米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

無知の知・・・知らないということを知っている・・・ということ

2014-04-29 05:44:56 | おもうこと

「無知の知」



ご存知でしょうか?



ソクラテスが2500年も前に言っていたようです。



2500年前の古代ギリシャ。。



とても遠い世界のようにも感じますが、言っていることはそんなに難しいことじゃない。



明治時代に海外から導入した学問に「哲学」・・・と名付けてしまったことで、えらく難しいこと・・・と言う錯覚の様なものが生まれたと言われています。



「ただ生きるな。 より善く生きよ。」



より善く生きる。



その事を問い続けているのでしょう。



人は何故に生まれて生きて死ぬんだろう。



私とは誰だ。



何故にこの宇宙が存在するのか。



等々。。



何か・・・を問い続けているだけです。



そんなに難しいことじゃない。



子供でもふとした時に感じ、考える事。



なんで? なんで?



と聞きますよね。



子供って哲学しています。



じゃぁなんでピアノ教師が??



って・・・



絵を観よう、本を読もう、いい音楽を聴こう。



心の栄養の為に大切なこと。



で、その作者たちが、何を考え求め続けたって、そういうことなんですよ。。



















ラファエロやダヴィッドのの画にも、ソクラテスは登場します。



1500年ごろに描かれたラファエロの「アテネの学堂」には、古代ギリシャの賢人が数多く登場しますし、1787年に描かれたダヴィッドの「ソクラテスの死」は、その最期をめぐる物語を絵画に収めています。



作者も、「より善く生きる」とは・・・



と考え続けていたことでしょう。



音楽の作品も、このような問いは内在していて、ドビュッシーなど、本当に古代ギリシャには憧れを抱いていたようです。



実際それを反映させた作品もありますしね。



ソクラテスについて・・・





プラトンの『ソクラテスの弁明』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロン神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会い、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。



しかし、実際に賢者と世評のある政治家詩人などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。それぞれの技術に熟練した職人達ですら、たしかにその技術については知者ではあるが、そのことを以って他の事柄についても識者であると思い込んでいた。



こうした経験を経て、彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているのだと理解しつつ、その正しさに確信を深めていくようになり、更には、「神託において神がソクラテスの名を出したのは一例」に過ぎず、その真意は、「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになる。こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神への奉仕」として、ソフィスト達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず、極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことをライフワークとするようになる





知らないことを自覚することなく知っていると思うより、知らないということを知っている方が、賢明であるという考えは、現代でも全く同じですね。



哲学・・・と言う言葉の響きが、難しさ・・・を感じさせているのかも知れません。



「より善く生きる」「真善美」を求める心。



キレイごとではないんです。



本当に心や魂が喜びます。



絵を観る時、本を読んだり音楽を聴いたり。



それはただただ綺麗・・・と言うばかりでない、深い意味が込められている。



その謎解きをするのが面白く、人生の醍醐味と言えるかもしれませんね。



そうそう!



林檎さんからのコメント、すごく興味深かったので、皆さまにもお伝えします。



“自然からの贈り物・・・そして恩恵”の回に、寄せて下さったコメントの中で、



























「潮の満ち引きは、一分間に18回(呼吸も同じ)で、18の2倍は体温の36℃、36の2倍は脈拍の72、72の2倍は血圧の144・・・・・」



これは知らなかったので、すごく感動しました!



でも、「ああ、やっぱりそうだよね。私たちは自然の造形物のひとつで、宇宙の節理の元に生きている」



間違いないなぁ~!



そんな感想です。



ご興味ある方は、コメントクリックしてご覧ください



「私たちは、驚くために存在する」ゲーテ



だそうです。。



ゲーテはベートーヴェンと友人でしたしね~



しかも・・・ベートーヴェンはソクラテスを大変敬愛していた。。

ベートーヴェンという人と作品を理解する為にも、ソクラテスについて、哲学について、、少し考えていみるのも良いかも知れませんね。。



ではでは~~






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俵屋宗達・・・“風神雷神図”

2014-04-28 00:01:15 | おもうこと

ファイル:Fujinraijin-tawaraya.jpg

日曜日・・・3月までは、受験生のレッスンで結構根詰めてレッスン(・・って、私のことだから大したことはありませんが・・)していて、ピアノレッスンばかりじゃなく、楽典、聴音、新曲視唱、ソルフェージュ一般等にプラスして、ピアノレッスンも入っていたので、月曜日のリトミックを朝からこなすと、火曜日はぐったり・・・でしたが、、4月からは何ともスッキリ

今は、たまーに日曜日のレッスン後、スーパーにふらふらと買出しに行ったり、なかなかゆるりとしております。

今日は午前のレッスンをした後、午後から高校生のMちゃんを誘って、コンサートに行ってきました。

プッチーニとロッシーニの珍しい宗教音楽。

プッチーニの若かりし頃の作品は、テノールとバリトン、そして合唱とオケ。

ロッシーニは、ソプラノ、アルト、テノール、バリトン。

珍しい曲で、なかなかの好演でした!

その後、「おなか減ったね~」・・・と言って、Mちゃんと全日空ホテルでアフタヌーンティーを楽しみました

さてその後、ピアノを弾いたりしてから、お楽しみの“日曜美術館”

今日は午前中、奥村土牛をやっていまして、ちょちょっと見てレッスンへ・・・

夜は、俵屋宗達・・・おお~今日は日本画日和~?

なーんて思いながら観ていたのですが、これが面白かった。

最近ずーっと気になっていたことを、なんと中沢新一さんが考えていらっしゃった。

どうもこの本に書いていらっしゃることが、私が最近絵を観て、日本人の思考の方向性を考えて、ずーっとずーっと気になっていたことと同じかも~

そりゃあ、スゴイ思想家の方なので、私のは思考の入り口でふらふらしているに過ぎませんが・・・

矢も楯もたまらず、今井書店へ走ったのですが、もちろん目的の本があるわけではなく・・・ちょっとは期待したが・・・そのほかの本を買い、コーヒー買って、結局Amazonで注文となりました

芸術人類学

インヴェンション (La science sauvage de poche)

最近いつも絵画展に行っては、“人々が何を思考してきたのか” “ヨーロッパと日本文化の中でどこに視点、思考の違いがあるのか”

な~んて、どうでも良いような壮大な問いがありまして~

日本のアニメ文化。

これは、対象物を単純化しデザインすることに長けている日本人の得意とするところなのかなぁ~?

奈良美智や村上隆に代表されるようなポップアートから来ているし、それを言うなら鳥獣戯画は日本最古の漫画と言っていい。

でも、尾形光琳の燕子花(かきつばた)屏風。。(土牛や光琳は画像がひっぱってこれずスミマセン)

美しいけど、極限まで単純化しデザイン化されて、何か肉迫してくるものが少ないような気がしていたのですが、中沢新一さんがこれに近いことを言われていて、“お~おもしろ~い!”と、かなり頷きつつ見ていたのです。。

光琳は江戸初期の画家。

江戸初期でも、少し前に生まれ活躍していた宗達の“風神雷神図屏風”を、模写していて、かなり似通ったものではあるのですが、宗達に在ったものが光琳では削ぎ落されている。。と。。

音楽で言うところの、ジャズのような即興性。

野性味溢れる、生命のほとばしりのような、感情の表現。。

そういったものが、そぎ落とされてゆく。

それは、ある意味、単純化、形式化、純粋化された“美”であったのかもしれません。

高度な技術と洗練された形式美。

けれど、フォルムを重視することで、そぎ落とされてしまった“肉声”のような深い世界が、どこかへ追いやられてしまう結果になったのではと思ってしまうのです。

以前にも“型”から入る傾向が、われわれ日本人には強く出ているのでは・・・と書いたことがありますが、なかなか“型破り”ともならず、“型”の中にいることで安心し、その事が評価の対象にもなってしまう。

これ、子供の学習塾や教育方法、はたまたピアノ教育界にも言えているような気がしてなりません。

そしてついでに、本屋さんで面白そうな本を見つけたので、ついつい買ってしまいました~

一冊の単価が高い。。

先日も何冊か買ったら、「1万7千円です」と言われ、あちゃ~・・でしたが・・・

今日も2冊だけなのに、6千円ぐらい払いました・・・・・・とほほ・・・オヤツヌキだ・・・

Dscn0637 Dscn0579

とほほ~~読むスピードが追い付いていない~~

ぁ・・・でも、2番目の画像中5冊は読みました。

連休は、卒業生との“飲み”&“読書”かな~?

“ソウジ”もせねば!!~~

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ピアノを習うということは・・・案内人として・・・

2014-04-09 05:35:55 | おもうこと

過去のblogで山登りに例えて書いたことがあるのですが、ピアノ教師に限らず、指導者というのは案内人なのだと思います。



寄り添って、道案内をする。



おそらく、ピアノの指導に限らず、おおかたのものは同じようなことが言えるのではないでしょうか?



野球、テニス、書道、空手、弓道・・・挙げていたらキリがないですが・・・



春・・・



まっさらな子供たちがたくさんやってきます。



これから、一緒にいろんなものを見つけに行く旅が始まる。



とも、言えるんです。



小さな子たちの、リトミックや幼児グループレッスンで、音楽体験、リズムや音感をつけることをはじめとするソルフェージュ指導にあたって、皆さんによく説明するたとえ話。



畑の種まきをする前に、畑の「土」をよく耕しましょう。



と。。



「土づくり」が出来てない、やせた土地に、いくら種をまいても育ちませんよね。



よく耕し、程よい栄養や光、水を与えなければ、種が芽をだし、育ち、花が咲き、実が生って収穫し、また次の世代を作る。。ということは難しくなりますし、逆に言えばそういうことをちゃんとすることで、美しい花を次々咲かせたり、美味しい実を収穫することができるのです。



さて、山登りに例えた場合。



それはより具体的に、自分の力で歩いて、きれいな花や景色を探しに行く旅でもあります。



初めは自分が立っている、ふもとの平らなところで、身の回りの景色や咲いている花を探したり、摘んでみたり。



教師は水先案内人として寄り添い、この花は本当にきれいだね。 



よく見ると花びらはこうだよ。 



すぐ横にこんな花も咲いているけど、違う色もきれいだね。 



などと話しかけ、一緒に感動したり喜んだり。 



そんな役割でしょうか?



もうちょっと勇気を出して、あそこにある湖まで行って、いろんなステキなものを探してみよう。



と、少し先の方も示してみるかも知れません。



そうやって、少しずつ高い山をめざし、そこにしか咲いていない花を手に取ってみたり、そこでしか見えない景色を眺め感じてもらう案内をします。



ただし。。



その為には、それなりの体力が必要です。



日々のトレーニングも積んでいなければ、遠出をしたり、山に登ったり、時には急な坂や崖、岩場を上り切るのは困難でしょう。



その為には体力だけでなく知力も必要でしょうし、経験を積んでいかなければ乗り越えられないことに直面するかもしれません。



体力や知力とは、すなわち、テクニックであり多少の楽曲分析できる程度の音楽理論であったり、ソルフェージュ力であったり、、、
そういった基礎的な音楽力は、曲の難易度が進むにつれて同時進行で力をつけてゆくのが良いでしょう。

非常に難しい本を読むのに、文字の読み方だけ知っていても読みこなせないのと同じです。


そして感動するしなやかな心の状態がなければ、せっかく体力をつけて登ったのに、美しい花や素晴らしい景色を目にしたとしても、何の感動や喜びもなく終わってしまうことになります。




体力や知力ばかりでなく、感動するしなやかな感受性がなければ、本当の意味で曲を弾きこなしたことにはなりません。



そうやって、難易度の高い曲を弾けるようになれば、自力で小高い山に登ってみたり、もっと上を目指すことにもなるでしょう。



でも、いつもいつもエベレストやマッターホルンを目指すことはないのです。



勉強が忙しくなってきたりしたとき、少し頭を休めて、近くのきれいな景色を眺めたり、池に浮かぶ睡蓮や水面の光の移ろいを楽しんだり、小さな山に登ったり。。



そんな楽しみが出来るのも、高い山に登った経験のある人にこそ、深く味わえるものもあるでしょう。



私としては、そういうことが楽しめる人たちを育てたいなぁ・・と常々(つねづね)思っているのです。



人の心は、表層的な日々の事の下に、奥深い世界を持っていて、無意識のうちにそことつながっています。



例えば、夢を見ること。。



不思議ですよね。



何であんな夢を見たんだろうと、現実生活ではあり得ないような経験を、心の中ではしています。



眠っている間に、現実から解き放たれ、深い世界とつながっているところが浮上してきます。



私は専門家ではないのですが、おそらく日常生活の中にだって、そういう「隙間」や「ぽっかりとした穴」があって、心に栄養をもたらしてくれたり、時には自分でも不可解なことをしてみたり、たまーには不思議体験をすることもあるかもしれません。



ここでは詳しく論じませんが、体に良い「栄養」を与えてあげるように「心の栄養」も必要です。



絵本などもいいですよね。



そして自然の中に身を置くことは、本当に素晴らしいことなのだと思います。



それが音楽で言えば、先ほど言った、ちょっと近くの小高い山や、川や、そういったもので例えられる、「小品」



そういったもので、心の中の世界を広げ、自由に羽ばたき、遊び・・・また良い日常の生活者となる。



よく、勉強が忙しいから、と言われますが、本当はこういう楽しみ方が出来る人は、逆によく勉強ができる人でもあるのです。



、、、またピアノ?!



と言われる塾の先生があるようですが、この事が邪魔になって勉強が出来なかった人を過去にみたことはありません。



良く書きますが、東大京大のピアノ率は高いのです。



もちろん、東大京大の人たちだけが賢いなんて、全く思っていませんが、体の栄養ばかりでなく心の栄養を充分に取っている・・・と言えるのではないかと思います。



山登りは、自分の力で登らなければ意味がありません。



ヘリコプターでちょちょっと登って景色を見てきても、ダメんです。



少なくとも、またあの山の景色を観よう、花を摘んで来ようと思ったら、その都度チャーターしなければいけないし、本当の意味で景色を味わったり、花を愛でることにはならない。



しっかりと体と心を育て、いつでも心の中の素晴らしい景色と出会ったり、花を愛でたり・・・そうして豊かな人になることで、現実生活の中で、いろんな工夫をして力強く生きてゆける人になるのでは・・・と、思っているのです。



如何でしょうか?



今日のたとえ話。



分かっていただければ幸いです~







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安近短の旅

2014-04-05 09:46:19 | 旅行記

頑張ったご褒美に安近短の旅をしてまいりました!



関西方面



今回はまず久々の“神戸”



4月6日まで開催している



“ターナー展”



ついでに京都まで足を延ばし、小さな印象派展をやっていたので、ちらりと観てきました!



ターナーは、ほぼベートヴェンの時代のイギリスの画家。



最近思うのですが、、日本人の感覚は、メロディーの下に和声がある感じ・・・



ヨーロッパ文化は、和声・リズム・構成・・・これらの上にメロディーが浮かび上がってきている感じを強く感じます。



もちろん画を観ていて、それから楽譜を見ていて・・・



それについては考察中です。。



京都でチラ見してきた“印象派展”の目玉は、何と言ってもルノアールの大作。



“都会の踊り” “田舎の踊り”のうちの一つ。



ルノアールの中でもとりわけ好きなもののひとつで、むかーし買ってきた絵葉書、見てみたら、オルセーってプリントされてたから、パリで買ってきたんだと思います。



よくよく見ると、3種類のそういった作品があって、その中の一つでした。



これ一点が観たくて行った様なものです。



ユトリロの母、シュザンヌ・バラドンが若き頃、モデルをしていました。



ここから、画家になったシュザンヌも凄い!



母としては全くダメ。



息子は精神を患い酒に溺れ、病院へ入ります。



そして、その息子に絵筆を持たせたのもシュザンヌ。



自分と息子・・・二人の画家を生んだ・・・ともいえる。



人生には妙味がありますね。



それこそが芸術。



シュザンヌ・バラドンに関しては、過去のblogに少々下手な文章を載せていますので、ご興味ある方はどうぞ。。



http://blog.goo.ne.jp/mako425/d/20100127



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その他は、美味しいお料理と何と言っても「さくら」



とにかく素晴らしかった!



特に姫路城は



「圧巻」



の一言でした!!



今日は講釈はなく、ただひたすら画像を載せておきます!





頑張った・・って言うのは・・1月と3月、2匹の猫を看取りまして、入退院だったり覚悟しててもいろいろ大変なんですよ。。



そうした中でも確定申告やら発表会の準備やら、新年度のレッスンの準備やら・・・



それと2人の受験生。。今年はなかなか手ごわかった~~ガンガンレッスンしました。



あれだけ言われてよく辞めなかったなぁ・・と思うぐらい、シゴキました。。特に精神面かな。。



お互い頑張りました。。




Yちゃんは、受験直前「自己と戦ってまいります!」と言っていましたが、本当にそれ!!



良く意識改革してくれたなぁ!!



高1まで続けていたMちゃんもT大医学部医学科バッチリ合格と教えていただきました。




さてさて画像



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修復工事も大詰めに入った白鷺城こと姫路城



この風景も二度と見ることはないと思うと、感慨もひとしおでした。



ご堪能あれ



写真はこの何倍も撮ってはおりますが、ホドホドに・・・



神戸、京都、赤穂、姫路、、京都は丸山公園です。



丸山公園横の長楽館の苺のジュース(もうちょっとおしゃれな呼び方だったかな…)



神戸は異人館通りのグラシアニ邸のフレンチレストラン



出てきたバターがどこかで見た・・・ぁ・・・リッツカールトンのフレンチ・・・と思ったら、シェフはそこ出身だそうです。



異人館レストラングラシアニ外観




赤穂で有名な“さくらぐみ”




海を臨む絶景で、ガッツリ形のイタリアン。。なかなかでした!!




そして、何といっても、最後にみた




姫路城の“桜”




感動しました!!




さて、今日午後から始動開始です!!






張り切っていこう


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