ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

アバター3D:ジェームズ・キャメロンは宮崎駿の思想を超えられるか

2010年01月25日 | 映画♪
構想14年、製作4年、「ターミネーター」「タイタニック」など幾つものハリウッド大作をヒットさせたジェームズ・キャメロンが仕掛けた本格的3D映画。やはりこれは映画館で見なければならないだろうう。ストーリー上の仕掛けもよく出来ている。脚を負傷した人間が仮想状況で完全な身体を獲得する、外見が全く異なるナヴィの人々との交流を図るためにナヴィと人間のDNAを組み合わせたアバターを登場させる、などなど。アメリカでは3D映像の美しさに惹かれるあまり、見終わった後で欝状態になる人もいたとか。


【予告編】
映画「アバター」予告編



【あらすじ】

元海兵隊員のジェイクは、遥か彼方の衛星パンドラで実行される“アバター・プログラム”への参加を要請された。パンドラの住人と人間の遺伝子から造られた肉体に意識を送り込むことで、息をのむほどに美しいその星に入り込むことができるのだ。そこで様ざまな発見と思いがけない愛を経験した彼は、やがて一つの文明を救うための戦いに身を投じていく…。(「goo 映画」より)

【レビュー】

ストーリー以上に3D映像やCG合成映像の出来を楽しむための映画だろうということで、ストーリーに期待していなかったのだけれど、2時間以上の作品だった割に退屈することもなく、思った以上に楽しめた。3D映画としてのインパクトは、初めて「ジェラシック・パーク」のCGを見たときのようにインパクトがある。

ただメガネをかけている人間にはちょっとあの「3Dメガネ」はつらいかもしれない。途中でズレ落ちてくるのでしょっちゅう直さねばならないし、可能であればコンタクトで行くべきだろう。また視野の中にスクリーンが収まってしまうと、その端で3Dの迫力が切れてしまうことになりかねない。真ん中から前方の座席の方がいいかもしれない。あと、映画館の設備によって迫力が違うようなので、その辺りの情報は事前に調べておく必要がある。もっとも、映画館のHPを見ていてもそこまでの情報公開がなされていなかったりするのだけど。

3Dの迫力は凄かったのだけど、やはりいくつか難点もある。機体や自然の風景の奥行きを出すのには非常に効果的だったけれど、人やナヴィが中間地点に立ったりすると、人物と風景とに微妙に違和感を感じることがある。また通常の映像以上に撮影者の焦点を強制されることになる。このあたりは今後の課題ということなのか。

肝心のストーリーはというと…ジェームスキャメロン曰く、SF版「ダンス・ウィズ・ウルヴス」とのことだけれど、日本人からするとやっぱり西洋の人間は宮崎駿にはなれないんだなぁ、という印象が強い。

ナヴィの人々は、パンドラの森を通じてその生命の輪廻の中に生きている。そこでは「獣」は捕食の対象として存在しているだけでなく、生命の輪廻の一部として存在する。だからこそ例えそれが獣だったとしても必要のない殺戮は慎まれるべきことだし、それが食料として必要だったとしても別の生命の一部として生き続けると考え、そのための感謝の念、祈りを捧げる。

そして(自身も含めて)パンドラに生きる全ての生命体がそうした「生命の輪廻」「パンドラとしてのエコ・システム」の一部だと捉えているからこそ、仮に争いがあったとしてもパンドラはどちらかの味方をしないと考えている。

ジェイクはそうしたナヴィの人々と触れ合うことになる。はじめは失った脚を獲得した喜びや職務意識だったかもしれないが、やがてパンドラの自然やナヴィの人々の生活に魅せられ、部族長の娘・ネイティリに恋をし、ナビィの人々の考えに惹かれていく。それはジェイクが帰属していた世界、「科学」や「文明」を持つ社会の論理とは相容れないものだ。アンオブタニウムの採掘活動のために強硬論が高まる中、ジェイクの1つの判断をくだす…

こうした設定は、まさに宮崎駿の十八番といってもいいだろう。文明社会と自然と生きる人々の対立。「ナウシカ」では文明社会・トルメキアと風の谷の人々との対立がそうであり、「もののけ姫」ではタタラ場のエボシとシシ神の森のモロやサンとの対立がそうだろう。

トルメキアは、それが自然の回復過程であるにも関わらず、自らの存続を危うくする存在だとして「腐海」を焼き払おうと考えた。そこにあるのは自分たちを中心とみなし、「自然」とは「文明」の力によって克服されるべき存在という考えに他ならない。自分たちもまた地球という「エコ・システム」の一部に他ならないという考えは無い。

タタラ場のエボシもまた文明によって自らの生存を確かなものにしようと、自然を克服しようとする。彼女は決して単なる自然の破壊者ではなく、「文明」によって人間の平等や女性の解放を目指すというヒューマニズムの体現者でもあった。しかしそれはあくまで「人間」中心主義だ。自然との共生を求めているわけではない。


「アバター」では「アイワ」-パンドラという生命体の中核であり神経ネットワーク-の意味することを理解できないスカイ・ピープルが、ナヴィたちを「野蛮人」として強奪と迫害の対象と考えた。そうした「略奪する文明」という状況に対して、「ナウシカ」ではナウシカ自らが自身の命をかけて「腐海」の意味するところを説き争いを治めようとし、「もののけ姫」ではアシタカが両者の共存の道を説こうとした。それに対し「アバター」のジェイクがしたことは何だっただろうか。

確かに「アンオブタニウム」採掘のためにいきなり侵攻してきたスカイ・ピーブルに対して、ナヴィの人々が反攻に出ようとするのはわかる。しかしその兵力差を知っていたのであれば、また本当にナビィの人々の思想、パンドラというエコ・システムの意味を理解していたのであれば、ジェイクのすべきことは共存の調停役だったのだろう。

それが困難な状況だったとはいえ、スカイ・ピープルと同様、「力の論理」―他の部族を集め地の利を活かして戦おうなどと言わせてしまうところに、宮崎駿とジェームズ・キャメロンの根本的な違いがある。結局のところ、ジェイクの中には「共生の思想」などなかったのだ。

3Dアクションとしての面白さ、迫力、カタルシス…これはこれで分かりやすい結末ではあった。しかし結局は、「力」でスカイ・ピープルを追い出しただけであってパンドラの「平和」が約束されたわけではない。ハリウッド映画の描く「平和」とは、つまり現在のアメリカの目指す「平和」とは、結局は力で相手を制する「覇権主義」でしかないのだろう。

もののけ姫 : 「ナウシカ」という理想の喪失と宮崎駿がたどり着いた地平 - ビールを飲みながら考えてみた…



【評価】
総合:★★★☆☆
映画館でしか楽しめない3Dの凄さ!:★★★★★
この中途半端な共生思想は、、、:★☆☆☆☆

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6 コメント

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Unknown (Unknown)
2010-04-04 03:18:04
というか、欧米は基本的に略奪することで成立して来た文明だよね
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Unknown (beer)
2010-04-07 19:50:52
ジェームズキャメロンはこの映画で欧米的な価値観(スカイピーブル)とは違う価値観(ナヴィ)を提示・肯定していたわけで、その上でこの映画のこの結末を語るのであれば、「多文化社会でも欧米的な価値観こそ正しいのだ」ととるか、「ジェームズキャメロンも欧米的価値観から抜け出せなかった」とみるかなのでしょう。
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Unknown (Unknown)
2010-10-19 20:40:26
この意見は私独自の物ではなく、人さまのコメントを借りて書き込んでいます。
曰く、「アバター」も「ナウシカ」「もののけ姫」も「結局はフィクションである」という所が重要なんだそうです。
「アニメ」も「漫画」も「映画」も、結局は人類が作りだした紛い物(フィクション)であり、「腐海」も「パンドラ」も、本物の自然を切り取って我々自身が観察しているわけではありません。自然環境から生まれてきた我々には、そんな事は不可能だからです。
ナウシカの原作はご覧になりましたか?
アニメ版でエコシステムとして描かれた「腐海」も「王蟲」も、結局は「巨神兵」同様、人類が作りだした物で、最終的にナウシカ達はそれから決別する事を選択します。
真の自然環境とはカオスであり、我々人類とて、そのカオスの中から偶発的に産まれて来たにすぎません。
そんな我々が幾ら頭をひねったって、本当の意味での自然を描く事は不可能なのです。
つまりエコ主義であると言われる宮崎監督は、実はコチコチの現実主義者であるというわけです。
これは「アバター」においても同様です。
終盤「アバター」を操る主人公と、「AMPスーツ」を操る大佐が対照的に描かれますが、ここにメタ的表現が含まれています。
「アバター」も「AMPスーツ」も結局は人造の物で、主人公達はその力を使って争っているだけです。
そして「アバター」も、やはり単なるフィクションです。
キャメロン監督が宮崎監督へのオマージュとして「アバター」を撮ったのであれば、合点がいきます。
あの映画は「エコ映画」への皮肉そのものなんです。
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Unknown (beer)
2010-10-19 23:28:15
「可能性」としての批評としては面白いと思うんですが、「作品」そのもののに対する批評としてはどうでしょう?ちょっと無理を感じますね。
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Unknown (Unknown)
2011-12-24 06:36:09
うがち過ぎな見方もどうかと思います。
先進的なアメリカ人のエコ認識でいいんでないでしょうか。宮崎と対比しても意味無いのでは。
交渉で解決しなかった場合どうするか、チカラを行使した後どうするか、そこまで映画で描けるほど私達は賢くありません。
宮崎は宮崎なりの感性をもって結末をまとめ、キャメロンも彼の感性をもってまとめた。それでいいのではないでしょうか。
強いて評価するなら、アメリカ発ミームから、あえて距離を取ったキャメロンの姿勢=宮崎へのシンパシーを酌み取るだけで良しとすべきでしょう。
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Unknown (Unknown)
2012-02-17 21:11:58
現実主義なだけじゃないか?
たった一人で何が出来るか
ご都合主義や結果の伴わない自己満足を極力排除した結果だと思うよ
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