米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ

2010-08-25 05:33:47 | 作曲家の生涯





1860年11月6日ポドリアのクラウフカ生、1941年ニューヨーク没



ポーランドのピアニスト、作曲家、政治家



ショパンの楽譜を買ってもらう時、



「コルトー版にして。」とか



「パデレフスキ版で。」



などと、楽譜を指定することがよくあります。



パデレフスキは、ポーランドを代表する、ピアニストで、作曲家でもありましたが、



初代ポーランド大統領でもあるのです。



彼は、ある意味、スーパースターだったとも言えるでしょう。



裕福な家柄に生まれたパデレフスキでしたが、生まれて間もなく母親は亡くなりました。



そういう意味では、何事も欠けたところのない幸福・・・というより、孤独も感じていたのではないでしょうか?



しかし、幼い頃から、音楽の才能を認められ、高名な音楽教師を家庭教師として雇い、



次いで12歳の時には、ワルシャワ音楽院に学ぶこととなりました。



多くの著名な教師から、ピアノ、音楽理論、和声、対位法などを学び、



18歳でここを卒業するとともに、同音楽院のピアノ科の教師になりました。



その後も、作曲、ピアノの研鑚を積み、当時の高名なピアノ教師レシェティツキーのもとで、



ピアノを学び続けました。



レシェティツキーは、パデレフスキの奏法に技術的な根の深い問題が多すぎるのを見て、



ピアニストの道を断念するように助言しましたが、1年間ストラスブール音楽院で教師を務める傍ら、



熱心に練習を積み、再びレシェティツキーに師事することが許されました。



パデレフスキは、自身のピアニスト生活は1888年ウィーンがデビューの地であるとみなしていましたが、



1883年パリで最初の演奏会をした時から、すでに巨匠への階段を昇り始めていました。



世界中で殺人的な演奏会スケジュールをこなす傍ら、夏休みには1889年以来永住の地となった



スイスのモルジュ市にある、ヴィラ・リオン‐ボソンで作曲にも没頭しました。



第1次世界大戦勃発後、彼はポーランド国民の為に、援助委員会や救済基金を設立しました。



同時にアメリカ合衆国を中心とした演奏活動を行い、ポーランド独立を訴えました。



1918~21年には、一時演奏・作曲活動を中止し、政治活動に専念しました。



1919年、独立を回復したポーランド共和国の首相兼外相に就任し、



国を代表してヴェルサイユ条約に署名しています。



1922年には、再び演奏活動と夏期講座の教授活動に復帰しました。



また1936年にはイギリス映画「ムーンライト・ソナタ」にも出演しています。



1937年、新ショパン全集の編集に着手しましたが、実際に出版されたのは大2次大戦後となりました。



ナチのポーランド侵攻後は、アメリカに渡り祖国支援のための大々的なキャンペーンを行いましたが、



これが彼の最後の旅となりました。



彼はニューヨークで客死し、アーリントン国立墓地で国葬が行われました。



彼の演奏は、「レシェティツキー・タッチ」でしたが、時には華麗であるが、あまりに誇張され飾られ過ぎている・・・



と、批判もしています。



彼自身は、見かけの派手な効果以前に、楽譜に忠実な演奏解釈と、音楽感情の移入を心がけました。



その天分、音楽性、直感、たゆまぬ努力によって、彼は独自の演奏様式を作り上げました。



パデレフスキーのレパートリーの中心は、ショパン、リストといったロマン派のものが中心ですが、



ほとんどすべてのリサイタルで、1曲目にベートーヴェンのソナタをおいたということです。



80年の彼の人生は、全く非の打ちようがないほど充実していますが、やるべき時に、全精力を傾け、



音楽活動だけでなく、政治にも大きな役割を果たし、素晴らしい人生を全うしたといえるでしょう。



しかし、それは彼のたゆまぬ努力の結果であり、正しい考えを持ち、現実に甘んじることなく、



常に誠心誠意、仕事をしてきた結果だと思うのです。



何気なく手にとっている、ショパンの楽譜ですが、このような素晴らしい仕事の結集とも言えるでしょう。







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ナディア・ブーランジェ

2010-01-26 05:38:19 | 作曲家の生涯



歴史の中には、興味深い生涯を送った女性が数多くいます。



ナディア・ブーランジェもその一人です。



唐突にこんな書き出しをして、何の話? と思われたかも知れません。



レッスンをしていたら、隣のレッスン室からアストル・ピアソラの曲が聴こえてきたので、



ふと、この事が書きたくなりました。



以前テレビで「ダニエル・バレンボイム、ピアソラを語る」という番組を見た事があります。



まず、生粋のクラシックのピアニストで、指揮者でもあるバレンボイムが、



なぜアルゼンチンタンゴのピアソラと接点があるのか驚きでした。



アストル・ピアソラはご存知の方も多いと思いますが、「リベルタンゴ」「アディオス・ノニーノ」



など、どこかで耳にした事のある名曲を残した人です。



これらの曲のファンの方も多いかも知れません。



波乱万丈の人生を送ったピアソラですが、彼の音楽を語る上で、ナディア・ブーランジェは欠かせない人なのです。



今でこそアルゼンチンタンゴと言えばピアソラの名前がまずあがってきますが、



ピアソラが若い頃その作品を発表した時は、それまでのアルゼンチンタンゴとは



かなり違うスタイルをとっていたので、故国では受け入れられませんでした。



タンゴを冒涜した…とまで言われたのです。



その後フランスへ渡り、しばらくの間この地で暮したのですが、その時師事したのがナディア・ブーランジェでした。



ナディアはピアソラの才能と音楽の方向性を見抜き、「あなたには、やるべき音楽がある」



と、彼の音楽を評価し、後押しをしました。



このナディア・ブーランジェと言う人に師事した音楽家は多岐にわたり、



主だった人を列挙しても、その多さと顔ぶれに驚かされます。



アーロン・コープランド、レナード・バーンスタイン、ダニエル・バレンボイム、キース・ジャレット、



クインシー・ジョーンズ、アストル・ピアソラetc.



こんなところでバレンボイムとピアソラに接点があったのです。



1887年にパリで生まれ、1979年にパリで没したナディアは、教師、指揮者、作曲家として活躍しましたが、



特に教育分野では多くの人に、多大な影響を与えました。



学生たちは、彼女が膨大な量の音楽を知り尽くしている事、たちどころに作品の欠点と長所を見抜く迅速さ、



芸術家という聖なる職業に対する彼女の敬意に感銘を受けたという事です。



キース・ジャレットのようなジャズ界の人やピアソラのような人、バーンスタインのような作曲家、指揮者、



バレンボイムのようなピアニスト、指揮者・・・驚くべき許容範囲です!



一般的には知ることのない人かも知れませんが、ナディア・ブーランジェという女性、



多くの素晴らしいアーティストを育てた偉大な教育者として、その魂が受け継がれてゆくことでしょう。



驚きと共に、憧れる素晴らしい女性です。











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ピアニスティックな音楽を追求したジョン・フィールド

2009-12-11 11:12:17 | 作曲家の生涯

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ジョン・フィールドの名前を知っている人は少ないかも知れません。

あるいは「ノクターン」の創始者として知っている人もあると思います。

しかし彼はベートーヴェンなどの作曲家が、オーケストラ的なピアノ曲を描いたのに対し、

純粋にピアニスティックな曲を書いた最初の人であるといえるでしょう。

彼がショパンらに強い影響を与えたこと、作曲家としてロマン派以降のピアノ音楽に

絶大な影響を与えたことなど、彼の功績は大きいのです。

ジョン・フィールドは1782年アイルランドの首都ダブリンに、音楽家の子として生まれました。

ジョンが並はずれた音楽の才能を示し始めると、厳しい音楽教育が始まりました。

9歳でその時師事していたジョルダーニの主宰する演奏会で、天才少年としてデビューしましたが、

程なくフィールド一家はイギリスのロンドンに移住することになり、ジョンは父親の意向で、

有名なクレメンティに弟子入りしました。

クレメンティは、大作曲家でもあり、実業家としてピアノを製造販売もしていました。

そして弟子たちにピアノを弾かせて、セールスマンのようなことをさせていましたが、

ジョン・フィールドもこの役割を務めることとなりました。

また、クレメンティの指導のもと活発に作曲をして、最初の大作「ピアノ協奏曲第一番」を発表しました。

1802年フィールド20歳の時、クレメンティに同行してパリ、ウィーンに行くことになりました。

パリでのフィールドの演奏会は大成功を収めました。

その後ウィーンへ立ち寄った後、クレメンティと共にぺテルスブルグまで旅行を続け,

クレメンティはそこでも教師として、実業家として大成功を収めました。

1803年クレメンティがこの地を去る時、フィールドはマルクロフスキー将軍を紹介され、

この家でゲストとして生活することになりました。

そしてぺテルスブルグでの最初の演奏会はセンセーションを巻き起こしました。

この時からずっと、生涯の大部分をロシアで過ごすことになりましたが、1832年までの間は、

私生活で多少の波乱はあったものの生涯で最も充実した時期でした。

やっと彼は自立し、富と名声を得て、貴族社会のアイドル的存在となったのです。

モスクワとぺテルスブルグ両都市で、ピアニスト、教師、作曲家として、正に王者のように君臨し、

ノクターン、ピアノ協奏曲を含む多くの曲を作曲しました。

フィールドの演奏を聴いた人の話から、その名声は西ヨーロッパ全域に広まり、ショパンをはじめ、

リスト、シューマン、クララ・ヴィークの父フリードリヒ・ヴィークなどがフィールドの崇拝者になりました。

フィールドはその当時一般的だった技巧的奏法とは全く異なるピアノ奏法を考案していました。

彼の弟子の言葉によると、「私はもちろん彼の作品の幾つかが大好きだが、

それ以上に彼の演奏の美しさは最高である。鍵盤のタッチの仕方、旋律の歌い方、

穏やかで絶妙な漂うようなスケールとパッセージ、解釈の高貴さ…」というような意見を残しています。

当時のピアノ製造会社が、常に音域と音量を増す工夫をし、ほとんどのピアニストがそのような工夫を利用し

どうしたらピアノを堂々とオーケストラ効果を持たせて劇的に弾けるかと熱心に研究している時、

フィールドはこれとは対照的に、心の奥底からの表現をするためにピアノの可能性を追求していきました。

1824~31年はモスクワに居を構えましたが、このころから健康を害してゆきました。

1832年には歴史的なパリ音楽院ホールでの演奏会が行われ、完成したばかりの

「協奏曲第七番」が初演され、ショパン、リスト、シューマンなど殆ど音楽家ばかりで満員の

聴衆に感銘を与えました。

その後ベルギー、スイスなどを経て、イタリーへ行き、ついにナポリで病に倒れて9カ月入院し、

何回かの手術も受けました。

この窮地を救ったのはロシア貴族のラフマーノフ一家で、モスクワに戻り、一時小康を得て

数曲の出版をしましたが、急に病状が悪化し、1837年55歳の生涯を閉じました。

彼が残した「ノクターン」というタイトルにたどり着くまでにはRomance,Serenade,Pasutorale

などと呼んでいましたが、1814年3つの夜想曲を出版した時に初めてNocturneという題を使うようになりました。

「ピアノのためのアリア」とでもいうべき独立したピアノ曲であり、これが「無言歌」「即興曲」「バラード」などの、

ロマン派ピアノ音楽への道を開いたものとして、音楽史上極めた重要な事実です。

フィールドが作り上げたピアノステイルは、ショパン、リストはもとより、ドビゥッシー、フォーレ、

また、直系のスクリアビン、ラフマニノフなどもこのフィールドの業績なくしては考えられない程重要なのです。

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多才に生きたムツィオ・クレメンティ

2009-10-05 07:45:58 | 作曲家の生涯

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画像がぼやけていますが、クレメンティの肖像画です。

1752年イタリアのローマに生まれ、1832年イギリスのロンドンから130キロの

イーヴシャムで没しました。

ソナチネを多く作曲した人という印象のクレメンティですが、

イタリア生まれのイギリスの作曲家、鍵盤楽器奏者、教師、楽譜出版者、

ピアノ製造者と、肩書は多岐にわたります。

80年の彼の人生がどのようなものだったのか、ひも解いてみたいと思います。

1752年1月23日に生まれたクレメンティは、父親が音楽好きだったことから、

幼い頃より、音楽教育を受け、9歳で教会オルガニストの試験に合格し、

13歳で生地ダマゾの聖ロレンツォ聖堂のオルガニストになりました。

その卓越した演奏が、イギリスの貴族ピーター・ベックフォードの目にとまり

イギリスに渡ることになりました。

ベッグフォードの言葉によると、「7年間の約束で買い取った」とされてます。

この7年間ベックフォードの意思で1日8時間クラヴィアの練習をすることが

仕事となっており、時には12~14時間かかることもあったということです。

この間、広大な書庫で音楽の知識のほか、フランス語、ドイツ語、ラテン語の

実力も独習で身につけました。

これは、後の事業をする上でも大きく役に立ちました。

1774年ベックフォードのもとを辞したクレメンティは、ロンドンに移り住みます。

1780年、その演奏や作品がヨーロッパ大陸でも評判になったことから、

パリに渡りました。

クレメンティは、マリー・アントワネットに招かれ、御前演奏をおこない好評を博しました。

1781年ウィーンのヨゼフ二世に招かれ、有名なモーツァルトとの協演の機会を

得ました。

クレメンティは、のちに弟子のベルガーに「私は彼ほど表情豊かで、感情のこもった

演奏を聴いたことがない。驚嘆と憧れをもって、すっかり聴き入った。」

また、「当時、自分は派手な指先の技巧ばかり追い求めてた。ところがのちに

イギリスのピアノが改良されてくるにつれ、レガートなカンタービレ奏法と

品位あるスタイルを習得するようになった。」とも語ったといいます。

これに反してモーツァルトは酷評を下していますが、後に自身の作品の中で

クレメンティの主要動機を借用していることから、無関心でなかったことを示していると

言えるでしょう。

1782年にピアノの弟子として知り合ったマリーとの、結婚を決意していましたが

マリーの父親の反対で2人の仲は引き裂かれました。

絶望したクレメンティは、一時は音楽も捨てようとしたほどでした。

やがて立直り、作曲や演奏活動もしていたクレメンティですが、

1791~92年、1794~95年ハイドンがイギリスに滞在したシーズンに

ロンドンっ子たちはハイドンの音楽に魅了され、クレメンティら幾人かの作曲家たちは

影が薄くなってしまいました。

この時期のクレメンティは、ピアノ教師として引っ張りだこで、高額な授業料でも

喜んで払う裕福な家柄の人々も多くいました。

また、職業演奏家の教師としても名高かったということです。

その後1798年以降、楽譜出版の経営者としても活躍します。

楽譜出版、楽器製造のほか、ピアノ教師としてもめざましく活躍し、「ピアノ奏法」

「実用和声」なども出版し、ピアノの近代奏法を反映する新しい内容を多く含んでいます。

1802年には弟子のジョン・フィールドを伴い大陸に渡りました。

各地で厚遇され、セント・ペテルブルクでフィールドはここに留まることになりました。

フィールドは初めてノクターンを作曲した人で、ショパンに影響を与えた作曲家でもあります。

1804年、33歳年下のカロリーネと結婚しますが、

難産がもとですぐに亡くなってしまいました。

また1807年ロンドンのピアノ会社が火災にあうという大打撃にもあいましたが、

これを克服し、会社は大いに繁栄しました。

1811年イギリス人エマ・ギスボーンと結婚し2男2女をもうけました。

1813年フィルハーモニック・ソサイエティの発足とともに、常任指揮者に任命され

1818年までその地位にありました。

彼はこのオーケストラのため、少なくとも6曲の交響曲を作曲しています。

1816年久し振りにイギリスを離れパリに渡り、彼の音楽教育の集大成いうべき

練習曲「グラドゥス・アド・パルナッスム」を出版する準備をしました。

この練習曲はツェルニーがリストを教える際にも用いられたことでも有名です。

その後も作曲者、指揮者、としても活躍を続け、ベートーヴェンの作品をはじめ

おもな出版社のほとんどと取引関係を持つなど、楽譜出版社としても成功を収めていました。

1825年から、最後のヨーロッパ旅行に出かけ、1827年バーデンに着いたとき

2ヶ月前にベートーヴェンが亡くなったことを知りました。

その年の12月帰国の際、盛大な歓迎会が催され、何十年ぶりに公開の席でピアノを弾き

少しも衰えをみせない輝かしい演奏技術に喝采の嵐が鳴りやまなかったということです。

1828年フィルハーモニック・ソサエティでの指揮を最後に引退し、

1830年には会社経営からも手を引き、家族とともにイーヴシャムに移り住み、

余生を送りました。

1832年3月に亡くなり、ウエストミンスター寺院での葬儀には多くの人が参列したという

ことです。

如何ですか?  この波乱万丈の人生!

作曲家として、ばかりでなく事業家としても大きな成功を収めていたことは驚きですね!

多くの人に影響を与え尊敬され、充分に人生を生き切った人と言えるのではないでしょうか?

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ブルグミュラーには天才な弟がいた?!

2009-10-02 07:21:11 | 作曲家の生涯

みんなが必ずと言っていいほど、レッスンで弾くことになるブルグミュラー。



ところが、相当詳しい音楽事典にもブルグミュラーはのっていないのです。



その代りお父さんと、弟はのっています。



お父さんはヨハン・アウグスト・フランツ・ブルグミュラーといい、1766年に生まれ



1826年に没しました。 



弟は、アウグスト・ヨーゼフ・ノルベルト・ブルグミュラーといい、1810年に生まれ



1836年に没しました。



ちなみに、モーツァルトは1756年、ベートーヴェンは1770年生まれなので、



お父さんは古典派のただなかに生まれたといえます。



また、ショパン、シューマンは1810年、メンデルスゾーンは1809年に生まれなので



弟ノルベルトは、同い年だったのです。



弟ノルベルトは父や兄に比べて評価が高く、



メンデルスゾーンらとの親交も厚かったようです。



しかし残念なことに、26歳の誕生日を迎えることなく、亡くなってしまいました。



独自の作曲スタイルを確立するには、あまりにも短い人生でした。



「シューベルトの早世以来の悲しみ」と、同時代の作曲家を嘆かせたということです。



みんなのよく知っているブルグミュラーは、ヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルグミュラー



といい、1806年ドイツに生まれ1874年フランスで亡くなりました。



そのころの社会情勢は、ヨーロッパも東へ行くにしたがって、遅れていました。



社会の成熟は、イギリスとフランスで進展し、



ベートーヴェンもイギリスへ渡りたいと望んでいましたが、叶えられませんでした。



ショパンはポーランドからパリへ出て、音楽家として自立することに成功しました。



ブルグミュラーもまた、パリに移ってからOP.100「25のやさしい練習曲」



OP.105「12の華麗で旋律的な練習曲」、OP.109「18の練習曲」



などを出版し、見事にパリ市民の音楽的な趣味に受け入られていきました。



ブルグミュラーは、ピアノ教師、作曲家として活躍しました。



若くして早世した弟ノルベルト。



パリ市民の趣味に合わせて、家庭で楽しむ音楽を作り続け、



自身も裕福に市民生活を送った兄ブルグミュラー。



ちょっと複雑な気持ちですが、現代の作曲家ギロックは、ブルグミュラーの



作品と功績を高く評価しています。



少しピアノが上達してきて、ちょっとした曲を弾きたくなったら、



やはりブルグミュラーは楽しいものです。



ショパンが生きたロマン派の時代の雰囲気を知る上でも、子供たちにとって



とても身近な作品であると言えるでしょう。



でも、もし弟ノベルトがもう少し長く生きることが出来たなら、



対照的な兄弟の作品を、聴いたり演奏することが出来たでしょう。



その生きざまが二人の兄弟の作風に、大きく影響しただろうと想像できます。





  



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うるわしのツェルニー様

2009-09-21 07:26:26 | 作曲家の生涯

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ちょっと敬遠されがちなツェルニー、こんな顔をしていた人だそうですョ。

1791年2月オーストリアのウィーンに生まれ、1857年ウィーンで没しました。

ベートーヴェンが1770年生まれ、ショパンが1810年生まれということは、

古典の時代から、ロマン派の時代を生きた重要な人物だということができます。

ベートーヴェンの弟子であり、リストの教師であったツェルニーは、

偉大な2人の巨匠をつなぐ、重要な役割をはたしたと言えます。

音楽家の家系に生まれた彼は、幼少のころから大変な才能を示し、3歳でピアノを弾き、

7歳になるまでには自分で作曲したものを楽譜に記し始め、10歳になるまでに素晴らしい

音楽的記憶力を示したそうです。やはり天才少年だったんですね。

子供のころは父親からピアノを学び、主にバッハ、モーツァルト、クレメンティー

の作品を練習していたということです。

10才頃父の友人の助力によってベートーヴェンに師事することになりました。

ベートーヴェンの奏法を学びながらも、モーツァルトやクレメンティーの作品の

様式の透明感や正確さにも、深く印象付けられました。

ベートーヴェンに学び、才能を発揮したツェルニーは、多くの仕事を成し遂げました。

また、ベートーヴェンの作品の解釈には特別な評価を得ており、そのピアノ曲はすべて

暗譜で演奏することができたということです。

おもに練習曲の作曲家という印象のツェルニーですが、交響曲やオペラなど、

多くの作品も残しています。

また多くの優秀な弟子を育てたツェルニーですが、始めにも書いたように、

その中にリストもいました。

当時大変な人気を得ていた大ピアニストのリストは、自分の「才能と、成功」は、

ツェルニーのおかげであると、のちのちまで大変感謝していたそうです。

そして、決まったようにツェルニーのソナタ第1番変イ長調op.7を演奏し、

師に捧げたということです。

余談ですが、若いころのリストの人気は大変なもので、ジャニーズにも負けないぐらい・・・

あまりの素敵さに失神する貴婦人の方も続出したそうです。

そして、ツェルニーは・・・とても温和で優しい人柄だったということです。

いかがですか?

ツェルニーの練習曲で苦戦している人も多いと思いますが、彼の成し遂げた

大きな仕事…今でも皆さんのテクニックの向上に大いに役立っていますよね\(^o^)/

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