米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

翼~武満徹ポップ・ソング

2010-12-29 03:52:49 | アート・文化


もう15年以上も昔になるだろうか。



作曲家武満徹さんが、亡くなられてすぐに発売になったこのアルバム。



ほとんどの曲を、武満徹さん自身が詞、曲をかいておられ、時折仲の良かった谷川俊太郎さんらが詞を提供しておられる。



このアルバムの歌を歌っているのが、石川セリ・・・ご存知の方もあるかも知れないが、



井上陽水さんの奥さんだ。



石川セリは、私が中学生の頃、好きな曲を歌っていて、とても印象深い歌手だった。



武満さんは、このアルバムの中でこう書いておられる。



「以前、偶々、石川セリのアルバムを聴いて、自分が少しずつ、機に触れて書きためてきた小さなうたを、



彼女に歌ってもらって、何か楽しいアルバムを作ってみたいな、と空想した事があった。



ポピュラーミュージックとしてはいかにも不器用で面白みに欠ける歌かも知れないが、



編曲者の方々の今日的な感覚が、それぞれの歌の特徴を生かして、面白いものに仕上げて下さった。



きっと多くの方が、なぜクラッシックの、しかも難しい現代曲をかいている作曲家がこんなアルバムを作ったりするのか、



不思議に思われただろう。



『翼』という歌にも書いたように、私にとってこうしたいとなみは、、「自由」への査証を得るためのもので、



精神を固く閉ざされたものにせず、いつも柔軟で開かれたものにしたいという希に他ならない。」



文章は、多少割愛させてもらったが、およそこのようなものだった。



このアルバムには、アコーディオンのコバさん(小林靖宏)、羽田健一郎その他、錚々たるメンバーで、



さすが大物は大物を呼ぶ感じだったが、驚いたことは、コシミハルの名前があった事だ。



この名前を覚えている人は、殆どいないかも知れないが、越美晴は、一瞬芸能界に出て、



1曲だけで姿を消した、私とそう変わらないぐらいの年齢の、顔姿も美しく、才能のある人だった。



多分芸能活動が合わなかったのだろう。



ピアノも上手かったし、歌も大したものだったので、私の中ではかなり鮮明に記憶されていた。



こうやって武満さんからのオファーを受けて、活動する人になっていたのだと思って、感慨ぶかかった。



もちろん、石川セリ独特の歌唱力で、武満徹の世界を素晴らしく表現している。



作曲された時期は様々で、自身の命の限界を悟っていたかのようなタイミングでの録音、



CD発売となった。



その後も、ギターの鈴木大介、渡辺香津美など、ビッグネームアーティストによって、しばしば演奏された。



私の中で、其々に気になっていたアーティストが、このアルバムで、一同に会した感がある。



筑紫哲也のニュース23でも、エンディング曲として流れていた事もある。



今日は、久しぶりに、この古いアルバムを聴いて、感慨にふけりたい気分になった。



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ぼくを探しに

2010-12-16 05:29:18 | 本の話


シルヴァスタイン作、倉橋由美子訳、

「ぼくを探しに」 THA MISSING  PIECE(原題)

この本を読まれた事のある方も多いかと思う。

「ぼく」という、欠けた部分をもった、まるい登場人物(キャラクター?)が、白い画面に、1本の単純な線で書かれた、

独特の世界をもつ、どちらかというと、大人のための絵本だ。

シンプルな絵と、簡単な文章で書かれているので、子供でも楽しめるとは思うが、

やはり大人がふと手にしたくなる本だと思う。

「ぼく」は、かけら(欠けた部分)をさがしに旅をする。

かんかん照りの日もあれば、雨の日も、雪の日も、ぽかぽかの日も、歌を歌いながら旅を続ける。

かけらを見つけたと思ったら、拒絶されたり、しっかりくわえなかったから、落してしまったり、

しっかりくわえ過ぎて壊してしまったり・・・

ある日、ぴったりのかけらを見つける。

完璧なまるになった「ぼく」は、すごいスピードで進む事が出来るようになる。

でも、歌う事も、花の香りをかぐ事も出来ない。

考えた末、そっとかけらをおいて、またもとの「ぼく」になって、旅を続けてゆく。

そんな話だ。

この本の初めに、だめな人と、だめでない人の為に・・・と書かれている。

さしずめ私は前者であろう。

欠けた部分があるからこそ、見つけたり、感じたりできる事もあるのかもしれない。

かけた部分が何であろうと、読み手の想像に任せればよい。

しっかりくわえなかったから落としてしまったり、くわえ過ぎて壊してしまったり・・・恋人関係のようでもあるし。。。

「ぼく」は、あえてかけらをおいて、欠けた部分がある事を選んだ。

そうしてゆっくり、歌を歌ったり、花の香りをかいだり、時々ちょうちょがとまったり、そんな風に旅を続ける。

欠けた部分があることで、楽しくないと思っていたのに、欠けた部分がある事を選び、

またそれをさがしに、旅を続ける。

大なり小なり、それが生きるということで、人間とはそういう存在なのかもしれない。

生き続ける限り、何かをさがし旅を続けるのだろう。




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嬉しいコメント

2010-12-13 03:11:53 | ブログ


最近、新しくできたお友達や、むか~しの生徒さん、ナディア・ブーランジェにはピアソラファンの方からも、

コメントをいただき、一人で黙々と書いている、つまらないブログにも、こうして意見やお言葉をいただけて、

色々な方と繋がってるんだな~と、嬉しくなってしまいました。

昨日のシュタイナーについても、遠く福岡県の先生から丁寧なコメントをいただき、本当に嬉しいです。

嬉しすぎて、なが~いコメントのお返事をかいてしまいました。

長すぎて呆れられたかも。。。

何だか同士に合えたような、ホントにそうですよね、みたいな気持になって、ワクワクしてしまいます。

好き勝手に色んな事をつらつら書いていますが、厳しいご指摘でも、共感のお言葉でも、とても嬉しいので、

気が向いたら、また皆さまもコメントお寄せ下さい。




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シュタイナー教育

2010-12-12 05:34:57 | 教育







最近はあまり私の中では、登場しなくなっていたのですが、20代後半、



「モモ」という、ドイツの文学者ミヒャエル・エンデの児童文学にふれたことがきっかけで、よくこの関係の本を、



読みふけっていたものでした。



ドイツ文学者子安美知子さんの「ミュンヘンの小学生」「魂の発見」など、とても新鮮で衝撃的でした。



シュタイナー教育というのは、ドイツの思想家、ルドルフ・シュタイナーが提唱した教育法で、



深い思想のもとに出来ている子供の発達にそって行われる教育です。



日本にも僅かに学校はあるようですが、どこまで根付いているのかは分かりません。



知人が、そこの学校の教師をしています。



長いイギリスでの勉強を終えて、帰国後、京都の方でこの学校の教師をしているらしいです。



深い思想があってと言っても、思想を教育する訳ではなく、それに基づいて考え抜かれた教育をするのですが、



たとえば算数の時間にリコーダーを出して、3拍子のリズムを「かっこう」のように素朴なメロディーに合わせて、



1,2,3と拍子にのって演奏してみて、3の掛け算の勉強をしたり、とてもユニークで、芸術的なんです。



芸術の教育ではなく、教育は芸術だというような考えでもあるようです。



知・情・意と言いますが、おおよそ人間は7年周期で生まれ変わっていき、初めの7年は意志の力を、



次の7年は感情を、次の7年で思考の力をつけてゆくように考えられています。



深く語れるほど、私には知識はありませんが、あまり早くから知識ばかり詰め込み過ぎると、



バランスの取れていない人間になるというような考えでもあります。



小さなころから、漢字が書けるとか、難しい算数が解けるとか、そういう事はかえって弊害を起こしてしまい、



意志の弱い子になったり、本当の知識、知恵をもった人に育たない、あるいは充分に感情が育たない、



と考えられています。



私も、どちらかというと、その考えには賛成で、早くから勉強を強要しても、実際の賢さとは、



遠くかけ離れたもののように感じるのです。



日本の素晴らしい知識人と言われる人たちも、子供の頃は野山を駆け巡って遊びまわっていたという話を



よく聞きますが、難しい算数が出来るというのに、なんでこんな簡単なリズムが理解できないんだろうと、



首をかしげる事もよくあるのです。



そんな事をするぐらいだったら、お菓子を用意して、何人いるから、何個ずつ食べましょうとか、



勉強するのでなく、実際必要な事を日常生活から覚えたり、考えてりする方が、少なくとも幼いうちは、



いいように思います。



なかなか今の事情では、野山を駆け巡って・・・というのは難しいかも知れませんが、体を使って、



しっかりと地に足をつけて成長してくれるといいな、と思います。



シュタイナー教育では、子供は感覚の生き物だというようにも言っています。



感覚で覚え、考えて、実行してゆく。



そんな風に言っていた気がします。



ちょっと昔の記憶なので間違ってるところがあるかも知れませんが…幼児のレッスンをしていて、



やはり大切にしたいのは、感覚感性で、覚える事は小学校に上がるまでは、あまり強要しない方が良いと考えています。



曲を暗譜するとかそういったことではなく、理論を強要しないといったことです。



曲を暗譜するのは小さい子にとって、お手のもので、むしろ感性の世界に属すると思います。



中学校から高校生ぐらいになると、これに楽曲分析なるものが伴わないといけなくなりますが、



ほんの小さい頃は、ここはやさしいお花畑のようだとか、嵐のようだとか、ちょっと寂しい感じがするとか、



元気に行進しているとか・・・そういう感覚で、曲をとらえるのが自然なんだと思います。



ここで感じが変わったな・・・と感じられれば、後にそれは転調しているからだとか、調性が変わったからだと分かるでしょう。



major、minorの感じぐらいは、幼くても分かるとは思いますが。。。



シュタイナー教育から話がそれてしまいましたが、この教育は音楽をとても大切にしているのです。



なので、子安美知子さんの本を読んだときは、こんな学校に行けたらよかったな、とか、



子供たちがこんな教育を受けられたら幸せだな、と思ったものでした。



実際問題このとおりにすることは難しいとしても、ちょっとしたことから現場にとりいれることは可能だと思います。



シュタイナーの思想は、あまり深入りすると、訳が分からなくなってしまいますが、教育に関しては、



学ぶべきところも多く、興味のある方は、現行の教育とはかなり違ったこの教育法を



ちょっと垣間見て見られるのも、面白いかと思います。







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サンタクロースの部屋

2010-12-01 11:45:34 | 本の話
松岡享子さんが書かれた

――子どもの本をめぐって――

というサブタイトルの付いた本の冒頭に、

「もう数年前の事になるが、アメリカのある児童文学評論誌に、次のような一文が掲載されていた。
『子どもたちは、遅かれ早かれ、サンタクロースは本当はだれかを知る。
知ってしまえば、その事は他愛のないこととして片づけられてしまうだろう。
しかし、幼い日に心からサンタクロースの存在を信じることは、その人の中に信じるという能力を養う。
私たちは、サンタクロースその人の重要さの為でなく、サンタクロースが子供の心に働きかけて生み出す能力のゆえに、サンタクロースをもっと大事にしなければならない』というのが、大要であった。」

こんな文章が書かれていて、何か心に響くものがあったのか、読んでから20年以上もたつのに、しばしば思い出す文章だ。

サンタクロースの起源は、はっきり分からないが、シューマンの「子供の為のアルバム」にのっている1曲に「サンタクロースのおじいさん」があるが、決して子供にプレゼントをもってきてくれそうにないような、短調の危機迫るようなちょっと迫力のある曲だ。
昔、テレビか何かで、サンタクロースの起源の様な、ヨーロッパのお祭りを見た事がある。
もともとセント・ニコラウストいう聖人がなまはげの様な、子供にとっては恐ろしいような者たちをひきつれて、
練り歩き、今年一年いい子だったか悪い子だったか、子供たちに問うというようなお祭りだったように記憶している。
決して赤い服を着た、人の良いお爺さんが、トナカイのソリに乗ってやってきた訳ではない。
どちらかと言えば、おもちゃを大量に消費してほしい、商業の広告塔になっている現状かもしれない。

けれど、この本では、そういう事を超えてこの“能力”には、確かキャパシティーという言葉が使われていた。
キャパシティーは、劇場の座席数などを示す時に使われる言葉で、収容能力を意味する。心の中にひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間を作り上げている。
サンタクロースその人は、いつかその子の心の外へ出ていってしまうだろう。
だが、サンタクロースが占めていた心の空間は、その子の中に残る。
この空間がある限り、人は成長に従って、サンタクロースに変わる新しい心の住人を、ここに向かえいる事が出来る。」
そういった文章で始まった、1冊の本だ。
何か大切な、あるいは崇高なものを宿すことのできる、この一つの座席・・・
子どもに信じる能力や、希望を与えるのかもしれない。
早くも12月、クリスマスのある月になった。
1年が、歳と共に早く過ぎてゆく。
しかし、子供たちと過ごすことのできる、この1年1年は、彼らの心と体、あるいは能力の目覚ましい成長を
目の当たりに出来る、貴重な年月なのだと思う。
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