年末年始、瀬戸内海の初日の出を拝んだり、京都を散策したりしておりました。
京都国立近代美術館で開催されている“茶碗の中の宇宙”という展覧会を観る事、そしてこれに合わせて開催されている対談を聞くための京都行き。
樂家…ご存知の方もあるかと思いますが、茶の湯の世界。
高いお着物を着て高価な茶碗で…という事には興味は抱けないのですが、利休や織部、近代では川喜多半泥子…その思想には心打たれるものがあります。
対談は、樂家15代当主樂吉左衛門さんと小山薫堂さんという取り合わせ。
その前には、鷲田清一先生(京都芸術大学学長、前大阪大学総長、哲学者)や山極寿一先生(京都大学総長)とも対談されていて、もし知っていたら、、時間が作れたら、、是非拝聴したかったなぁ・・と思う興味深いものです。
小山薫堂さんは放送作家で、多くのヒット作を手掛けていらっしゃいます。
映画「おくりびと」や、“くまモン”の生みの親でもあります。
マイルドな人柄で分かり易い切り口でお話されるので、それに対する15代当主が語られることも大変分かり易く共感しました。
“一子相伝”とは、技術や学問などの秘伝や奥義を、代を継ぐ一人の子に伝えてゆく行為だそうです。
子供の頃から間近に代々(450年!)の歴史を経た茶碗があったり、こういう石がええんや・・などと、日常的に肌身で知らされること…。
しかしまた、釉薬(ゆうやく)は教えられず自らの力で作り出さなくてはならないそうです。
450年の歴史の中で何かがあったのだろう…と…。
何でもかんでも手取り足取り教える訳ではない…。
継承されるもの、受け継がれるものは「土」だけ…。
あとは自ら格闘して作り上げてゆくしかない。
そこに“不連続の連続”があるのだと。
これは目に見える「もの」を受け継ぐのではなく「精神性」が受け継がれてゆくのかな、、と、解釈しています。
このブログでも度々書いてきましたように「習いなきを極意とする」という利休の言葉があります。
「守破離」という言葉もあります。
極意とはたいそう厳しく孤独なもので、誰に頼ることも出来ません。
そうして苦しみ抜いて作り上げられたものの中にこそ本物があるのだと思います。
教えを守り、破り、離れる…なんと過酷な道なのだろうと思いますが、そうしなければ近付けない深い世界がある。
破るとは、教えや決まり事を、、というより、もしかしたら最終的には“己…おのれ”自らの“殻”なのかも知れません。
本居宣長も、いかんせんいかんせん(どうしたら良いか)と、弟子に問われるから教えてきたが、このように教えるという事は、本当に良かったのだろうか・・それとも、「思いのほかあしきことならんや(思う以上に悪い事なのではなかろうか)」と、打ち明けています。
こうして樂家の焼き物は長い伝統を有していますが、伝統という言葉では片付けられない不連続の連続であると言える…と語られています。
ものづくりの中に込められた世界の中にその思想を読み取る。
その中に、宇宙の全てが含まれている。
“私”そのものがミクロコスモスで、この中にこそ宇宙が繋がっている。
そのように感じました。
権力に対しても切り込んでゆく鋭さ、全ての装飾や美しい形を捨て、削ぎ落とした造形美…その中に“無限の宇宙”が存在する。
削ぎ落とし削ぎ落とし、、そうして見えた世界が真実なのでしょう。
ちょっと今日のお話はカタかったでしょうか??
最後に、、15代当主と言いますと、きちんとしたお着物を着て、、と思われるかも知れませんが、全然違います。
足首のところでしまっている綿のパンツに黒皮のジャケット、非常な切れ者、、でもユーモアもある、、大変な芸術家だと感じました。
ピアノには関係ない??・・・いいえ殆どそのまま受け取って良いと感じています
京都国立近代美術館で開催されている“茶碗の中の宇宙”という展覧会を観る事、そしてこれに合わせて開催されている対談を聞くための京都行き。
樂家…ご存知の方もあるかと思いますが、茶の湯の世界。
高いお着物を着て高価な茶碗で…という事には興味は抱けないのですが、利休や織部、近代では川喜多半泥子…その思想には心打たれるものがあります。
対談は、樂家15代当主樂吉左衛門さんと小山薫堂さんという取り合わせ。
その前には、鷲田清一先生(京都芸術大学学長、前大阪大学総長、哲学者)や山極寿一先生(京都大学総長)とも対談されていて、もし知っていたら、、時間が作れたら、、是非拝聴したかったなぁ・・と思う興味深いものです。
小山薫堂さんは放送作家で、多くのヒット作を手掛けていらっしゃいます。
映画「おくりびと」や、“くまモン”の生みの親でもあります。
マイルドな人柄で分かり易い切り口でお話されるので、それに対する15代当主が語られることも大変分かり易く共感しました。
“一子相伝”とは、技術や学問などの秘伝や奥義を、代を継ぐ一人の子に伝えてゆく行為だそうです。
子供の頃から間近に代々(450年!)の歴史を経た茶碗があったり、こういう石がええんや・・などと、日常的に肌身で知らされること…。
しかしまた、釉薬(ゆうやく)は教えられず自らの力で作り出さなくてはならないそうです。
450年の歴史の中で何かがあったのだろう…と…。
何でもかんでも手取り足取り教える訳ではない…。
継承されるもの、受け継がれるものは「土」だけ…。
あとは自ら格闘して作り上げてゆくしかない。
そこに“不連続の連続”があるのだと。
これは目に見える「もの」を受け継ぐのではなく「精神性」が受け継がれてゆくのかな、、と、解釈しています。
このブログでも度々書いてきましたように「習いなきを極意とする」という利休の言葉があります。
「守破離」という言葉もあります。
極意とはたいそう厳しく孤独なもので、誰に頼ることも出来ません。
そうして苦しみ抜いて作り上げられたものの中にこそ本物があるのだと思います。
教えを守り、破り、離れる…なんと過酷な道なのだろうと思いますが、そうしなければ近付けない深い世界がある。
破るとは、教えや決まり事を、、というより、もしかしたら最終的には“己…おのれ”自らの“殻”なのかも知れません。
本居宣長も、いかんせんいかんせん(どうしたら良いか)と、弟子に問われるから教えてきたが、このように教えるという事は、本当に良かったのだろうか・・それとも、「思いのほかあしきことならんや(思う以上に悪い事なのではなかろうか)」と、打ち明けています。
こうして樂家の焼き物は長い伝統を有していますが、伝統という言葉では片付けられない不連続の連続であると言える…と語られています。
ものづくりの中に込められた世界の中にその思想を読み取る。
その中に、宇宙の全てが含まれている。
“私”そのものがミクロコスモスで、この中にこそ宇宙が繋がっている。
そのように感じました。
権力に対しても切り込んでゆく鋭さ、全ての装飾や美しい形を捨て、削ぎ落とした造形美…その中に“無限の宇宙”が存在する。
削ぎ落とし削ぎ落とし、、そうして見えた世界が真実なのでしょう。
ちょっと今日のお話はカタかったでしょうか??
最後に、、15代当主と言いますと、きちんとしたお着物を着て、、と思われるかも知れませんが、全然違います。
足首のところでしまっている綿のパンツに黒皮のジャケット、非常な切れ者、、でもユーモアもある、、大変な芸術家だと感じました。
ピアノには関係ない??・・・いいえ殆どそのまま受け取って良いと感じています