鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。
1874年5月13日(明治7年) その1
午前8時ころ裁判所へ出頭する。被告清四郎及び被告太九老両名の件について着御届提出し、待機。午後1時頃呼込みとなり聴訟へ入る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13日(明治7年) その2
御掛様が、「被告清四郎から、これこのとおり始末書を提出してきた。この内容からは、原告の訴状は願下げし、新たに断獄(刑事事件)の吟味をお願いすべきであるな。」と仰せになるので、何事かと思い、被告代言人作成の始末書を御掛様から拝借し、全文書き写した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13日(明治7年) その3
被告代言人吉崎久兵衛作成の始末書は、
原告からは計275円の請求をされているが、これは二重請求ではないかというものであった。被告清四郎は困窮していたので、自分名義で借金したあと、同姓の太九老の名前を無断で借りて、前の借金を書き換えたものであり、原告の請求は同じものだというのだ。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13日(明治7年) その4
このようなことは全く聞いておらず、困惑するばかりだ。
被告太九老の羽原代言人も、「この始末書のとおりでして、太九老にとって本件の訴えは何が何だかわからないのです。これまで原告から掛合(交渉)もありませんでした。太九老への訴えは、清四郎のとダブっており、到底納得がいきません。」という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13日(明治7年) その5
これに対して御掛様は、「原告は被告清四郎と話しをしたが埒が明かなかったので訴えに及んでいる。証文があったのだから、二重請求だとはいえまい。今日、太九老が来て始めて事情がわかったのだから、原告が悪いとはいえまい。」と仰る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13 日(明治7年) その6
被告太九老羽原代言人「証文を確認させていただきたい。」
御掛様「証文の文面は訴状に書かれているとおりであろう。」
羽原代言人「印形を確認したいのです。」
御掛様「原告は証文を今持っているなら、提出されたい。」
私は証文を持参していたので、御掛様に提出。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13日(明治7年) その7
羽原代言人は御掛様から証文を見せられ、「印形が太九老の祖父のものでございます!」とびっくりすることをいう。
しかし、御掛様から「祖父の印で間違いないのか。」と確認された羽原代言人は、「しかとは相分かりませぬが、形が似ておりまする。」とトーンダウン。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13日(明治7年) その8
続けて羽原代言人「『太右衛門』との記載がありますが、祖父太右衛門は弘化4年(1847年)に亡くなっております。実父は保右衛門といいますので、清四郎が偽造したものに間違いございません。」と、被告清四郎が亡くなった祖父の名前を使って偽造したと主張する。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13日(明治7年) その9
羽原代言人の主張をじっと聞いていた御掛様であるが、ここで「ところで、太九老と清四郎はどのような関係にあるものなのか。」と質問なさった。
「実の兄弟でございます。」と羽原代言人が答える。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13日(明治7年)その10
これを聞いて御掛様の顔色が変わった。
「実の兄弟と申すか。であれば、兄弟が偽造した分の金銭を支払ってやったらよいではないか。支払わずしてみすみす兄弟を断獄(刑事事件)に引渡すというのか。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13 日(明治7年)その11
羽原代言人も「そのような趣旨で申し上げたのではございません。御掛様の仰ることはごもっともですが、太九老も手元不如意で難渋しておりますため、事実を申し上げるほかないのでございます。」とうろたえつつも反駁する。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13 日(明治7年)その12
御掛様「よいか。証文の効力を否定して、兄弟を断獄(刑事事件)へ回すよりも、証文の効力を認めて兄弟の罪をおおってやるのが兄弟というものであろう。兄弟の罪をかばってやるのが、筋というものではないのか。」
あくまでも太九老に支払う方向で話されているので、こちらには悪い話ではない。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13 日(明治7年)その13
羽原代言人は「原告から何ら交渉がなく、太九老に何のことわりもなく、訴訟になったことには納得がいきませぬ。」と矛先を原告に向ける。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13 日(明治7年)その14
御掛様は「原告は交渉をしても仕方ないと思ったのであろう。証文が存在するのであるから、返済してもらえると思うのは当然であり、原告を咎めることはできない。羽原代言人の言うことは空論である。」と一蹴。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13 日(明治7年)その15
兄弟の筋を持ち出してもすぐには受け入れてもらえそうにないと思ったのであろう、御掛様からは次のような指示があった。
「証文はあるものの、太右衛門は弘化4年に死亡、また印形も判然としないということだ。この点は重要である。被告太九老は、先ほど述べたことを書面で提出せよ。原告代言人は帰村してこの点を調べるように。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13 日(明治7年)その16
また続けて
御掛様「被告清四郎の件も、被告太九老の件と関係があるから、調べがつくまで延期とする。調査は18日までにせよ。日延願いを双方提出するように。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
1874年5月13 日(明治7年)その17
日延願を提出し、午後2時ころ宿へ下がった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌
(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)