米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

ひといき・ひとはき・・「モモ」より

2013-08-29 07:58:12 | 本の話

このblogに時々出てくる、ミヒャエル・エンデ



ドイツの児童文学者ですが、私にとても大切なことを教えてくれた(もちろん本を通して)一人です。



宮沢賢治は生涯、少年のような純粋な心と理想を心に秘めて生きた人・・・賢治も大好きな人ですが、エンデは深く深く物事も思考し、まるで哲学者のようでした。。



エンデの書いた児童文学の中でも、特に「モモ」は代表作で、多くの子供たちばかりか、文化人知識人にも深く読み込まれ、「モモを読む」のような本も何冊か出ているぐらいです。



エンデの父は、シュルレアリズムの画家で、ナチスが台頭していた時代、退廃画家の烙印を押され生活が困窮します。



ヒトラーは画家を目指していた人物で、現代的な手法や作風に対してそうとうな嫌悪感を持っていたようです。。自分がそれを理解する能力がなかったからでしょう。



退廃芸術家の中にはゴッホなど多くの芸術家が含まれ、たくさんの素晴らしい芸術作品が焼かれてしまいました。



この当時、まだ10代の多感な少年であったエンデは、反ナチスのレジスタンス運動にも参加していたようです。



その後、シュタイナー学校を経て、演劇学校でしばらく勉強したのち俳優業もしていましたが、この事は作家としてのエンデの、ある意味、素地となったと言えるのではないかと思います。



さて、このエンデの代表作「モモ」



 



この内容は、是非お読みいただければと思います。



私も何度も何度も読み返した本ですが、また近いうちに読みたいなと思っています。



この中で、多くの人が印象に残ったという、モモの友達の一人、掃除夫のベッポの言葉。。。



早く、仕事や勉強などを終わらせてしまおうと、焦ってがむしゃらにやってもやっても片付かない・・そんな時に、思い出してみてください。



ベッポの言葉



・・・(略)・・・



「なあ、モモ」と彼はたとえばこんな風に始めます。「とても長い道路を受け持つことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃあとてもやりきれない、こう思ってしまう。」



彼はしばらく口をつぐんで、じっと前の方を見ていますが、やがてまたつづけます。



「そこでせかせかと働き出す。どんどんスピードを上げてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はへっていない。だからもっとすごい勢いで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやり方はいかんのだ。」



「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、次のひと呼吸(ひといき)のことだけ、つぎのひとはきのことだけ考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」



・・・(略)・・・



ひょっと気が付いたときには、一歩一歩進んできた道路が、全部終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」彼は一人うなずいて、こうむすびます。



「これがだいじなんだ」



  



そうして、目の前の一歩ずつをやっていると、楽しくなってくる。



この事が大事だと、エンデはベッポに語らせています。



登場人物の「モモ」「ベッポ」「ジジ」「灰色の男たち」・・・皆、象徴的に描かれていると考えられます。



時間泥棒である「灰色の男たち」・・今の世の中は、もう彼らに支配されているのかも知れませんが。。



では、今日はこの辺で~~



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感性の豊かさ

2013-08-25 23:51:26 | おもうこと

感性の豊かさって、ピアノをはじめとする芸術的な行為をするときだけじゃなく必要なんだな。。と思います。

芸能人じゃない、普通に生活している人が映し出される番組を見ることが、よくあるんですが、いい仕事してるな。。。素晴らしい生きざまだな。。等々、感動することが良くあります。

しばらく前に、アフリカ人の・・・国がたくさんあって、国名は忘れてしまいましたが・・・テレビスタッフやクルーの人たちが、日本を紹介する番組を作る。。という事を、密着取材していたのを見たのですが、なかなか興味深かったです。

遠い異国、まったく文化も違う人たちが、日本の何に興味を持ち、何が面白くて、何が変わってると思うか、美しいと思うか。。

銭湯や築地の魚の鮮度を保つ技術に興味を持ったり、浴衣を着てみたり、、、この番組を通じて、アフリカの人たちが、行ったことも聞いたこともない日本の人や文化を知る。。

その中で、下町で昔ながらの金太郎飴を作っているところを取材していた時、それが日本の昔話を題材にしていること、その細工がいかに熟練の技で出来ているか、飴の顔にはまつ毛まで施されているという繊細さ、、、そういうことに気付くことのできる感性の豊かさ、細やかさ。。。

アフリカ人のスタッフ・・特にチーフの女性ディレクターの感性の素晴らしさには、見ているこちらの方が、感動してしまいました。

何かに対する気付き・・・そういうことを、よく言っていますが、音楽する感受性と何ら変わらず、細やかで豊かなものでした。

そうして、独自の文化を大切にしつつ新しい文化を融合させてゆく道を模索してゆく、という事に考えが及んでいたようです。

85歳になる代々続く老舗の鰻職人の方もカッコいいな~と思いました。

「仕事が作業になってはいけない」と。。

なんか~おなじだ~

練習が作業になっちゃダメだ~

って、よく言ってるもんね~

今やっていることが、たとえ何千回という繰り返しだろうと、心が込もっているか、小さな違いに気付きがあるか、、そういう事ではないでしょうか?

よくこういう方たちは、

「研ぎ澄ませ」

とも言いますね。

私が大好きな言葉です。

先日、女優の藤山直美(天才喜劇役者藤山寛美の娘)さんが、己を知るという事。。と言っていました。。そして彼女は人を楽しませるためには、お客さんが主役だと。。己が己が(我が我が)ではない人なんですね。。

素晴らしいなぁ。。

謙虚な姿勢で己を知り、己に打ち勝つ・・・プロゴルファーも言ってたっけ。。

Eテレの趣味の時間の講師として出ていらっしゃる、書道家の先生。。

空間を描く。。

と言ってたけど、ドラムの村上ポンタ秀一さんが、「あいつのドラムは、休符が歌ってんだよな~」って人のドラムをたたえる時、言ってたのとおんなじだなぁ・・って、ものすごくうなずいていたり。。

ジャンルは違えど、何かに気付く人は、ほとんど全く同じことを言っています。

書道もいろいろな意味で、ピアノに通じるなと、凄く思うんですよ。。

ぁ・・・

いつもの蛇足ですが、私、小1から高校生・・最後の頃はとびとびになっていたので、高1ぐらいかな。。書道をずっとやっていたんです。

字ヘタですが、小学生の頃は7段だったんですよ。。

子供の頃友達が沢山習っていたこともありバレエもいいなと思ったのですが、なぜか書道になっちゃって。。

バレエも、もちろんやりたかったけど、書道も結果的には良かったなと思います。

定期的に筆を持っているとよいのですが、しばらく離れると、筆を持つ手の軸がぶれるんですよね。

今なんか、本当にダメダメで全く書けなくなってしまいましたが、これもピアノを弾く手や体と、通じているのです。

音を表現する時の、手や腕の重さを指先に伝え、時には体を使い、圧を加えたり、指先の繊細なわずかなコントロールで、音と同じように線が現れ、命が宿る。

書は人也・・・音も人也・・・なのかな?

字体にも時代があり、楷書(かいしょ)、行書(ぎょうしょ)、草書(そうしょ)、隷書(れいしょ)、篆書(てんしょ)と、5つの書体があると言います。

私が触れるところまで至らなかった、書道の奥深い世界。

そこにも、時代と人があり、呼吸とリズムが躍動していると思います。

子供たちにも時々言うんですが、何が書いてあるかわからないような現代アート的な「書」・・・今とても注目されていますよね・・・これも優れたものは、たとえ漢字など知らない外国の人が見ても、炎が燃えるような字体だったり、さわやかな風だったり、同じ風でも激しく吹き荒れる様だったり、こういうことが表現できているものは、言葉を超えますよね。

音楽と同じなのだと強く感じます。

これが、銀行員や医者や看護師や教師や…他の職業で関係ないか。。。いや!ある!。。と言いたいです。

もちろん漁業や農業も。。

そしてスポーツも、精神的にも技術的にも、相通じるところがあって、とても共感します。

感性を磨き、全体を見渡す大きな視点と、細やかな気付きのある、小さな視点。。

たとえ大社長だろうと。。むしろそういう人こそ、必要じゃないかな。。

お医者さんや看護師さんだって、感性がなければ、ちょっとした患者さんの体や心の変化に気付けませんもんね。。

もちろん音楽も、大きなマクロ(曲の全体像や構成など)の視点と、小さなミクロ(一つずつの音の質など)の視点がなければ、弾きこなすことはできませんよね。

あぁ・・・そういうオマエはどうなんだと、言われそうですね。。

そうありたいとは願っていますが。。。

レッスンで、すごくズケズケ言っているようですが、心を揺さぶり、反応が返ってくるのを待ってるんですよ。

顔に書いてあることも、たいがいのことは分かります。

若いころに比べればね。。

もちろん多声部で演奏されているフーガも、意識なく弾いている音は殆ど分かります。

あ。。そこは意識してなかったです。。

って、高校生の子が素直に認めてますもんね。。

誰でもよく聴けば、分かるっちゃぁわかるんですよ。

。。。

でも、まだまだ修行しなきゃね。。

慌てず騒がず自然体で、いろんなことが聴こえたり見えたり。。。そんな風になれたらいいなと考えてるんですが。。

そうすると、無駄なものが削がれてきて、感性が研ぎ澄まされてくるんじゃないかと。。。って、オマエはまだまだじゃん。。

そうです

まだまだですね~~

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ミニスコア譜♪

2013-08-20 13:38:00 | 教室のあれこれ

先日、ミニスコア譜何冊か買い足しました。



ベートーヴェンの交響曲を中心に。。。



ラズモフスキーなんて、珍しいもの持っているくせに、なぜか「エロイカ(英雄)」とか、「エンペラー(皇帝)」がなく、おまけに「運命」まで、紛失してしまって・・・学生の時の授業でやった曲なのに。。。



持っているものは…楽しい曲中心で、「ピーターと狼」「ペルシャの市場にて」「ブランデンブルグ協奏曲」「驚愕」「時計」「モルダウ」「動物の謝肉祭」等々、まだまだ、一般受けする曲、満載です。



これをレッスンでみんなで聴くと、楽しいな。。。と、ひそかに構想中。



先日は、高校生のYちゃん、Nちゃんと一緒に、「エロイカ」第1楽章を聴きました。



15分ちょっとの曲ですが、譜面を追っていたら、あっという間で、何度も繰り返し聴きたい曲です。弦楽器を中心に、管楽器を中心に、ある楽器に特化して、又は全体の構想を考えて。。



こういうことを繰り返していくと、ソナタの音色作りに大いに役立ちそうです。



小学生にも検討中。



ハイドンや、サンサーンスの「動物の謝肉祭」なんて、楽しそうだな~



と、考えては楽しんでいます



少々お待ちくださいね~



Img_4454新旧のスコア譜たち。。



まだこれの何倍も持ってます。



Img_4449Img_4450バイオリン型の靴べら。



オペラオタクのAさんから頂きました。



こんな高級品いいの??



ありがとう!



大事に使います!



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お料理と演奏

2013-08-17 08:45:11 | おもうこと

ピアノを練習するときは、お料理を作るときと同じ気持ち



「食べてくださる方が美味しいねって言って下さるように、一生懸命心を込めて練習してね。」



と、言います。



「斎藤秀雄講義録」に、やはりお料理にたとえて書かれていて、面白いな…と思った文章があります。



引用ではないので、私の勝手な解釈でお話しします。



バロックや古典物の演奏について、、現代人が、和食やフランス料理を食べに行くと、少しだけアレンジされたり創作を加えたりしているものもある。。少しお洒落にしたり、味付けに工夫を凝らしたり。。。だけど、お茶碗開けたらパンが出てきたってことはないでしょ。。と。。ロマン派に至り、発展してきたこと。。。これはコロンブスがアメリカ大陸を発見したような世界だった。。その先は、ちょっと印象派の島だったり、無調音楽やいろんな現代音楽があるけど、小さな島。。。その先は宇宙へ行ってしまうのかも知れないけど、僕はもうそんなに長生きしないから、そこにはそんなに興味はない。。みなさんはこれから開拓してください。。と。。。



で、ロマン派を知らなかった時代の人と、もうロマン派を知ってしまった現代人では、少し違って当たり前だと。。。非常に納得。。



ロマン派があまりにも味付けの濃いものを提供すると、反動で、もっとさっぱり薄いものや、違うものを求めてしまう。。人は反動を繰り返す。。。



それで思ったんですが、やはり



「これが300年前のレシピで作ったお料理ですよ」



と、そのままの食材と調理法で出されたら、文献的な興味はあっても、本当に美味しくいただけるのか。。。そういう感覚はありますね。



強い味付けに馴らされると、素材本来の味にも鈍感になるし、味付けの好みも人によって違う。



ただし、演奏は「好き嫌い」だけで、決定するものではないとも。。



一般大衆の音楽愛好家はいいのかも知れないけど、プロの演奏家はそういう事だけを頼りにはできない。。



じゃあ、ピアノ教室の、ピアノを楽しむ人たちはどうなんだって話になりますがね。。。



でも、より、こうがいいんじゃないか・・・と、考えることは必要だと思います。



いくらピアノ教室だと言ってもね。



そこからプロになる子も、いないとは限らないし、何より耳の肥えた、「聴く」ということがどういうことかが分かっている一般大衆の愛好家さえ生まれない。。



つまり「価値があるものが何か」が分からない人が増えれば、良い音楽や音楽家は廃ってしまうのかも知れません。



なんでも鑑定団・・・も、貢献してますよね。。



「いい仕事してますね」



と、物の見方、価値の判断基準など、学んだ人は多いのではないでしょうか?



近いのかも知れません。。



そういうことに。。



「戒律」を厳しくすると「人間性」が出てこないとも。。



人の生きる道。。??



なぜ人は生きるのか?



幸福とは?



魂とは?



みたいなことになっちゃいそうですね。。。



めんどくさい話になってすみません



興味深いこと満載で~~





今日は朝からラ・バールでお茶して書店で本を見て、念願のステーキ食べて、耕平君&可菜子ちゃんの「オペラは文学だ」・・・めちゃめちゃリクレーション感覚で行きます~~さらに夜は昨日に引き続き飲み会~~どんだけハネのばしてるんだか~~





*齋藤 秀雄(さいとう ひでお、1902年5月23日 - 1974年9月18日)は、日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活躍した音楽家。
サイトウ・キネン・オーケストラは、長野県松本市で毎年8、9月に開かれるセイジ・オザワ 松本フェスティバル(旧称サイトウ・キネン・フェスティバル松本)で編成されるオーケストラ。運営は、公益財団法人サイトウ・キネン財団。
設立当初は、小澤・秋山の意思に共感した齋藤の門下生100名以上が国内外より集まり演奏会を開催。自主運営によるオーケストラのため、演奏家への出演料の支払いはなく無給出演という形で運営された。
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モーツァルト及びモオツァルト・無常という事

2013-08-06 07:56:41 | 本の話

ここのところ、吉田秀和さんの「モーツァルト」を読んでいました。

3週間ぐらいかかったかな・・・?

とても面白く興味深い本でした。

時々、中高生の生徒さんには朗読して聞かせてしまったり・・

あとで、あそこもう一度読み返したい・・という印象的な個所に付箋を貼っていたら、こーんな事になってしまいました~

Img_4379


本に線を引くのはちょっと抵抗あったので、この付箋はおススメです!

小林秀雄さんの「モオツァルト」についてもすこし・・・

小林秀雄さんは、ちょうど没後30年・・・書店には数多くの著作が並んでいます。

吉田秀和、小林秀雄、これに加え・・・って言っては失礼なのですが・・斎藤秀雄(小澤征爾さんをはじめ多くの超一流音楽家を育てた指揮者、音楽家・・亡くなられて久しいが、愛弟子たちによって結成されているサイトウ記念オーケストラは有名)、、、この御三方は、昭和の知識の巨人「三人の秀ちゃん」と、私の中では認識されています。。。。

しかもみんなよくある苗字と名前であって、しかも印象深い!

Img_4381斎藤秀雄 講義録

印象的だったところからの抜き出し(ほんの一部ですが)・・・

まず小林氏「モオツァルト」の冒頭。

。。。

エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルに就いて一風変わった考え方をしていたそうである。いかにも美しく、親しみやすく、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。いつか誰かが成功するかもしれぬというようなことさえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言ってしまえば、人間をからかう為に、悪魔が発明した音楽だというのである。ゲエテは決して冗談を言う積りではなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断っている。(エッケルマン「ゲエテとの対話」―1829年)

。。。

そして吉田氏の「モーツァルト」

。。。

ヘンデルはプリマドンナたちの気まぐれに一生悩まされ通した。しかしグルックは歌手の専横を抑えて、作曲家の至上権を彼らに押し付けることを知っていた。ベートーヴェンはもう歌手のためにはかかなかった。その間に、モーツァルトは、歌手たちを「誂え仕立ての服みたいに」旋律の衣装で包んでやった。

。。。

彼(モーツァルト)の見事な解答に満ちた傑作たちを聴くと、この人こそ天才と呼ぶほかない異常な人間だったと感ぜずにはいられません。・・・(略)ここには、音楽が音楽に踏みとどまる限りでの本質的なすべてのものがある。音楽とは何か? それを知りたかったら、モーツァルトをきけばよい。。。。ところが恐ろしいことが起こりました。「真実を言うためには、冒してはならない美の法則など一つもない。」・・・(略)・・・音楽は哲学より高い人間の知恵を伝える芸術だ」とも、彼は言いました・・(略)・・「私が真実を表現しようというとき、どうして君たちの貧弱な楽器のことにかかずらわっていられようか」これは、彼の音楽が弾きにくい、楽器の性質に会わないと演奏家から非難されたとき、彼が答えた言葉です。

音楽はベートーヴェンをもって技術から意識の音楽に転換した。。

。。。

バックハウスの演奏を通してのモーツァルトのピアノ曲の音楽について・・・

未聞の烈しい情熱のダイナミックな劇の演じられる舞台となるよう運命づけられてもいれば、またこれまでの作曲家が手にしえたものをはるかに超えて彼らしい音楽の組み合わせと色彩の反乱を呼び起こす魔力でもっと大勢の聴衆を呪縛したり魅了したりすることもできれば、逆に激しい人間嫌いと孤独に閉じ込められ、理想主義的な憧れに身を苛まれた人間の告白の唯一の利き手になりうる素質にもめぐまれている、そういう楽器としての未来を予感している、そういう天才としてのモーツァルトである。

。。。

彼は、人生でも、決して後戻りをする人間ではなかった。神は、その道を坦々たる安易な道としては与えなかったが、彼は、それに忠実に服従しながら、まっすぐ歩いていった。そのような彼の音楽も、自然な紡ぎ方の点で抜群である。ただ、その中で、彼は異常な、方向転換の不意打ちをいくつも用意している。一転への凝縮と、おびただしい不意打ちの共存は、彼の音楽に、たいへん独自の風貌を与える。

。。。

1791年、ついにモーツァルトが貧困と過労に中に斃死した折、帝室付の音楽家サリエリは言っている。「天才が死んだ。だが俺たちは皆悦んでいる。あの男がいたら、おれたち作曲家には誰も一片のパンもくれなくなるところだったのだからなあ。」

(サリエリの独特のモーツァルトに対する敬意と、とっておきましょう。名誉のために言えば、ベートーヴェンもシューベルトも多くの作曲家がこのサリエリにも学んでいるのです。。)

。。。

「おそらく人生は賭けであり、戦いだろう。だがその賭けも戦いも戯れなのだ。諸君、忍耐とユーモアを忘れ給うな。苦悩は深いが、喜びは永遠に過ぎることはないのだ。」彼の生涯は、結局、こういっているかのように見える。

この本は、ある小さな逸話で締めくくられています。

・・・(略)・・・実に何とも滑稽な、しかも深い――ほとんど崇高な喜劇的な効果を持った曲が生まれてきた。これをきいて、みんなと同じようにひどく感動したらしかったモーツァルトは、歌が終わると、大声で「じゃ皆さん、さようなら」といって飛び出して行ってしまった。

。。。

涙がとまりません。

では~

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昔話

2013-08-02 07:08:27 | 本の話

「昔話の深層」

という本が、あります。

河合隼雄先生が書かれたもので、これは専門書で、かなり読みにくいものだったと記憶しています。

「物語と科学の対話」「物語をものがたる」・・・その他、このような題材を扱ったものも多くあります。

私は心理学の専門ではないし、読んだのもそうとう昔で、20年以上は経っているので、記憶もほとんどない・・・と言ってもいいのですが、ちょっとだけ思うことがあるので書いてみます。

グリムやイソップなどで、親しまれているお話や、世界各地の民話など、深く読み込み研究して、それについて解釈されていた中で、印象に残ったのが、継母(ままはは)などとして描かれている悪い魔女、、、それに対し、救ってくれる王女などは、全て母親の持つ側面を象徴的に表現しているのだと書かれていたということです。

他にも、救ってくれる猟師などは、父親の良い側面、悪い魔女などを火にくべて焼き殺してしまうのは、悪いものや事柄を、心の中から排除する行為だから、決して殺すなんてひどいから最後に仲直りさせよう、などと解釈してはいけない。。

。。。そのようなことが書かれていたと思います。

よく、新しいことを構築するためには、一度壊してたて直す行為が必要だと言われますが、心の中でも、「死と再生」と言う行為を人は何度も行うもののようです。

これが心の中で、上手く行われないと、本当に自殺や殺人事件・・親殺し子殺しのようなことや、通り魔無差別殺傷事件等、悲劇的な方向へ行くのだと思います。

もちろん、このような悲劇的なことにまで発展しなかったとしても、大なり小なり、いろいろな問題を抱えながら人は生きてゆくもので、何でも手放しにハッピーで、心配も悩みもないなんてありえません。

象徴的に何かを壊し、また新たに立て直す・・・再生するという行為を行っているのでしょう。

ちょっとずつ、親子や夫婦、友人、仕事の仲間・・・いろいろな場面で、軋み(きしみ)を感じ、修正して歩いてゆくのが人生なのかな・・・なんて思わなくもないです。

その中での、気付きのようなことは、常にあるのではないでしょうか?

母(父)の愛・・・これも、甘ったるいだけのものではないと思います。

当然ですがね。。

多くの画家によって描かれた、聖母マリアと子供・・・もちろんイエスキリストではありますが、人々の営みの象徴でもあり、赤子であるイエスキリストのこれから降りかかるであろう悲劇が、その掌の十字架によって磔(はりつけ)られるときにできる傷(聖痕・・・せいこん)なども、象徴的に描きこまれているものもあります。

ラファエロなどの絵は、それはもう慈愛に満ちた美しい絵です。

多くの画家が、身近な人・・・自分の妻と子などをモデルにしたとされますが、その母子の姿に聖母の姿を重ね合わせたのも、うなずける話です。

ただ、この反面、、、これは、母ではありませんが、ギリシャ・ローマ神話の神であるサトゥルヌスを題材にした、グロテスクな絵も存在します。

ご存知かもしれませんが、ゴヤの絵で「わが子を食らうサトゥルヌス」・・・スペインのマドリッドにあるプラド美術館で実際に観てきましたが、友人が「なに!この絵!いやだわ!」と、思わず言ったぐらい、グロテスクな絵です。

ルーベンスもこの題材で書いているようです。

こういうことを解釈するには、専門的な知識もいるとは思いますが、昔話やギリシャ・ローマ神話などの中の神として、何かが象徴的に描かれていることも確かなのだと思います。

すみません。。

読み辛かったですよね。。

シュタイナーのワークショップの中で、何度も「オイリュトミー」というものをしたことがあります。

ある時、友人であるオイリュトミストの人が、動きをつけながら、我が子を優しく包み込むように・・・と言って、ふんわりと両手を包み込む動きをした後、、しかし抱え込みすぎてはいけません。。それは腐らせることになります。。と言うようなことを言っていましたが、そういうことなんでしょうね。。

ちなみに、オイリュトミーは、そんなにペラペラしゃべりながらするものでも教訓的なものでもありません。。このときたまたまです。

子供にも一人ひとり個性があり、親子での相性、第一子から始まる、家庭での位置関係や役割で、心の成長の性質や度合いも異なります。

非常にデリケートなものだと思うんです。

だからと言って、恐る恐る・・と言うのも困りますが、心の営みに非常に注意深く目をやらなければならないとも思っています。

どっぷりと甘え、愛情を感じ、安心してその懐に飛び込めるような存在であり、また、もう少したてば友人のようでもあり、乗り越えなければならない壁であったり。。。

安心してさらけ出せるからこそ、力強く羽ばたいてゆけるのでしょう。

学校や幼稚園では、とてもしっかりしてると言われるけど、家では・・・

それは当然ですよ。

ずっとしっかりしていたら、疲れ果てて、心がポキッと折れてしまいますからね。

安息の場所も必要なのです。

それを受け止めること。。

だけど、何でも言うことを聞いて、甘やかすのともちょっと違いますよね。

しっかりとその子を一人の「人」として見つめ、深く理解しているのは私だよ。。と、確信をもって受け止めてあげられたら、子供としてはどんなに心強いでしょうか。。

甘ったるいだけでは済まされない親子関係・・・でも、やはりこんな素敵な関係は他にはないでしょ!。。と言えるほどのものだと思います。

親子関係は、死ぬまで続きますが、あくせくと悩みながら子育てするのも、考えてみればそんなに長い期間ではありません。

子供の時、ふと、学校で過ごす時間、眠っている時間を考えれば、こうして親子で触れ合えるのも、そんなに長い時間ではないのだな・・・と思って、ちょっぴりさみしい気がしたことがあります。

かけがえのない、大切な時間なのですね。。

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