wikiのような「あり方」は、結局のところ、これまでのように「情報」や「知」を発信する側と受ける側とを分ける、そしてそこに必然的に発生するのであろう発信者側の「権威」というものをなし崩しにしてしまう。こういう「あり方」、つまり市民が情報の発信主体化するというものはインターネット黎明期から言われてきたことだけど、ここにきてこうした流れが既存の権威(マスメディアやアカデミックなど)を揺らしかねない「流れ」になってきたということか。
wiki--集団による編集が変える報道のあり方
発信者側が「権威」を持つことそのものは決して悪いことではない。その権威によって、(表/裏を問わず)より多くの情報源にアクセスでき、適切な情報を提供できることもあるし、その筋の専門家が専門的な観点から物事を分析するというのは一般の個人では難しい。また先の総選挙のように、大衆はムードに流されやすく、また「多数者の専制」によって少数意見が黙殺される可能性も高く、バランスのとれた適切な意見を発信できないという不安もある。エリート主義はそれゆえのメリットというものもあるのだ。
ただ、今、多くの人がマスメディアや学者、エコノミストなどといった「権威」ある発信者側の意見に対して不信感を持っているのは、責任をもった情報発信がなされていない、都合のいい情報しか発信されていない、市民の感覚とずれた意見が発信されている、不正な情報が発信されているといった印象があるからだろう。何か「不透明」なのだ。
特にあらゆるも利害関係が複雑に絡み合い、知識や技術が専門化し過ぎ、24時間リアルタイムに世界各国で状況が変化するという世界においては、「権威」あるメディアや解説者といえども「神」のように全てを見通しているものなどいない。そうした状況もあって、特定の誰かの意見を聞くというのではなく、多数者の意見や情報を交流させることでより「適切」な意見を導き出せるのではないか、というのが現在の流れなのだろう。
こうした状況の変化に伴い、受け手としての市民にとっても新しい「感覚」が求められるだろう。
1つ目は、こうしたオープンソース系、あるいはBLOGや2チャンネルなどを含めたネット系の情報を絶対的に「正しい」情報としてみるのではなく、複数の情報源から「適切」な情報は何かを判断するバランス感覚だ。
これは何も今に始まったわけではないし、これまでも産経新聞と朝日新聞を並べて読み比べれば、(特に朝鮮半島に絡む記事や社説など)かなり書き方が違っている。ただそうは言っても「権威」あるメディアとしてあまりにも過激な意見や「裏」の取れない記事、その他利害関係などもあって、発せられる情報についてはある種の規制がかかっているが、これがネットの場合、妄想や願望から事実まで玉石混交の状態となり、しかも視聴者からはアクセサビリティに「リアル」な世界ほどの差は存在しない。
ちょうど茂木健一郎さんが「「脳」整理法」の中で「ディタッチメント」の大切さを説かれていたが、ある意味、そういうスタンスとも近いのだろう。この「ディタッチメント」というのは、仮に何かに対して自分の意見があったとしても、それにこだわりすぎるのではなく、ちょっと距離を置き、客観的に観察する態度のことだ。まぁ、エポケーといってもいいのではないかと思う。実際、物事というのは多面的な要素を抱えており、1つの意見とは特定の切り口に他ならない。立場や見方が変われば意見が変わるのは当たり前なのだ。
予断だけれど、このブログの冒頭に「日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。」と書いているのだけれど、基本的にはこういう態度を示している。ここに書かれているのが、正しいわけでなく、ただの断片、つまり1つの切り口に過ぎないのだ。
そしてもう1つ求められる感覚。特定の誰かの意見をネットで目にした時、その意見が必ずしもその特定の人の現在の意見とは限らない、という意識だ。例えば特定の記事について「変更履歴」を残すということが必要なように、ネットのツールを使った場合、情報の発信というのはこれまでのメディアに比べ数段容易に発信できる。逆に言うと、これまでの「権威」あるメディアであれば、ある程度の「責任」を持ち、内容の確認などを行っていたのであろうが、(無責任な)市民がその場の感覚で容易に発信してしまえるのであり、またその内容に対して容易に修正や変更(転向)してしまえるのだ。ましてBLOGのような形式の場合、特定の日に書かれた記事を蓄積されていくことになるのだけれど、検索エンジンなどでそのBLOGの特定のページにアクセスしてきた場合、その前後の意見などは見えないままその記事を目にすることになる。
仮に今、かってはAに賛成しているが、今はAではなくBに賛成しているという意見だったとしても、検索エンジン経由でそのサイトを見た人は「Aに賛成」という記事だけを見て、この人はAに賛成しているととってしまう可能性がある。
インターネットの世界では、時間の感覚が「あいまい」になりやすく、それゆえこの意見や情報がいつ時点のものであるかが不明確になる。そのことを意識する必要があるのだ。
これからの時代というのは、市民が情報発信者になれると同時に、受信者としても一方的に与えられた情報だけを信じる存在から、自らバランスよく判断できる人間になる必要があるのだろう。
Wikipedia問題と「正しさ」の程度を見抜くセンス
wiki--集団による編集が変える報道のあり方
発信者側が「権威」を持つことそのものは決して悪いことではない。その権威によって、(表/裏を問わず)より多くの情報源にアクセスでき、適切な情報を提供できることもあるし、その筋の専門家が専門的な観点から物事を分析するというのは一般の個人では難しい。また先の総選挙のように、大衆はムードに流されやすく、また「多数者の専制」によって少数意見が黙殺される可能性も高く、バランスのとれた適切な意見を発信できないという不安もある。エリート主義はそれゆえのメリットというものもあるのだ。
ただ、今、多くの人がマスメディアや学者、エコノミストなどといった「権威」ある発信者側の意見に対して不信感を持っているのは、責任をもった情報発信がなされていない、都合のいい情報しか発信されていない、市民の感覚とずれた意見が発信されている、不正な情報が発信されているといった印象があるからだろう。何か「不透明」なのだ。
特にあらゆるも利害関係が複雑に絡み合い、知識や技術が専門化し過ぎ、24時間リアルタイムに世界各国で状況が変化するという世界においては、「権威」あるメディアや解説者といえども「神」のように全てを見通しているものなどいない。そうした状況もあって、特定の誰かの意見を聞くというのではなく、多数者の意見や情報を交流させることでより「適切」な意見を導き出せるのではないか、というのが現在の流れなのだろう。
こうした状況の変化に伴い、受け手としての市民にとっても新しい「感覚」が求められるだろう。
1つ目は、こうしたオープンソース系、あるいはBLOGや2チャンネルなどを含めたネット系の情報を絶対的に「正しい」情報としてみるのではなく、複数の情報源から「適切」な情報は何かを判断するバランス感覚だ。
これは何も今に始まったわけではないし、これまでも産経新聞と朝日新聞を並べて読み比べれば、(特に朝鮮半島に絡む記事や社説など)かなり書き方が違っている。ただそうは言っても「権威」あるメディアとしてあまりにも過激な意見や「裏」の取れない記事、その他利害関係などもあって、発せられる情報についてはある種の規制がかかっているが、これがネットの場合、妄想や願望から事実まで玉石混交の状態となり、しかも視聴者からはアクセサビリティに「リアル」な世界ほどの差は存在しない。
ちょうど茂木健一郎さんが「「脳」整理法」の中で「ディタッチメント」の大切さを説かれていたが、ある意味、そういうスタンスとも近いのだろう。この「ディタッチメント」というのは、仮に何かに対して自分の意見があったとしても、それにこだわりすぎるのではなく、ちょっと距離を置き、客観的に観察する態度のことだ。まぁ、エポケーといってもいいのではないかと思う。実際、物事というのは多面的な要素を抱えており、1つの意見とは特定の切り口に他ならない。立場や見方が変われば意見が変わるのは当たり前なのだ。
予断だけれど、このブログの冒頭に「日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。」と書いているのだけれど、基本的にはこういう態度を示している。ここに書かれているのが、正しいわけでなく、ただの断片、つまり1つの切り口に過ぎないのだ。
そしてもう1つ求められる感覚。特定の誰かの意見をネットで目にした時、その意見が必ずしもその特定の人の現在の意見とは限らない、という意識だ。例えば特定の記事について「変更履歴」を残すということが必要なように、ネットのツールを使った場合、情報の発信というのはこれまでのメディアに比べ数段容易に発信できる。逆に言うと、これまでの「権威」あるメディアであれば、ある程度の「責任」を持ち、内容の確認などを行っていたのであろうが、(無責任な)市民がその場の感覚で容易に発信してしまえるのであり、またその内容に対して容易に修正や変更(転向)してしまえるのだ。ましてBLOGのような形式の場合、特定の日に書かれた記事を蓄積されていくことになるのだけれど、検索エンジンなどでそのBLOGの特定のページにアクセスしてきた場合、その前後の意見などは見えないままその記事を目にすることになる。
仮に今、かってはAに賛成しているが、今はAではなくBに賛成しているという意見だったとしても、検索エンジン経由でそのサイトを見た人は「Aに賛成」という記事だけを見て、この人はAに賛成しているととってしまう可能性がある。
インターネットの世界では、時間の感覚が「あいまい」になりやすく、それゆえこの意見や情報がいつ時点のものであるかが不明確になる。そのことを意識する必要があるのだ。
これからの時代というのは、市民が情報発信者になれると同時に、受信者としても一方的に与えられた情報だけを信じる存在から、自らバランスよく判断できる人間になる必要があるのだろう。
Wikipedia問題と「正しさ」の程度を見抜くセンス
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