南斗屋のブログ

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調査編①・明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月14日-18日 

2022年06月09日 | 鳥海代言人業務日誌
調査編①・明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月14日-18日 

鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月14日(明治7年) 
所用をこなし、午前12時に出立し、帰村。午後9時ころ帰宅。但し、少雨。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月15日(明治7年) その1
久保村(現・千葉県市原市)へ行き、旧名主の御園治郎三殿に面会。万延2酉年(1861年)2月に、同村弥治右衛門から太右衛門へ地所を譲渡しており、その書面に御園治郎三殿の名前と奥印があることを調査してあったので、そのことについて尋ねた。
御園殿は、「その頃、保右衛門だったか、太右衛門だとかいう者がおったのは間違いない」という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月15日(明治7年)その2
まさにその保右衛門、太右衛門を調査に来たのだ。御園殿に、問題となっている証文の印形ことを聞いてみた。
御園殿「文久元年(1861年)の人別帳には、太右衛門、保右衛門との記載がある。保右衛門の名前で押印のあるものは、本件右衛門の実印に相違ない。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月15日(明治7年)その3
これは耳寄りな情報である。そこで、その旨を書面にしていただけないかお願いしてみたのだが、ご承諾いただけない。やまなく戸長(平野長平殿)に赴いた。お願いしのは、「弘化4年に太右衛門が死亡した後、村内に太右衛門はいない」という被告側の話が正しいかどうかでる。戸長は、「明日までにしらへておく」と言われた。夜、帰宅。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月16日(明治7年) その1
再び、久保村(現・千葉県市原市)の戸長を訪れる。午後3時ころ、御園治郎三殿宅
へも行く。「戸長とお二人で、示談をお取り計らいいただけませんでしょうか」と提案をしたが、できず。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月16日(明治7年) その2
平野長平区長の姓名取調書を午後8時ころ受け取ることができた。祖父太右衛門は弘化4年に死亡し、その子保右衛門は明治2年に死亡。太九老は保右衛門の子であるが、もとは良助や太一郎とも名乗っていたという内容である。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月17日(明治7年) 
所用で、山小川村から賀茂村へ行く。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月18日(明治7年) 
午前8時頃出立。山小川村の斎藤殿を途中訪れたが、出張で不在だったので、出張先まで足を伸ばした。午前11時頃同所出立。午後7時頃千葉大沢屋(定宿)へ着。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)



 



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色川三中「家事志」文政10年6月上旬

2022年06月06日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年6月上旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

1827年6月1日(文政10年)
昨日(5月29日)亡くなった間原の娘やすの葬礼が夜に入ってからいとなまれた。蓮耀孩女となられた。昨年8月に生まれてから様々な病を患い、疱瘡(天然痘)にかかってから、一ヶ月で亡くなった。痛ましいことであり、間原夫妻が哀れである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
友人の娘の死。しかもまだ満一歳にもならない子どもの死という悲しい出来事。間原家の心痛はいかばかりでしょうか。それを思いやる三中なのでした。

1827年6月2日(文政10年)
所有していた沈南蘋の三幅対の画を江戸の白木屋に飛脚で送った。白木屋で預かってもらい、木挽町の大西圭斎様に真偽の鑑定をしていただくためである。画を売却することを隠居(祖父)に知らせるのは忍びないため、話しをせずに進めている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の日記にしては珍しく有名どころの名前が出てきます。まず、沈南蘋は(しんなんびん)。中国清代の画家。日本にも2年間弱滞在し、円山応挙・伊藤若冲などに多大な影響を及ぼしています。かつては裕福な時代があり沈南蘋の画を買えたのでしょう。
《雪中遊兎図》

◆終了◆ 秋季企画展「花と鳥の四季 ―住友コレクションの花鳥画」 | 京都新聞アート&イベント情報サイト[ことしるべ]

四季のうつろいの中に植物や鳥獣を描く花鳥画は、東洋絵画の大きな一角を占めてきました。日本の近世では中世以来の伝統を受け継ぐ狩野派、デザイン感覚を発揮した琳派、自...



大西圭斎は江戸時代後期の南画家。沈南蘋の影響を受けた画風です。鑑定専門家がいませんから、画家が鑑定していたのでしょう。

白木屋さんに大西圭斎との橋渡しを頼んでいます。白木屋(しろきや)は、江戸三大呉服店のひとつ。日本の百貨店の先駆的存在。白木屋の井戸が旧跡として指定されています。

1827年6月3日(文政10年)
先日亡くなった間原の娘のお悔やみに金平糖200文を贈った。4歳前の子が亡くなったときは、物を贈るには及ばないのだけれども、間原の初めての子であることを考えてのことである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
人が亡くなったときの儀礼は、年代や地域によって変わるものですが、三中の時代は、4歳前の子が亡くなったときは、物を贈るには及ばないという習慣があったようです。それだけ乳幼児死亡率が高かったのでしょう。

1827年6月4日(文政10年)
色川吉右衛門方で娘が産まれたことを今日聞いた。初生衣を仕立てて遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
産着を贈るのは生後三日目のお祝いですが
、一日早く贈るのもありだったのでしょう。生後三日目のお祝いについて。

生後三日目の祝い

生後三日目の祝い 生後三日目は古来より大切な節目の日でした。その昔は、生後間もなく亡くなってしまう不幸などが多…

駒田屋本舗



1827年6月5日(文政10年)
昨日子どもが生まれたと聞いたので、朝から色川吉右衛門方を尋ねる。女児が産まれて本日で三日目で、母子共に無事であるとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今よりも出産がリスクだった時代ですから、母子ともに元気であることは、現代よりも重く受け止められていたのでしょう。重い記事が多い三中の日記ですが、久々の明るいニュースです。

1827年6月6日(文政10年)
役人、名主、町年寄りによる庚申待ちは、祖先徳右衛門のときに始まった。庚申の掛物の箱に祖先の名がある。町の政治の在り方を論じ、無益なことはやめ、益となることは何かを話すことで始まったはずだが、単に酒を呑む場になってしまった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
庚申待ちは、庚申(かのえさる)の日の夜、眠らず夜を明かし、祭り事や催し事などを行うこと。三中は、本来町の政治の在り方を論じる場だったはずといいます。真面目な三中らしい直球の記事。もっとも、政治に携わる人は、皆が皆、そう真面目な方ばかりではないですから…。

1827年6月7日(文政10年)
四つ前、入江(名主)のところへ行く。西門の松屋との債務整理の件、相手は利足1両2分はまけてくれるとのこと。当方からは、残り12両のうち当初2両支払い、来年3月までに月賦で完済するという提案をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
父親が残した債務の整理。自分が作った債務ではないだけに、これって本当にストレスだったと思うのです。何件もある債務を一つずつ処理していくのは。今と違って知り合いが中に入ってくれたり、バックアップがありますが、それでも大変なことには違いないでしょう。

1827年6月8日(文政10年)
先日生まれた色川吉右衛門の女子。名前をつけてもらいたいとのことで、隠居(祖父)に話をしたら、「今日は日が良くないから、明日にする。」とのこと。隠居は、阿見の弥七をつれて江戸にいっており、今日戻ってきたばかりであった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
名付け親を頼まれた三中ですが、祖父にまさかの丸投げ!?(三中の父親は既に亡き人です)。それとも、このようなことが普通だったのでしょうか…。

1827年6月9日(文政10年)
五つ半頃、色川吉右衛門方へ女子の名前を2つ書き記して、人を遣わした。「いそ」又は「せむ」という名前である。この2つのいずれでもよく、気に入った方で名付けなさいと書いて遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
名前は時代によって移り変わりますね。今、女の子に「いそ」「せむ」なんて名前つけたら、怒られますが、三中(の祖父)が慎重に提案した名前がこのような名前なのですから。

1827年6月10日(文政10年)
夏だというのに冷気が行き交っていて涼しすぎるので、人はみな「今年は大雨で、出水するぞ」と言っている。江戸では風邪が流行っており、「津軽風」と呼ばれている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代には、風邪とは違うが風邪のようなもの(今でいうインフルエンザ)を「風」と呼んでいます。今日の日記の「津軽風」もその一つ。それ以前には、谷風、お七風、薩摩風があり、津軽風以降は、琉球風、アメリカ風がありました。








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進まぬ法廷編⑦-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月13日

2022年06月02日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月13日(明治7年) その1
午前8時ころ裁判所へ出頭する。被告清四郎及び被告太九老両名の件について着御届提出し、待機。午後1時頃呼込みとなり聴訟へ入る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月13日(明治7年) その2
御掛様が、「被告清四郎から、これこのとおり始末書を提出してきた。この内容からは、原告の訴状は願下げし、新たに断獄(刑事事件)の吟味をお願いすべきであるな。」と仰せになるので、何事かと思い、被告代言人作成の始末書を御掛様から拝借し、全文書き写した。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌 

1874年5月13日(明治7年) その3
被告代言人吉崎久兵衛作成の始末書は、
原告からは計275円の請求をされているが、これは二重請求ではないかというものであった。被告清四郎は困窮していたので、自分名義で借金したあと、同姓の太九老の名前を無断で借りて、前の借金を書き換えたものであり、原告の請求は同じものだというのだ。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年) その4
このようなことは全く聞いておらず、困惑するばかりだ。
被告太九老の羽原代言人も、「この始末書のとおりでして、太九老にとって本件の訴えは何が何だかわからないのです。これまで原告から掛合(交渉)もありませんでした。太九老への訴えは、清四郎のとダブっており、到底納得がいきません。」という。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌


1874年5月13日(明治7年) その5
これに対して御掛様は、「原告は被告清四郎と話しをしたが埒が明かなかったので訴えに及んでいる。証文があったのだから、二重請求だとはいえまい。今日、太九老が来て始めて事情がわかったのだから、原告が悪いとはいえまい。」と仰る。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年) その6
被告太九老羽原代言人「証文を確認させていただきたい。」
御掛様「証文の文面は訴状に書かれているとおりであろう。」
羽原代言人「印形を確認したいのです。」
御掛様「原告は証文を今持っているなら、提出されたい。」
私は証文を持参していたので、御掛様に提出。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年) その7
羽原代言人は御掛様から証文を見せられ、「印形が太九老の祖父のものでございます!」とびっくりすることをいう。
しかし、御掛様から「祖父の印で間違いないのか。」と確認された羽原代言人は、「しかとは相分かりませぬが、形が似ておりまする。」とトーンダウン。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年) その8
続けて羽原代言人「『太右衛門』との記載がありますが、祖父太右衛門は弘化4年(1847年)に亡くなっております。実父は保右衛門といいますので、清四郎が偽造したものに間違いございません。」と、被告清四郎が亡くなった祖父の名前を使って偽造したと主張する。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年) その9
羽原代言人の主張をじっと聞いていた御掛様であるが、ここで「ところで、太九老と清四郎はどのような関係にあるものなのか。」と質問なさった。
「実の兄弟でございます。」と羽原代言人が答える。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13日(明治7年)その10
これを聞いて御掛様の顔色が変わった。 
「実の兄弟と申すか。であれば、兄弟が偽造した分の金銭を支払ってやったらよいではないか。支払わずしてみすみす兄弟を断獄(刑事事件)に引渡すというのか。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その11
羽原代言人も「そのような趣旨で申し上げたのではございません。御掛様の仰ることはごもっともですが、太九老も手元不如意で難渋しておりますため、事実を申し上げるほかないのでございます。」とうろたえつつも反駁する。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その12
御掛様「よいか。証文の効力を否定して、兄弟を断獄(刑事事件)へ回すよりも、証文の効力を認めて兄弟の罪をおおってやるのが兄弟というものであろう。兄弟の罪をかばってやるのが、筋というものではないのか。」
あくまでも太九老に支払う方向で話されているので、こちらには悪い話ではない。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その13
羽原代言人は「原告から何ら交渉がなく、太九老に何のことわりもなく、訴訟になったことには納得がいきませぬ。」と矛先を原告に向ける。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その14
御掛様は「原告は交渉をしても仕方ないと思ったのであろう。証文が存在するのであるから、返済してもらえると思うのは当然であり、原告を咎めることはできない。羽原代言人の言うことは空論である。」と一蹴。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その15
兄弟の筋を持ち出してもすぐには受け入れてもらえそうにないと思ったのであろう、御掛様からは次のような指示があった。
「証文はあるものの、太右衛門は弘化4年に死亡、また印形も判然としないということだ。この点は重要である。被告太九老は、先ほど述べたことを書面で提出せよ。原告代言人は帰村してこの点を調べるように。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その16
また続けて
御掛様「被告清四郎の件も、被告太九老の件と関係があるから、調べがつくまで延期とする。調査は18日までにせよ。日延願いを双方提出するように。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

1874年5月13 日(明治7年)その17
日延願を提出し、午後2時ころ宿へ下がった。
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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