ジョン・フィールドの名前を知っている人は少ないかも知れません。
あるいは「ノクターン」の創始者として知っている人もあると思います。
しかし彼はベートーヴェンなどの作曲家が、オーケストラ的なピアノ曲を描いたのに対し、
純粋にピアニスティックな曲を書いた最初の人であるといえるでしょう。
彼がショパンらに強い影響を与えたこと、作曲家としてロマン派以降のピアノ音楽に
絶大な影響を与えたことなど、彼の功績は大きいのです。
ジョン・フィールドは1782年アイルランドの首都ダブリンに、音楽家の子として生まれました。
ジョンが並はずれた音楽の才能を示し始めると、厳しい音楽教育が始まりました。
9歳でその時師事していたジョルダーニの主宰する演奏会で、天才少年としてデビューしましたが、
程なくフィールド一家はイギリスのロンドンに移住することになり、ジョンは父親の意向で、
有名なクレメンティに弟子入りしました。
クレメンティは、大作曲家でもあり、実業家としてピアノを製造販売もしていました。
そして弟子たちにピアノを弾かせて、セールスマンのようなことをさせていましたが、
ジョン・フィールドもこの役割を務めることとなりました。
また、クレメンティの指導のもと活発に作曲をして、最初の大作「ピアノ協奏曲第一番」を発表しました。
1802年フィールド20歳の時、クレメンティに同行してパリ、ウィーンに行くことになりました。
パリでのフィールドの演奏会は大成功を収めました。
その後ウィーンへ立ち寄った後、クレメンティと共にぺテルスブルグまで旅行を続け,
クレメンティはそこでも教師として、実業家として大成功を収めました。
1803年クレメンティがこの地を去る時、フィールドはマルクロフスキー将軍を紹介され、
この家でゲストとして生活することになりました。
そしてぺテルスブルグでの最初の演奏会はセンセーションを巻き起こしました。
この時からずっと、生涯の大部分をロシアで過ごすことになりましたが、1832年までの間は、
私生活で多少の波乱はあったものの生涯で最も充実した時期でした。
やっと彼は自立し、富と名声を得て、貴族社会のアイドル的存在となったのです。
モスクワとぺテルスブルグ両都市で、ピアニスト、教師、作曲家として、正に王者のように君臨し、
ノクターン、ピアノ協奏曲を含む多くの曲を作曲しました。
フィールドの演奏を聴いた人の話から、その名声は西ヨーロッパ全域に広まり、ショパンをはじめ、
リスト、シューマン、クララ・ヴィークの父フリードリヒ・ヴィークなどがフィールドの崇拝者になりました。
フィールドはその当時一般的だった技巧的奏法とは全く異なるピアノ奏法を考案していました。
彼の弟子の言葉によると、「私はもちろん彼の作品の幾つかが大好きだが、
それ以上に彼の演奏の美しさは最高である。鍵盤のタッチの仕方、旋律の歌い方、
穏やかで絶妙な漂うようなスケールとパッセージ、解釈の高貴さ…」というような意見を残しています。
当時のピアノ製造会社が、常に音域と音量を増す工夫をし、ほとんどのピアニストがそのような工夫を利用し
どうしたらピアノを堂々とオーケストラ効果を持たせて劇的に弾けるかと熱心に研究している時、
フィールドはこれとは対照的に、心の奥底からの表現をするためにピアノの可能性を追求していきました。
1824~31年はモスクワに居を構えましたが、このころから健康を害してゆきました。
1832年には歴史的なパリ音楽院ホールでの演奏会が行われ、完成したばかりの
「協奏曲第七番」が初演され、ショパン、リスト、シューマンなど殆ど音楽家ばかりで満員の
聴衆に感銘を与えました。
その後ベルギー、スイスなどを経て、イタリーへ行き、ついにナポリで病に倒れて9カ月入院し、
何回かの手術も受けました。
この窮地を救ったのはロシア貴族のラフマーノフ一家で、モスクワに戻り、一時小康を得て
数曲の出版をしましたが、急に病状が悪化し、1837年55歳の生涯を閉じました。
彼が残した「ノクターン」というタイトルにたどり着くまでにはRomance,Serenade,Pasutorale
などと呼んでいましたが、1814年3つの夜想曲を出版した時に初めてNocturneという題を使うようになりました。
「ピアノのためのアリア」とでもいうべき独立したピアノ曲であり、これが「無言歌」「即興曲」「バラード」などの、
ロマン派ピアノ音楽への道を開いたものとして、音楽史上極めた重要な事実です。
フィールドが作り上げたピアノステイルは、ショパン、リストはもとより、ドビゥッシー、フォーレ、
また、直系のスクリアビン、ラフマニノフなどもこのフィールドの業績なくしては考えられない程重要なのです。