あれから(東日本大震災)7年・日本人の思考は変わったのか?
あれから7年、日本式では7回忌、東日本の大震災の津波の恐ろしさは未だに、私たちの記憶に生々しく残っている。TVで映し出される映像はこの世の現象とは思えず、世紀末という言葉を脳裏に思い浮かべながらTVの画面に見入っていた。数時間呆然と画面を見続けてフッと、この津波が現実なのだと実感した時、吐き気を催す邪悪・おぞましさを逃げるためTVから離れた。
・あの大震災から7年、生活が大きく変わった人も多い事だろう。だが私達の考え方が変わった人は少ない事を思う。
・最近勉強始めた聖書では大患難のハルマゲドンの後に楽園が来ることが書かれている。「ハルマゲドン=幾つかの解釈有=神とサタンとの戦いで神に従順な多くの人々を救い出す戦いでもあり、神に忠実な人々にとっては生活上の良い変化の時。(叩けよさらば開かれん・・マタイ7-7)
・その大患難の終末の大異変について見・聞きしたことがある人も多いだろう。その時が今だとは、予言に説明された異変に重なる異変が現在多く起こっている現実がある。そして東日本大災害の津波の映像など見ていると4000年も前に書かれたという聖書のハルマゲドンの予言が思い出され、神戸の大震災や東日本大震災などの自然現象の異変を、予言のハルマゲドン問題と重ねてしまうのは私だけだろうか。
・そしてあれから人々の思考は変わっただろうか?。日本人は神から遠い存在の仏教を信じて生活の中で切り離せないものになっているが、私の今までの勉強では仏教と神の存在は真逆で、仏教は死者を祭り、神(キリスト教)は未来志向だという事。日本仏教は死者≒過去の先祖を神に仕立てて神と呼びその実は死者の過去の功績を祭っているのだと私は解釈している。長く考古学的古代史の真実を研究してきた筆者としては、死者を祭る原始仏教が日本で始まったのは少なくも4000年より以前の事だろう。この4000年という長い間、日本人は過去を振り返っていた事になる。そして7年前の東日本大震災だ。先祖を祭るのがいけなかったと思えないだろうか。私はもう過去を振り返る仏教にはもう心動かされる内容は何もないと思う。
・聖書を学び始めて多くの真実が聖書に語られている事に驚くと同時に、仏教的信条に囚われていた自分に気が付き、聖書の言葉の新鮮さと良い便りへの信頼が増したと同時に、より多くの人が聖書を読み聖書を正しく理解し本当の神の愛に目覚める必要性を痛感しているのです。
・震災を受けた羽生君の不屈のスケートへの情熱を見るにつけ、7年前の大震災の1か月後やっと医療関係の仲間に入ってボランテヤ活動として行った陸前高田。学校の体育館に収容された被災者たちの憔悴しきった魂の抜け殻の様な様子を目の当たりにして、又中学同級生男子たちの5ー-6人グループの姿が思い浮かびます。恐怖体験を忘れるためかゲーム器に集中しているかのような彼らの中の一人に近寄った途端、話もしないのに私の目は涙であふれ、その少年から離れるまで言葉も出ずに私の目から涙があふれ出ていた異常体験は今も忘れられない。あの恐ろしい体験をした少年は今どうしているのかと、、、。そして未だ彼らは先祖祭り=仏教祭りを続けているのだろうか。大きな痛手を被ったのに!?。忠実な日本の多くの人々は誠実に慣習の仏教的祭りを続ける。聖書の中に神の救いが書かれている事を知らずに!!
・被災者の人々が間違っても神を恨んだりしないことを祈る。何故なら大患難は神のご意志でないことが聖書を学び読む中で理解できるから。今までの私の学びの中での知識では、楽園だった地上が人間のあらゆる欲=性欲に始って名誉欲とか支配権とか金銭欲や物欲等全ての欲によって汚されて、現実の対抗意識から戦争や人殺しや悪が人々の中に蔓延った。それらの心の現象が災いとなって自然現象を引き寄せ自分や人類の上に注ぎ出される。しかし最初から神は人類の幸せのために働いていて下さっている。と聖書には書かれているのです。私も多くの人生訓(言い方悪いかも知れませんがいい表現が出来ません)を聖書から知りました。
そして若い時に聖書を学ぶべきだったと反省し、認知症傾向と戦う今になって遅ればせながら、必死で勉強中です。
・皆さんが仏教的信条から目を覚まし一日も早く「未来の楽園を目指し」て生きる方向に方向転換を勧め祈ります。 2018・3・10