米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

how-toでは語れない

2015-01-28 04:32:46 | おもうこと
先日、とっても素敵な経路で、青柳いづみこ先生の「どこまでがドビュッシ―?」を手に取ることが出来ました。
(熱心な友人は、もう既に読んでいました)・・
やったー!とばかり、本文にくらいついてしまいましたが、ふと目を転じると本の帯にステキな文が・・ずばり本質です。
そのまま帯の文から。引用。。

         

音楽の自由な愉しみ

・・・・秘めた思いが言葉の外にあるように 
  真の音楽は楽譜を超えたところにある

・・・・・「音楽は言葉がとだえたところから始まる」・・・・・
  しかし、「たとえば「印象主義」のように正しくない概念で
                    ドビュッシー音楽が固定され、
                非常に狭い範囲で理解され、広く伝播してしまうとき、
  それについては言葉をもって反論し、戦う必要がある。
それが、幸か不幸か言葉を与えられた音楽家の使命だと思っている。    
                              
                           (本文「楽譜の向こう側」より)

 
本当に素晴らしい弾き手の場合は、魂の磁場で作曲家と交流する。つまり楽譜から流れてくるものを、先入観念なしに受け止めるのだ。(略) 
リヒテルは、「音楽とは、演奏され、聞かれるためのもので、言葉抜きで成り立つ」と語っている。    

ドビュッシーも「音楽は言葉がとだえたところから始まる」というのが信条だった。(略) 全ての芸術の理想である「言うに言われぬもの」の表現について、概念を明確にしない曖昧さから、音楽の言葉に対する優位性を説いていた。

        


「どこまでがドビュッシー?」本文からの引用です。
最近いろんな分野の色んな角度から、、、しかも色々な時代の人達が同じことを言っているのが聞こえてきます。


染織家、志村ふくみさんも「色を見ても、色の向こうが見えていない。色が語ることを聞いていない」と。。これ何度も引用しましたよね。

全く違う分野・・・精神科医、名越康文さんも、内田樹さんとの対談の中で、「子供はいろいろシグナルを発信しているのに、受信可能なメッセージだけ選択し、都合の悪いシグナルは自動的にただの「ノイズ」に返還されてしまって、もう人間の「声」としては耳に届かない。(略)
結局言葉だけを待ってしまって、子供が発している信号には反応しない。微妙な表情筋の動き、或いは空気の動きからコミュニケーションが始まっているんじゃなくて、言葉しかない。。等々語られる事は同じです。

察する。
受信感度の高い人。

も何度も出てくる言葉です。


武道では、先に「居着いた」状態は「負け」である。という概念があるらしいです。
****************

「居着く」というのは武道の用語で、本来は恐怖や緊張のあまり足の裏が地面に張り付いて身動きならない状態を指す。広義には「ある対象やある文脈に意識が固着して、それ以上広いフレームワークへの切り替えが出来なくなってしまうこと」をも意味する。

****************

大学の教師をしていると、高等教育の段階では出来る事はもう限られているということを日々実感させられる。・・・そうです。。これは内田先生言。


全く違う時代・・・千利休が弟子、古田織部に究極の教えとして伝えた言葉・・・「ならひなきを極意とする」

語られていることは、ほとんど同じ。


外側の事象に気を取られず、本質を掴む。


ああすればこうなるは無い。 或いはマニュアルは無い。
色々な場面で多くの知識人が語っているのに、「じゃあどうすれば良いのですか?」と聞く人ばかりだそうで、唖然とすることだらけ、、養老先生など「もう死ぬかと思った」(笑)です・・・


カウンセリングを受けなければならない子も増え続け、不可思議な事件も増え続け、閉塞感があるのは、そういうところなのでは??と思ってみたり。

カウンセラーは「何もできない芸術家」だと、聞いたことがあります。 これ、もしかしたら河合隼雄先生の言葉だったかなぁ。。


「星の王子様」のサンテグジュペリも「大切なものは目に見えないんだ」「言葉はうそをつくんだ」と、言っていますが、嘘をついちゃあいけないとかそういうことではなく、言葉では言えないことが沢山ある。
「うん、そうだね」と仮に言ったとしても、場面場面で、全く違う意味になったり。。
そんなことですよね。
政治・経済・・医療や芸術に関してさえ、固定化、固着化が浸透し、物事が流動せず、息苦しく閉塞感が蔓延しているように思います。
システムだけ・・つまり外側だけを頑強にしたり改革しようとしても無理なわけで、「人」というものが見えてこない。
システムを頑強にすればするほど物事は形骸化するのだと思います。
そして形骸化したものだけを見て、そこに固着し留まってしまい、本質からどんどん遠ざかってしまう。

自由に息を吸うこと。。



「結局こうですよね」「これこれに過ぎない」という還元論に陥ると、非常に狭いところに思考が押しやられてしまいます。
世の中分からないことだらけ。。だからこそ人生は素晴らしい。。

そんな風に考えてみたり。。
如何でしょうか??

音符の向こう、楽譜の向こうに見える世界、聴こえる世界に耳を傾け思いをはせてみて下さい。
もちろん楽譜を適当にみるというのではないのです。
そこには生きた人の息遣い、悩み、苦しみ、歓び・・・得も言われぬ言葉に出来ない「何か」の世界がある。

そうして作曲家の心や思いと共鳴し、語り合うことが出来るのだと思います
(今日の文章はちょっと羅列っぽかったですねぇ~)
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ちょっと怖い本の話(*_*;

2015-01-22 06:56:44 | おもうこと
知識人の方と村上春樹氏の話をしていた時に、内田樹著「もういちど村上春樹にご用心」を勧めて頂いたのですが、内田さんのお名前は、それまで読んでいた本の中にも登場してきていたのに、手に取ったことが無かったので、「14歳の子を持つ親たちへ」「下流志向」(学ばない子供たち 働かない若者たち)という2冊も購入して読んでみました。。何度も読み返しつつ。。
その他「ぼくの住まい論」「疲れすぎて眠れぬ夜のために」も読んでみましたが、こちらはソフトな語り口。
本質的には優しい方だと思います。
お嬢さんが幼い時から、父親一人で仕事をしながら子育てをされた方で、多くの視点を持っていらっしゃる方です。

さて、ちょっと怖い・・・と書きましたが、はじめにご紹介した2冊の本は、本当にきつく怖い内容でした

でも、知らないで過ごしていることの方がもっと怖いので、内容についてちょこっとご紹介します。


「14歳の子を持つ親へ」は、TVにもよく登場される名越康文さんとの対談形式の本です。
名越さんはお洒落な眼鏡をかけて、けっこうもっともなかしこい意見を言っておられるけど、そもそもTVに登場する時点で、まず怪しんで見てしまうので、本当はどういう人なんだろうと、訝しがって見ておりましたが、かなりできる方のようですね。

こんなこと言ったら仕事出来なくなるかも知れないんだけど・・・と言いながら喋っている内容が、辛辣、厳しい、、そのうち笑える、、みたいなね。。


世の中、昨今「勝ち組」「負け組」と言っているけど、本当は「利口組」「バカ組」の中に横たわっているクレバスの方が怖い。。と。。

ちょっと脱線ですが、今どき流行っているものや言葉・・・妖怪ウウォッチ、キモイ、ウザい、チョームカツク等々、、、
ポケモンやピカチュー、べつにー、フツー、、と、どの子の口からも聞こえていた言葉は消え、また違う表現になっていますが、これみんな時流というか流行り病というか、、
私たちの脳って、ある意味洗脳され易く出来ているんでしょうね。
同じようなモノを身につけ、同じような家に住み、同じような車に乗り、、同じようにするから、同じでもちょっとランクが上のものを身につけたいとかね。。そうなるらしいです。


話を戻して、「利口組」「バカ組」の件。。
原文そのまま、引用します。

                                               

名越:僕、この頃よく思っていることがあるんです。(略)感性の豊かな知的な家族って言うのも少数だけど出現していて、そういう人たちに対しては選択の自由もどんどん出て来たし、学校も選べるようになってきた。 昔みたいに偏差値教育一辺倒でもないんです。(略)でも一方では、全くそういうふうな予備知識が無い家族もいる。どういう風に子供を教育したらいいかってことがお手上げ状態でわからない。とにかく人に情報を聞いてはそれをやってみる。でもそれを包括的にとらえることが出来ない。つまり感覚的に開いていないから、自分のやったことの結果をちゃんと感得し、理解することが出来ない。何かとてつもない二極化が起きていて、それは今よりももっと進むような気がする。
内田:しますね。
名越:経済的な意味での「勝ち組」「負け組」はよく言われますけれど、本当に深刻なのは知的な二極化・・・。
内田:そうです。「勝ち組」「負け組」じゃなくて、「利口組」「バカ組」の二極分化。文字通り「バカの壁」っていうか。「利口組」「バカ組」の間に乗り越えられない万里の長城みたいにして「文化資本の差」がはっきり出てきてます。
佐藤学先生の話しだと、東大の学生の間でもずいぶん差が出てきたらしいです。すごく勉強して入って来るから、みんな成績はいいんだけども、入ってきた段階で既に文化資本の差が歴然としている。3、4年になってゼミまで来ると、そこでの話題についてこられない学生がはっきり脱落してゆく。一方には、音楽も聴いたことないし、美術作品も観たことないし、海外旅行も行ったことないし、家に芸術家や学者が出入りするという経験もないって言う子たちがいて、他方には「芸大と両方受かったんですけれども、ピアノがいまいちだったんで文Ⅰに来ました」みたいな子供たちがいる。その文化資本の差って言うのは、二十歳過ぎると、もうちょっと埋まらないみたいです。
名越:例えば東大とか京大に入る子と、それよりも偏差値の低い大学にはいる子で、親の収入が違うというような事はよく言われるじゃないですか。
内田:東大の刈谷剛彦さんがデーター出しましたね。
名越:でもそれはある意味二元的な問題であって、本当の問題はまさに今先生が言われた、家庭内の文化資本の格差です。偏差値で言ったらその子たちの差はたとえば
80と60で20くらいだとしても、家庭内の文化資本の差って言うのはもっと違う。100と1くらい違っているのかも知れない。
内田:そうですね。一握りの非常に文化資本の豊かな階層と、残り8割から9割ぐらいのマジョリティーの差はどんどん開いていくばかりでしょうね。マジョリティーの方は、周りの一番低いレベルに合わせて「なんだ、こんなもんか」と思って安心しちゃうから、歯止めなく下がっていく。(略)
名越:ああ、それはやっぱり、僕の臨床的観察と・・・。
内田:たぶん同じですね。歴然と感じます、2極化。(略)非常に感覚のいい僅かな学生と、相互参照しながら自分の立ち位置をどんどん低めてゆくマジョリティーの間のクレバスが、ありありと出来ましたね。
名越:これは本当に由々しき問題で、見えにくいがゆえになかなか表に出て来ない。これはまさに子育ての問題とか、子供のコミュニケーションの問題とか、表情の数の多さとか、そういうものと通底している問題ですが、数値化としてデジタル化出来ないから、なかなか取り上げられない・・・。
内田:この2極化はあらゆる領域で進行してると思うんです。日本人って、もともとすごく均質性の高い集団でしょう。だけど今では、均質性が保たれているのは低い階層だけで、上層はスーッとそこから抜け出している。上の方の、ほんの一握りの人たちが世界的な水準の文化資源や情報を享受していて、残された95%ぐらいは、「日本はみんな中流だよね」って呑気に信じながらどんどん下層化している。今どきのバカな大学生って、もう昔のバカ学生の比じゃなくバカですからねぇ。

                                               

これ200ページほどある本の、ほーんの数ページです。
延々続きますよ。。こういった内容。
もう怖いを通り越して面白くさえなってきますね

そして名越先生は、ヘタに根治を目指して深い話をしようとすると、どんな風に理解されるか予想がつかないので、危険なんですね。・・・子供の場合は、まだそれから学んで行ける可能性もあると思うけど、親御さんの場合はもう自分が絶対と信じているから「わっ、これは通じ合うのは絶望的」というケースがはっきり言ってかなり多くなってきている。 つまり、「言葉が通じる人と言葉が通じない人」ということ。 昔の方がもうちょっと、「情緒をうまく使いこなせる人が知識人である」という概念が、日本に共通理解としてあったんじゃないか。

そんなような事を言っておられます。

「オバサンの真実」、明かします。
とか、、ちょっと怖い話です


イヤな事を書いているようですが、いろいろ外側で起こっている事件や事象を、人ごとだと思わずに自分の中に取り込んで考えてみたり、自分はどうなんだろうか?・・と自己批判の精神を持っている方はスーッと抜け出してゆく5パーセントの中に近付けるのかも知れません。
ピアノを習っているから大丈夫だという程アマイものでは無いようにも感じています。


長くなるけどもう一つ書きます。
頑張って読んでみて下さいね。


それは内田さんの本にあったお金に関してです。
これは、お金のことを語っているところではなく、教育の事を書いてある項目でのことです。
“等価交換”という言葉、お聞きになった事はありますか?
この品物にはこれこれの価値がある。と置き換えてお金と品物を交換する考え方で、現在は何の疑いもなくこの資本主義の考え方に埋もれて私たちは生きています。
で、、子供たちも既に毒されていて、学校での勉強も、何の価値があるのか、、という考え方にかなり染まっている可能性がある。
もしかしたら、塾でいくらいくら払ったら、このように点数が上がった、いい学校に進学できた、、そんな考え方が蔓延しているのかも知れません。

本来は、教育・医療・宗教は聖域なので、等価交換の価値観を当てはめることはタブーだったのですが、何でもかんでもお金に換算し、損か得かで考えてしまう現代人にとっての思考法は、殆ど疑いの余地もないほど固定化されて、それが全てにおける価値判断基準となりつつあります。
本当のところ、芸術もそういった類のものでした。つまり等価交換はし難い。。しかし今では内容はそれほどでもないのにとても宣伝上手にラッピングしてセンセーショナルに売り込めば、大きな利益のもたらされる商業主義が蔓延しすぎています。何故なら「ほんもの」が分からない人が多すぎるのでしょう。一般大衆である我々は、なかなか理解しがたい事もあるのですが、本当に「審美眼」・・これは観るでも聴くでも読むでも・・本当のところで言う、非常に鋭く研ぎ澄まされた感度の持ち主、という人がいて尊敬され、そういう人の口から、教え伝えられるものが広まってゆく形で浸透していったのでしょう。しかし今では“経済に飼い馴らされたたマスコミ”の宣伝がその役割を果たす時代になってしまったので、一般大衆である私たちは多くをつまらないTVやラジオ、雑誌で教育されてしまっています。せめて、良い本をチョイス出来れば良いのですが、残念な事に売り込みたい2流以下の人によって書かれたハウツー本に流れて行っているのが現状です。ネットも遠隔地まで速攻情報が流されますが、殆どがガラクタの情報なので、やはり本物を見つけることのできる感度や審美眼が無ければ殆ど間違った方向に流されてしまいます。
 
“現代人”についてもひとこと言わせてください。
かなり進化した現代人が我々である・・と思ってしまいがちですが、100年前の人も1000年前の人もその時点では“現代人”でした。そして100年後の人も1000年後の人も、その時点では“現代人”です。では・・我々は??・・過去・現在・未来を考えれば子供でもわかる簡単な事ですよね。


さて、長々になってしまいました。
あと少し、ちょっとだけ、内田樹さんの「下流志向」より引用しておきますので、ちょっとずつ分けてでもいいですから読んでみて下さいね。
そして目の前の子供たちを、「バカ組」にしないよう、自分自身がちょっとでも利口になるよう(笑)・・これがなかなかなれないのですが・・頑張りたいですよね~



                                               




「何のために勉強するのか」「この知識は何の役に立つのか」―――。
もし小学一年生の教室で、先生が「ではこれからひらがなの勉強をしましょう」と言ったときに、子供たちが「ひらがなの学習に対する内発的な動機づけが私の内部にあるのだろうか?」と自問することを許したら、そして、「内発的な動機づけが発見できませんでした」と自己申告した子供たちにはひらがなの学習を免じるという事を制度化したら、学校はどんなことになるでしょう。
しかし、現に学校はそのSF的想像のような場所になりつつあります。

引用:《意味ある学習が求められている・・(略)・・しかし実のところ、そもそもこうした問いに誰もが納得いく回答などあるはずはない。(…)面白い―つまらない、楽しい―苦痛、すぐに役立つ―役立ちそうもない。「面白くて役立ちそうな」授業が求められるのは、性急に各人にとっての意味を求めるといが社会に充満していることの裏返しである》(刈谷剛彦 「階層化日本と教育危機」より)

僕自身も大学で繰り返し同じ問いを向けられます。「これは何の役に立つんですか?」という問いが、本当に無邪気に、最優先のものとして学生から発せられる。「何のために勉強するのか?」「この知識は何の役に立つのか?」
去年、ある国立大学で集中講義をした時に、その大学の新聞部の学生からインタビューを受けたことがあります。その学生が発した最初の質問が「現代思想を学ぶことの意味は何ですか?」というものでした。
その問いを発した学生は、もし僕がその問いに説得力のある解答をしたらそれを学んでも良いが、僕の答えに納得できなければ「学ばない」と宣言している訳です。
つまり、ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属しているということを、問いを通じて表明しているのです。
僕はこの傲慢さと無知にほとんど感動しました。
二十歳の学生の手持ちの価値の度量衡をもってしては計量できないものが世の中には無限に存在します。彼は喩えて言えば、愛用の30センチの「ものさし」で世の中の全てのものを測ろうとしている子供に似ています。その「ものさし」では測れないもの、たとえば重さとか光量とか弾力といった事の意味を「ものさし」しか持たず、それだけで世界の全てが計量できると信じている子供に、どうやって教えることが出来るでしょう。(略)
これが「何の役に立つのか?」という功利的問いを下支えしているのは「自己決定・自己責任論」です。これもまた「自分探しイデオロギー」と同時期に、官民一体となって言いだされたものでした。そしてそれが捨て値で未来を売り払う子供たちを大量に生み出しているのです。

(クレーマーの増加に対しても、等価交換の思考が色濃く反映されているようで。。「下流志向」の別のページより)
このゲームのルールは「先に文句を言ったもの勝ち」ですから、このゲームで幼児期から鍛えられていた子供は、どんな場合でも、誰よりもはやく「被害者」のポジションを先取りする能力に長けてゆきます。人間生きている限り、様々な不快な出来事に遭遇しますが、そのすべてにおいて、「私は不快に耐えている人間」であり、あなたは「私を不快にさせている人間である」という、被害―加害のスキームを瞬間的に作り上げようとする。(略)
行政絡みの不祥事や医療事故におけるクレーマーの過剰は日本の社会システムそのものを崩壊させかねないところまで進行しています。もちろん、学校もそうです。



                                               

めちゃくちゃ長い引用になってしまいましたが、膨大な著作の中のほんの数ページです。

出来ればお読みになる事をお勧めします。


〔*補足しますと、内田さんの専門は、フランス現代思想(ユダヤ人哲学者レヴィナス研究等)、映画論、武道論(凱風館にて合気道)、東京大学文学部卒・・等々です。そして精神的な世界にも非常に精通していらっしゃいます。〕


子供たちに、こんな世の中を手渡してゴメンね・・みたいなことにならないよう・・と言いたいのですが、もう既になっていますので、内田さんの言葉を借りれば、
「身をえぐるような考察を通じてしか、この問題に取り組む道は見えてこない」・・・現実です。
学齢期になる子供たちはその中に放り込まれ組み込まれてしまっている状況。。



キツイことばかり書いていてすみません(笑)
それでも耳を傾けてくれている人たちもたくさんいらっしゃるんですよ~
知識人のご父兄や友人も多いですしね。。私より遥かに賢い人たちです。
みんなで方向転換しましょう。頑張ってこの船に乗っていてくださいね。。まるで「ノアの箱舟」だ~

コメント (2)
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