本ブログでたびたび紹介しております三栄の「GP Car Story」昨年秋の№49号はウィリアムズFW07というマシンで、1979年から1982年序盤を戦ったF1マシンです。既に昨年12月に第50号も出ており、紹介がかなり遅れてしまいましたが、ちょっと懐かしい話も含めて書きたいと思います。
ウィリアムズチームのオーナーのフランク・ウィリアムズは1960年代後半にレーシングカーの売買などを行っていましたが、1969年シーズンからプライベートチームによるスポット参戦という当時許された手法でF1に参入します。しかし、しばらくは「鳴かず飛ばず」の日々でして、カナダの石油王ウォルター・ウルフがチームに資本参入したこともありました。チームスタッフの給料もろくに支払えない、などと噂されましたが、やがて彼はイギリス経済、それだけでなく世界経済、政治にも影響を及ぼしていたアラブ系、とりわけサウジアラビアの企業をスポンサーに迎え入れます。1978年のことでした。その1978年のF1では、チームロータスが「グラウンド・エフェクトカー」と呼ばれるマシンでグランプリを席巻しました。これは「ウィングカー」とも呼ばれ、車体底面と地面の間に空気の通り道を作り、ダウンフォース(地面を押さえつける力)を強化し、タイヤも地面に押し付けながら、コーナリングスピードを上昇させる効果などがありました。この効果を徹底させるため、車体のサイドから底面のあたりにゴム製スカートをつけ、空気がサイドから出ないよう、効率よく後ろに流すこともしています。
ウィリアムズFW07というのは、このロータスのマシンを模倣しながら、オリジナルよりも空力特性などで向上を図りました。その結果、1979年のシーズンこそフェラーリに水を開けられたものの、1980年にはブラバムの新鋭・ネルソン・ピケとの戦いを制したアラン・ジョーンズ(豪)がタイトルを獲得しています。翌1981年はピケにタイトルを獲られるも、コンストラクターズタイトルは制しています。1982年も序盤のみ走り、ケケ・ロズベルグのタイトル獲得に結果的には貢献する形となりました。サウジ航空、TAGといったサウジ系スポンサーと、サウジカラーの緑に彩られたマシンは本家ロータスを凌ぐ速さを見せ、他チームがロータスの模倣をしてもうまくいかない中で、グラウンド・エフェクトカーの成功者となりました。アラブのオイルマネーはイギリスのあちこちの企業などに関わっているか、買収したなどと言う話を、1980年にヨーロッパを訪れた亡父から聞かされたものです。サウジ系だけでなく、ブリティッシュ・レイランドも目立つ位置にスポンサーになっていましたが、国営企業の悪しき見本みたいなイメージがどうしてもございます。
オリジナルの模倣、と書きましたが、それでもインペリアル・カレッジ・オブ・ロンドンにあった風洞を借りて空力特性の向上につとめたとあります。そしてこのマシンに携わっていた人々というのが、その後もウィリアムズと運命を共にしたパトリック・ヘッドはともかく、フランク・ダーニー(多くのチームで活躍し、トヨタF1にも参画)、ニール・オートレイ(後にマクラーレンで活躍)そしてロス・ブラウン(シューマッハとともにフェラーリの黄金時代を作った立役者)と、スタッフはバラバラになりましたが、その後のF1の歴史に名を残した人たちばかりです。本書では、当然こういった人たちへのインタビューから、このマシンがどのように作られ、速さを発揮できたかが解き明かされています。パトリック・ヘッドは「ロータスのマシンを目視でコピーして図面を描いた(!)」と言っていますし、フランク・ダーニーは自らを「風洞オタク」と称していますが、当時珍しかった空力デザインの専門家の力が発揮されたということでもあります(1980年にはウィリアムズは自社で風洞を所有しています)。コンピューターによる動作解析が無い時代に、試行錯誤と手作業でマシンを速くしていった過程を読むのはわくわくする体験でした。そしてこのエンジニアたちが当時まだ20代の若者ばかりであったというのも興味深いです。1977年までは弱小チームゆえに熟練のスタッフがいなかったこともあるでしょうが、うまくピースがはまったのと、彼らに活躍する場を与えたオーナー、フランク・ウィリアムズの成せる業でしょう。その意味では彼は野村克也が言うところの「人を残した」人物かもしれません。ちなみにこの時期のウィリアムズチームには日本人メカニックの「デューイ」こと中矢龍二氏も在籍しています。日本人メカニックはよく働く、と言われていたそうで、本書でも同じ時期にグランプリでメカニックデビューをした津川哲夫氏との対談が載っています。
また、ドライバーに関してもアラン・ジョーンズのインタビューが載っています。1981年シーズン後に引退すると、故郷オーストラリアで農場経営に就いたということもあり、チャンピオン獲得者の中ではインタビューを読んだ記憶がありませんでしたので、当初はフェラーリからオファーがあった(フェラーリはジル・ビルヌーブを選びます)とか、1982年にはビルヌーブを亡くし、ディディエ・ピローニが重傷を負ったフェラーリからのオファーを断った、という話は初めて知りました(フェラーリには元王者のアンドレッティが乗車)。この時代の「ウィングカー」は時には「乗る人を選ぶ」ような癖もあったようですが、時にはマシンをねじ伏せながら、時には冷静に考え、このマシンをチャンピオンに押し上げていきました。フェラーリが元王者たちにオファーした、というのは1994年のセナ没後にナイジェル・マンセルをウィリアムズチームが引っ張ってきた状況に似ていますが、本人はフェラーリのオファーを断ったことを後悔している、とも言っています。
引退についても徐々に力をつけてきたターボエンジンのマシンに勝てなくなってきたことや、この時代に表面化し、大きな対立となったFISA(国際自動車スポーツ連盟・モータースポーツの統括を行う国際団体で、後に国際自動車連盟に吸収)とFOCA(F1のチームで構成され、F1の興行を取り仕切った団体)の政争にも嫌気が指したから、と言っています。
さて、このシリーズと言いますと必ず模型の話も出てくるわけですが、タミヤの1/20ではなく、今回はデラックス・ビッグワンガムのFW07が紹介されています。このブログの読者の中にもこういったシリーズを「昔作った」という方もいらっしゃるでしょう。いわゆる「食玩」のルーツですが、立派なスケールモデルとなっているところがミソで、このFW07もちゃんと1/36のスケールモデルとなっているところが凄いです。今回はカバヤにも取材をしていて、これらの「玩具付き菓子」の開発の裏話も読めます。これらのシリーズはおまけの域を出なかった「エフワンガム」から始まり、「ビッグワンガム」では「模型」として進化もしていきましたが、自動車だけでなく、飛行機、鉄道、艦艇とひととおり乗り物をカバーしていたようで、鉄道模型の世界でも「玩具といっても侮れない」と言われていました。軟質プラのためいわゆるプラモデルのようなスチロール樹脂ではないものの、金型屋さんなどに模型に相当理解のある方がいた、ということで、私も昔艦船のキットを組んだので覚えていましたが、なるほどなあと思わせる話でした。私は覚えていなかったのですが、穴の開いているパーツの穴の部分がきついときには、それを少し広げてはめやすくするための工具のようなパーツも含まれていたということで、子供が扱うものゆえの配慮でしょうが、現代の食玩キットよりも親切なところもありました。それにしてもエフワンガムの箱、リカルド・パトレーゼのシャドウなんて渋い選択だなあ&箱だけでも欲しいなあ。
実車の話に戻りますと、1982年序盤まで活躍したこのマシンですが、チームにもいろいろな変化がありました。ジョーンズ引退でエースになったカルロス・ロイテマン(アルゼンチン)でしたが、1982年開幕戦直後に引退、帰国してしまいます。政界にもパイプがあり、後に政界進出を果たしたロイテマンでしたが、フォークランド紛争を事前に察知しており、イギリスに本拠を置くウィリアムズチームにいるのはまずい、と判断したからとも言われています。それだけではなく、チームに加入したロズベルグとウマが合わなかったのでは、というチーム関係者の証言もあります。少し後の年の話もしますと、チームのアラブ系スポンサーも徐々に離れており、TAGは1983年からマクラーレンと組みました。いよいよターボエンジンがサーキットを席巻するようになり、それまでフォードの自然吸気V8エンジンを使い続けたウィリアムズが1984年に組んだ相手は、復帰2年目のホンダでした。この頃まではリアウイングにサウジ航空のスポンサーも掲出されています。