工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

ちいさな翼で遊ぶ 雪の日々に

2022年02月12日 | 飛行機・飛行機の模型
 冬季五輪が開幕して、私の生活も「五輪シフト」となっています。平日昼間は仕事ですが、それ以外の時間は中継にかじりついているという次第です。
 さて、東京は木曜日に雪が降りましたし、この日曜日も雪の予報です。雪の北国に思いをはせつつ、かつて北の大地を飛んだ旅客機を、数年前に1/144で作ったことがあります、というのが今回のテーマです。
 昭和30年代、北海道を中心として飛んでいた航空会社に北日本航空がありました。のちに日本国内航空(東亜国内航空の前身)と合併により消えた航空会社でした。この会社が導入した機体に2機のDC-3がありました、と書くと世界中の航空会社でよくあったことなので珍しくないのですが、珍しいのはその来歴でした。
 2機のうち1機(JA5015)はダグラスDC-2に寝台設備を設置したDC-2DSTというタイプからDC-3と同じ仕様に改造された機体でした。


 窓配置が通常のDC-3とは異なり、また乗客の出入口も機体の右側にあったのも異なる点でした。

 DC-3に限らず、今日に至るまで航空機の出入口は機体の進行方向左側にあるのが一般的で、これは船舶と同じですし、軍用機も一部の例外を除いて左側から乗りこむようになっています。
 また、もう一機(JA5058)はハワイアン航空で使われた機体でしたが、日本の真珠湾攻撃の時にホノルルの空港に居合わせ、被弾したという珍しい機体でした。戦後は一部を横長の大きな窓をつけた機体に改装され、遊覧飛行にも使用されたものでした。
 北日本航空では、このハワイアン航空の塗装が気に入ったのか、白と赤の塗装を塗り替えずにそのまま使い、後に導入されたCV-240などもこの塗装でした。
 模型ではJA5015を再現しました。ミニクラフトのキットです。通常のDC-3と異なる乗客用の扉はスジボリで再現しました。マーキング類はデカールを自作しております(アメリカのメーカーからそのものずばりのデカールが出ているようです)。フォントなどは微妙に異なりますがお許しください。垂直尾翼の「FLY NJA」は白文字のためインクジェットプリンターでは作ることができず、プリントゴッコで作ったデカールです。
 また、このDC-3ですが脚部にスキーをつけています。降雪地、極寒地ではこういったスキーをつけていたようですが、北日本航空では実際にはスキーを履いたということは無かったようです。史実と違う、と言ってどうか目くじらを立てないよう願います。わざわざスキーのパーツをつけた理由ですが、これはかつての日東1/100のキットののマーキングが北日本航空で、やはりスキーのパーツも入っており、かつての名キットへのオマージュと思っていただけましたらと思います。
 さて、北日本航空のDC-3は映画にも登場します。「高度7000米 恐怖の四時間」(昭和34年)という作品で、ハイジャックもののサスペンス映画でした。主演の機長役は名優・高倉健でした。「健さん」は任侠もの以前の作品では、こういった現代劇に出演されており「ジェット機出動 第101航空基地」という作品では航空自衛隊のパイロット役だったそうです。両作とも私は未見なのですが、映画が娯楽の一番手だった頃の作品ですので、私の両親などは当時住んでいた(今は同じ町に偶然私も住んでいますが)町の映画館で観ていたかもしれませんね。

 

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わたくし版、JRでスキーに連れていって

2022年02月04日 | 鉄道・鉄道模型
 冬季五輪が「正式に」開幕しました。一昨日から一部の競技の予選が始まっていて、中継を観ておりました。中国については氷の競技はともかく、雪の上はまだまだという印象があります。中国もコロナ禍、国内、国際問題いろいろある中での開幕ですが、選手たちがベストを尽くせるよう祈るばかりです。
 さて、私自身が人並みにできる少ないスポーツがスキーでして、冬のスポーツはそれもあって大好きです。今年、JR東日本がスキーキャンペーンを始めてから30年ということで、主要駅には過去の広告のコピーとCMをイメージしたポスターが各年毎に作られて貼りだされています。それを見ていたら国鉄民営化以降、スキーにはどんな列車で行ってたっけ、ということを思い出しました。それが今回のテーマです。
 JRになってからのスキー、と言いますと、JR発足直後はバブル期でスキー場に向かう人たちも今よりはるかに多かった時代です。あのころスキーヤーがスキー場を目指す場合は、自分(あるいは家族)の車で行く→新幹線で行く→シュプール号などの夜行列車を使う→スキーバスを使うという感じで、それぞれの懐具合で使う交通機関も違いました(これは今も変わらないでしょう)。私は家族で越後湯沢まで行くことが多かったので、上越新幹線のお世話になることが多かったです。200系にE1系MAXといったところがよく使った車輌となります。新幹線は速くて便利なのですが、一つ困ったことがありました。スキーというのはどうしても荷物が多くなるもので、スキー板、バッグなど、たくさんの荷物を効率よく収納したいものですが、新幹線の座席上の荷物棚はそれほど大きくなかったですし、網棚ではなくなっていたことで、スキー板の取り扱いも厄介でした。というのも昔はスキーを入れたカバーにベルトを巻いて、そこにフックをつけたもので網棚にスキーを提げる、といったことがよく行われていたのですが、それができなくなってしまったわけです。E2系あたりから、車端部にスキーなどを入れるコーナーができましたが、東京から越後湯沢までの1時間ちょっとではありましたが、席に座ってスキーの入ったカバーを両手で支えながら過ごしたことも一度や二度ではありませんでした。
 初代MAXのE1系は登場当初はグレーを基調にしていて、あの時代のオフィス家具みたいな色だったことを覚えています。越後湯沢まで、と書きましたが、駅から近い岩原(いわっぱら)や湯沢高原などを愛用していました(これは今も変わりません)。岩原は眺望がすばらしく、湯沢高原は滑る側に手を抜かせないというか、丁寧な滑りを求められる感じがして好きなゲレンデです。山頂から迂回するコースを選び、麓までの約5キロのコースを滑り降りるのも楽しいものです。ガーラ湯沢ができてしばらくして、話のタネに行ってみたことがありましたが、手ぶらで来てすべてレンタルしてそこそこスキーを楽しんで帰れるような感じで、時に不便さも我慢して楽しむというそれまでのスキー場とは違うものを感じました。岩原ではレンタルスキーなどのコーナーや売店が入った建物の一角にアラン・プロストのサイン入り写真と彼のマシン(確かマクラーレン・ポルシェ時代だったと思う)の模型がガラスケースに収められていました。プロストが岩原に来ていたかどうかはともかく、あの時代のひとこまとしてよく覚えています。
 上越だけでなく、たまに山形蔵王というときもありましたが、新幹線ができてからは朝、東京を発てば現地でお昼を食べて午後からスキーができ、帰る日も昼まで滑っても余裕でその日のうちに帰京できるというのは便利になったものだなあと思いました。子供の頃「やまばと」や「つばさ」に乗って山形を目指したときは、宿に着いたら陽も少し傾いて、東京でお昼にやっている番組が夕方放送されているのに驚いたことを覚えています。山形駅から温泉街までの道路事情も改善されているのかもしれません。
 また「長野行き新幹線」ができる前でしたが「あさま」に乗って信越線方面のスキー場に行ったこともありました。赤倉や菅平など、それまで行ったスキー場とは違う雪質と広いコースに感激したものです。菅平には勤め先の同期4人で行ったのですが、在来線の特急で駅弁とお酒をお伴になかなか楽しい道中でした。
 30代にはゲレンデから遠ざかっていた時期もあったのですが、40代以降、またスキー場に足が向くことになりました。昔のようにノルディカの靴にロシニョールの板を自宅から持っていくことはなく、宿で板と靴を借り、慣れないカービングスキーで斜面を攻める(というほどでもないですね)ことになりました。父親と行っていたときはガンガン滑ってご飯食べて、お風呂入っておやすみなさい、という「合宿」スキーでしたし、職場の同期と行った際も上級者ばかりでしたので、体育会なスキーでした。ゲレンデにも麓にも美味しいお店があるのでそういったところで食べる楽しみもありますが、スキーに行く=山に行くという気持ちは忘れずに安全に気をつけて滑っております。コロナでスキーにもしばらく行ってませんし、豚児がもう少し大きくなったら雪遊びからデビューさせたい、と思うのですが、コロナが落ち着いたら旅を楽しみながらまた雪山に、と思っています。
 今回は鉄道というカテゴリで書いていますが、模型の車輌の写真もありません。実は東北、上越系の新幹線はE2系を持っているくらいで、さみしい限りなのです。200系はいろいろお世話になったので、今年あたり買いたいなあ、などと思うのですが。
 列車とスキーの思い出というと、子供の頃の「国鉄でスキーに連れて行って」の方がご紹介できることがたくさんありそうです。それについては181系の「とき」が私の鉄道にいつの日か入線した折にお話ししましょう。
 

 

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低く構えて、前へ。ブラバムBT55と1986年のF1シーズン

2022年02月02日 | 自動車、モータースポーツ
 モータースポーツ、とりわけF1はつかの間のオフシーズンということで「読むF1」を実践しているところではありますが、紹介しそびれていた本とマシンがありました。
 昨秋に三栄のGPCar StoryでブラバムBT55が特集されました。このマシンについては昨年5月の当ブログでエリオ・デ・アンジェリスの話と共に少し触れたのですが、このマシンのことと、このマシンが走った1986年のF1シーズンについても触れたいと思います。
 このマシン、特徴と言えば何と言ってもとても低い車高にありました。


ドライバーの後ろがほぼ平らになっているのが分かります。ブラバムチームに長く在籍したデザイナー、ゴードン・マーレイはリアウイングにクリーンな空気を流したい(抵抗なくスムーズな空気の流れを作りたい)ために、BMWエンジンを傾けて搭載し、フラットな車体を作り出しました。しかし、エンジンを傾けて取り付けたことでエンジン内のオイルの循環にも影響が出るなど、次々に問題が噴出し、期待した成績を収めることができないままシーズンを終えました。
 本書では、この特徴的なマシンをデザインしたゴードン・マーレイへのインタビューの他にも、マシンを操ったリカルド・パトレーゼ、デ・アンジェリスの死後にマシンを駆ったデレック・ワーウィックらのインタビュー、さらには当時のオーナーでF1界のボスと称されたバーニー・エクレストンへのインタビューなども掲載されています。
 ミニカーでのご紹介ではありますが、かなり特徴的なマシンですね。スケートボード、フラットフィッシュといったあだ名があったのもうなずけます。



 ゴードン・マーレイはブラバムチームでさまざまなマシンをデザインしました。「三角断面モノコック」のBT44、ファンカーことBT46B、ニードルノーズのBT52など(このあたりもいずれこのシリーズで特集されるように思いますが)、特徴的で時にラジカルなマシンをサーキットに送り出していました。ロックスターのような風貌で、TシャツにGパンという格好もあいまって、いわゆる名門チームとは違う、どこかイケイケなチームを象徴しているような感じがします。実際にチームの関係者が「海賊船のようなチームだった」というのが、この時代のブラバムチームを象徴しているように思いました。
 BT55についてはシーズン最高位6位が数回ある程度で、あとは完走もままならなかったのですが、それでも白と紺の車体は美しく、シンプルな車体デザインに良く似合っています。イギリス系のチームとは言ってもオリベッティやエンポリオアルマーニといったイタリア企業のスポンサーも見えますが、シーズン当初はドライバーがイタリア人二人での構成だったからでしょうか。
 結局はこのマシン、成功を収めるまでには至らず、テスト中にドライバーを失うという悲しい出来事もありました。ゴードン・マーレイもチームを去り、マクラーレンでこのアイデアを開花させることになりました。それがマクラーレンMP4/4で、空気抵抗を抑えた車体、コンパクトでパワフルなホンダエンジン、勝ち方を知っているチャンピオン(プロスト)と、タイトルを渇望する若き天才(セナ)のタッグで16戦15勝を挙げることになります。

マクラーレンMP4/4

ブラバムBT55ほどではありませんが、低く抑えられたカウルがお判りいただけますか?
 ブラバムチームにいた二人のドライバー、パトレーゼとワーウィックですが、翌87年はパトレーゼは残留、ワーウィックはアロウズに在籍、中団を走るマシンの常連という感じで、二人はデビューシーズンだった中嶋悟とバトルをしていました。パトレーゼはその後ウィリアムズで活躍、優勝も遂げています。ワーウィックは優勝こそなかったものの、中堅チームを中心に活躍し、渋い風貌とともに人気がありました。
 チームの代表だったバーニー・エクレストンはチームの仕事よりもF1全体の仕事の方にシフトしていき、ある種「株仲間」的なF1の各チームのまとめ役になったり、権力を駆使してF1そのものの地位を押し上げてきました。その手法には賛否ありましたが「バーニーのおかげで・・・」と彼を評価する関係者が多いのもまた事実です。
 さて、1986年のシーズンそのものの話になりますが、シーズンとしてはウイリアムズ・ホンダとマクラーレン・TAGポルシェの争いとなりました。コンストラクターズ(チーム)タイトルはウィリアムズが獲得したのですが、ドライバーズタイトルは最終戦でマクラーレンのプロストが大逆転で獲得、2年続けてのタイトルとなりました。この最終戦も昨年の最終戦に負けず劣らず劇的でしたが、ウィリアムズのエース二人、ピケとマンセルのバトルの間隙を縫ってプロストが獲ったようなところがありました。最近のファンなら2007年シーズンにマクラーレンの二人(アロンソ、ハミルトン)の対立を横目にポイントを重ね、最後にタイトルをものにしたライコネンをイメージすれば分かりやすいかもしれませんね。

ウィリアムズ・ホンダFW11。後ろのドライバーは左からプロスト、マンセル、ピケ

マクラーレンMP4/2C。MP4/2シリーズは改良を重ねて都合3シーズン使われました。この塗装はマルボロカラーの蛍光レッドが退色したのではなく、ポルトガルGPのロズベルグ車のみ、マルボロライトの金色と白に塗り分けられたものでした。ちなみに後のチャンピオンで、このマシンを駆ったケケ・ロズベルグの息子ニコ・ロズベルグはこのときまだ1歳です。
 また、ブラバムと同じBMWエンジン、ピレリタイヤという組み合わせのチームがありました。それはベネトンで、この年はゲルハルト・ベルガーがメキシコで初優勝を遂げています。

このマシンもカラフルだけでなく特徴的なスタイルです。ベルガーは後年のマクラーレンやフェラーリのイメージが強いのですが、もともとはBMWと共にF1にやってきたドライバーでした。

 ブラバムの話に戻りますが、その後は日本企業のスポンサーを受けたり、日本人がオーナーになったりと奮闘を続けますが、チームは1992年で活動を休止しました。紺色と白のマシンは後にウイリアムズに引き継がれましたが、こうしたシンプルなカラーリング、私は結構好きです。そういえばBT55の精巧な模型が、以前恵比寿にあった「レーサーズ・カフェ」という飲食店にあって、ときどき眺めておりました。ああいうお店、またできないかなあ。

 さて、GPCar Storyの関係でまだご紹介したい記事もございます。それはまた次の機会に。




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