米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

体験するということ

2013-11-28 08:35:17 | 本の話

前回のblogで読書について書きました。



何人かの子に聞くと、低学年では「エルマーの冒険」「ニルスの不思議な旅」等も出てきて、懐かしいなぁ、と思いました。



私の知らないものも当然出てきますよね。



それも楽しそうでした。



「ないたあかおに」「てぶくろをかいに」「ごんぎつね」・・・そのほか、宮沢賢治も素晴らしいものを多く残しています。



アンデルセンも美しいものを残していますね。



今どきは、ディズニー映画で見てしまうんでしょうか?



ディズニーも悪くはないけど、是非自分の手に取って本を読んでほしいなと思います。



中1ぐらいになると「あんまり読まないけど、“博士の愛した数式”とか読んでみました」



「おーいいじゃない。小川洋子さんね」



読書という行為は、圧倒的に「体験」なんです。



悲しくて涙を流したり、はらはらしたり、ほっとしたり。。



何十冊読む・・・というより、この「体験」こそが大事なポイントで、「心を動かす」ことが非常に重要になってきます。



もちろん映画でもこういう体験は出来るのですが、自分の心の中に思い描いている質や量がはるかに上回っています。



同じ作品をゆっくり時間をかけて何度も読むことも、悪くないかもしれませんね。



複雑なものばかりではなく、本質的なものをついた絵本にも大変な力があると思います。



実際、高学年の子にもこういう読み聞かせもなされているとのことで、いいことだなぁと思いました。



なかなか本を手に取って読む時間がない年齢の子や大人も、こういう本は非常にいいのです。



本質が書かれていますもんね。





さて、お手伝い。



これも体験だと思います。



ある8歳の女の子。



お風呂掃除とお料理のお手伝いを、やっているそうです。



お掃除が楽しいのか辛いのかは聞いていません。



工夫して楽しい・・と思う時もあれば、面倒な時もあるでしょう。



ただ、こういう体験をしていれば、どこかでいつもピカピカ磨かれた玄関や台所、あるいは公共の施設を見て、自然にそうなっているのではなく、陰で誰かの手がかかっていることを想像できるでしょうね。



ハッと気付くこともあるかもしれません。



ニンジンやジャガイモを切るのを手伝って、小さな兄弟が美味しそうに食べていたら、うれしかったり、残したり文句を言ったりすれば、あぁ・・と思ったり、そこには何かしらの感情が生まれます。



こういう体験は、非常に重要なのだと思います。



特に手をかけられている現代の子には。。



いつも言いますが、いい子になれって言っているのではありません。



やはり「体験する」ということが、とても尊い事なのです。



文句を言いながらでもいいと思います。



明治時代に「educationエデュケーション」という言葉が入ってきたとき、福沢諭吉が「教育」と訳したのが、よかったのかどうなのか・・・という議論もあるようですね。



「educationエデュケーション」は、本来「引き出す」という意味で、「教え込む」事ではないんです。



ご存知の方も多いとは思いますが・・・



発表会などで、みんなが素晴らしい演奏をしてくれたとして、それは先生が「教え込んだ」のではなく、まぎれもなく子供の中から「引き出した」ものが、そういう演奏につながっているのです。



本来、人は素晴らしい能力を持っています。



先日もご父兄の方とお話しいていて、ご主人が「もう自分の口出しが出来る範疇ではなくなった。環境を整えてやり、自分の力でやってもらうしかない」と。



色々な理由もあったでしょうが、ピアノのことも考え、引っ越ししたんですよ。。とお聞きしてビックリしました。



本当に良い御両親に恵まれ、その子も幸せですよね。



小学校高学年になったその子(10歳か11歳)は、私が良く歴史の話をするので、図書館でしょっちゅう歴史について調べたり勉強したりするようで、「私の子なのに、もうそういいう意味では私を超えています」というような内容のことを、お母さんが言ってらっしゃいました。



先生が厳しく言ってくれているうちが花で、言われなくなったらダメなんだ・・・という私の言葉もしっかり心に留めてくれているようで、真っ直ぐな心で感じてくれていて、嬉しいなぁ・・と思っています。



きっと、しっかりした「目」と「耳」を持った、素晴らしい大人になってゆくんでしょうね。



まぎれもなく「自分の心」や「思考」で、素晴らしい演奏をしてくれる子供たちを目の当たりにすると、本当に感動します。



こういう演奏を聴くと・・・泣ける・・・あれ??トシなのかしら??



では~



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ぱぱっと・・・を繰り返すと

2013-11-21 08:16:21 | おもうこと
こんにちは
今日は本のお話にお付き合いください

現在、何冊か同時進行で読んでいる本の中の一冊が、河合隼雄先生・・・の「河合隼雄の“こころ”」教えることは寄り添うこと

という、最後に綴られた本です。

オビには、不世出の臨床心理学者が最後に綴った“おとなのこころとこどものこころ”とあります。
とても分かり易く読みやすく書いてあります。

殆どの項目が、4ページぐらいにまとめられ、興味あるところから読み進められるようになっています。

これは、「こころの子育て」も同じ工夫がされていて、じっくり読む時間がない・・・というお父さんお母さんや、学校の先生方でも、少しずつ読めるようになっています。

この中で、とても共感することの中から・・・
少し引用・・・

「読解力」の弱い子供が多いことが、問題として指摘されている。算数でも計算は相当に良くできるのだが、実際場面での応用問題を出すと、問題をよく読んで状況が分かると、簡単な計算ですぐわかるはずなのに、答えの出し方が分からず、間違ってしまう。或いは、漢字は読むことも書くこともできて、文章を読ませるとしっかり読むのだが、それが全体として何を言おうとしていたのか、などと問うと、さっぱり答えられないのである。

最近、私もよく・・・
四角の解答欄の中に答えは入れられても、それが何なのかわかっていないのでは?

ということを言ったり書いたりするのですが、これも同じ意味。。

何分の何拍子?
書いてあるので答えられます。。だけど。。

「じゃあ、数えながら弾いてみて」
「1,2,3と小節に書き込んでみて」
・・・
???

なんとなく素敵な感じで弾かれていても、??な演奏・・・

こうだ☆と言える答えにたどり着けるまでには、何かしらの過程があり、ちょっと頭を悩ます時間が必要。

そこを飛ばして、なるべく早く答えを得ようとすることは、大切な何かを置き去りにしている可能性がありますよね。
考えを深めてゆくこと。。

きっとこれは子供自身が悪いんじゃなくて、大人がそういうことを普段求めていないんだと思います。


「読解力」を身につけるには、「時間をかける」ことが必要なのだが、「素早く反応する」ことに慣らされすぎていないだろうか・・・と。

子供たちのゲームにも、「ぱっ、ぱっ」とやって正答が見つかる、というのが多い。
つまり、考えていることに時間をかけるよりは、早く反応して、当たるまでやればよい。ということに慣らされすぎてしまうと、書かれています。

ゲームに関しては、「操作する」という態度が強くなり、「関係性」が生まれないことが指摘されています。
鬼ごっこやかくれんぼ、トランプや将棋などは、必ず人間関係があります。


マニュアルに沿ってやればうまくいくということにも、多くの問題が生じてくると思います。

型どおりの範囲なら、人間関係もある程度マニュアルも通用するが、自分の思い通りに「操作できる」と思い始めると、思い通りに「操作」出来なくなり、パニックを起こし、「こんなもの潰してしまえ」というような、短絡的行動に結びつく恐れがあるのではないかと。。

これは非常に怖いこと・・恐ろしい事件を引き起こしかねないのではないかと。。
実際こういう事件を起こしてしまう多くの若者・・(ばかりではありませんが…)の短絡的思考の傾向は、多くの問題をはらんでいるということ。。

子供たちが触れるものにも、全体と関係なく、パッと興味を引く場面が多く見受けられます。
瞬間的には面白いなどという映像を見せ続けられることが、子供の脳や心の発達にどれほどの影響を与えているのか、考察してみる必要がある…と考えられます。

ゲームやテレビについて書きましたが、教育全体にも、「ぱっ、ぱっ」と、素早く反応することが強調されているのかも知れません。

「思い通りに操作する」ことは出来ず「我慢する」ことも時には必要。。
何でも聞いてあげれば、「やさしい」感じはしますが、それは子供の心にいい影響ばかり与えません。

少しずつ「思い通り」にはならない、ということを伝え、それに対する事の出来るしなやかな「心」を育てなけらばならない、と感じています。
下手でも、時間かかっても、「あえて」子供自身がやってみること。

子供たちは意外にも、喜んでやってくれます。
「受け身」にしてしまうのは、大人の、一見「親切」そうな対応。

出来る事は、何でも、時間の許す範囲で、子供にやってもらいましょう。

日常の何気ないことから、多くのことを子供は学び、「生きる力」を身につけてゆくと思います。

よろしかったら、是非この本を手に取ってみてください。



河合隼雄の“こころ”―教えることは寄り添うこと



Q&Aこころの子育て―誕生から思春期までの48章 (朝日文庫)



非常に読みやすいので、どうぞお手に取ってみてください。



こころの処方箋 (新潮文庫)



何かの本に、佐野洋子さんが、「おてんとうさまの光をいっぱい吸い込んだ座布団みたいな人だった」と、亡き河合隼雄先生を偲んで語っていらっしゃいました。



その、佐野洋子さんも今は亡き人・・ですが。



村上春樹の文の中に「我々は少なくとも、鎮魂すべきものをいくつか、心の中に抱えている」ということを書いていたけど、曲に向かうとき、少なくともそれは重要なことの一つだと考えています。





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植物を育てるように・・

2013-11-11 06:01:50 | おもうこと

植物を育てるように、子供たちを育ててゆきたい。



光をあて、水をやり、栄養を与える。



与えすぎて根腐れすることだってある。



光の当て具合も様々で、植物の種類によって異なる。



生育具合も、咲きごろ見ごろも違う。



促成栽培や、温室育ちでは、次の世代を生み出す、強い植物には育たない。



食べるだけ、鑑賞するだけならまだいいが、たくましくは育たない。



しょせん温室育ちの促成栽培。



大人はそれをよく見て、いいところで水をやり、栄養をやり、光をあて、じっと見守るしかない。



その事に徹する。



植物は、やがて花を咲かせ実をつけ、次の世代を生み出してゆく。



そういう、露地物の力強い植物を育てなければ。。



    



子供を愛するならば、答えを教えてはいけない。



あえて考えさせる。



あえて困った場面を作る。



手出しをした方が簡単だ。



一見親切そうに見える。



「やってあげる」ほうが。。



でも、そうじゃない。



下手くそでも、時間がかかっても、一生懸命に子供がやることを見守ってあげること。



「答」ではなく「思考回路」を育てる。



感覚を育て、直観力を育て、洞察力を育てる。



体と向き合い、自身と向き合い、作曲家の思考回路に向き合い、時空を超えて会話する。



人生って何ですか?生きるって何ですか?



という根源的な問いかけを、子供たちは、無意識のうちに、違う言葉でいつも発している。



ともに悩み、寄り添う。



大人だって、完璧な答えなんて見つかっていない。



見つけるために、学び、働き、、つまり生きているんだとさえいえる。



そういうことを伝えなくちゃならないんだと思う。



成人君主じゃなくていい。。



「生きている」・・・って生々しいことだから。。



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鈴木慎一氏・・・スズキメソッド創始者

2013-11-10 03:43:18 | 本の話

今日はお母さんに「イタイ」言葉が並ぶかもしれません



シンマイ教師だった20代の初め、経験不足を読書で補おうと数々の本を読みあさりました。



その中に、スズキメソッド創始者の鈴木慎一さんの「愛に生きる」という本がありました。



それを、「頭の体操」で有名な心理学者の多湖輝さんが読み解き紹介するような形で、「愛の才能開発」という本を執筆されました。



幼児教育、早期教育、、まかり間違うと、本当に大変な思いをしなければならない子供たちが出てきて、深く考えずにはいられません。



痛い言葉ですが、引用しますので、ガマンして読んでみてください。



    



バイオリンの早期幼児教育で画期的運動を展開しておられる鈴木慎一先生に、私がはじめてお目にかかったのは、かれこれ20年近くも前のことだ。



当時すでに60歳を超えておられた先生は、しかし青年のように若々しく目を輝かせながら、子供たちのすばらしさについて語られた。



「子供たちの潜在能力というのは、計り知れません。親たちのあの“迫害”の中にありながら、なおかつ大人たちには信じられないような能力を発揮します。指導の仕方さえ間違わなければ、どんな子供でもその能力の芽は確実に伸びるのです。子供の能力の芽を摘んでいるのは大人です。」



私は“親たちの迫害”という言葉に、思わず吹き出してしまったが、あれから20年近くたった今日、この時の鈴木氏の言葉がますます当を得たものになってきていることを、つくづくと思い知らされる。



世のお母さんがた、お父さんがたは、誰しも自分の子供の能力を、より高く、より良く育てたいと思われるだろう。



ところがその思いの大部分を、鈴木氏は“親の迫害”と喝破するのだ。「何を失礼なことを」と思われるお母さんがたお父さんがたに捧げたい。



鈴木氏はドイツ留学中の青年時代、あの相対性原理のアインシュタイン博士とも親交を結ばれていた。そして博士の高い人間性に打たれるとともに、物理学の最高峰である博士が、同時に素晴らしいバイオリン奏者であることも、直接に知ったという。



物理学と音楽という、まったく異なる分野でそれだけの優れた才能を持てるということは、一般には博士の天才性を示すエピソードとされているが、鈴木氏は全く逆の受け止め方をしている。



「一つの分野で高い能力を身につけた人は、ほかの分野でも同じぐらいの高さまで、その能力を伸ばすことができる」



というのが、鈴木氏の考えなのだ。



(詳しい内容は、また後ほど・・・)



昭和57年10月  多湖輝



    



昭和57年とは、私23歳・・・そんなころ読みましたね。。



31年前ですから、お父さんお母さんがたは、生まれて間もない??



ヘタすりゃまだ・・ってこともあるかもね。。



少なくとも“親たちの迫害”・・・の被害をこうむっていた世代・・・ということになります。



私、思うんですよ。



自分の子供時代を振り返って、「こんな風に育ててもらいたかったな~」というのを、想像してみるのも良いのかな。。



決して有名人にするとか、有名大学に進学させるとか、大金を稼ぐ人にするとか、そういうことじゃないですよね。



人って、どこかで「痛み」を感じて生きてゆくもの。



そこから真珠のような「美しい」ものが出てくると思う。



ピーカンの晴ればかりの人生なんてあり得ません。



子育ても、そういうことも含めて、ふかーく子供を見つめてゆきたいなって、思うんです。



最後にもう一つ、痛い言葉。。



これは私の最近とみに思っていることです。



「この子に“生”を与えたと同時に“死”も与えたのだ」



という重みです。。



Img_4774



奈良ホテルにあるアインシュタインが弾いたピアノ・・・写真も飾ってある。



写真



アインシュタインの従弟は有名な音楽学者



写真: 昨日仕入れてきた本 これはちょっと時間かかるだろうな。。。  でも楽しみ~



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学ぶほど知らないということを知る

2013-11-09 07:59:10 | おもうこと

学ぶほど知らないということを知る・・・

これは、時々高校生にいう言葉です。

たまに中学生にも言います。

何かの本からの引用ではなく、私の実感の言葉です。

おそらく、多くの人がそれぞれの分野で実感しているのではないでしょうか?

先日も宇宙開発の最先端の学者の方が、かなり宇宙のことを解明できてきた。。しかしまだ0・1%(だったと思います・・とにかくびっくりするほど少ない数字)しか解っていないのです。

と。。

実るほど頭が下がる(こうべ垂れる・・だった気もしますが・・)稲穂かな。。

まぁそういうことでしょう。

先日は、ある思春期の子に、

「あなたより私に優れたところがあるとしたら、それは、あなたより“自分は知らない”ことを知っている。。ということだ」

と語りました。

知れば知るほど「奥深さ」を知るのです。

自分の「小ささ」を知ります。

先日もピアノを弾かれる、あるお母様が、「やればやるほど遠ざかる気がします」とおっしゃっていました。

とても正しい感覚だと思います。

うちのご父兄(多くはお母様)の中には、大学で音楽を専攻され、音楽関係のお仕事・・・学校の先生だったりピアノの先生だったりしますが、数多くいらっしゃいます。

この方も、そのお一人で、大学でピアノを専攻され、かなりの難曲もこなし、今でも学び続けている方です。

演奏活動も家庭を犠牲にしない範囲でやっておられますし、ご自分のレッスンも続けていらっしゃいます。

だからこそ出る言葉だと思います。

これでいいということはないので。

ちょっとかじったところで、簡単に物知り顔で語るほど恥ずかしい事はありません。

分かる人には「浅さ」を見抜かれてしまいます。

ちょっとマスメディアに出たとか、なにかで評価され賞をもらったと言って、勘違いしてはだめです。

そんな表層的なことでは、「生きる」は、語れませんし、「芸術」からも、「学問」からも、どんどん遠ざかってゆくでしょう。

「やればやるほど遠ざかる気がします」

というのは、自分が客観的に見えてきている状態なのだと思います。

生きて学ぶことや、子供を育てることは、長い歴史の中で、先人たちが生涯をかけて学び、生み出してきたものを「受け取り」「継承」してゆくのだと思います。

私たちも、長い歴史の中の一粒にすぎません。

それでも日々を楽しんで、学んだり、受け渡したりしてゆければと思います。

本当に何百年前の人の作品に触れると(これは音楽に限らず)、その偉大さや深さに驚きを禁じえません。

私たちは、本当に進歩・進化しているのであろうか??

と、いつも考えさせられてしまいます。

それでも、やはり「学ぶこと」は、喜びだ!と、思います。

人間ってそんな存在なんでしょうね。

今日はカタかったですね。

日々このようなことを考えて生きているんです。

何かヘン??~

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