工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

スターリング・モス卿を偲んで

2020年04月15日 | 自動車、モータースポーツ
 私もご多聞に漏れずと言いますか、毎日ではないものの在宅勤務をしています。何かとまだ慣れません。テレビ会議等がないこともあり、ジャージ姿でもいいわけですが、だらけてしまいかねません。マキアベッリはフィレンツェ政府の職を追われた後に君主論を執筆する際、服装を整えて書斎に入ったそうです。もちろん、ルネサンスを代表する偉大な人物と比べることなどできませんが、襟を正して仕事に向かわなくてはと思った次第です。
 
 先日、1950年代から60年代初頭にかけてF1で16勝を挙げた往年の名ドライバー、スターリング・モス卿(英国)が亡くなりました。モータースポーツを題材の一つにしている当ブログからもご冥福をお祈りいたします。この名前を知っている方はレースの歴史にある程度詳しいのではないかと思いますが、私も当然、現役時代は知りませんし、書物や映像を通して往年の活躍を知っているというところです。1950年にF1の最初のレースが行われたイギリスGPでは前座レースに参戦して注目を集めました。F1デビューは翌1951年でした。以前このブログでご紹介しましたが、上皇さまが皇太子時代にご覧になった1953年ドイツGPでは6位に入っています(この時代は5位までが得点対象のため、入賞=ポイント獲得はしていません)。
 F1の初優勝は1955年、メルセデスに在籍していたときのことでした。以降16勝を挙げたものの、ランキング2位が最高で、チャンピオンを獲得することはありませんでした。通算66戦16勝ということで、勝率も同時代の選手たちと比べても好成績でしたが、メルセデスではエースのファンジオ(アルゼンチン出身で5度の世界チャンピオン)のナンバー2でしたし、シーズンによってはリタイアも多く、タイトル獲得に何かが足りなかったのかもしれません。だからと言ってモスを「無冠の帝王」と呼んでしまうのもどうなのかと思います。モナコ、ポルト(市電の線路をもまたぐ究極の市街地コース)からイタリア・モンツァのような超高速コース、さらにはドイツ・ニュルブルクリンクのような「山坂道」と、さまざまなサーキットで優勝しています。
 F1以外のレースでモスの名前を不朽のものとしているのは、1955年のミッレ・ミリアでの優勝です。ミッレ・ミリア(1000マイル)とはイタリア半島の北半分を一周する文字どおり1000マイルの公道ラリーのことで、当時の人気イベントでした。このレースにモスはレース経験のあるジャーナリスト、デニス・ジェンキンソンをナビゲーターにメルセデス300SLRで参戦しました。レース本番までに数度コース全体を実走しただけでなく、ジェンキンソンは特製のルートマップ(広げると5.5mの長さがあったそうです)を巻紙状にして軽金属製のケースに入れ、本番のレースではドライブするモスにこの地図を見ながら指示を出し、注意を促しながら走りました。
 北イタリア、ブレッシアの街を出発し、イタリア半島東岸を南下、ペスカーラから西に転じて山地を抜けてローマへ、ローマからは北上してフィレンツェ、ボローニャなどの街を抜け、峠をいくつか越え、モデナ、パルマ、クレモナといった宝石のような小さな都市も後にし、ゴールのブレッシアを目指しました。特製のルートマップがあったとはいえ、時には大きくマシンがスライドしたり、側溝にタイヤを落としながらもどうにか復帰したりとひやっとする場面もいくつかあったそうですが、1000マイルを10時間7分余りで走破、堂々の優勝でした。平均時速が157キロですから「飛行機も追い抜いていた」というジェンキンソンの言葉も誇張ではないでしょう。この記録は1957年に最後のミッレ・ミリアが開催されたときも誰も破ることができず、今に至っています。
 この時の様子をジェンキンソンは「モスと出場したミッレ・ミリア」と題して当時のモータースポーツ誌に寄稿しており、現代の車載カメラ以上の臨場感で伝えています。当代随一のドライバーのステアリングさばきを隣で目にすることができるわけですから、ナビゲーターという大切な仕事があったとはいえ、特等席としか言いようがないでしょう。
 ちなみにスタート、ゴールのブレッシアは北イタリアの小都市ではありますが、今でも「ミッレ・ミリアの街」として名が通っております。私のイタリア語の先生の一人がブレッシア近郊の出身だったのですが「ミッレ・ミリアの街」に誇りを持っていると言ってました。こうした北イタリアの街が昨今のコロナ禍で大変なことになっており、本当に心が痛みます。
 さて、スターリング・モスの話に戻しますが、本人へのインタビューなどを読むと、サーキットのレースではファンジオの方が勝つ確率が高く、スポーツカーでの長距離・長時間レースでは自分の方が勝つ確率が高かった、という発言をしています。このあたりに、本人の得手、不得手があったのではないかとも考えられます。それでも、サーキットでの勝利数も大変なものであり、F1のチャンピオンでなくとも偉大なドライバーと言えましょう。もし、当時最速だったフェラーリに乗っていたらタイトルを獲得できたのでは、などと言われていますが、フェラーリとは双方の考えに隔たりもあって契約には至らなかったと聞きます。どのチームと契約するかでタイトル争いが左右されるのは今も昔も変わらないところではあります。
 引退は意外に早く、1962年に起こしたクラッシュの影響で、32歳にして引退を決断しています。その後はさまざまなイベントに参加して往年のマシンを走らせる姿を見かけることになります。私も映像や写真などでそういった様子を目にし「おじいちゃん元気だねえ」と思ったものです。現役では最強のルイス・ハミルトンとも昔のメルセデスのマシンを一緒にドライブする写真があり、おじいちゃんと孫がドライブを楽しんでいるような微笑ましいものでした(ハミルトンは風貌から「今どきの若者」をイメージするところがありますが、大先輩への接し方には彼の敬意を感じます)。
 メルセデスは公式サイトで外出できない子供たちのために、自社の自動車の塗り絵を公開していますが、その中にミッレ・ミリアの300SLRも含まれているそうです。「わーい、モスの300SLRだー」という小さなお友達がいたら相当な「通」ですが、これはさすがに大きなお友達に向けてのものかもしれませんね。息抜きに銀色の色鉛筆を持ってきて塗ってみますか。

モスは1950年代の名車、マセラーティ250Fで頭角を現しました(写真はファンジオ車・BRUMM1/43のモデル)。

手前はミッレミリア優勝のメルセデス300SLR。722というゼッケンは7時22分発という意味。ミッレミリアでは前日の夜から遅い車の順にスタートし、速いマシンは朝のスタートでした。ミニチャンプス1/43のモデル。奥のポストカードは1959年、クーパーのマシンを駆るモスです。

メルセデスのF1マシンを駆るモス(左)と1961年モナコGPのポスターをあしらったポストカード。1960年、61年とモスはモナコを連覇しています。
本稿の記載に際しては「世界の有名な50レース」(アラン・ヘンリー著・高齊 正訳 グランプリ出版)、「F1倶楽部」第18号(双葉社)、「私のグランプリ・アルバム」(中村良夫著 二玄社)を参考にしました。



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