工作台の休日

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若き日のマエストロを魅了した楽団が乗った列車とは

2024年02月11日 | 鉄道・鉄道模型
 世界的な指揮者の小澤征爾氏が亡くなりました。私はクラシックについては門外漢もいいところで、とてもここで氏の業績などを語ることなどはできません。ただ、ときどきテレビで拝見する(歳をとってもなお)エネルギッシュな姿から、音楽に対する情熱がこちらにも伝わってくる感がいたしまして、それが記憶に残っています。
 さて、小澤征爾氏のインタビュー記事で、昭和30年に来日したアメリカのオーケストラ、シンフォニー・オブ・ジ・エアーの公演を聴いて海外に行ってみたい、という気持ちが強くなったというのを読んだことがあります。この楽団は前身をNBC交響楽団といって、もともと名指揮者トスカニーニを擁したことで知られていたそうで、トスカニーニは既に引退していましたが、戦後初めて来日した海外のオーケストラということで、多くの音楽ファンを魅了したようです。海外のオーケストラの生演奏にみんな「飢えていた」証拠でしょう。
 この楽団は東京をはじめ各地で公演を行ったそうで、移動の際には臨時列車が仕立てられていたようです。「鉄道ファン」1977年6月号が食堂車を特集しておりましたが、その中に食堂車の付いた客車列車編成記録という記事があり、昭和20年代から昭和50年頃までのさまざまな列車の編成表が掲載されています。食堂車を付けた臨時列車というページに、シンフォニー・オブ・ジ・エアーの列車の記録も載っています。
その編成ですが、マニ31+マイネ40+マイネ40+マシ38+マイネ41+マイネ41+スロフ30
ということで、昭和30年5月22日の先頭にはEF58-9号機が立っていたようです。記録を調べていきますとEF58-9号機はその年の秋に車体を流線形に乗せ換えているそうなので、この頃はまだ箱型・デッキ付きの姿だったということになります。
先頭の荷物車は当然楽団員の荷物の輸送に必要な車輌です。そしてほぼ一等寝台車だけで組まれた編成というのも壮観だったでしょう。マイネ40は2人個室と「プルマン式」と呼ばれた開放室(のちのナロネ21などに見られる線路の方向と平行に寝台を配置した2段寝台となっていました)のある寝台車でした。マイネ41はすべてプルマン式の寝台車でした。編成後尾のスロフ30は戦前派の客車でした。車掌室が必要で連結していたのか分かりませんが、古いタイプの二等座席車はどんな風に使われていたのでしょうか。また、マシ38は三軸ボギー台車を履いた重厚な食堂車です。
 この編成を見る限り、進駐軍の専用列車のような感じがしますが、戦後初めて来日した海外のオーケストラということで、招聘した日本側も使節をもてなすような感覚だったのではないでしょうか。当時まだ長距離移動で信用が置ける交通機関と言うと鉄道くらいしかありませんでしたから、快適な移動を約束するために、一等寝台車は不可欠だったのでしょう。
 こういった優等客車だけで組まれた臨時列車は昭和30年代には良く見られたようです。その後は東海道であれば新幹線が使われるようになったでしょうし、遠距離であれば飛行機と言う選択肢もあることから、見られなくなっていきました。また、この編成図に話を戻しますと、一等寝台車という種別は昭和30年7月に廃止され、「イネ」がついた寝台車は二等寝台車に格下げされ「ロネ」となっています。つまりマイネからマロネになったということであり、車体に巻かれた白い帯も青帯となりました。そういう意味でもこの編成の記録はなかなか貴重なものだったと言えるでしょう。


 

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