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米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

マスメディアについて

2019-05-02 22:04:03 | おもうこと
マスメディアについて

時々マスメディア(新聞・TV等)に取り上げられる生徒さんもあり、それぞれのことですので各々皆さんにお任せはしているのですが…。

…??なこともありますので、捕捉させて頂きますね。

各々の子供たちが活躍させて頂いた背景には、それにご尽力下さった人や組織があり、うちの生徒さんばかりでなく、皆さんにチャンスがありますので、そういった意味でのお知らせはアリかな…と思い、取材を受けさせてもらったこともあります。



ただ・・・・“天才”、とか“日本一”、“世界一”などかんたんに言ってしまうのはどうかなぁ~とも思います
あとあと、先々のことを考えて、その子のことを本当に思うのであれば・・・大切に思うのであれば・・・安易に言えないことも沢山あります。


賢明な皆さまでしたら、ご理解頂けているとは思いますが、マスメディアはちょっと華やかに盛り上げる感じになりますので、その辺の表現の誤解無きよう、よろしくお願いいたします

以前、早朝のめ○○○TVの取材を受けたことがありました。
私がちょうどその時期に不在だったので、担当の方と随分メールのやりとりをしました。

とてもステキな質問でしたので丁寧にお答えしたのですが、“これが伝えたかったこと”…という内容でしたので、皆さんにも読んで頂ければと思います。
この取材では、Kちゃん・・・と、一人の子供さんについてお答えしていますが、全ての子供たちへの“想い”・・・と受け止めて頂いても良いと思います。
気持ちが伝われば嬉しいです

以下、め○○○テレビのIさんのご質問に答えて・・・です・・・

         

とても素敵な質問でしたので、おもわずたくさん書いてしまい、少々長い文章になってしまいました💧(それでも分かりにくいかも?)
ご容赦ください。


Q.1)Kちゃんはどんな演奏をする子?
…☆とても自然体です。ただただ音に耳を傾けて音と対話しているような感じです。
テクニックの優れたお子さんは他にもいくらでもいらっしゃいます。
Kちゃんも無くはありませんが、そうではなく、自分の言葉(音楽の…)で語っています。
他の人から言われた通りに弾く…というものでもなく…。
テクニックを超えたところに大切なものがあると思います。


Q.2)他の子にない、Kちゃんならではの演奏とは?
…☆誰かより上手く弾きたい、とか、勝ちたい、という気持ちが殆どないように思います。
比べようのないもの…そもそも音楽は人と競争するものではないので…。
たった1音に込められた“何か”…を、じっと聴ける子です。


Q.3)どうしてそのような演奏になる?
…☆音楽の中に入り、その世界で楽しんでいるのだと思います。心の中に何かしらのイメージ(風の音、木々の囁き、鳥のさえずりetc.…)を思い浮かべているのではないでしょうか?
たとえ本番前日でも、家族で海に遊びに行ったりして、普段の生活を大切にしている素敵なご家族です。
もちろん、練習をサボって…というのではなくするべきことはやっていますが、かといってそれだけに掛かりきりになり、勝つために必死で頑張る…みたいなことはありませんね。
それが自然体で弾けることの一つのヒントかも知れません。
産まれたときのエピソードは皆様お持ちだと思いますが、出産直後手術が必要な状況で産まれたのだそうです。だからこそ日常を大切にされているのかも知れません。


Q.4)Kちゃんにピアノの演奏で心掛けるよう教えていることは?
…☆音符の向こうに本当に大切なことがある。
楽譜や書籍は世界を開く魔法の扉で、鍵を持っているのは演奏する子どもたち。
字面(表面的な文字や音符)を追っているだけだと本質(心・魂を揺さぶるもの)には触れられない…と。
また、その時、夢中になっていることがあれば、ダンスでも昆虫採集でもどんどんやったらいいと思います。
子供の時に夢中になることがある事はとても素敵で大切なこと。
“遊ぶこと”…こそ子供の仕事。
音楽やピアノを通して人として育ってくれれば良いので…。
何かになるのではなく、その人がその人らしく成長してくれれば、“その人自身”になれるのだと思います。
音符を1音も読まなかったのにミュージシャンになっている子もいますし…^-^;
(さすがにクラシックは音符を読まないでは出来ないですが…)
一人ひとりの心の成長が大切なのかな…と。


Q.5)西野さんはなぜオーディション参加をすすめた?
☆…子供たち自身の心から感じるものを(拙くても良いから…)表現してもらうにはどうしたら良いか、と考えている時に、たまたま生徒さん達の演奏を聴かれた海外在住のピアニストの方から、コンクールのオーディションを受けてみては?と、ご紹介頂きました。今の時代は、地方にいてもダイレクトに海外の著名なプロフェッサーに聴いて頂くチャンスもある事が有難いです。
今回1次予選(選考?)としてビデオ審査(YouTubeを利用して)に携わられたのはイタリアの優秀な教授陣で、文化交流は国境を超えるような感覚を持っています。


Q.6)コンクールではどんな部分が評価されたと思う?
☆…“響き”を大切に聴いて頂いたように思います。海外の男の子のダイナミックな演奏のあと、日本でも小柄な方のKちゃんの演奏は聞き劣りするのでは?と思いましたが、
とても繊細な音に込められたものをきちんと受け止めてくれたと感じました。
音楽の大元には世界共通の言葉があり、優れた耳を持つ人は、その底流に流れている本質的なものを聴き取られます。まさに文化は国境を超える…かも知れません。
※言葉の発生には諸説あるようですが、言葉の前に歌があった…というのは頷けます。

思わず感情が動いたことから、節(フシ)が出てきた…と考えると、音楽と言葉は根っこで繋がっていると…。
実際、それぞれの国の音楽は言葉に影響を受けていると言われています。



Q.7)ピアノの演奏にはどんなことが大事で、その大事なことに対してKちゃんはどうなっている?
☆…とても忙しい世の中ですが、静かに心の中を見つめる時間も大切なのだと思います。人と比べるのではなく、心から湧き上がるものを大切に。。
競い合うことで磨きをかけることも大切かも知れませんが、もう一方で、人と比べるのではなく自分の心の表現が出来ることもとても重要と思いますし、Kちゃんは“心の声を聴く耳”を持っていると思います。
今回はコンクール(競い合う)という形でしたが、殆ど日本人がいない中、言葉も殆ど通じないけれど、“心と心で通じ合った” 感覚があったことが、Kちゃんにとってもご家族にとっても素晴らしい体験だったと思います。受賞はそれほど大切ではありません。

          

基本的に、子供の世界を壊さないよう"そっと見守る” "自然に触れる" "芸術・歴史・文学のすぐれたものに触れる"ということが大切、と思っています。
"味覚"を育てる時期ですので、アウトプットよりインプットを大切に。

つまり目先の結果に捕らわれず、長期的な視点で子どもたちを見守ることが大切なのですね

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良い子って・・・(問題児は問題を提起してくれる子)

2017-05-03 04:12:24 | おもうこと
「大人にとって都合が良い子が良い子なのではない」


これは35年前のまだまだ新米教師だった私が肝に銘じていたこと。

黒柳徹子さんの「窓ぎわのトットちゃん」、鹿島和夫先生の「一年一組あのね先生」、或は鈴木メソッドの鈴木真一先生「愛に生きる」、その他読んでいた児童文学や色々な作品に触れることで、自然とこのように思っていました。
本の中に描かれている子供たちは、枠からはみ出し“ふつう”の中にいることが出来ない子・・・教師にも親御さんにも“手に負えない”・・とふつうなら思われてしまう子・・・だからこそ輝いている・・・とも言えるのですが、ちょっと大変


お名前を呼んでも「はい」という返事ひとつできないでいる子。。やたら元気でサッカー帰りに汗まみれでやってくる子(ヘディングしたのか頭がクサイ(笑))。。ひとつも音符を読もうとしてくれない子(なぜかレッスンには休まず来ていた)。。思春期に入りひたすら反抗する子(後で何故あの時あんな態度をとったのか聞くと「あの時は子供だった…」と言って笑わせてくれた)。。

思いかえすと色んな思い出深い子がいました。

みんな大人になりお母さんやお父さんになり、立派な職業を持ち活躍しています。
 
その子たちに教えられた事は本当にたくさんあります。



良い子とは??
もしかして、大人の都合の良い子を押し付けていないだろうか?
大人は子供だった頃の自分の心の中をいつも思い出して、感性と想像力を駆使して、子供の心を回復してみたら・・そんな風に思います。

人間は複雑な心の内側の世界を持っています。
子供は大人が思っているほど単純なわけでもないし、意外に賢いのだと思います。。
むしろ子供の方が、何かの考えに縛られていないぶん賢いのかも知れません。

問題児・引きこもり・不登校・学習障害・発達障害・高次機能障害・アスペルガー・・・
あれこれラベリングされるけど、「普通」って何だろう?「優秀」って何だろう?

河合隼雄先生の素敵な言葉

「問題児とは問題を提起してくれる子です」
提起された問題、大人あるいは社会に・・・みんなで考えなければならない問題なのだと思います。
根っこの根っこを見ていきたいですね。

「良い子じゃなくていいんじゃない?」・・・私はそう思います


あるがままに!


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コンクールについて・・・

2017-05-02 07:18:07 | おもうこと
コンクール・・・今とても盛んですよね。。

でも、あまり加熱し過ぎると結果ばかりに気持ちが行ってしまい、内面の成長を遂げているか見逃してしまうこともあります


「今回は残念でしたが、これは本人にとって良かったと思います」
むかしこのように仰っていたお母様がありましたが、とても賢い方だな・・と思います。
その子の状態によって、色々な時があります。
この方(当時の子供さん)も現在30代後半・・今では成長し、大変活躍されています。

その子の心の内が、どのように動き、内的変化や成長を遂げているか・・。
これが大変重要な事です



ここのところ、お母様方ともじっくり話し合い、結果に翻弄されない考えをしっかり持っていただいています。
そして、近ごろは若いお父様もとてもご理解頂いています!
きっと職場での多くの経験を積まれ、どのような人を育てるべきか、よくご存じだからではでしょうか


「受賞してもしなくても喜び過ぎず悲しみ過ぎず」

熱狂が一番冷静さを失わせます。
恐らく脳科学的には、ドーパミンが関わっていて、報酬系の・・つまり喜びや嬉しさと繋がるのですが、過ぎると攻撃性にも繋がるある意味脳内麻薬でもある・・らしい・・詳しくは中野信子さんや、池谷裕二さんの本をご参考に!

イチロー選手もずい分以前ですが「受賞することは嬉しい。しかし麻薬のようでもある。3割バッターである自分は、打点の倍の悔しさを味わってる」
つまり約3分の2は打てていないことの悔しさが自分を育てている、そういうことが重要である・・というような内容だったと思います。
さすが!哲学を持っておられる


「苦労するということと分かるということは同じ意味です」

これは尊敬する小林秀雄のことば。



さて、今年は上記のことを踏まえ、コンクールに参加してみたい、、という子たちが少しの人数ですが参加してみることにしました

また、6月末には海外で開催されるコンクールにも参加予定の生徒さんがいます。
きちんと現地の有名なプロフェッサーが審査して下さり、良い結果で通過することが出来ました。

でも、そこに最終的な答えがあると思っている訳ではなく、ヨーロッパの子供たちに交じり、彼らがどのように音楽を感じているのか、自分たちも参加することで、より身近に感じてきたいというのが本当の気持ちです。

ずい分以前からお話し頂いていたのですが、やっと・・私も行ってみることとなりました
現在音大の4回生になっている生徒さんが中学生の時に受けに行ったことはあるのですが、私はついてゆくことが出来ず・・本当に久しぶりなヨーロッパ・・どんな珍道中になる事でしょうね

ちょっとドキドキですが楽しみです


ということで、きちんと冷静に受け止めること、そして結果はあくまでもその時のこと。
たくさんの人の前で弾かせて頂くこと。
同じ曲を様々な解釈で弾く人がいる・・それを体験する。

そのように解釈すればよいのではないかと思います

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良い音ってどんな音?・・・あれから8年

2017-04-10 05:13:30 | おもうこと
今日はちょこっとだけ書きます

ものすごーく前に書いた記事も、時々読んで下さる方がある様で、ありがとうございます


さて、8年ほど前に書いた「良い音ってどんな音」というタイトル。
難しいことを書いたものです

今もう少し、端的な言葉で言えるのかな…と思うので、書き直しと言いますか追加と言いますか…すこーしだけ書いてみます。



数年前にも書いたのですが…“耳が良い”という事には、3段階ある。。
ずい分はっきりした言い方ですが、洋の東西を問わず、言われていることがあります。

中国の言葉・・

「汝、人籟を聴くも地頼を聴かず、地籟を聴くも天籟を聴かず」

というそうですが、「人籟(じんらい)」「地籟(ちらい)」「天籟(てんらい)」を、少し勝手な解釈ですが、私たちの分かり易い表現に変えてみると…


①ソルフェージュの力としてのドレミが分かる耳(絶対音感など)

②音の質、響きが分かり判断できる耳(多くの楽器の演奏や声などをよく聴き、判断できること)

③心あるいは魂で聴くことが出来る(人生の経験を積み、深い人間理解が必要)



③まで聴き取ることが出来るには、心の勉強をたくさんしなくてはならないこと。
皆さんのおじいちゃんおばあちゃんもそういう方かも知れません。


耳が良い、には3段階ある。ドレミが分かるだけでは本当に耳が良いとは言えない。。という事だと思います


ソルフェージュとしてやたらドレミだけ分かる耳であることで、本当の音楽的なものから遠ざかってしまうこともあるかも知れません。
しかしまた、ドレミがしっかり分かる(単音ばかりではなく和声も)という事が出来なければ、複雑な演奏は出来ません。
ほんの微細な違いも判断できる耳は、演奏技術として必要なものです。


とても勝手な解釈なので参考程度に思って下さい。


少なくとも、ドレミが聴き取れた段階でだけで、音楽は語れない。
ソルフェージュは大変重要で、これなしでは難しいのですが、音楽はこの向こうの世界にあります。
「入口」のようなものだと思って下さい。


                                                                
     

中国の“六芸”…礼・楽・射・御・書・数について書かれていることがあります。
(略)
「楽」は音楽です。何故、音楽が上位に来るのか。
孔子は音楽を愛した。政敵に追われて放浪しているときも、琴を弾じるのを止めなかった。
「楽」は時間意識を涵養(かんよう・徐々に養い育てること)するものです。豊かな時間意識を持っていない人間には音楽は鑑賞できません。
楽器の演奏も曲の鑑賞も出来ない。というのは、音楽とは「もう消えてしまった音」が未だ聴こえて「まだ聞こえない音」がもう聴こえているという、過去と未来への拡がりの中に身を置かないと経験できないものだからです。
単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディーも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織り成す関係の中でしか把持(はじ)されません。そして「先行する楽音」と「後続する楽音」も、論理的に言えば、今ここでは聴こえていない。今、ここには存在しないのです。今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聴き取ることも出来ないのです。(略)
音楽を愉悦するためには、できるだけ長い時間の中にいる必要がある。
(略)音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。
だから、音楽は時間意識の涵養の為に極めて重要な科目とされるのだと私は思います。(内田樹)

                                                             
     


また、“音楽”についての、河合隼雄先生の言葉は、分かり易くしかも非常に奥深いものがあります。


人間は『目の動物』と言われたりするほど、生活を目に頼っている。
この傾向が強くなると、目に見えないものは存在しないと考えたり、信頼しないということになったりする。
心が知らぬ間に固く、狭くなっている。そして固く狭い心ほど傷つきやすいのだ。
音楽というものは、雑音と異なって、何らかの『構造』を持っている。
言うならば、相当な形を持っているのだが、目に見えない形である。
その目に見えない形が、目に見えるものによって形作られている構造に対して作用を及ぼしてくる、というのが音楽を聴くということではないだろうか?『より道 わき道 散歩道』河合隼雄著より


                                                             
     

河合隼雄先生や内田樹先生の言葉や深い思想は、ゆっくりと何年もかけて味わいたいですね


紀元前に当たるような大変昔の記録をひも解いてみても、近年発達してきた心理学や脳科学の説明と、殆ど食い違うことない深い洞察だという事が分かります。

たくさんの情報に惑わされるより、自分の聴覚や視覚を始めとする「人としての感性・直観力」を磨き、心の目や耳をよーく働かせることが大切なのではないかと思います


*今日の内容は、昨年、一昨年にブログに書いた内容も転用しています。ご参考までに(ちょっと長い文章になって面倒ですが…)
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Happy New Year!…内声を聴こう

2017-01-03 20:49:46 | おもうこと
明けましておめでとうございます!


                    
2017年も3日目が過ぎようとしています。
新年いかがお過ごしでしょうか?

年末年始、友人のお宅へお邪魔し、瀬戸内の初日の出を見てきました
画像を友人から送ってもらいましたのでアップしました!
本当に素晴らしい眺めで、瀬戸内ならではの穏やかな美しいご来光、、水面に映る光も大変美しく感動的なものでした。


主題(この場合は太陽)を取り囲む景色や、反射する光、支配する空気、飛び立つ鳥たち、待ち受ける人々の敬虔なる気持ち、、そういったもの全てが、この主題である“日の出”に参加してハーモニーを紡ぎだしているとも言えるなぁ…と感じます。

主題だけでは成り立たない…まるで音楽が織りなすシンフォニーのようですね


“主役”である“主旋律―メロディー”に気がいきがち。。
でも、主題に命を吹き込むのは、一般的にはあまり気に留められない(しかしプロはよーく聴いている)内声の動きやベースライン、ハーモニーのちょっとした移り変わりなど。

映画などでも、“名脇役”…と良く言われますが、主役はデビューし立ての若い方、、でも脇はベテランで固める…そのように思って頂いてもいいかも知れません。

目立たないところにこそ、大切なものが潜んでいる。

気にも止められない様な、ちょっとした“何でもないところ”を、よーく聴いてみましょう。

大切なものは、聴こえにくい、見えにくい。

でもそこを本当に聴いて、本当に見ないと、何ひとつわからない。

クラスでも会社でも、色んな所で、むしろ目立たず、きちんと“要――かなめ”として働いている人、、そんな人に目を向けてみましょう。

素晴らしいシンフォニーは、こうして成り立っていることを、決して忘れず、それが分かる人になる、わかる人を育てる。 
―――今年の一番大切なことと思って、皆さんでよく聴きましょうね。

                        

あらためて・・・

Happy New Ears!

Yearの間違いじゃないかって?
いいえ~これで良いのです。しかもこれは朝日新聞“折々のことば”鷲田清一先生の受け売りです。悪しからず
今年は“耳”を澄まして、よーく聴きたいものです。
“よい耳”で…本当の声は??

ではでは~~            


参考☆朝日新聞“折々のことば”より
Happy New Ears(英語の語呂合わせ)
今年こそ耳の人になろう。長く圧(お)し殺されてきた声、出かけては呑(の)み込まれた声、ぼそっと漏らされた短すぎる声、恐る恐る絞り出されたくぐもった声、今にも途切れそうな声。それらにじっと耳を傾けられる人に。「聡明(そうめい)」には耳がある。「省庁(廳〈ちょう〉)」にも。そこは天の声、民の語を聴く場所だった。その声を最もよく聴く人が「聖」。天声人語(vox populi vox dei)は「民の聲(こえ)は神の聲」という意味。
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守・破・離・・・落語のお話から

2016-07-24 08:15:13 | おもうこと
先日の池田塾。

今回はいつもと違って、前日から品川で一泊し余裕~~と思いきや、電車の事故や乗車した電車の前の車両に体調が悪くなった人がいて介護にあたっているため車両停止のアナウンス・・など思わぬアクシデントで遅れそうになってしまい、鎌倉ではなく大船からタクシーで行こう・・・と画策しているところに見覚えのある塾生の方が!

これは救いの神と思いご一緒してタクシーに乗り込もうと思ったら、運転手さんから「今日は1時間ほどかかるよ。タクシーは止めておいた方がいい。」と言われ、また電車に乗り鎌倉の一つ手前の北鎌倉で下車、徒歩で池田塾に向かうことになりました。
観光地ですから仕方ないですね。
休日ともなると、普段の何倍もかかってしまいます。


通ううちには色々あるもんですね


一緒に歩いているときに色々伺えたので、これまた楽しい経験となりました。
1期生のその方は、まだお若い方だったのですが、哲学を学ばれた方で大手出版社のお仕事をなさっていましたので、面白い~興味深いお話がたくさん出来ました。

その中の一つ「守・破・離」

落語の極みのお話のようですね。

まず師の教えを「守る」。
次に「破る」。
そして「離れる」。

深い~


「守ってきた型」が無ければ破るものも破れません。
まずはこれをしっかりするべきでしょうね。

破った後に苦労の末独自の「離」が存在する。。


このblogでもたびたびご紹介している茶人千利休から織部への言葉をまた思い出してしまいました。


「ならひなきを極意とする」


しかしまた「守ってきた“型”」があるからこその「破」ですので、初歩はまず「守」を徹底すること。。。





東大で音楽を教える(しかも東大物理出身)の伊東乾さんも、噺家のことを本に書いていらっしゃいました。

「お~~い、おかみさん~」

それはどんな家でどんな間取りでどこからどこへ向かって呼びかけているんだい?
師匠からは厳しい追及が投げかけられるそうです。


音楽にも言えているように思います。
全然違う世界のようでいて、実は聴覚系のお話。
耳でどれくらい深い世界、奥行きのある世界を描き出せるのかというお話のようです。

いやはや・・・こういうお話がどんどん聞けて、ありがたいです       




池田塾も次第に知り合いの方も増え、其々素晴らしいお仕事をなさっている方ばかりなのですが、読み込んだ本に対する読みの甘さや浅さを厳しく・・いえ!・・きびしーーーく!・・追及されます。
「こんなに深く読み込まないといけないのですね」
と、同期の方も呟いておられた(震え上がっていた?・・冗談です)ほどの厳しさですが、返ってそれが楽しみになってきました。

秋から新米の私達5期生の質問が始まります。

こんな年になっても厳しい指摘をして下さるのですから、とても有難いことです。
意外と音楽の人たちは師匠に厳しく追及されてきたので、それがどれほど深く有難いことかは身に染みています。
但し・・泣くかもしれませんが

そんなこんなで、日常に息吹を与えてもらっています。

さて、色々準備しなくてはならない時期となりました。

そろそろ自分にカツを入れてがんばろうっと




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子供たちが音楽をする意味について考える(№2)。

2016-07-04 06:43:59 | おもうこと
ここのところ、鎌倉“池田塾”に通わせて頂くようになったおかげで、課題になっている小林秀雄の「本居宣長」、そしてそこから波及して江戸期の学者たちについても考えることがあります。


殊に中江藤樹は米子にも関係の深い人ですし、また契沖、仁斎、真淵、宣長等、、脈々と続く江戸期の学問の巨人たちの大元とも言える人なので少し勉強を深めてみたいと思っています。


(スミマセン・・・この先、面倒な表現があったら読み飛ばしてください)



「本居宣長」の文の中で、やはり・・・と言うべきか?『論語』については語られていまして。。

朝ドラ(私は全然見ていないのですが…)に登場した渋沢栄一等も、『論語』の教えは重要視されているようですね

『論語』を書いたのは、紀元前500年くらいの春秋時代の中国の思想家である、孔子なのですが、宣長も「孔子はよき人・・」などと書いています。

外来の解釈的、説明的な漢心(からごころ)、さかしら心を嫌った宣長ですが、実体験から来た本質的な言葉を多く残している孔子の教えからは、ソクラテスにも通じる様な、日常に即対応できる、真心と言いますか、とても分かり易い「あ~そうよね」と、自分の生活感からも共感できるような言葉の数々に出会う事が出来るんです。

(ちなみにベートーヴェンはソクラテスがとても好きだったようです)


さて、やっと本題です

この、孔子の教えの中に、「六芸」という、君子に必要な基本的な学術というものがありました。

内田樹先生の『街場の教育論』から引用いたします


     

六芸とはすなわち、礼・楽・射・御・書・数のことです。
(略)
「楽」は音楽です。何故、音楽が第二位に来るのか。これも私は長いこと意味が分かりませんでしたけれど、今は少しわかります。
孔子は音楽を愛した。政敵に追われて放浪しているときも、琴を弾じるのを止めなかった。「楽」は時間意識を涵養(かんよう・徐々に養い育てること)するものです。豊かな時間意識を持っていない人間には音楽は鑑賞できません。楽器の演奏も曲の鑑賞も出来ない。というのは、音楽とは「もう消えてしまった音」が未だ聴こえて「まだ聞こえない音」がもう聴こえているという、過去と未来への拡がりの中に身を置かないと経験できないものだからです。
単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディーも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織り成す関係の中でしか把持(はじ)されません。そして「先行する楽音」と「後続する楽音」も、論理的に言えば、今ここでは聴こえていない。今、ここには存在しないのです。今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聴き取ることも出来ないのです。(略)
音楽を愉悦するためには、できるだけ長い時間の中にいる必要がある。(略)音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。だから、音楽は時間意識の涵養の為に極めて重要な科目とされるのだと私は思います。

            

「礼」は祖霊を祀る儀式のことで、死者すなわち「存在しないもの」とも人間はコミュニケーション出来る。これを筆頭に置いたことは、人間についての洞察として深いと内田先生は仰っています。 
「射」は弓。「御」は馬を御すること。すなわち武術です。自分の体をどこまで細かく分節できるか。筋肉や骨格や腱や神経や細胞に至るまでを意識できるか。それが課題となります。身体運用の精度を上げるためには、どういう風に心と体を使うのがいいのか。
また身馬一体となって人間と間が一つになって、人間が単体で発揮できる運動の力の何倍、何十倍もの能力を発揮する。
それが武術の本質として集約されると・・・。

「礼・楽・射・御」  自分の体を深く知り、目に見えないものや言葉ならざる者とのコミュニケーション、ということに大きな意味がある様に思います。


そして最後の二項が、「書・数」
これに関して、内田先生はこのように仰っています。

「ご覧のとおり、現代の教育では六芸のうち、礼・楽・射・御は必須科目には含まれていません。最下位に置かれた二教科だけが集中的に教えられているのです。」
「さて、現代教育課程から排除された、これら四芸の特徴は何でしょう。私は実はこれこそが教養教育の本体だと思っているのです。
とりあえず、この四芸では、どれも達成目標や成果が数値化できません。」


     



大変深い洞察をされていて、「なるほど!」と膝を打つように明快な言葉。


宜しければ、内田樹先生の「街場の教育論」手に取ってみてください。

街場の・・・シリーズは他にも出版されているようですが、私は未読です。

その他、脳関係の本では、池谷裕二さんや中野信子さんを何冊か読んでみましたが・・・。
中野信子さんの「脳内麻薬」は、理系志向の大変分かり易い、しかもギョッとするような内容でしたが、私たちの感情や行動に明快な視点を与えて頂けて、大変興味深く読ませて頂き、参考になりました。

面白かったので幾人かの方に勧めてみたところ、読み始めた方続出です




ピアノを弾く時、200年あるいは300年という時空を超えて作曲家に出合い、「何を感じていたのだろう。」と、考えます。

つまり「目の前に存在しない」ものとのコミュニケーション。

そして、自分の体を知り、どのように使ったらあのような音が出せるのだろうと考えます。

それがとても深いものだと次第に気付きます。

専門家としてやっている人たちが、どれほど大変なことに挑んでいらっしゃるのか少しずつ理解できるようになります。

そして自分自身もいろいろ工夫して楽しみを見つけることが出来ます。

それを知るだけでも、素晴らしいのではないかと思います。



どんな専門分野でも、やればやるほど果てしない道を知ることになります。
だから、次の世代の人たちに、「たのむよ」と言って、出来るだけ良い形でバトンタッチする。(駅伝みたいですね…)

きっとそれが人生ですね


何だか難しいことを書いてしまいました。


p.s.『論語』はすこーしずつしか読めてはいませんが、とても深いので、「もっと高校生の頃に読めば良かったなぁ」・・と思うのですが、10代、20代の頃の私に、どれだけ理解できたのか、と考えると??・・ですね。
でも、素読に耐え得る音楽性を持っているので、暗唱するだけでも意味があるのでは?と、考えます



お付き合い頂きありがとうございました


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子供たちが音楽をする意味について考える。

2016-06-21 10:38:09 | おもうこと
「音楽と心の癒し」

故河合隼雄先生の言葉ですが、物事の本質、源泉まで辿ってゆき、そこから導き出された深い思考や思想を、どれほど分かり易い言葉で綴られているのかと、思います。

宜しければ、平易な言葉で綴られた言葉の数々を味わってみてください



引用・・・

            


人間は『目の動物』と言われたりするほど、生活を目に頼っている。

この傾向が強くなると、目に見えないものは存在しないと考えたり、信頼しないということになったりする。

心が知らぬ間に固く、狭くなっている。そして固く狭い心ほど傷つきやすいのだ。

音楽というものは、雑音と異なって、何らかの『構造』を持っている。

言うならば、相当な形を持っているのだが、目に見えない形である。

その目に見えない形が、目に見えるものによって形作られている構造に対して作用を及ぼしてくる、というのが音楽を聴くということではないだろうか?

『より道 わき道 散歩道』河合隼雄著より


          

音楽情報誌『ジュピター』に寄稿された河合先生の言葉からです。

視覚情報が氾濫する昨今、多くの情報が記号化されて流されていきます。

混迷する現代社会、視覚系・聴覚系の根源的表現として、芸術教育があるのだと思います。

簡明に綴られた数々の言葉は、経験を重ね勉強を深めれば深めるほど「本当にそうですね!」とうなずいてしまうような味わい深い言葉ですね
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過去のblogより~

2016-02-20 04:08:44 | おもうこと
子供たちをどう育てたいのか…音楽に出来る事
先日、ちょこっとお休みいただきミニミニ旅行行ってきました。2つの展覧会と美味しいもの・・の旅でした色々な旅の目的も果たせて、良かった~さてさて、今日のお題の――子供たちを...




またまた今日も過去のblogからですが、宜しければ読んでみてください~
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耳が良いということは・・?

2015-10-10 05:49:21 | おもうこと
耳が良いということはどういうことでしょう?

今の時点で思っていること、、今日はちょこっとだけそれを書いてみます。
このお題はちょっと恐れ多いのですが・・・



耳が良い(本当に聴き取る力)には3段階あるとおもいます。


①ソルフェージュの力としてのドレミが分かる耳(絶対音感など)

②音の質、響きが分かり判断できる耳(多くの楽器の演奏や声などをよく聴き、判断できること)

③心あるいは魂で聴くことが出来る(人生の経験を積み、深い人間理解が必要)


①や②がさほどなくても③だけは分かる、、人生の達人、つまりみんなのお祖父ちゃんやお祖母ちゃんにもいらっしゃると思います。
逆に、①だけあっても、②がなかったら、良い音楽は奏でられないかも・・・③まで聴き取ることが出来るには、心の勉強をたくさんしなくてはならないこと。
そんな話をちょこっと簡単にしたりすることもあります。

子供たちには「耳が良い、には3段階ある。ドレミが分かるだけでは本当に耳が良いとは言えないよ。」と言っています。
これは幼い子でも理解できるようです。


ソルフェージュとしてやたらドレミだけ分かる耳であることで、本当の音楽的なものから遠ざかってしまうこともあるかも知れません。
しかしまた、ドレミがしっかり分かる(単音ばかりではなく和声も)という事が出来なければ、複雑な演奏は出来ません。
ほんの微細な違いも判断できる耳は、演奏技術として必要なものです。



1段階目として、ドレミ・・が聴きとれるようにトレーニングします。
そのことは、手段と言いますか、音楽を演奏する時の道具としての音感などソルフェージュの力をつけることです。
幼い時にこのトレーニングをすると、殆どの場合、判断できるようになります。

4~5歳ぐらいが適期といわれ、7~8歳くらいは臨界期?という情報も聞いたことがあります。
実際、言葉を覚える時期に重ねてトレーニングすると、音感がつきやすいのですが、これは脳の言語野で処理されるようです。
ですから、言葉を覚える時期に同時進行で音感訓練するのが一番良い時期ということになりましょう。


レッスンでどのようにするかと言いますと・・・。
例えばうちでレッスンしていることは・・まず和音判別と言って音(主に和音)が変わったら立ったり座ったりするゲームや、布をひらひらさせて音の上行・下行に合わせて動かしてみたり、音に反応して音と一緒に体全体を動かす遊びをします。

そののち、短いセンテンスのメロディーを“模唱”と言って真似して歌ったり、“聴唱”と言って、自分で聴きとって歌ったりします。

少しタイミングをずらして、和声の簡単なカデンツも歌います。

聴覚・・とはまた多少違いますが、リズムも短いセンテンスを真似して打ったり、次第に長くしたり、カノンのように打つことと聞くことをタイミングをずらして同時に二つ以上のことをしたりします。

はじめはC-durから始まり、G-dur、Fdur・・・と増やしていきます。
耳のトレーニングがある程度できたところで、ピアノの個人レッスンが始まります。

リトミックやソルフェージュをたっぷりした後で(1~2年間鍵盤をほとんど触らない)、やっと“弾く”をするので、“待ってました!”という心の状態も出来ていますし、リズムや音が分かる、読譜力も付いている、、となると、自信が出来て、とても嬉しそうに積極的に練習してきてくれます。

こういう事は、音楽の初期教育で大切なことです。


2段階目として、色々な音の種類を聴く。
色々な楽器の音色だったり、言葉で「ああ」と言っても、多種多様な表現やニュアンスがある様に、その音のもつエネルギーや質を聴き分けること。
そういうことは大切ですし、本質的な事で、ソルフェージュとしての耳は、道具のようなものかも知れません。もちろん無くては困ります。

演劇する時のセリフを言う時、或は相手の声色を聴く時、、声の美しさだったり幅広さだったり力強さだったり、、そういうこともあるかも知れませんね。喜び、悲しみ、怒り、あきらめ、ユーモア、、さまざまな感情もそこに宿っているのでしょう。クオリアの世界。

そして感じるのは、これはソルフェージュと同時に・・・というより、その前にリトミックとして音楽を感じる心を育てるのが一番良いように感じます。
何より、親子で音楽を楽しみ、ごっこ遊びのようにたくさんの音楽の喜びを味わうレッスンです。
ここで、楽しい!とか、面白い!・・時々ふしぎ~や、ちょっとこわい~等色々な体験が、その子の一番柔らかい感受性に訴えかけて、大切な素地を作るのだと思います。

ですから、音感教育など具体的なソルフェージュの前に音楽をダイレクトに感じるレッスンが必要と思います。
もちろんレッスンでやったことを家でさらに普段の生活に取り入れて楽しんで頂ければなお良いですね。


3段階目の耳は、なかなか大変。

とても奥深いもので、簡単に説明することなど出来ません。
人というもののはかなさ、愚かさ、悲しさ、あるいはデモーニッシュな部分等もあるかも、、そういう全てを含んでの人の存在の不思議さや素晴らしさ。。
行きとし生けるものへの深い眼差しや尊厳、宇宙的存在としての不可思議さ壮大さ。。
死ぬほどの思いをして、孤独に耐えて、やっと手にすることの出来る領域なのかも知れませんね。


音楽とは、芸術とは実に深く巨大な世界なのだとつくづく思います。


小さな幼児に・・例えば2~3歳でリトミックなどをするときは、①のソルフェージュより、②の音楽そのものを感じてもらうのが先だと思っています。

お付のちびちゃん、お姉ちゃんが弾く曲には反応しなかったのに私が弾くと、踊りだしたり、ブルグのバラードなどを弾くと「こわーい」と言ってお母さんにしがみついたり、ダイレクトに感じてくれているのだなぁと思います。
お姉ちゃんが練習しているうちに上手になっていくとご機嫌で踊ったりするようになるらしいですよ。
面白いですね


「色を見て、色の語ることを聴いていない」
とはよく言った言葉で、分かり易く言えば、包装紙できれいにラッピングされている外側に気を取られ、中身が見えていなかったり、どういう気持ちでそのプレゼントを贈ってもらったのか想像することが出来ない。。気持ちを汲み取ることが大切なのですね。


もちろん自分が何でも分かるというのではなく、分かる人になれたら・・・ということ


中国の言葉・・だったと思いますが・・・
「人籟(じんらい)」「地籟(ちらい)」「天籟(てんらい)」
という表現があるそうで、今日のお題の3段階の耳と似ているのかなぁ・・と思ったり。。
「汝、人籟を聴くも地頼を聴かず、地籟を聴くも天籟を聴かず」
おそらく亊か笛の音を聴いているときの師匠から弟子への言葉だったかな?
記憶違いだったらごめんなさい
奥深いですね


さてさて今日もそろそろ終わらねければ~
ちょっとややこしい表現だったかも~
オタクなのでお許しあれ・・


ジャン・コクトーというフランスの芸術家(詩人)の短い言葉を見つけたので、最後にその言葉で終わります。

「芸術、それは肉づけした科学だ」

端的な言葉ですね
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こどものしあわせ

2015-07-23 06:16:45 | おもうこと
「星の王子様」で有名な、サン=テグジュペリの言葉。


船を造りたいのなら、

男どもを森に集めたり、

仕事を割り振って命令したりする必要はない。

代わりに、彼らに広大で無限な海の存在を説けばいい。



地球は先祖から受け継いでいるのではない、

子どもたちから借りたものだ。



                                              





子供たちが学ぶ・・
いえいえ
大人も学ぶ・・・

そこには、“憧れ” “喜び” “好奇心” “愛” “喜び”・・・そんな下支えがある様に思います。
そんなに素晴らしい海なら、冒険に行ってみたい!
そう思うからこそ、船を造って出かけてゆく。

学びたい・・それは憧れの世界への扉を開けることでもありますよね。
その扉を開いて素晴らしい世界を見てみたい。
だからこそ学びたいのだ。
学びの中に扉が用意され、一つ一つ開けるたびに、ああ!って喜びが訪れる



サン=テグジュペリはそう言いたかったのですよね



                                              



ピアノを学ぶときのことを、分かり易くお料理を作ることに例えたことがあります。

まず良い料理人を育てることは、沢山おいしいものを食べること。
良い味覚を育てることが、料理の第一歩。

美味しかった! また食べたい!

そういう気持ちが大切


沢山の良いインプット
これこそが「私も料理を作って食べたい!作った料理を食べてもらって喜んでもらいたい!」
そういう気持ちを育てます

インプットあってこそのアウトプット。



ゆっくりじっくり味わうこと。

それが内面を育てることにもつながります。




街の小さなレストランのシェフになっても良いし、国際的に活躍するシェフを目指す人もあるでしょう。

それはその人が決めること。

まずは自分が楽しんで、身近な人に味わってもらう。。それが第一歩

おうちのお母さんのお料理がレストラン並み・・そんなこともあるでしょう。
ピアノも同じかな・・



まずは、美味しいものをたくさん食べさせてあげてください・・・つまり良い音楽をたくさん聞くこと。ジャンルは問いません。
心に響くもの


そうすれば、自分から「料理を作ってみたい」・・・つまり「弾いてみたい!」となりますよね。

たくさん作ってみたら、「誰かに食べさせてあげたい」・・・「聴いてもらいたい!」



家の人やお友達に聴いてもらえれば良いですね


時には素晴らしい演奏家の“料理”つまり“演奏”に耳を傾ける。
自分が普段あれこれ工夫して料理している人は、その素晴らしさの奥深さも心から理解できることと思います。



ちょこっと心配なことは・・・
やさいを切って!もっと上手に!切り方がどうのこうの・・・焼き方が・・盛り付けが・・
ちょっと細かい指示を出し過ぎて、そもそも料理を作りたかった、、という感覚を忘れさせてはいないでしょうか?
やりたかった気持ち、、萎(な)えてしまいますよね。。
いったい何がやりたかったんだろう??

空の青さを表現したかったのに、スミレの花の可憐な可愛らしさを表現したかったのに、、
小さな枠の中に詰め込まれてしまったら、いったい何に感動したのか分からなくなってしまいそう

そればかりでなく、知らないあいだに、心が固く閉ざされ動きを止め、目の前の仕事をこなす事にしか意識が行かなくなります。
そして、不思議なことに後々ずいぶん時間がたってから、心の内部からの反撃が起こることも大いにあるのです。
今だけに目を奪われるのは、ちょっとアブナイことなのです。。





音楽がその人の人生の素晴らしいパートナーとなる


そして、こうして育った子たちは、どういうわけか(先生が不出来な割に)優秀な子たちが多いのです。
勉学が、、ばかりでなく人として、、そんな気がします。


きっと人生山あり谷ありだと思うけど、ああ!生まれてきて良かった!
と思える人生をおくってほしいと願ってやみません



う~~ん
今日のブログ、ちょっとカタかったかも



P.S.
『ヴァイオリニスト 20の哲学』千住真理子著・・・「一生懸命」では生ぬるい
とても良い本でした。
本気で音楽と向き合い、挫折し、そこから得られたものは本物です。
とても読みやすくなっていますので、おススメです!
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夏休みですね!

2015-07-22 04:55:10 | おもうこと

夏本番

毎日あつーーい日が続いていますがいかがお過ごしでしょうか?


さてさて、先日7月20日(海の日)
ミニミニ・コンサート&オープンクラス&ミニ・リトミック
沢山の方にお集まり頂きありがとうございました!

これからお引越しする子や、お引越ししたけど、遊びに来てくれたお友達も混ざって楽しい会となりました!
みんなで演奏を聴き合い、お手紙を書いてみたり、私のコメント聞いてもらったり、普段のレッスンでも出来ないし、発表会でも出来ない、、なかなか楽しい試みだったなぁ~って思います。

小さい子が多かったけど、今やっていることから少々“音楽理論”の入り口のようなこともお話しできてよかった

まずリズムの話。
ただ、何々おんぷ・・と覚えるのではなく、音符は分数の概念。
まずホール、ハーフ、クウォーター、、ケーキを分けるようなものです。

なので、手品みたいに紙を、チヤキーン、、と言って切って、8分おんぷ!などと子供たちと遊びます。
この遊び、4~5歳くらいのちびっこさん達も大好き
聴音の日を、めちゃくちゃ楽しみに来てくれています。
もちろん小学校に上がった子たちも、かなりこれで具体的に理解することが出来ます。


これをお父さんお母さんたちに、ちょっと理屈を交えて、実は数学的な概念を具体的な形で、しかも感覚的なものに訴えて、理解してゆくことをお伝えしています。
楽しい感じで、実は理数的な世界を感覚から学んでいる・・ということ。
すごく楽しいです。
リズムの掛け合いも即興でやってみて、面白かったですね!
私が30代に勉強していたシュタイナー教育も、算数の時間にリコーダー出して、3拍子の曲をみんなで楽しんで、3の倍数を勉強したり、、勉強は遊びなんです・・実はね~

ついでに言うと、学びの根本は「愛と喜び」と思っています。
今のところ“確信”に近い


おつぎは「5度圏」
簡単な曲を音名唱しながら、C→G→D→A→E→B(H)→F#→C#(D♭)→...フラットの良い字体がないのでこんな感じで・・最後にまたCに戻って循環する。
それが曲の中で転調して色々な色彩を作る・・ちと難しいでしょうか?
5度・・というのは子供たちにも分かるので、ド!ソ!レ!と、元気に答え、「じゃぁシャープなんこついたかな?」の問いに、頭で音階を巡らしファとドで2こ!・・凄い頭の体操です

その他、作曲者の国をクイズ形式で答えたり。。
すごーく楽しそうでした!

弾く・・というのは運動機能の部分もとても多いのですが、それだけでは片手落ちなんです。
一見素敵に弾いているようでも、そこにはちゃんとした裏付けがあるのです。
中身のないただの運動ではなく、理論も感性もあらゆるその人が持っている経験・体験をもととした“内面”の世界が、演奏に出てくるのです。
曲が複雑になってくれば、それはただの“綺麗”“素敵”ではすまされないふかーいものも、表現の中に入ってゆくこととなります。

ですから、本を読んだり勉強したり絵画を鑑賞したり、そして自然と触れ合い、何より日常生活を大切にすること。
何だか体の動きがいい感じだなぁ・・と思うお子さんは、小さくてもお料理をしたり自然と触れ合ったり、日常の良い経験をしているようですね



お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、、ピアノの先生も来て下さったりして、いろんなお話が出来て良かったです

ミニ・リトミックの時に撮って頂いた画像をちょこっと載せておき・・たかったけど上手くいきません。
ブログお引越ししてからまだ慣れていなくって
そのうちに・・・


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楽譜を読むって・・ピアノを弾くことのすばらしさ

2015-02-24 06:32:06 | おもうこと
最近つくづく「ピアノが弾けるって素晴らしい」と思っています。
綺麗な曲が弾けて心が癒されるとか、脳の発達に良いとか、そんなケチ臭い事(毒舌失礼)を言っているのではありません。

日頃、大人から子供まで、200年300年前の文献を教科書に使う・・なんて言うこと他にあるでしょうか?
「他にはないですよね」
と、お忙しい医師の仕事の傍ら練習を重ねていらっしゃる方とも確認したのですが、当たり前と思って、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、、などと言って弾いていますが、これってすごい事だと思うんです。

弾いている曲の難易度や表面的に達者に弾いていることなど、もうあまり意味がないんじゃないかと思う昨今です。
どれだけ作曲者と対話し、理解しようとしているかということ・・むろん大変な天才が書いたものですから、そんなに簡単に理解できるものではありません。だからこそ心を込め誠意をつくし持ちうる限りの力で思考し、更なる勉強を続け、何百回何千回と繰り返し練習や考察を重ね。。そんなものじゃないでしょうか?・・私たち凡人が出来る事というのは。。(私と一緒にしてすみません・・読者の方にはもっと素晴らしい能力をお持ちの方もいらっしゃるとは思いますが・・)


グローバリズム、戦後70年、、国際化、国際理解、、押し寄せる情報の波に飲まれそうになり、そのうち思考停止状態になりやすい。
人間の脳は自分をヒイキしやすい(養老先生談)らしく、その事が相手に対する理解の妨げになる事もあるように思います。
何百年前の異国の人が書いた楽譜を“尊敬の念”を持って日頃読む者にとって、人って何なのだろう。と、いつも考えてしまいます。
そこには普遍的な何かがあって、多くの属性を瞬時に取っ払ってしまうほどの力があるのではないかと思います。
日頃そういうところにしょっちゅうアクセスしている状態・・・だと思っています。

ですから、冒頭にも書いたように、「脳の発達に良い」(これも大切ですが)・・以上に、自分の考えをしっかり持って、しかも小さく固定化せず時空を超えて“人”というものの本質を考え続ける・・(これってどんな職業の人にも大切)・・―――そうして、国際的にもコミュニケーション能力の高い人になっていってもらいたい。。
これ、日本人としての大切な事や日本文化もしっかり持った上でやっていただきたいのです。
むしろそうでなければ、根っこの無い人だと思われるかもしれませんね。


ここからちょっと毒舌蛇足

最近は・・センスなんてクソくらえ(すみません…いささか~いやかなり、乱暴な表現)・・ぐらいに思っています。
センスよくお洒落に弾くことにどれだけの価値があるのか…子供の時は盆栽のように小さく刈り込まないで、輝く生命力をもっと大切に育てるべきではなかろうか?・・ましてやどんなにきれいでも呼吸をしていない造花ではダメなわけで、野に咲く花のように自然に息づいているものであってほしい・・
それと同じ思いで発言された(と思われる・・)のが
「アメリカナイズされた上手いダンスなんて見たくねぇんだよ。もっと不器用なヤツのダンスが見てぇ。そんな奴ら集めてワークショップしてぇなぁ」という世界的ダンサーの声。
「本当にそうですよね!」と、私なぞが言うのも恐れ多いほどすごい方なのですが、普段は地図にもかけないくらい山奥に住んで畑仕事をしていらっしゃるそうです。
これもすごく頷けるんです。。(オマエに何が分かるんだという声が聞こえてきそうですが・・(汗))
先日、兵庫県立美術館で観た“フェルディナンド・ホドラー展”・・スイスを代表する画家ですが、一般的に有名かどうかは分かりません。
倉敷の大原美術館にも収蔵されていて、大変印象深い「木を伐る人」というタイトルの作品があります。
「鼓動を打つように、描いた」「リズムの絵画へ―踊る身体、動く感情」「自然と響きあう生命―ホドラーの芸術」
等々ホドラーの作品群の核心をつくサブタイトルの数々ですが、身体そのもの、躍動する生命体としての体の動きそのものがリズムであり生きている事、、この「木を伐る人」の動きは、世界的なダンサーの目指すことそのものなのではないかと思います。
・・って、私直接お話したことは無いのですが、親しい人が直接何度もお話したことがある人で、ホントホント!と頷きあってしまいます。

素敵な事は悪いことではありません。素敵な事は素敵・・だけど、そこで満足していたら深いところに入ってゆけないので、更にその先の世界があるのだということ。

子供たちには「研ぎ澄ませ」(これはかなり大きくなった子)、「ミクロとマクロの視点を持て」、そして「音符の向こうの世界を感じ表現しよう」・・そんなことを言っています。
簡単に知った気になってはいけません。
ちょっとカッコよく弾けたり、賞をもらったことで慢心するよりは、自分ってダメだなぁ、まだまだだなぁ、と感じている人の方が、理解というか悟ることが近付いていると思います。
表面上の上手さではないのです。
ソクラテスが言うように「無知の知」・・知らないということを知っている人の方がよほど知っていて賢い・・そう思っています。

―――ちょっと寄り道ですが、ソクラテス・・そんなに深く知っているわけだはありませんが、「無知の知」「ただ生きるな。より善く生きよ」「人生の目的は魂の世話をすることである」・・もうこれだけで、ほんとうに‼‼・・と、頷いてしまう私って単純な理想主義と言われるかもしれないけど、歳とればとるほどにそう思えます。やっぱりソクラテス大好き!宮沢賢治くらい好きだわ。河合隼雄先生も! そんなこと考える毎日(笑)―――


「楽譜を表面上達者に弾くことにどのような意味があるのだろうか。そこに縛られてしまっては本当に見るべきもの聴くべきものから遠ざかってしまうのではなかろうか?」また「コンクールにおいて評価基準となるものの中に、そういった深い思考に基づいたものを聴きとって貰っているのだろうか?」「型押しされた一見綺麗な一見良い音の演奏に評価が偏ってはいないだろうか?」 
人の前で演奏する訳ですから、お料理と同じで誠意をつくし、見た目も美しくなければなりませんが、果たしてそれだけで良いのか?

思い違いをしないで頂きたいのですが、楽譜を適当に読むということとは全く違います。
むしろもっともっと楽譜を深いところまで読めるようになりたい・・もちろんそんな簡単なことではありません・・自分自身もそんなにできている訳ではないです・・表面的な字面ではないということ。。
分析もしなくてはなりません。時代背景。人物像。同時期の他の芸術活動や政治情勢。影響を与えた作品や人物。
多くの考察は大切です。

しかしまた、子供たちの演奏に生気がないことを感じる事も多々あるのも事実です。
子供たちも方法論に頼って演奏しようとする子が増えてきています。
そうではなくまず味わう。
しっかり食らいつく。咀嚼する。
それから考える。分析し秩序立てる。
最終的にはその向こうの世界を見る地点に立つ。
心を開放する。
何だかね・・・色々感じてしまいます。


「流暢に英語が話せる事よりも、何を語っているかと言う内容が大切」
海外に留学したり、国際線のCAさんだったり、そんな方々も、これは凄く頷かれます。 

語るべき内容のともなわない言葉では相手にされません。
多少まずい英語(他の言語も)でも、その人となりが大切で、人としてどうあるのか、人として何が語れる人物なのか、そこが重要なのです。


音符の向こうにある世界―――ちょっと補足します。分かりにくいかも知れないので。。
作曲者が何かに感動し、ああ!~そう思ったものを音符として表現したらそうなった~それが楽譜として表現されている世界。
作曲者が違えばまた違うものになるでしょう。もちろん国籍にもよります。ドレミファソラシド・・を使ったらこういう表現となった。その世界観を追体験しているということ。
では、国も違い楽器も違ったら、、お琴なら、バラライカなら、ガムランなら、バグパイプなら、、表現したいものに適した楽器による特性もあるでしょうが、とにかく
「その心は?」
なのだと思います。

あらら、、言葉の芸である“なぞかけ”みたいですね。

一番大切なのは「その心」だと、みんなずーーっと長いあいだ思ってきたのでしょう。

103歳の医師、日野原先生も「いちばん大切な贈り物は“心”である」、と、講演会の冒頭でスクリーンから語りかけていらっしゃいました。

楽譜から「その心」を読む。。でしょうかね

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子供たちをどう育てたいのか…音楽に出来る事

2015-02-15 04:31:54 | おもうこと
先日、ちょこっとお休みいただきミニミニ旅行行ってきました。
2つの展覧会と美味しいもの・・の旅でした
色々な旅の目的も果たせて、良かった~


さてさて、今日のお題の――子供たちをどう育てたいのか――よく、子供たち、、ということを言いますが、何故子供なのでしょうか?
それは――我々の未来――に他なりません。
ひとは「育てる」という行為を必ずします。
子供を持つ人持たざる人――に関わらず、子供や若い人を育てます。
何かしら関わる――と言っても良いかも知れません。
人は死すべき存在ですから、その手から手へ、より善きもの・・を伝える・・これが文化なのだと思います。


最近読んでいる本の中で気になる事があります。

気になる本。
養老孟司の大言論シリーズより「嫌いなことから人は学ぶ」・・・本のオビには――実のところ、日本の将来、心配です!――と書かれています。
とても人間的な方ですので、俺はジジイだからもうすぐ死ぬ。知ったことか・・と吐き捨てつつも、ほおっておけない現実を鋭く指摘されています。
本当に賢い!と、私が言うまでもなく周知のことですが。。

幾つか抜き出して引用しますので、頑張って読んでみて下さいね。

 
                                               
傲慢になっていないか――日本人の傲慢――

日本人のボランティアがラオスの田舎に学校を作った。その学校が無事に動き出し、しばらくしてから、そのボランティアの人たちが視察に再度訪れた。その時に国際交流と称して、日本の子供たちも連れてきた。「その子供たちがネ」と、その友人がいう。「ラオスの子供や大人をバカにしているのが見えるんだよ」。行ってみればクーラーが無い、コンピューターが無い、車が無い、云々。学校だってなかったわけである。
それを聞いて、アッと思った。(略)古いものが生きている時には、必ずそこに現代的な意味がある。さもなければ、古いものなんか簡単に消えてしまう。じゃあそこに何があるのか。多くの人は認めたくないかもしれないが、その答えは日本人の傲慢さであろう。子供ですら発展途上国をバカにする。大人が知らず知らずにそうなっているからこそ、子供がそうなる。(略)
ただいま現在のおまえらの態度が悪いんだよ。そういわれていると思えば、いささか納得できる節がある。(略)
私の世代は無一文から出発した。だから少なくともモノが無いことについては、何の痛痒(つうよう)も感じない。と同時に、モノがあるからと言って、誇る気もない。

*******これに関しても、私が都心に住んでいる訳ではないので余計に感じるのかも知れませんが、都会田舎、金持ち貧乏、その他、成績でも何でも等級をつけて差異を確認し、ちょっとでも上のものがあることで安心を得ようとしているように見えます。
私も目の前の子供たちから、そういう感じを受けることがあるので、正直“ザンネンだ”と思ったり、う~んと思ったりすることもあります。やはりそれは“傲慢さ”だと思うのですよね・・・そして、それはとりもなおさず“大人”の態度と考えから来ていると思います。マスコミも面白おかしく取り上げますしね。

優れた芸術家――と言われる人たちは、こういう「人としてどうあるべきか」を、鋭く透徹した目で捉えています。
茶人もそうです。
身分の上下関係なく、ワビサビの世界に遊ぶ。
しかし現実は、どれだけ高価な着物に身を包み、高い茶碗を手にするか・・俗人とはそういう人で・・
もちろん私も俗人ですが、自覚はしています。
そして本質的には何に価値があるのか・・物事の本当の意味は・・と・・
「美意識」「美学」・・それは、商業的ではなく見せかけでもありません。
それを嫌ったからこそ、敗れたような型破りな陶磁器もあるのですが、それすら“幾らの価値”に還元されてしまう。
本当に伝えたかったのは、その“心”ではないでしょうか。。


********リヒテルの記事も読んで頂けますか?

 
                                               

スヴャトスラフ・リヒテル(1915-97 ウクライナ出身、モスクワで没)は、単にいちピアニストというだけにとどまらない、巨大で謎めいた存在であった。詩人、神秘家、哲学者、預言者...そういった多様な顔を感じさせる、限りなく尊敬され畏怖される、何者かであった。(略)


 いまロシア・ピアニズムということが盛んに言われているが、結局のところはその核にあるものは、リヒテル・ショックの記憶とノスタルジーなのかもしれない。それほど、鉄のカーテンの向こうからやってきた強大な男のイメージは鮮烈だった。


  「獅子の一撃」ということをある評論家が言っている。リヒテルのピアニズムの、ある特別な瞬間を言い表す言葉として、いかにもその通りだと思う。真の大ピアニストは、どこか帝王の風格がある。そしていざというときは獰猛で的確な一撃によって、不意に音楽の本質を捉え、あらゆる聴き手を震撼させるのだ。

リヒテルは全天にひときわ輝く一等星のように、20世紀の音楽界全体を照らす存在だった。
正直いえば、もっと派手な大曲を弾いてくれればいいのになと思わなくもなかった。「獅子の一撃」が欲しかった。だが、一度弾きはじめたら、もう魔術にかかったかのように、リヒテルの世界に完全に没入させられた。何しろリヒテルは預言者なのだ。その日その場にもっともふさわしいと彼が感じた楽曲をリヒテルは弾く。誰も異論は言えない。

  1994年2月、あれはまだバブルの余韻が残っている頃だった。派手で刺激的なものを求めていた東京の聴衆にとって、あれほど静かで控えめで小さな詩のような音楽をリヒテルが聴かせてくれたとき、忘れかけた大切なものを思い出させてくれたように感じたものだ。ひけらかしやエゴの表出とは無縁に、四季折々の風景、素朴な暮らしの一場面が個人の日記のように書かれた世界。人はいかに生きるべきかという哲学を、あのときリヒテルは教えてくれたような気がする。



リヒテルとともに思い出されるのは、ピアノ音楽がもっと神秘的で深遠で、人の生き方を根本から変えてしまうほどの力を持ち得るものだという事実なのだから。

真の音楽家とは何かということを考える際の、リヒテルは今も道しるべのような存在である。

                                               


子供たちをどう育てたいのか――音楽に出来ること――

今どきの子供たちの演奏を聴いていて、とても残念だと思ったり、がっかりしたり、悲しかったり、時にはイラッときたり、、それを簡単に言えば
“虚飾と傲慢さ”
の表現に、なっていないか?ということかも知れません。
キツイ言い方ですが、子供たちは気付いていないと思います。
大人の世界がそうさせているのだと思います。

例えばプロのアーティストとしてデビューさせるべく――そう思って育てるとします。そうすれば、育てられるピアニストの卵である子供はCD制作会社(レコード会社)からすれば「商品」な訳で、より商品価値のある大衆に迎合したものを求めます。
大衆が賢ければ問題が少ないのかも知れませんが、よりハデなもの分かりやすいもの見た目がキレイ・・つまりビジュアルも求められます。
一部のそういった星の下に生まれた人は、正直もう仕方がない運命なのかも知れませんが、過酷な運命を背負う事もあるかも知れません。
よほど強いものを持っていなければ、まっとうに生き抜くことは難しくなると思います。(CDを出されている全てのアーティストの方のことを言っているのではありません。巨大マーケティングをターゲットにした場合はおそらく大変でしょう。。)
そして現在、競争原理を持ち込む場では小さな子供の演奏にまでそういった傾向の演奏を求めてしまっているのではなかろうか?・・・これが今私が危惧しているところです。(これは音楽に限った事では無く全般的な傾向だとみています。もちろん、目の前の子たちが傲慢だという訳ではないのですが・・)

そうやって育った子たちの殆どは、音楽以外の職業を選択してゆくのですが、思考の根底にはそういうことが宿ってしまう。
「静かで控えめで小さな詩のような音楽。ひけらかしやエゴの表出とは無縁に、四季折々の風景、素朴な暮らしの一場面が個人の日記のように書かれた世界。」こういうリヒテルが求めた音楽の世界、人として正直でありなさい。誠実でありなさい。澄んだ目と耳で世界を見なさい。自分の足で大地に立ち、自分の頭で考え、謙虚に生きなさい。―――きっと、本物の「芸術家」と言われる人たちは、そんなことを願っている人たちだと思うのです。

心を開放し、ユーモアたっぷりに楽しく愉快。
時として真剣にマジメに物事に向き合い、強い心で命を懸けて立ち向かう事もあるでしょう。

子供は面白い事が大好き。
属性にまだ毒されていない、柔軟な心を持っています。
しかしまた、染まりやすくもあります。
あっという間に、その環境に染まってゆきます。
文化の違う国々の子を見れば一目瞭然でしょう。
裸で素足で暮らす子。
王家に生まれついた子。
幼くして既に武器を手にして戦う子。

自分たちの目の前の子が“フツウ”だと思いがちですが、文化圏が違えばまったく事情は異なるでしょう。
時代が変わってもそうでしょう。
とにかく子供たちは“大人の鏡”です。


子供の「何」を育てたいのか?=未来をどう構築してゆきたいのか?
同義語だと思うのですが、如何考えられますか?

ちょっと今日は長い上にダイレクトな表現でしたでしょうか?

目の前の子供は、健康に生きていられれば、必ず大人になる事を忘れてはいけません。
・・
「今のあなたが未来のあなたへとつながっているんだよ」


まだまだ書きたいことだらけですが、、

すみません

今日はこの辺で~
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これから音楽を始める方たちへ・・・

2015-02-05 02:32:01 | おもうこと

ピアノを習うことの意義について、最近脳科学者の方たちが、なかなか力強い事を仰っていますね。
これは本当に実感として思うことです。
今やっていることが色々な能力に繋がる・・・これを「般化現象」と言うらしいですが、これらを育てることが大切で、ピアノが一番効果を期待されるそうです。
ただね・・・こういうことのためにピアノ・・・と言うのもちょっと抵抗はなくはない(本当は純粋に音楽を感じ楽しむところから入っては頂きたいのですが)・・・が、、とにかく良いそうです(笑)

一番よくないのは何かに特化したものだけをやり続け(例えば計算が早くなるとか)、その成果だけに満足しているのはキケンということ。
本当にそう思います。
いくら計算が早くても、計算機やコンピューターがやってくれますしね。(“そろばん”はとてもいい!!)


受験勉強など、あらかじめ期待される解答を即座に言い当てるような勉強の仕方をしていると、人生を生き抜くための能力が育たない・・・自分の頭で考え、判断し行動できる能力・・つまり地頭を作ることが大事だということです。

そして、どうか目の前の結果や成果、成功失敗に一喜一憂しないで、人生を生き抜く力を育ててください・・・とあります。私の言葉ではなく最近マスコミにもよく出て来られる脳科学者の方です。
テレビに出ている割にはまぁまともな事を言っていらっしゃいますね(笑)
全く同感です!

これって、若い時には見えにくいのですが、ある程度歳をとって、自分も含め多くの人の人生を見つめてみると、本当に実感としてあります。
まだまだ先は長いですよ。。果てし無い道です。。しかも予期せぬことに遭遇することばかり。。絶対に計画通り思い通りにいかないのが人生ですよ。。と。


さて、脳を解剖したってどうなっているか分からない話ですが、、
優れた能力と感覚を持っている第一級の方たちは、自分の身体感覚としてお持ちのようです。

例えば作家の方が、書く作業だけしていると脳の働きが偏ってしまうので・・・おそらく脳のある部分だけ特化して酷使してしまうことになるのかも知れませんが・・・必ずランニングして体を動かす(ホノルルマラソンにも参加されているぐらい)・・・これはおそらく動物として生きていくために必要な身体機能、呼吸とか運動を司る??(小脳・脳梁・脳幹??専門知識はほとんどありませんが)・・・シリアスなものの他に笑える別の作品を書いてみたり・・・そうやって、バランスをとっていらっしゃるのだそうです。


最近パパッと読んでみた「虫眼とアニ眼」養老孟司、宮崎駿の対談集でも、人が認識する・・・つまり脳での捉え方なども書かれていましたが、宮崎駿監督は作品が出来上がった後は、閉じない部分があるのでしばらく自然の中で籠っていらっしゃる・・・ということが語られていました。


これ、どういう事かお分かりでしょうか?

何かの作品を作る時、かなり深いところまで潜っていかないと、つかまえて来れないものがあるんです。
創作すると言う大きな仕事を終え、日常生活に戻る時、ある程度その部分から戻り、蓋を閉めなければならない・・・感覚的な例えですが、そういうことです。
日常が創作に向けられる芸術家の方は、殆どこの世界に行ったり来たり、頻繁に行き来を続けている人達・・と言えます。
監督の作品などに関しても、私たちが何気なく見逃しているワンカットの中にも、相当深い思考の痕跡が練り込まれていて、深く読み取れる人には、そういうところまで分かる・・・でも、理屈では語れないことも沢山あるので、感度のいい子供たちには感覚で分かる・・・のかも知れません。

と言っても宮崎駿監督は、子供たちがバーチャルな世界に身を置くことを非常に危惧されているので、アニメばっかり見るのはちょっとキケンです


ついでに書くと・・・その事はずっと以前から憂慮していらっしゃって、「うちの子はトトロが好きでずーっと見てるんです」と言われると、「いけません!だめ!やめてください。年に一回ぐらいにして下さい」と、、(言いたいのを我慢しつつ小出しに出しているのかな・・?)
―――そんな事をしているうちに、子供たちにハッキリ結果が出てきた―――若い人が恐ろしくやさしく傷つきやすく、恐ろしく不器用でグズで、、いい子なのだ―――と。。
小さい頃から非現実のバーチャルなものばかりに取り囲まれてきた結果、“イ、イカン・・・恐ろしいことになっている”と感じていらっしゃるようです

良い環境を与えて、手出し口出ししなければ子供たちはすぐに元気になる。大人たちがオロオロしないでじっくり見てあげることだと、アニメを交えて語っています。



さてさて、本題、、
今さら??・・・と言わないで~~なるべく手短に


先ほどの宮崎駿監督の、開いた部分・・・と言う話をしましたね。
これにちょっと近い事なのですが、音楽をするとき“自己解放”は、大切な一つの目的と言えるかもしれません。
目的・・・と言ってしまうと、ちょっとつまらない表現ですが、何ものにも捕らわれない自分・・・あらゆる属性から解放された状態で、音の中で遊ぶ事が非常に大切なのだと思います。

よく“魂の洗濯”などと言いますが、なかなかいい表現かもしれません。

「心の栄養」だと思っています。

これは芸術全般に言えるでしょうか?


幼い時は、大いに笑って、夢の中で戯れてほしいのです。

しかしある程度、児童期から思春期になる頃、冗談やたとえ話をしていても開かない状態になった時、叱咤激励する場合もあります

分かりやすいのはTVでおなじみの俳優さんが、自らの主催する子供の俳優養成所で、子供たちにかなりひどい罵声を浴びせかけている場面・・・ご覧になったことがありますか?
なぜ、そんなことをするのでしょうか?
誉めて育てればいいのに・・・と、思われますかね??一般的には。。

あれは、子供たちの演技が“こんなもんでいいでしょ”と言うところで留まっていて、本当の心からの感情に本人も気付いていない時、ああいう風にしか開けない事もあるんです。。恐らく宮崎監督の開きっぱなしになるところと近い。
でも、監督の場合は、製作する時の日数(年数)の長さから考えると、これはもう相当で、命がけかも知れません。
一般人にはとても行きつけない領域です。

演技したり演奏する時も、そこまでのスパンでないにしても、ここの部分を開ける必要があります。

ちょっと常識的すぎて、優等生過ぎると、この部分が開きにくく、「なんでマジメにやってるのに怒られるんだろう」と思われるかもしれませんが、そのマジメこそが取り去りたい部分、かえってジャマになってしまう部分で、お利口さんを取り除くと、ピッカピカに“ステキな何か”が表れてくるはずなのです。

このステキな何かは、良い人との関わり、絵や本や自然・・・あるいは心を砕いてやったこと、、料理を作ってみんなに喜んでもらったとか、ケンカして泣いた、、仲直りして気恥ずかしかった、嬉しかった、、ドキドキしたりションボリしたり、やったーと思ったり、、そういう多くの感情に支えられ育ってゆきます。


全部お膳立てされると、育たないのです。


よくお料理に例えますが、良い料理人に育てたければ、良い「舌」を育てること・・・「味覚」を育てることです。
小さい頃は、毎日毎日野菜を刻む事ばかりしていても良い舌は育ちませんよね。
感情を動かすことなく日がな一日キーボードをたたいている状況では、ピアノが楽しくなるはずもないし音楽好きも育ちませんよね。

まず「なんて美味しいんだ!」「きれいな彩りだなぁ」から、もっと複雑な味わいまで感じ取り、本当に美味しいものを知ること。まがい物でない「本物の味」を知ること。
情感に支えられた味覚・・・音楽なら聴覚を育てる。もちろんそこには情感・・・「心」が充分に伴うこと。
筋力など身体的に未発達な時にムヤミにトレーニングし過ぎない事。
細かい筋肉より、まずダイナミックな身体的機能を発達させる、、まぁ簡単に言えば全身を使ってよく遊んでください

細かいトレーニングをするのはその次です。

良い音楽を聴かせてあげる。
音楽会にたくさん足を運ぶ。
楽しかったね、素晴らしかったね、と、親子や友達と喜びを共有する。


うちの生徒さんの場合を考えてみても、ある程度頑張って小学校高学年から中学生以上になると、ソナタやそれに匹敵する多くの名曲といわれるものを手がけるようになった時、この「心」の部分がそれに伴って成長してゆかないと、心からの表現に行きつくことが難しくなります。もちろんそれ以前の幼い段階から育てるべきことです。。

すこーしずつ、一人称から三人称にむけてシフトチェンジしてゆく必要があります。
これって、成長期に伴う心の発達と、とてもよくマッチしているんです。
演奏する曲の内容とともに、心も次第に大人に向かう・・と考えて頂ければ良いのかな。。

宮崎駿監督が感じておられるように、やはり強くしなやかな心・・・すぐポキッと折れないで、しなやかにたわみたくましく成長し続けてもらいたい・・・いや、そうでなければ、、未来は空恐ろしい事になりつつあるカモ・・・恐ろしがらせてスミマセン・・・が、ホントウのことです

さいごにオマケ
先日ネットで見つけた江戸後期からの言葉・・かな・・おそらく・・
(インターネットも使い方・・とも思いますが、バーチャルな世界は自然には遠く及びません。たまーにもらう情報の中に、皆さんにご紹介したいものもあるにはありますが・・)


【子育て四訓】

乳児はしっかり肌を離すな。

幼児は肌を離せ手を離すな。

少年は手を離せ目を離すな。

青年は目を離せ心を離すな。


【子育てに関する格言】

三つ心 六つ躾 九つ言葉 十二文(章) 十五理で 末決まる

しっかり抱いて 下に降ろして 歩かせる

三つ子の魂百までも

可愛くば 二つ叱りて 三つほめ 五つ教えて良き人にせよ


ではでは~
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