ると、水道水のマズさに愕然としました。
田舎は水道ではなく、山の水を飲んでいて、カルキ臭もなく冷たくて美味しかったです。
高校野球の決勝が終わると、夏休みも残り僅か。
浮かれていたのも、長い夢から覚めなければなりません。
大物の課題を一気に片付けるラストスパートです。
当時、国鉄紀勢線はまだ電化されていなくて、ディーゼルカーが走っていました。
駅からはタクシーで一時間程かかりますが、
川沿いの細い道をクネクネクネクネと走りました。
山と川と田畑しか見えず、ずっと同じ場所を走っている感覚でした。
今では、国鉄はJRになり、線路も電化されて電車が走りスピードアップされました。
駅からの道も、クネクネ道はまだ残っているものの
拡幅されたり、トンネルができたり、舗装されたりと
だいぶ通りやすくなり、所要時間も大幅に短縮されました。
昔話に出てくるような祖父母の家は、30年程前に建て替えられ
屋外にあったポットン便所(昔は肥料)や五右衛門風呂もなくなり
洋室リビングがある近代的な住宅になりました。
祖父母も既に他界し、代替わりしているので、もう行く事もありません。
私の両親はお墓参りの時に、挨拶に立ち寄っているようです。
満天の星空、大自然、毎日が林間学校で楽しかったです。
今も昔も田舎ですが、祖父母の家は集落でたった1軒のよろず屋まで
1分もかからなかったので、田舎の中でも便利な方だったと思います。
そのよろず屋は、建物は建て替えられたものの、
未だにコンビニになる事もなく、よろず屋のままです。
今思うと、病気やケガもなく過ごせたのは良かったです。
田舎には病院も医院も薬局もなく、何かあったら置き薬だけが頼りでした。
もし何かあって救急車を依頼したとしても、病院まで2時間ぐらいかかったと思います。
夏休みの間、子供たちを田舎に丸投げして、
母はきっと自宅で一人のんびり過ごしていた事でしょう。
もちろん、服飾の内職などの仕事はしていましたが
三度三度の食事の支度も世話もしなくていいのは楽だったと思います。
夏休みの子供がいる生活というのは、私自身が実際に体験して
その大変さは身に染みています。
うちは一人っ子なので兄弟ケンカはありませんでしたが。
子供が退屈しないように、博物館・プラネタリウム・水族館など
子供が涼しく楽しめる所にあっちこっち連れて行っていました。
田舎にいる間、家から小包が届くのが楽しみでした。
中には母が作った新しい洋服、小学〇年生という学年雑誌などが入っていました。
私達の食事、基本的に田畑で採れた農作物を使ったメニューです。
さすがにそれでは、都会っ子には物足りません。
「カレーが食べたい」「ラーメンが食べたい」「お肉が食べたい」と言って祖母を困らせました。
祖母がよろず屋に行って、ボンカレー・インスタントラーメンを買ってくれました。
よろず屋には生ものは売っていないので、お肉は缶詰の牛肉の大和煮でした。
子供が4人いると、ちょっとした事で衝突してケンカになります。
最後に泣くのは、一番年下だったうちの弟でした。
祖父が泣く弟を仏間に連れて行って、何も言わずにうちわであおいで慰めていました。
祖父は寡黙で穏やかで仏様のような人でした。
反対に祖母は明るく大きな声の人でした。
遠く離れた田畑で作業している、同じ集落の人と大声で会話していました。
今思うと、更年期で体調が良くなかったのか、
こっそり鎮痛剤を飲んでいるのを何度か見た事があります。
お盆が近づくと、盆休みになった親や親戚がやってきました。
大人たちがやってくると一気に賑やかになります。
子供たちだけの時よりも、行動範囲が広がります。
川に魚釣りに行ったり、庭でバーベキューをしたり、夜には花火をしたり。
畑でスイカを採ってきて、井戸水を冷やして、みんなで食べました。
お墓参りに行ったり、仏様を迎えたりのお盆の行事もありました。
15日の夜中には、川にお供え物などを流しに行きました。
子供たちは早くに寝ますが「一緒に行くから絶対に起こしてね」と頼んで
一緒に行きました。
いくらきれいな川であっても、さすがに今の時代は環境問題でもう流していないと思います。
私達が帰るのは17日ぐらいだったと思います。
今のように宅配便がなかった時代なので、荷物は全部自分で持って帰りました。
浮き輪などの水泳道具は納屋に残しておきました。
田舎で虫取り網を持って走り回って、採取した昆虫は自由研究のネタでした。
いとこが昆虫採集セットを持ってきていたので、防腐剤を注射してくれました。
それを持ち帰って、家で空き箱に並べてピンで固定して、学校に提出しました。
昆虫採集セット、子供が使うものに注射器は危険という事で
今ではもう売っていないそうです。
田舎から大阪の自宅に帰ると、水道水のマズさに愕然としました。
田舎は水道ではなく、山の水を飲んでいて、カルキ臭もなく冷たくて美味しかったです。
高校野球の決勝が終わると、夏休みも残り僅か。
浮かれていたのも、長い夢から覚めなければなりません。
大物の課題を一気に片付けるラストスパートです。
当時、国鉄紀勢線はまだ電化されていなくて、ディーゼルカーが走っていました。
駅からはタクシーで一時間程かかりますが、
川沿いの細い道をクネクネクネクネと走りました。
山と川と田畑しか見えず、ずっと同じ場所を走っている感覚でした。
今では、国鉄はJRになり、線路も電化されて電車が走りスピードアップされました。
駅からの道も、クネクネ道はまだ残っているものの
拡幅されたり、トンネルができたり、舗装されたりと
だいぶ通りやすくなり、所要時間も大幅に短縮されました。
昔話に出てくるような祖父母の家は、30年程前に建て替えられ
屋外にあったポットン便所(昔は肥料)や五右衛門風呂もなくなり
洋室リビングがある近代的な住宅になりました。
祖父母も既に他界し、代替わりしているので、もう行く事もありません。
私の両親はお墓参りの時に、挨拶に立ち寄っているようです。
満天の星空、大自然、毎日が林間学校で楽しかったです。
今も昔も田舎ですが、祖父母の家は集落でたった1軒のよろず屋まで
1分もかからなかったので、田舎の中でも便利な方だったと思います。
そのよろず屋は、建物は建て替えられたものの、
未だにコンビニになる事もなく、よろず屋のままです。
今思うと、病気やケガもなく過ごせたのは良かったです。
田舎には病院も医院も薬局もなく、何かあったら置き薬だけが頼りでした。
もし何かあって救急車を依頼したとしても、病院まで2時間ぐらいかかったと思います。