ビルや建築物を見るのが好きだ。日建設計なんかがデザインしたビルだと面白みもないが、それなりの建築家が設計したビルの場合、その建築家の思想性や問題意識がデザインに反映されることになる。それは利便性や機能性とは必ずしも合致しないかもしれない。とは言え明確な意思をもったその姿はその存在だけで刺激的だ。それは何も1つのビルだけでなく、都市の設計においても同様だろう。
そんなわけで大型再開発が続く東京を舞台とした「新・都市論TOKYO」を読む。東京の5つの再開発地を歩きながら、高度成長期を経て成熟社会へと到った現代の都市開発が抱えた課題が描かれている。
新・都市論TOKYO (集英社新書)/隈研吾,清野由美
![](http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0426-b/0426.jpg)
都市開発の手法はいくつかのやり方に分類できる。1960年代にブラジルの新都市ブラジリアが誕生したように、何もない原野に0から都市全体をデザインする「オーバーオール型」。既存の都市の一部をごっそり建て直す「再開発型」。特定の地区にルールを定め、長期的な展望にたち、統一的な都市景観を作っていく「規制型」など。
とはいえ規制型がうまく機能するためには2つの条件が必要であった。1つは都市の構成要素である建築デザインや素材について選択の余地がないこと。もう1つは社会全体のリズムだ。そして現代とはこれら2つの条件が満たされにくい時代なのだ。
例えば江戸時代であれば木で柱を建てせいぜい壁や塀を白壁にするかくらいしか選択肢はなかっただろうが、現在はありとあらゆる素材があり各々のデザイナーやオーナーが(規制の範囲内で)自由に建築することが許されている。少なくとも自由社会・資本主義社会である以上、多様性や自由は推奨されており、それは都市開発においても同様だ。その結果、個々の建築物は個性的になったかもしれないが都市全体の統一性・街並みといったものは維持されにくい。
また更新のテンポが早い高度成長期には人々は自分のことで忙しく、成熟した現代では都市の更新がされないが故に、規制型の都市開発は実効性を持たなくなった。
そしてそんな時代に主流となったのが「テーマパーク型」と呼ばれる手法だ。
自由・平等という近代社会の原理は、都市を「連続的」なものから「粒子」へと変質した。そして都市そのものが魅力を失い空虚になってしまうと、それを埋めるために「テーマパーク」というフェイク・タウンを発明することになる。それは何もディズニーランドのようなものだけではない。日本に限っても、福岡キャナルシティやカレッタ汐留、六本木ヒルズ低層部の商業施設など、華やかな視覚体験、非日常性、ハレの演出を施すことになる。これは何故か。
成熟化した現代、都市間競争が叫ばれる現代において、用地の買収から環境負荷の補填まで高額な投資が必要となる。それら資金の調達のために、また高額な投資の回収のために、テーマパーク型の都市開発ではより巨大に、より高密度に、より派手な仕掛けにならざろうえない。
しかも巨大プロジェクトとして多くの(投資家や関係者の)支持を得るためには優れたデザインである以上にデザイナーのブランド力・知名度が求められ、結果、世界中のビックプロジェクトに同じデザイナーがかりだされ、周囲との調和のない、どこかで見たような建物が出来上がるという事態となる。
巨大プロジェクトであるがゆえの転倒。巨大な計画はより巨大な開発を招き、その結果、周囲から閉じた、どこにでもある都市が出来上がる…
こうした高度資本主義社会に組み入れられた「テーマパーク」以外のアプローチはないのだろうか。隈研吾氏はその可能性として「逆向きの都市計画」を提唱する。これまでの「お上」からの規制や資本に頼ることなく、直接自らの生活をデザインする、その場に生きる住人の「リアリティ」こそが目標とならねばならないのだと。そしてこの著作はその試行錯誤の一歩だと。
この著作自体は、これ以降に記された都市を歩きながら、散文的に都市の様相について書かれているだけで明確な論旨があるわけではない。
とはいえ、実際にその都市を歩いてみたいなという思いとともに感じたのが、結局、都市開発という分野については「まだ」ITにおけるようなチープ革命という事象が起きてはいないのだなぁということ。
市場に溢れている巨額な資本を呼び込みより大きなリターンを作り出すという「規模の経済」的な発想を前提にする限り、このような事態は避けられないかもしれない。
しかし現在の日本というのが、経済的には成熟し、かつ高齢化・少子化社会ということでGDPや国内総支出が大きく伸びることは考えにくい。つまりどこかの都市が勝てばどこかの都市が衰退するゼロサムゲームだろう。
その都市内・商圏内の活性化を目的とするのであれば、過剰なまでの投資は回収見込みが少なくなる。また他の都市と競争するにしても、「規模」の競争は「規模」の競争しか呼び込まない。他の都市との差別化を図るのは「規模」ではなくその都市の「個性」しかない。
インターネットが実現したように、ターゲットを絞る、特定のセグメントを中心にその周縁をターゲットととするといった発想、本来的にその土地がもっている力を活用するという戦略が機能するのであれば、「規模の経済」に基づいた都市開発像自体を変えられるのではないだろうか。
各都市の詳細についてはWEBで読むことができます。
→「新・都市論WEB」
![](http://rcm-images.amazon.com/images/I/31gBzmMDLUL._SL100_.jpg)
新・都市論TOKYO (集英社新書)/隈研吾,清野由美
■汐留
■丸の内
■六本木ヒルズ
■代官山
■町田
そんなわけで大型再開発が続く東京を舞台とした「新・都市論TOKYO」を読む。東京の5つの再開発地を歩きながら、高度成長期を経て成熟社会へと到った現代の都市開発が抱えた課題が描かれている。
新・都市論TOKYO (集英社新書)/隈研吾,清野由美
![](http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0426-b/0426.jpg)
都市開発の手法はいくつかのやり方に分類できる。1960年代にブラジルの新都市ブラジリアが誕生したように、何もない原野に0から都市全体をデザインする「オーバーオール型」。既存の都市の一部をごっそり建て直す「再開発型」。特定の地区にルールを定め、長期的な展望にたち、統一的な都市景観を作っていく「規制型」など。
とはいえ規制型がうまく機能するためには2つの条件が必要であった。1つは都市の構成要素である建築デザインや素材について選択の余地がないこと。もう1つは社会全体のリズムだ。そして現代とはこれら2つの条件が満たされにくい時代なのだ。
例えば江戸時代であれば木で柱を建てせいぜい壁や塀を白壁にするかくらいしか選択肢はなかっただろうが、現在はありとあらゆる素材があり各々のデザイナーやオーナーが(規制の範囲内で)自由に建築することが許されている。少なくとも自由社会・資本主義社会である以上、多様性や自由は推奨されており、それは都市開発においても同様だ。その結果、個々の建築物は個性的になったかもしれないが都市全体の統一性・街並みといったものは維持されにくい。
また更新のテンポが早い高度成長期には人々は自分のことで忙しく、成熟した現代では都市の更新がされないが故に、規制型の都市開発は実効性を持たなくなった。
そしてそんな時代に主流となったのが「テーマパーク型」と呼ばれる手法だ。
自由・平等という近代社会の原理は、都市を「連続的」なものから「粒子」へと変質した。そして都市そのものが魅力を失い空虚になってしまうと、それを埋めるために「テーマパーク」というフェイク・タウンを発明することになる。それは何もディズニーランドのようなものだけではない。日本に限っても、福岡キャナルシティやカレッタ汐留、六本木ヒルズ低層部の商業施設など、華やかな視覚体験、非日常性、ハレの演出を施すことになる。これは何故か。
成熟化した現代、都市間競争が叫ばれる現代において、用地の買収から環境負荷の補填まで高額な投資が必要となる。それら資金の調達のために、また高額な投資の回収のために、テーマパーク型の都市開発ではより巨大に、より高密度に、より派手な仕掛けにならざろうえない。
しかも巨大プロジェクトとして多くの(投資家や関係者の)支持を得るためには優れたデザインである以上にデザイナーのブランド力・知名度が求められ、結果、世界中のビックプロジェクトに同じデザイナーがかりだされ、周囲との調和のない、どこかで見たような建物が出来上がるという事態となる。
巨大プロジェクトであるがゆえの転倒。巨大な計画はより巨大な開発を招き、その結果、周囲から閉じた、どこにでもある都市が出来上がる…
こうした高度資本主義社会に組み入れられた「テーマパーク」以外のアプローチはないのだろうか。隈研吾氏はその可能性として「逆向きの都市計画」を提唱する。これまでの「お上」からの規制や資本に頼ることなく、直接自らの生活をデザインする、その場に生きる住人の「リアリティ」こそが目標とならねばならないのだと。そしてこの著作はその試行錯誤の一歩だと。
この著作自体は、これ以降に記された都市を歩きながら、散文的に都市の様相について書かれているだけで明確な論旨があるわけではない。
とはいえ、実際にその都市を歩いてみたいなという思いとともに感じたのが、結局、都市開発という分野については「まだ」ITにおけるようなチープ革命という事象が起きてはいないのだなぁということ。
市場に溢れている巨額な資本を呼び込みより大きなリターンを作り出すという「規模の経済」的な発想を前提にする限り、このような事態は避けられないかもしれない。
しかし現在の日本というのが、経済的には成熟し、かつ高齢化・少子化社会ということでGDPや国内総支出が大きく伸びることは考えにくい。つまりどこかの都市が勝てばどこかの都市が衰退するゼロサムゲームだろう。
その都市内・商圏内の活性化を目的とするのであれば、過剰なまでの投資は回収見込みが少なくなる。また他の都市と競争するにしても、「規模」の競争は「規模」の競争しか呼び込まない。他の都市との差別化を図るのは「規模」ではなくその都市の「個性」しかない。
インターネットが実現したように、ターゲットを絞る、特定のセグメントを中心にその周縁をターゲットととするといった発想、本来的にその土地がもっている力を活用するという戦略が機能するのであれば、「規模の経済」に基づいた都市開発像自体を変えられるのではないだろうか。
各都市の詳細についてはWEBで読むことができます。
→「新・都市論WEB」
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新・都市論TOKYO (集英社新書)/隈研吾,清野由美
■汐留
■丸の内
■六本木ヒルズ
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それでも4マンくれたょーヽ( ・∀・)ノ
これの同盟作ろうかなww
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