音楽情報サイト「Barks」に「酷暑を乗り切る「歌詞が怖い曲」といえば?」という記事が載っていた。
・妄想日記/シド
・ひぐらしのなく頃に/島みやえい子
・カウントダウン/Cocco
・ファイト!/中島みゆき
・呪い/山崎ハコ
・部屋とYシャツと私/平松愛理、etc。
V.A.(邦楽) : 酷暑を乗り切る「歌詞が怖い曲」といえば? / BARKS ニュース
シドは全く興味がないし、「ひぐらしのなく頃に」はアニメの影響だろうし、Coccoと平松愛理は女の嫉妬だろうし、山崎ハコは…まぁ、そのままか、と何となく納得なんだけれど、中島みゆきの「ファイト!」が選ばれているのにちょっとびっくり!
中島みゆきは情念の歌を作らせれば一級品なわけで、そういう意味ではランクインすること自体は別に違和感はないのだけれど、CMにも使われた「ファイト!」のサビは決して怖いわけではない。むしろ応援歌であり、励ましであり、曲調そのもの決して暗くはない。
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ (「ファイト!」より)
こう書くとサビだけは聞いたことある人も多いのではないだろうか。で、ちょっと気になったので、goo音楽の歌詞検索で「ファイト!」の歌詞を確認してみた。いや、これはちょっとびっくり!こんな重い歌詞だったんだ…
ファイト! 中島みゆき 歌詞情報 - goo 音楽
その歌詞を見ていると、あぁ、「中島みゆき」はもう時代から必要とされていないんだなぁと感じてしまう。
中島みゆきは「情念」の人だ。そういう意味では心性としては演歌に通じる部分もあるのかもしれない。ヒット曲となった「悪女」ではさわやかに歌いながらもその心性は「尽くす女」「裏切られる女」だ。
もちろん中島みゆきの魅力はそれだけではない。「熱病」では社会という存在の中で苦しむ姿を描き出したし、「重き荷を負いて」では毎日を慎ましやかに必死に生きる人の姿を歌い、「地上の星」ではどこかにあるはずの希望、信念、正しさといったものとそれを失ってしまった世界を、「銀の龍の背に乗って」では自分たちの非力とそれでも立ち向かっていこうとする姿を、「糸」ではより大きな世界を2人の姿に重ねて描いている。
それらに共通するのは、何か(誰か)を信じそれに誠実であろうとする人とそれを裏切る社会であり、それでもそれに対して真摯であろうとすることへの賛歌であり、応援歌だ。
つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を
つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう (「地上の星」より)
空と君とのあいだには今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる (「空と君とのあいだ」より)
決して努力が報われるとは限らない。信じているものが応えてくれないかもしれない。それでも信じ続けようとすること。そうした姿や決意が人々の共感を呼び、だからこそ「プロジェクトX」やドラマに中島みゆきの曲が使われるのだろう。
とはいえ、やはりそうした姿勢をもっとも聞き手と等身大に描かれているのが「女の情念」に関する詩だったのだろう。
しかしここで書かれている心情や行動は今の10代~30代前半に通じるのだろうか。2つの点から、中島みゆきの世界は受け入れられないのではと思う。
1つは歌詞に描かれている行動パターンだ。例えば「手紙」を書くという行為。今風にするならば「メールをする」という風になるのかもしれないが、1つの「手紙」を書くという行為にこめられた想いの深さは1つのメールを書くというのとはわけが違う。「手紙」であれば、数枚の書簡の中に気持ちを込め、丁寧に書き記し、投函するかどうかを最期まで悩みながら相手に送り、返信を待つという「手間」が想起される。そしてその「手間」やそにかかる「時間」こそが、そうした行為にこめられる想いの重みに比例する。
しかしこれがメールだとどうだろう。常にケータイを身にまとい、一言でも二言でもいいから、思い立ったその時にメールを送り、次の瞬間には返信を待ち続ける。しかしその待つ時間というのは数秒~数分だ。とすると、同じように自分の思いを文字として送るという行為を比べたとしても、それの意味するところは全く違ってくる。
あたしが出した 手紙の束を返してよ
誰かと 二人で 読むのは やめてよ
放り出された昔を 胸に抱えたら
見慣れた夜道を 走って帰る (「化粧」より)
ケータイであれば、全てが一瞬のうちに削除されてしまう。反芻もなく、悔恨もなく、それは全てが一瞬にリセットされてしまうように。
これは何も「手紙」に限ったことではない。「電話を待つ」というのもそうだろうし、「見送る」という行為もそうだろう。1つ1つの行為が変化し、その行為に付随する様々な心情も変化してしまったのだ。
もう1つは、中島みゆきの歌の主人公たちの心情にあるような「一途さ」や「自己犠牲」「相手を思いやる」といった心性が弱くなり、女性側がもっと「自己主張」をするようになってしまったからだ。
涙も捨てて 情も捨てて
あなたが早く私に 愛想を尽かすまで
あなたの隠す あの娘のもとへ
あなたを早く 渡してしまうまで (「悪女」より)
二番目に好きな人三番目に好きな人
その人なりに愛せるでしょう
でも一番に好きだったのは
わたし誰にも言わないけど死ぬまで貴方 (「最愛」より)
こうした心性・女心が「美徳」として尊ばれた時代とは変わってしまった。勝間和代のように男性以上にビジネスの世界を勝ち抜き、「肉食系女子」という言葉が流行り、憧れの職業に「キャバクラ嬢」がランクインし、「遊びたかったから」といって幼い子供に食事も与えず置き去りにする時代…女たちは主張し、欲望を全面に押し出し、華やかに生きようとする。それが女性にとっての「自分らしさ」であり、そんな自分自身を肯定する。
あなたのこと どんどん 好きになってくる
これだけは 言わずにいられない
あなたといる時の 自分が一番好き
探してた答えは 易しい 照れくさい その手はあたたかい (「決戦は金曜日」)
今ではちょっと古い歌になってしまったが、ドリカムの「決戦は金曜日」ではその様が高らかに宣言されている。あくまで主人公は「自分」なのだ。
その後の全面開花された欲望の前では、もはや中島みゆきが描いていたような「自分の感情を内面に押さえ込む」ことは必要ないのだろう。倖田來未が歌い上げる世界では、欲望とそれを堪能する姿が現われる。求めること。楽しむこと。堪能すること。そうした「ハレ」に満ちた世界。それが現在のあり方だとするならば、もはや中島みゆきが歌いあげていた世界、社会の関係性を維持するために自らを犠牲にして愛しい人の幸せを祈るといった価値観は必要とされていないのだろう。
かってはユーミンが軽やかに歌った世界と中島みゆきの情念の世界とは対比的に存在していた。しかしそれは、もしかしたら同じような時代の感性を背景としつつ、それへの反発・克服と共感という表裏の存在だったのかもしれない。しかし今、女性を取り巻く環境や女性自身の心性のあり方が変わってしまった。時には相手の幸せよりも自らの幸福をもとめ、あるいは相手のことを想いつつもその表現の仕方はかってのような「暗さ」はない。
ユーミンも中島みゆきもともに一線から退くことになったのだろう。
ファイト 中島みゆき
糸 中島みゆき
重き荷を負いて 中島みゆき
銀の龍の背に乗って 中島みゆき
地上の星 中島みゆき
・妄想日記/シド
・ひぐらしのなく頃に/島みやえい子
・カウントダウン/Cocco
・ファイト!/中島みゆき
・呪い/山崎ハコ
・部屋とYシャツと私/平松愛理、etc。
V.A.(邦楽) : 酷暑を乗り切る「歌詞が怖い曲」といえば? / BARKS ニュース
シドは全く興味がないし、「ひぐらしのなく頃に」はアニメの影響だろうし、Coccoと平松愛理は女の嫉妬だろうし、山崎ハコは…まぁ、そのままか、と何となく納得なんだけれど、中島みゆきの「ファイト!」が選ばれているのにちょっとびっくり!
中島みゆきは情念の歌を作らせれば一級品なわけで、そういう意味ではランクインすること自体は別に違和感はないのだけれど、CMにも使われた「ファイト!」のサビは決して怖いわけではない。むしろ応援歌であり、励ましであり、曲調そのもの決して暗くはない。
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ (「ファイト!」より)
こう書くとサビだけは聞いたことある人も多いのではないだろうか。で、ちょっと気になったので、goo音楽の歌詞検索で「ファイト!」の歌詞を確認してみた。いや、これはちょっとびっくり!こんな重い歌詞だったんだ…
ファイト! 中島みゆき 歌詞情報 - goo 音楽
その歌詞を見ていると、あぁ、「中島みゆき」はもう時代から必要とされていないんだなぁと感じてしまう。
中島みゆきは「情念」の人だ。そういう意味では心性としては演歌に通じる部分もあるのかもしれない。ヒット曲となった「悪女」ではさわやかに歌いながらもその心性は「尽くす女」「裏切られる女」だ。
もちろん中島みゆきの魅力はそれだけではない。「熱病」では社会という存在の中で苦しむ姿を描き出したし、「重き荷を負いて」では毎日を慎ましやかに必死に生きる人の姿を歌い、「地上の星」ではどこかにあるはずの希望、信念、正しさといったものとそれを失ってしまった世界を、「銀の龍の背に乗って」では自分たちの非力とそれでも立ち向かっていこうとする姿を、「糸」ではより大きな世界を2人の姿に重ねて描いている。
それらに共通するのは、何か(誰か)を信じそれに誠実であろうとする人とそれを裏切る社会であり、それでもそれに対して真摯であろうとすることへの賛歌であり、応援歌だ。
つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を
つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう (「地上の星」より)
空と君とのあいだには今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる (「空と君とのあいだ」より)
決して努力が報われるとは限らない。信じているものが応えてくれないかもしれない。それでも信じ続けようとすること。そうした姿や決意が人々の共感を呼び、だからこそ「プロジェクトX」やドラマに中島みゆきの曲が使われるのだろう。
とはいえ、やはりそうした姿勢をもっとも聞き手と等身大に描かれているのが「女の情念」に関する詩だったのだろう。
しかしここで書かれている心情や行動は今の10代~30代前半に通じるのだろうか。2つの点から、中島みゆきの世界は受け入れられないのではと思う。
1つは歌詞に描かれている行動パターンだ。例えば「手紙」を書くという行為。今風にするならば「メールをする」という風になるのかもしれないが、1つの「手紙」を書くという行為にこめられた想いの深さは1つのメールを書くというのとはわけが違う。「手紙」であれば、数枚の書簡の中に気持ちを込め、丁寧に書き記し、投函するかどうかを最期まで悩みながら相手に送り、返信を待つという「手間」が想起される。そしてその「手間」やそにかかる「時間」こそが、そうした行為にこめられる想いの重みに比例する。
しかしこれがメールだとどうだろう。常にケータイを身にまとい、一言でも二言でもいいから、思い立ったその時にメールを送り、次の瞬間には返信を待ち続ける。しかしその待つ時間というのは数秒~数分だ。とすると、同じように自分の思いを文字として送るという行為を比べたとしても、それの意味するところは全く違ってくる。
あたしが出した 手紙の束を返してよ
誰かと 二人で 読むのは やめてよ
放り出された昔を 胸に抱えたら
見慣れた夜道を 走って帰る (「化粧」より)
ケータイであれば、全てが一瞬のうちに削除されてしまう。反芻もなく、悔恨もなく、それは全てが一瞬にリセットされてしまうように。
これは何も「手紙」に限ったことではない。「電話を待つ」というのもそうだろうし、「見送る」という行為もそうだろう。1つ1つの行為が変化し、その行為に付随する様々な心情も変化してしまったのだ。
もう1つは、中島みゆきの歌の主人公たちの心情にあるような「一途さ」や「自己犠牲」「相手を思いやる」といった心性が弱くなり、女性側がもっと「自己主張」をするようになってしまったからだ。
涙も捨てて 情も捨てて
あなたが早く私に 愛想を尽かすまで
あなたの隠す あの娘のもとへ
あなたを早く 渡してしまうまで (「悪女」より)
二番目に好きな人三番目に好きな人
その人なりに愛せるでしょう
でも一番に好きだったのは
わたし誰にも言わないけど死ぬまで貴方 (「最愛」より)
こうした心性・女心が「美徳」として尊ばれた時代とは変わってしまった。勝間和代のように男性以上にビジネスの世界を勝ち抜き、「肉食系女子」という言葉が流行り、憧れの職業に「キャバクラ嬢」がランクインし、「遊びたかったから」といって幼い子供に食事も与えず置き去りにする時代…女たちは主張し、欲望を全面に押し出し、華やかに生きようとする。それが女性にとっての「自分らしさ」であり、そんな自分自身を肯定する。
あなたのこと どんどん 好きになってくる
これだけは 言わずにいられない
あなたといる時の 自分が一番好き
探してた答えは 易しい 照れくさい その手はあたたかい (「決戦は金曜日」)
今ではちょっと古い歌になってしまったが、ドリカムの「決戦は金曜日」ではその様が高らかに宣言されている。あくまで主人公は「自分」なのだ。
その後の全面開花された欲望の前では、もはや中島みゆきが描いていたような「自分の感情を内面に押さえ込む」ことは必要ないのだろう。倖田來未が歌い上げる世界では、欲望とそれを堪能する姿が現われる。求めること。楽しむこと。堪能すること。そうした「ハレ」に満ちた世界。それが現在のあり方だとするならば、もはや中島みゆきが歌いあげていた世界、社会の関係性を維持するために自らを犠牲にして愛しい人の幸せを祈るといった価値観は必要とされていないのだろう。
かってはユーミンが軽やかに歌った世界と中島みゆきの情念の世界とは対比的に存在していた。しかしそれは、もしかしたら同じような時代の感性を背景としつつ、それへの反発・克服と共感という表裏の存在だったのかもしれない。しかし今、女性を取り巻く環境や女性自身の心性のあり方が変わってしまった。時には相手の幸せよりも自らの幸福をもとめ、あるいは相手のことを想いつつもその表現の仕方はかってのような「暗さ」はない。
ユーミンも中島みゆきもともに一線から退くことになったのだろう。
ファイト 中島みゆき
糸 中島みゆき
重き荷を負いて 中島みゆき
銀の龍の背に乗って 中島みゆき
地上の星 中島みゆき
まさしく男をどぶん自身で捨て歩く強い女が書かれています。就職難の現今ではむしろ学生は年配の人が感じるよりもはるかに真摯な学生も多いと聞きます。
TOKIOへの楽曲提供ですが、
宙船なども若い世代に支持されています。
中嶋みゆきが一線から引いているとは思えません。
むしろ未だに第一線で活動している稀有な存在だと思っています。
ちなみに2,30年前もコインロッカーベビーなど
育児放棄した女性が問題になってあり、
敢えて言えば今と大きく状況は変わっていないと思われますが・・・。
ドリカム以降の「恋する自分が好き女」には
あまり支持されなくても納得できる
みゆきの歌詞に出てくる女たちは
恋に愛に振り回されてボロボロになっている事が多い
どんなに恋愛しても自分を捨てられない自分が一番大事
今はそういう女が主流なのではないかと思う