米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

how-toでは語れない

2015-01-28 04:32:46 | おもうこと
先日、とっても素敵な経路で、青柳いづみこ先生の「どこまでがドビュッシ―?」を手に取ることが出来ました。
(熱心な友人は、もう既に読んでいました)・・
やったー!とばかり、本文にくらいついてしまいましたが、ふと目を転じると本の帯にステキな文が・・ずばり本質です。
そのまま帯の文から。引用。。

         

音楽の自由な愉しみ

・・・・秘めた思いが言葉の外にあるように 
  真の音楽は楽譜を超えたところにある

・・・・・「音楽は言葉がとだえたところから始まる」・・・・・
  しかし、「たとえば「印象主義」のように正しくない概念で
                    ドビュッシー音楽が固定され、
                非常に狭い範囲で理解され、広く伝播してしまうとき、
  それについては言葉をもって反論し、戦う必要がある。
それが、幸か不幸か言葉を与えられた音楽家の使命だと思っている。    
                              
                           (本文「楽譜の向こう側」より)

 
本当に素晴らしい弾き手の場合は、魂の磁場で作曲家と交流する。つまり楽譜から流れてくるものを、先入観念なしに受け止めるのだ。(略) 
リヒテルは、「音楽とは、演奏され、聞かれるためのもので、言葉抜きで成り立つ」と語っている。    

ドビュッシーも「音楽は言葉がとだえたところから始まる」というのが信条だった。(略) 全ての芸術の理想である「言うに言われぬもの」の表現について、概念を明確にしない曖昧さから、音楽の言葉に対する優位性を説いていた。

        


「どこまでがドビュッシー?」本文からの引用です。
最近いろんな分野の色んな角度から、、、しかも色々な時代の人達が同じことを言っているのが聞こえてきます。


染織家、志村ふくみさんも「色を見ても、色の向こうが見えていない。色が語ることを聞いていない」と。。これ何度も引用しましたよね。

全く違う分野・・・精神科医、名越康文さんも、内田樹さんとの対談の中で、「子供はいろいろシグナルを発信しているのに、受信可能なメッセージだけ選択し、都合の悪いシグナルは自動的にただの「ノイズ」に返還されてしまって、もう人間の「声」としては耳に届かない。(略)
結局言葉だけを待ってしまって、子供が発している信号には反応しない。微妙な表情筋の動き、或いは空気の動きからコミュニケーションが始まっているんじゃなくて、言葉しかない。。等々語られる事は同じです。

察する。
受信感度の高い人。

も何度も出てくる言葉です。


武道では、先に「居着いた」状態は「負け」である。という概念があるらしいです。
****************

「居着く」というのは武道の用語で、本来は恐怖や緊張のあまり足の裏が地面に張り付いて身動きならない状態を指す。広義には「ある対象やある文脈に意識が固着して、それ以上広いフレームワークへの切り替えが出来なくなってしまうこと」をも意味する。

****************

大学の教師をしていると、高等教育の段階では出来る事はもう限られているということを日々実感させられる。・・・そうです。。これは内田先生言。


全く違う時代・・・千利休が弟子、古田織部に究極の教えとして伝えた言葉・・・「ならひなきを極意とする」

語られていることは、ほとんど同じ。


外側の事象に気を取られず、本質を掴む。


ああすればこうなるは無い。 或いはマニュアルは無い。
色々な場面で多くの知識人が語っているのに、「じゃあどうすれば良いのですか?」と聞く人ばかりだそうで、唖然とすることだらけ、、養老先生など「もう死ぬかと思った」(笑)です・・・


カウンセリングを受けなければならない子も増え続け、不可思議な事件も増え続け、閉塞感があるのは、そういうところなのでは??と思ってみたり。

カウンセラーは「何もできない芸術家」だと、聞いたことがあります。 これ、もしかしたら河合隼雄先生の言葉だったかなぁ。。


「星の王子様」のサンテグジュペリも「大切なものは目に見えないんだ」「言葉はうそをつくんだ」と、言っていますが、嘘をついちゃあいけないとかそういうことではなく、言葉では言えないことが沢山ある。
「うん、そうだね」と仮に言ったとしても、場面場面で、全く違う意味になったり。。
そんなことですよね。
政治・経済・・医療や芸術に関してさえ、固定化、固着化が浸透し、物事が流動せず、息苦しく閉塞感が蔓延しているように思います。
システムだけ・・つまり外側だけを頑強にしたり改革しようとしても無理なわけで、「人」というものが見えてこない。
システムを頑強にすればするほど物事は形骸化するのだと思います。
そして形骸化したものだけを見て、そこに固着し留まってしまい、本質からどんどん遠ざかってしまう。

自由に息を吸うこと。。



「結局こうですよね」「これこれに過ぎない」という還元論に陥ると、非常に狭いところに思考が押しやられてしまいます。
世の中分からないことだらけ。。だからこそ人生は素晴らしい。。

そんな風に考えてみたり。。
如何でしょうか??

音符の向こう、楽譜の向こうに見える世界、聴こえる世界に耳を傾け思いをはせてみて下さい。
もちろん楽譜を適当にみるというのではないのです。
そこには生きた人の息遣い、悩み、苦しみ、歓び・・・得も言われぬ言葉に出来ない「何か」の世界がある。

そうして作曲家の心や思いと共鳴し、語り合うことが出来るのだと思います
(今日の文章はちょっと羅列っぽかったですねぇ~)
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ちょっと怖い本の話(*_*;

2015-01-22 06:56:44 | おもうこと
知識人の方と村上春樹氏の話をしていた時に、内田樹著「もういちど村上春樹にご用心」を勧めて頂いたのですが、内田さんのお名前は、それまで読んでいた本の中にも登場してきていたのに、手に取ったことが無かったので、「14歳の子を持つ親たちへ」「下流志向」(学ばない子供たち 働かない若者たち)という2冊も購入して読んでみました。。何度も読み返しつつ。。
その他「ぼくの住まい論」「疲れすぎて眠れぬ夜のために」も読んでみましたが、こちらはソフトな語り口。
本質的には優しい方だと思います。
お嬢さんが幼い時から、父親一人で仕事をしながら子育てをされた方で、多くの視点を持っていらっしゃる方です。

さて、ちょっと怖い・・・と書きましたが、はじめにご紹介した2冊の本は、本当にきつく怖い内容でした

でも、知らないで過ごしていることの方がもっと怖いので、内容についてちょこっとご紹介します。


「14歳の子を持つ親へ」は、TVにもよく登場される名越康文さんとの対談形式の本です。
名越さんはお洒落な眼鏡をかけて、けっこうもっともなかしこい意見を言っておられるけど、そもそもTVに登場する時点で、まず怪しんで見てしまうので、本当はどういう人なんだろうと、訝しがって見ておりましたが、かなりできる方のようですね。

こんなこと言ったら仕事出来なくなるかも知れないんだけど・・・と言いながら喋っている内容が、辛辣、厳しい、、そのうち笑える、、みたいなね。。


世の中、昨今「勝ち組」「負け組」と言っているけど、本当は「利口組」「バカ組」の中に横たわっているクレバスの方が怖い。。と。。

ちょっと脱線ですが、今どき流行っているものや言葉・・・妖怪ウウォッチ、キモイ、ウザい、チョームカツク等々、、、
ポケモンやピカチュー、べつにー、フツー、、と、どの子の口からも聞こえていた言葉は消え、また違う表現になっていますが、これみんな時流というか流行り病というか、、
私たちの脳って、ある意味洗脳され易く出来ているんでしょうね。
同じようなモノを身につけ、同じような家に住み、同じような車に乗り、、同じようにするから、同じでもちょっとランクが上のものを身につけたいとかね。。そうなるらしいです。


話を戻して、「利口組」「バカ組」の件。。
原文そのまま、引用します。

                                               

名越:僕、この頃よく思っていることがあるんです。(略)感性の豊かな知的な家族って言うのも少数だけど出現していて、そういう人たちに対しては選択の自由もどんどん出て来たし、学校も選べるようになってきた。 昔みたいに偏差値教育一辺倒でもないんです。(略)でも一方では、全くそういうふうな予備知識が無い家族もいる。どういう風に子供を教育したらいいかってことがお手上げ状態でわからない。とにかく人に情報を聞いてはそれをやってみる。でもそれを包括的にとらえることが出来ない。つまり感覚的に開いていないから、自分のやったことの結果をちゃんと感得し、理解することが出来ない。何かとてつもない二極化が起きていて、それは今よりももっと進むような気がする。
内田:しますね。
名越:経済的な意味での「勝ち組」「負け組」はよく言われますけれど、本当に深刻なのは知的な二極化・・・。
内田:そうです。「勝ち組」「負け組」じゃなくて、「利口組」「バカ組」の二極分化。文字通り「バカの壁」っていうか。「利口組」「バカ組」の間に乗り越えられない万里の長城みたいにして「文化資本の差」がはっきり出てきてます。
佐藤学先生の話しだと、東大の学生の間でもずいぶん差が出てきたらしいです。すごく勉強して入って来るから、みんな成績はいいんだけども、入ってきた段階で既に文化資本の差が歴然としている。3、4年になってゼミまで来ると、そこでの話題についてこられない学生がはっきり脱落してゆく。一方には、音楽も聴いたことないし、美術作品も観たことないし、海外旅行も行ったことないし、家に芸術家や学者が出入りするという経験もないって言う子たちがいて、他方には「芸大と両方受かったんですけれども、ピアノがいまいちだったんで文Ⅰに来ました」みたいな子供たちがいる。その文化資本の差って言うのは、二十歳過ぎると、もうちょっと埋まらないみたいです。
名越:例えば東大とか京大に入る子と、それよりも偏差値の低い大学にはいる子で、親の収入が違うというような事はよく言われるじゃないですか。
内田:東大の刈谷剛彦さんがデーター出しましたね。
名越:でもそれはある意味二元的な問題であって、本当の問題はまさに今先生が言われた、家庭内の文化資本の格差です。偏差値で言ったらその子たちの差はたとえば
80と60で20くらいだとしても、家庭内の文化資本の差って言うのはもっと違う。100と1くらい違っているのかも知れない。
内田:そうですね。一握りの非常に文化資本の豊かな階層と、残り8割から9割ぐらいのマジョリティーの差はどんどん開いていくばかりでしょうね。マジョリティーの方は、周りの一番低いレベルに合わせて「なんだ、こんなもんか」と思って安心しちゃうから、歯止めなく下がっていく。(略)
名越:ああ、それはやっぱり、僕の臨床的観察と・・・。
内田:たぶん同じですね。歴然と感じます、2極化。(略)非常に感覚のいい僅かな学生と、相互参照しながら自分の立ち位置をどんどん低めてゆくマジョリティーの間のクレバスが、ありありと出来ましたね。
名越:これは本当に由々しき問題で、見えにくいがゆえになかなか表に出て来ない。これはまさに子育ての問題とか、子供のコミュニケーションの問題とか、表情の数の多さとか、そういうものと通底している問題ですが、数値化としてデジタル化出来ないから、なかなか取り上げられない・・・。
内田:この2極化はあらゆる領域で進行してると思うんです。日本人って、もともとすごく均質性の高い集団でしょう。だけど今では、均質性が保たれているのは低い階層だけで、上層はスーッとそこから抜け出している。上の方の、ほんの一握りの人たちが世界的な水準の文化資源や情報を享受していて、残された95%ぐらいは、「日本はみんな中流だよね」って呑気に信じながらどんどん下層化している。今どきのバカな大学生って、もう昔のバカ学生の比じゃなくバカですからねぇ。

                                               

これ200ページほどある本の、ほーんの数ページです。
延々続きますよ。。こういった内容。
もう怖いを通り越して面白くさえなってきますね

そして名越先生は、ヘタに根治を目指して深い話をしようとすると、どんな風に理解されるか予想がつかないので、危険なんですね。・・・子供の場合は、まだそれから学んで行ける可能性もあると思うけど、親御さんの場合はもう自分が絶対と信じているから「わっ、これは通じ合うのは絶望的」というケースがはっきり言ってかなり多くなってきている。 つまり、「言葉が通じる人と言葉が通じない人」ということ。 昔の方がもうちょっと、「情緒をうまく使いこなせる人が知識人である」という概念が、日本に共通理解としてあったんじゃないか。

そんなような事を言っておられます。

「オバサンの真実」、明かします。
とか、、ちょっと怖い話です


イヤな事を書いているようですが、いろいろ外側で起こっている事件や事象を、人ごとだと思わずに自分の中に取り込んで考えてみたり、自分はどうなんだろうか?・・と自己批判の精神を持っている方はスーッと抜け出してゆく5パーセントの中に近付けるのかも知れません。
ピアノを習っているから大丈夫だという程アマイものでは無いようにも感じています。


長くなるけどもう一つ書きます。
頑張って読んでみて下さいね。


それは内田さんの本にあったお金に関してです。
これは、お金のことを語っているところではなく、教育の事を書いてある項目でのことです。
“等価交換”という言葉、お聞きになった事はありますか?
この品物にはこれこれの価値がある。と置き換えてお金と品物を交換する考え方で、現在は何の疑いもなくこの資本主義の考え方に埋もれて私たちは生きています。
で、、子供たちも既に毒されていて、学校での勉強も、何の価値があるのか、、という考え方にかなり染まっている可能性がある。
もしかしたら、塾でいくらいくら払ったら、このように点数が上がった、いい学校に進学できた、、そんな考え方が蔓延しているのかも知れません。

本来は、教育・医療・宗教は聖域なので、等価交換の価値観を当てはめることはタブーだったのですが、何でもかんでもお金に換算し、損か得かで考えてしまう現代人にとっての思考法は、殆ど疑いの余地もないほど固定化されて、それが全てにおける価値判断基準となりつつあります。
本当のところ、芸術もそういった類のものでした。つまり等価交換はし難い。。しかし今では内容はそれほどでもないのにとても宣伝上手にラッピングしてセンセーショナルに売り込めば、大きな利益のもたらされる商業主義が蔓延しすぎています。何故なら「ほんもの」が分からない人が多すぎるのでしょう。一般大衆である我々は、なかなか理解しがたい事もあるのですが、本当に「審美眼」・・これは観るでも聴くでも読むでも・・本当のところで言う、非常に鋭く研ぎ澄まされた感度の持ち主、という人がいて尊敬され、そういう人の口から、教え伝えられるものが広まってゆく形で浸透していったのでしょう。しかし今では“経済に飼い馴らされたたマスコミ”の宣伝がその役割を果たす時代になってしまったので、一般大衆である私たちは多くをつまらないTVやラジオ、雑誌で教育されてしまっています。せめて、良い本をチョイス出来れば良いのですが、残念な事に売り込みたい2流以下の人によって書かれたハウツー本に流れて行っているのが現状です。ネットも遠隔地まで速攻情報が流されますが、殆どがガラクタの情報なので、やはり本物を見つけることのできる感度や審美眼が無ければ殆ど間違った方向に流されてしまいます。
 
“現代人”についてもひとこと言わせてください。
かなり進化した現代人が我々である・・と思ってしまいがちですが、100年前の人も1000年前の人もその時点では“現代人”でした。そして100年後の人も1000年後の人も、その時点では“現代人”です。では・・我々は??・・過去・現在・未来を考えれば子供でもわかる簡単な事ですよね。


さて、長々になってしまいました。
あと少し、ちょっとだけ、内田樹さんの「下流志向」より引用しておきますので、ちょっとずつ分けてでもいいですから読んでみて下さいね。
そして目の前の子供たちを、「バカ組」にしないよう、自分自身がちょっとでも利口になるよう(笑)・・これがなかなかなれないのですが・・頑張りたいですよね~



                                               




「何のために勉強するのか」「この知識は何の役に立つのか」―――。
もし小学一年生の教室で、先生が「ではこれからひらがなの勉強をしましょう」と言ったときに、子供たちが「ひらがなの学習に対する内発的な動機づけが私の内部にあるのだろうか?」と自問することを許したら、そして、「内発的な動機づけが発見できませんでした」と自己申告した子供たちにはひらがなの学習を免じるという事を制度化したら、学校はどんなことになるでしょう。
しかし、現に学校はそのSF的想像のような場所になりつつあります。

引用:《意味ある学習が求められている・・(略)・・しかし実のところ、そもそもこうした問いに誰もが納得いく回答などあるはずはない。(…)面白い―つまらない、楽しい―苦痛、すぐに役立つ―役立ちそうもない。「面白くて役立ちそうな」授業が求められるのは、性急に各人にとっての意味を求めるといが社会に充満していることの裏返しである》(刈谷剛彦 「階層化日本と教育危機」より)

僕自身も大学で繰り返し同じ問いを向けられます。「これは何の役に立つんですか?」という問いが、本当に無邪気に、最優先のものとして学生から発せられる。「何のために勉強するのか?」「この知識は何の役に立つのか?」
去年、ある国立大学で集中講義をした時に、その大学の新聞部の学生からインタビューを受けたことがあります。その学生が発した最初の質問が「現代思想を学ぶことの意味は何ですか?」というものでした。
その問いを発した学生は、もし僕がその問いに説得力のある解答をしたらそれを学んでも良いが、僕の答えに納得できなければ「学ばない」と宣言している訳です。
つまり、ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属しているということを、問いを通じて表明しているのです。
僕はこの傲慢さと無知にほとんど感動しました。
二十歳の学生の手持ちの価値の度量衡をもってしては計量できないものが世の中には無限に存在します。彼は喩えて言えば、愛用の30センチの「ものさし」で世の中の全てのものを測ろうとしている子供に似ています。その「ものさし」では測れないもの、たとえば重さとか光量とか弾力といった事の意味を「ものさし」しか持たず、それだけで世界の全てが計量できると信じている子供に、どうやって教えることが出来るでしょう。(略)
これが「何の役に立つのか?」という功利的問いを下支えしているのは「自己決定・自己責任論」です。これもまた「自分探しイデオロギー」と同時期に、官民一体となって言いだされたものでした。そしてそれが捨て値で未来を売り払う子供たちを大量に生み出しているのです。

(クレーマーの増加に対しても、等価交換の思考が色濃く反映されているようで。。「下流志向」の別のページより)
このゲームのルールは「先に文句を言ったもの勝ち」ですから、このゲームで幼児期から鍛えられていた子供は、どんな場合でも、誰よりもはやく「被害者」のポジションを先取りする能力に長けてゆきます。人間生きている限り、様々な不快な出来事に遭遇しますが、そのすべてにおいて、「私は不快に耐えている人間」であり、あなたは「私を不快にさせている人間である」という、被害―加害のスキームを瞬間的に作り上げようとする。(略)
行政絡みの不祥事や医療事故におけるクレーマーの過剰は日本の社会システムそのものを崩壊させかねないところまで進行しています。もちろん、学校もそうです。



                                               

めちゃくちゃ長い引用になってしまいましたが、膨大な著作の中のほんの数ページです。

出来ればお読みになる事をお勧めします。


〔*補足しますと、内田さんの専門は、フランス現代思想(ユダヤ人哲学者レヴィナス研究等)、映画論、武道論(凱風館にて合気道)、東京大学文学部卒・・等々です。そして精神的な世界にも非常に精通していらっしゃいます。〕


子供たちに、こんな世の中を手渡してゴメンね・・みたいなことにならないよう・・と言いたいのですが、もう既になっていますので、内田さんの言葉を借りれば、
「身をえぐるような考察を通じてしか、この問題に取り組む道は見えてこない」・・・現実です。
学齢期になる子供たちはその中に放り込まれ組み込まれてしまっている状況。。



キツイことばかり書いていてすみません(笑)
それでも耳を傾けてくれている人たちもたくさんいらっしゃるんですよ~
知識人のご父兄や友人も多いですしね。。私より遥かに賢い人たちです。
みんなで方向転換しましょう。頑張ってこの船に乗っていてくださいね。。まるで「ノアの箱舟」だ~

コメント (2)
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内面を育てるという事

2014-12-09 07:26:53 | おもうこと
今日はちょっと難しいこと書きます。。
お許しを!!

“ピアノ教師”という仕事・・・つまり子供たちを中心に・・ピアノを中心に・・“音楽”“音”と向き合ってきました。

この“音”たちに、時代の流れ、ムーブメントのようなものも感じ取ることが出来ます。
そして、扱っているものが概ね“西洋音楽”というものですから、当然“日本人”“アジア”“欧米”(或いは“アフリカ”“アラブ”)など、多くの人達のくくり・・・というものも考えたりします。



心理の世界では、日本をはじめ多くのアジア地域は「母性原理」を中心に思考が動いていると言われています。
欧米は、キリスト教を基とした「父性原理」
アジアで唯一のキリスト教国であるフィリピンも、マリアを中心とした母性原理を基としている国民心理があるとも言われています。

「母性原理」を中心として生きる日本人は、また、「場」の中で生きているとも言えます。
「家族」「会社」なにかしらの「組織」・・・
その「場」の中での自分を生きる事で、安心感を得たり、アイデンティティーのようなものを感じたり。。

そうした流れの中で、「音」や「音楽」の方向性も左右されているのでは?・・と感じる事もあります。

クラシック音楽と言われるものは、純度の高い思考や形式美を内在していて、その事と、日本人の持つ「型」を大切にする思考が結び付くと、「型に閉じ込める」方向が少し極端に働いてしまうのではないか・・・とも思います。
本来「茶道」「華道」「書道」「弓道」「武道」・・・このようなものは、「型」を学び「型」を破っていくことで、内在する深い思考や思想の世界に入って行ったと思われますが、「型を破る」事は並大抵のことではありません。

殆どの人間は、型の外で漂って生きてゆくこととなります。
ファッションもアートも・・宗教でさえ、型の外・・・つまりこれを「形骸化」と言いますが、全ての世界で“からっぽ”な状態が進んでいるのかも知れません。

その傾向は、情報の多さも起因しているようにも感じます。
何故なら、莫大な(その中にはガラクタな情報も多数散見される)情報を追う事で精一杯になり、一つ一つのことを深めることが困難になってくるからです。
東大出のカミソリとあだ名された佐野洋子さんの父君が「生涯で12冊しか本を読まなかったが真の読書家と言える者もいる」と仰ったのは全く頷ける話で、今どきの子たちがあくせくと毎日のように塾に行き、習い事をし、家の手伝いも読書もする時間が無いと言っているけれど、そうさせているのは何なのだろうか?・・・と日々考えます。

果たしてそれで優れた人材が育つのか??

それはNO・・・でしょう。

それが分かりながら(分かっていない人もいるのかな?)できないことの背景には、不安やコンプレックス(これも不安の一つかな?)・・があるのかも知れない。。と思っています。
色々な情報が押し寄せてきて、あれも足りませんよ・・これも足りませんよ・・と騒ぎ立てますからね。。


海外で暮らすある方が、村から一歩も出ないで畑仕事を日々黙々としていらっしゃるおじいちゃんおばあちゃん・・・この方たちから真のインターナショナルだと感じることがあると。。

人として何を大切に生きるかを考える日々です。

「母性原理」「父性原理」に関しては、またそのうちもう少し詳しく書きます。
ちょっと中途半端になっちゃいましたが

先日のシェアしたフィンランド教育事情を載せて終わりますね。
きれいな画像は上手く貼り付けできませんでした💧


http://www.huffingtonpost.jp/triport/finland_b_6265924.html

ここ数年以上、「個性の尊重」は色々な場面で重要視されています。しかし、ついつい周りに流されたり、他人と自分を比べてしまったり、自分と違う価値観を持つ人と一線を画してしまったりする人は少なくないのではないでしょうか。ことばでは簡単に言えるけれど、実際に「個性の尊重」をカタチにするのは、なかなか難しいことのように思います。

そんな中、子供たち一人一人の個性を大切にしながら、さらに深みのあるものにしていく教育に力を入れることで、社会全体を豊かにしている国があります。高い学力を持つ子どもたちが、フィンランドです。

2014-12-04-12380385224_b4cd044c33.jpg
jay j wilkie via Compfight cc



フィンランドの教育

みなさんはフィンランドと聞くとどのようなイメージが浮かびますか?
ムーミン。

2014-12-04-22115408678_aae573aaed.jpg
Oioimolloy via Compfight cc

大自然。

2014-12-04-3finland105640x480.jpg
写真:Asami K「Finland2009」より

デザイン大国。

2014-12-04-40029640x385.jpg
写真:yumiyumi「☆゜:*:・。,フィンランドの窓辺 3日目 ,。・:*: '☆」より

そして、世界最高峰の教育水準。

英才教育、スパルタ教育が行われているのかと思いきや...驚いたことに、この国では子供たちが四六時中机にはりついてガリガリ勉強している光景は見られません。むしろ授業時間も短ければ、学習塾もほとんどありません。

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写真:Mika Watabe「フィンランド」

では一体、フィンランドの教育にはどのような秘密が隠されているのでしょう?



フィンランド教育の秘密「芸術エスカリ」

フィンランドの教育における大切なキーワードは「個性」。いかに子どもたち一人一人が持つ個を性引き出し、伸ばしていくかという点に重きを置いています。そのために教育現場は「自由に表現できる」「表現したものを認めあう」場となっています。特に、私たち日本人にはなじみがなく、新鮮なのが「就学前教育(エスカリ)」と呼ばれる教育システムです。
フィンランドでは、7歳から基礎教育(小学校教育)が始まりますが、その前準備として6歳の間一年間「就学前教育」が行われています。
義務教育ではありませんが、無料で施されているため、ほとんどの子供たちがこの教育を受けています。

私は大学二年の夏、実際にフィンランドにあるいくつかの教育施設を訪れました。その中でも、一番印象的だったのがこの就学前教育の一つとして利用されている「ヘンネリ遊びの活動センター」での光景です。美術と演劇と音楽。私が見たのは、この3つをふんだんに取り入れた「芸術エスカリ」というとても興味深い活動でした。

活動のテーマは「大航海」。ストーリー仕立ての構成の中、遊びが展開していきます。

2014-12-04-6640x480.jpg
写真:Hiroharu Zoshiki「色で見る大自然」より

大海原へ旅に出た子どもたちは、まず波の音に合わせて体を動かします。手を波打たせる子がほとんどかと思いきや、それぞれが自由な発想で生まれた「波」を体全体を使って表現していきます。途中から、ある子が友達を誘い、二人で大きな波を表現し始め、それが連鎖して大きな波になっていく場面も見られたり。決まりにとらわれず、発想力豊かな活動に心を奪われました。

次に絵具と筆を使って、壁に向かって思い思いの波を表現していきます。

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写真:Mika Watabe「フィンランド」より

水色の絵具を使う子、青色の絵具を使う子、紺色の絵の具を使う子。まず選ぶ色に個性が見られます。そしてぐちゃっと塗りつぶす子。波線を描く子。縦に線を引く子。点をちりばめる子。自分の意思で方法を決めて、思い思いの感性でのびのび波を描いていく子供たち。そして一人一人の表現活動を真摯に受け止め、ほめている先生。

そこはまさに十人十色が体現された空間でした。

2014-12-04-81232775_432132163571549_1693587445_n640x480.jpg
写真:Mika Watabe「フィンランド」より

「芸術活動のいいところは、決まった形がないところです。だからこそ子供たちが安心して自分たちの創造力や発想力思う存分発揮できる。そしてその個性を、認めほめる姿を大人である教師が見せることで、子供同士も互いの個性を認め、受け止めあえるようになっていくんです。違うことは社会を豊かにします」。

先生はこのように仰っていました。まさに一人一人が主役の教育。実際に足を踏み入れ、肌で感じた「個性の豊かさ」。違って当たり前なんだ。みんな違うから世界は面白いんだ。これから先の人生で大切にしていきたい価値観に出会うことができました。

さいごに

2014-12-04-985500x332.jpg Hiroaki Takeuchi「初めての一人旅 北欧スウェーデン〜フィンランド」より

いかがでしたか?
のどかな景色。国民を手厚くサポートしてくれるしっかりとした国のシステム。個性豊かな人々。フィンランドの魅力は計り知れません。寒いけれど、温かい。すべてを包み込んでくれるあったかくて優しい、おっかさんのような国。

ぜひ一度訪れてみてください。




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そろそろ引っ越さねばです…ぁ…blogの話ね…

2014-11-02 23:41:48 | おもうこと

「大切なものは目に見えない。心で見なくちゃいけない」

「船を造りたいのなら、男どもを森に集めたり、仕事を割り振って命令したりする必要はない。代わりに、彼らに広大で無限な海の存在を説けばいい。 If you want to build a ship, don't drum up the men to gather wood, divide the work and give orders. Instead, teach them to yearn for the vast and endless sea.」

手順を決め、方法論を語ることが大事なのではないと思います。

もし、子供たちに何かヤル気を出させたいのなら、果てし無く素晴らしい世界が広がっていることを伝えない限り、何一つ大切なことは伝わらないと思います。how-toを教え、競争にさらしても、ゆきたい方向は見えてはきませんよね。

そして、何か人と違う「特別なもの」になる必要は全くないと思います。

生まれて生きていること自体が既に「特別なこと」なので、自分自身の物語を紡げばよいのだと思います。

もし、社会的ステータス・・と思われているものにがんじがらめになっているようなら危険だと思います。

その心の背後には、そうでないものに対する差別化、もっと言えば蔑みや蔑視(侮蔑)を孕んでいるから。

そろそろこのblogも引っ越しをしなければならない期限が迫ってきまして・・・ちょっとストレートに描き過ぎちゃいましたかね。。

Facebookに投稿したものも、ついでに張り付けておきました。

ひっこしひっこしーーー

****************************************

スティービーワンダーが子供の時「どうして僕は目が見えないの?」と聞くと、母は答えたそうです。「それは心の目で見る為だよ」
ちなみに、出雲大社は“目に見えない全てのもの”が祀られているそうで、、、
目に見えず、数値化できず、論理説明の不可能な世界に真実の種が眠っているようでして・・・
「大切なものは目に見えないんだよ」と、サンテグジュペリも星の王子様に語らせていますが、それって何なのでしょうね。。。
きっと決して言語化できない事なのでしょう。...
言語化したところで、指の隙間からこぼれ落ちてゆくのでしょう。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry,1900年6月29日 - 1944年7月31日)。フランスの飛行家、作家。
Le Petit Prince
すべての偉大な人々は、はじめは子どもでした。--献辞 Toutes les grandes personnes ont d'abord été des enfants.
ぼくはしたことを見なくちゃいけなかったんだ。言葉じゃなくって。
  (バラの花はぼくのためによい香りを出して、ぼくに合図しました)。--8章 J'aurais dû la juger sur les actes et non sur les mots(Elle m'embaumait et m'éclairait.) (chapitre VIII)
言葉は誤解の源なんだ。--21章 Le langage est source de malentendus.
だけど眼は盲目なんだ。心で探さないといけないんだ。--25章 Mais les yeux sont aveugles. Il faut chercher avec le cœur.
決して人にはわからない。--15章 On ne sait jamais.
心で見るよりよく見ることはできない、本質は眼では見えない。--21章 On ne voit bien qu'avec le cœur, l'essentiel est invisible pour les yeux.
子どもだけが、彼らが何を捜しているか知っている。 --22章 Les enfants seuls savent ce qu'ils cherchent
でも目は盲目なんだ。それはきっと心で見ているんだよ。-- 25章 Mais les yeux sont aveugles. Il faut chercher avec le cœur.

『人間の土地』(1939年)[編集]
帰結されるもの[編集]
船を造りたいのなら、男どもを森に集めたり、仕事を割り振って命令したりする必要はない。代わりに、彼らに広大で無限な海の存在を説けばいい。 If you want to build a ship, don't drum up the men to gather wood, divide the work and give orders. Instead, teach them to yearn for the vast and endless sea.
純粋論理学は精神の破滅です。 Pure logic is the ruin of the spirit.
真実の愛は無限です。与えれば与えるほど大きくなる。 True love is inexhaustible; the more you give, the more you have.

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8月も終わり・・・(^-^;

2014-08-28 07:10:33 | おもうこと

一ヶ月以上のご無沙汰でした

ひさーびさ書こうと思います。

ぇっと。。何から???

先日は黒田亜樹先生の素晴らしいコンサート、みなさまにお聴きいただけて本当に良かった!

言葉は要らないです。

とにかくそこから何かしらを受け取って頂ければ

そして、最近の読書。。

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岡潔・・凄いです!読む事おススメします。お父様方も是非!!

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小林秀雄と岡潔のコラボ・・・いやはや感銘受けまくり!決して難しい事は言っていません。

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まどみちおさんは本物の芸術家。静かな深いまなざしでじっと見る。激しく燃える生命の営みがあると感じる。

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染織家、志村ふくみさん・・・この方大変な思想家でいらっしゃる。鶴見和子さんは言うに及ばず!

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“笑い”は深い。。養老先生が「『ああすればこうなる』はダメだ」って、官庁の新人に向けて講演した。終わってから「質問ありますか」って言ったら、最後の質問が「それじゃあ、先生、どうしたらいいですか」・・・・・(笑)。もう死ぬかと思った。。と養老先生。。死ぬほど笑った。。どんだけ~~???(言い過ぎました(-_-;)しかし国の中枢を担う人もうちょっと頑張ってもらわなきゃ・・)。。。で、現代を生きる子供たちもそういう思考に染まってしまう。。どうすればいいんですか??これって子供のせいじゃないですよ~~

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渋沢栄一はあれだけの事業をしながら、一番先に考える事は利潤の追求ではなかったと。。大人物は違う。。小人ばかり製造してもダメなんですよ~~

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アンリ・ベルクソン☆読みやすくはないけど、難しい内容ではない。。理解力があるとか無いとかのハナシじゃなく、そこらへんの事が日頃の生活の問題になっているかどうかってことなんじゃないかな??

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三々五々集まって、連弾ミニミニコンサート(ズッコケても大丈夫)というのをやりました! お父さん方もお仕事抜けていらっしゃったりして、けっこう大盛況でした~☆楽しかったですよ!会場の温度もう少し下げないと汗だくになってしまいました。あんパンやマルちゃん、ジャズやボサノバ。。20曲近く連弾で弾いた気がする。。楽譜をきっちり綴ってないとシワになったところに音符が入り込んで、読めないものがあり・・・楽譜の綴りは丁寧にしよう~

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あてくじの様に好きなものを順番にゲット☆

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本番前の舞台袖。。それなりの緊張感はある。

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プロメテオとクロアキのコンサート期待大ですね!

(ちなみにこの8月に行われたクロアキコンサートは労音主催のプロメテオとのコンサートの為のプロモーションの意味合いで催されたものです)

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日野原重明先生の著作の中に、シュタイナーの事が結構書かれていて興味深く読んだ。

Photo

帰省中のちびっこ。元CAさんのRちゃんちの姉弟。カッコいい器にうどんを盛ってもらいました!

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ダブルYちゃんと私。全日空ホテルで乾杯!この後、一人のYちゃんは、イタリア旅行へ旅立った☆

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地元野菜のサラダ・・・緑ばかりで帰って面白い♪

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母になったEちゃんと、娘のMちゃん、そしてSちゃん?

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Mちゃんは歳が一番近いお姉さんに興味津々。。

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Rちゃんと、お気に入りのカフェへ☆写真展も行きました~☆彡

バタバタな最近の様子でした

今日は、秋開催の「ピアノフェスティバル」に向けて話し合い。

大変優れた音楽家の(しかも一流)の方々が、共鳴共感して力を貸して下さることが決定しています!

なんて幸せな事なんでしょう!

海外留学が決まった卒業生もいますしね。。ほーんと楽しみです~

色々な物事が、すこーしずついい方向に動いています!

素晴らしいです

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ピアノを習うことをお料理に例えるなら・・・

2014-06-01 06:59:01 | おもうこと

子供たちが、発表会やコンクール等、人前で弾く時、よくお料理に例えます。



「私、腕前はまだまだですが、頑張って作ってみました。よろしければ食べてみて下さい。」



生煮えや、味付け間違いはしないでね。



そんな気持ちでしょうか?



皆さんに「少しだけ焦げてたけど、○○ちゃんらしい、いい味がついていて美味しかったよ。」



「ちょっと盛り付けはくずれていたけど、なかなかの出来栄えだったね。最善を尽くし、心を込めて作ったもんね。」



発表会なら、そんな感じでしょうか?



ピアノは、ほとんど99%以上の人が、趣味として習っていると思います。



おうちで、みんなが「美味しかったね」・・・と言って食べてくれるものを作れれば良いのです。



たまに、街の小さなレストランを開店させる(つまり、街のピアノ教師や音楽の先生)子もいるかも知れません。



お料理は心の栄養。



時々は、他の方に喜びを分けてあげられる人になるのもいいですね。



“究極”をめざし、苦労もいとわない人は、三ツ星レストランのシェフや料理人を目指すのかも知れません。



これは、ピアニストと言われる人たちです。



“のだめ”で、不良債権と言われるくらい、お金も時間もかけても、なかなか報われない商売です。



見た目の華やかさに比べ、厳しい現実も待っているでしょう。



なので、あまり音楽に進むことはおススメしないんです。



ですから、みんな“趣味”で料理を習っている・・・つまり心の栄養の為に、ピアノを習いに来ているのです。



情操教育ですよね。



よく、「うちの子練習しないんです。ピアノの練習を嫌がります。」



と仰るお母さんがいますが、当然でしょう。



子供の身にもなってください。



美味しい料理を食べたことないし、作る料理のイメージやプランも全くないのに、作れるはずもないし、意欲もわかないですよね。



皆さんこれなしに、作ることばかりに意識が行くので、子どもはタマッタものではないのです。



最初は、美味しいものを食べて、舌を肥やす。。その後も継続的に。。



おにぎりや目玉焼きから始めて、少しずつ難しい料理の技や手順を習う。



美味しいものが作りたいからこそ、練習したくなる。



美味しいものを作って食べたからこそ、心が満足し栄養源となり、人として成長し、深くなる。



今どきのお母さん方は、曲を少々ご存知なので(深くなくても、YouTube等でオテガルな情報源があるので・・スミマセン・・失礼千万ですが正直そう思います・・さらに言えば、楽譜が少々読めて弾けたぐらいで“分かっている”とは言えないです・・無礼千万オユルシヲ(笑))



どうしても子供たちに、



「あれを弾かせよう、これが弾いてもらいたい」



と思われるのですが、非常に危険ですし、子供たちが可愛そうです。



子供もお母さんが喜ぶ顔が観たいし、美味しそうな料理なら作って見たいと思います。



そりゃあ、豪華で美味しそうな料理が食べたいですよね。。誰しも。。



でも、今すぐ食べれる料理と、作れる料理は違います!



段階を踏まなければ、作れるようにはならないのです。



もちろんこの判断は子供にはできません。



その難しさは、勉強した専門家でなければ分かりません。



知識、技術、体力、精神力・・・色々なものが備わらなければ、三ツ星レストランのフルコース料理は出来ませんよね。



お母さん方は、その難しさが分からず、子供たちに要求してしまわれるように感じています。



例え、焼き魚ひとつとってみても、美味しい焼き方・・・いやいや、その前に、食材を選ぶ、道具を揃え、技術を磨く・・・美味しいものを食べれば、心から満足し、また食べたくなります。



まずは目玉焼きや卵焼き、それから茶碗蒸しetc.・・・そうしてお次は、フワッフワのオムレツ・・・少しずつ進めてゆかないと、とりあえずオムレツを作ろうと思って頑張ったんだけど、カチカチであまり美味しくなかったので、心は満足しなかった・・・もう作りたくない、食べたくない・・・そんな状況に陥ります。



子供としても、「オムレツがおいしそうだし、卵焼きよりオムレツが作りたい!」



と言うでしょうが、作ってみたら、思い描いていた料理とは似ても似つかぬものが出来た・・・



このスタンスでレッスンを進めると、心は満足しないまま、煮え切らない料理を作り続けることになります。



学年が上がってゆけば、それなりに時間の制約も多くなります。



これはすべての子に言えることで、誰か特定の子だけヒマ・・・とか、忙しい・・・という事はありませんし、昔からのことです。



今さら始まったことではありません。



そういう時、ちょっと気分を変えて、スウィーツなんか作ってみたらどうかしら?・・とか



小さい時には理解できなかった、微妙で複雑なこの味わい・・・大人に近付いてきたら、味わい深さがなんとなく分かるようになったね。



というような小品を、この時期にこそ弾かれれば良いのです。



テクニックとしてはそれほど頑張らなくても、ちょっと練習したら手が届く・・・しかし幼い子には、人生の複雑な妙味を味わうにはまだ早く、心の面での理解が難しい。。



そういう珠玉の小品を、作曲者は多く残しています。



こういったものに出会える、チャンスの時期でもあるのです。



もっと素晴らしい小品に出会って、心が満足し、音楽する喜びに出会えるのに・・・と、残念に思います。



そういった心からの満足の気持ちこそが、心を大きく成長させてくれるのです。



「指」ではなく「心」が動いていなければ。。



ここが分からないまま終了してしまうのは、ピアノ教師としては残念な思いです。



“食べて好きな料理”と、今すぐ実際に“作れる料理”は、初めから一致はしません。



少しずつ“育てる”ものなのです。



ご父兄の中で、全くの“0・ゼロ”からピアノをスタートさせ、もう5年近くも継続されていらっしゃる方がありますが、本当の意味で、楽譜をよみ、解釈し、体をどう使って響かせリズムを感じるか・・・ピアノを弾くという事はどういう事か、徐々にその奥深さ、難しさ、そして“喜び”を理解されてきているようです。



自分が弾く前は、子供たちはちゃんとマジメに練習すれば、単に指が動き弾けるものだと思っていたが、そんなものじゃないのですね。。と仰っています。



文章と同じで、音の言葉がどう連なっているのかを理解できないと、何をやっているのか全然分かっていない演奏になります。



意味の解らないフランス語やドイツ語のマンガを与えられても、面白くないのは当然です。



何時間もワケのワカラナイABCを唱えても、不毛ですし、何より可愛そうです。



そして、誰もが三ツ星レストランのシェフなんか目指さなくても良いのです。



舌の肥えた人が増えれば、良い“文化”は残ります。



行列ができるお店だと聞かされて、並んで食べてはみたものの、本当にそうだったかなぁ?・・・とか、見た目の盛り付けばかりゴージャスで、肝心の味はどうだろう?



ここのレストランは、小さくて無名だけど、なかなかいいぞ!・・・とか、音楽で言ったら良い聴衆になるのです。



そうすれば、“ウワサ”に惑わされることなく、しっかり自分の耳で判断できる人になれます。



ニセベートーヴェンとかね・・・いろいろありました・・・食材でも“偽装”だらけです。



“ホンモノ”が見分けられず、聴き分けられない“悲しさ”です。



ちょっとしたアイディアを、街のレストランからもらい、家で試してみて、家族が喜ぶ料理が作れるようになる。



そんなことを目指しています。



その中で、たまたま“街の小さなレストラン”を開店する子もいるでしょうし、ごくまれに、“不良債権”を覚悟の上で“三ツ星レストランのシェフ”を目指す子もいるかも知れません。



でも、基本的には、家庭の中や友達同士で、「美味しいね」と言って食べられる料理を作れればよいのです。



子供たちの幸せって何でしょうね?



私たち“大人世代”がいなくなっても、ちゃんと自分の力で考えて、澄んだ目と耳を持ち、両足でしっかりと大地を踏みしめて立てる子を育てる。



他の誰かになるわけではないのです。



その子はその人にしかなりません。



その人以外の誰でもない。



その人らしく育てる。



子供はオモチャでもフワフワの甘いお菓子でもありません。



ユーモアとたくましさを持って、冬の寒さにも耐えて、毎年春になれば、美しい新芽を出せる、“大樹”に育てたいものです。



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“セーラームーン”になりたい・・・って言う話・・・&「ラスコー壁画」

2014-05-11 06:19:10 | おもうこと

幼い子供たちに、「大きくなったら何になりたい?」・・と聞くと、「アンパンマン」とか「ウルトラマン」とか、ひと昔前なら「セーラームーン」・・・それは現実には存在しないものだからムリよね。。って分かるような可愛らしいことを言うので、年長者は微笑ましく笑います。

・・・が、ちょっとそこで考えるんです。。

じゃあ、「長澤まさみちゃんみたいになりたい」とか「モモクロやAKBみたいに活躍したい」というのと、どれだけ差があるのだろうと。。

おそらくタレントさんの心の内では、世間一般大衆から求められる、タレントとしてのイメージ・・・あえて言えば、“虚像”と、自分の本来持っている本性の様なものの間で揺れ動くものがあって、その差に苦しむこともあるのではないでしょうか?

初めは良いのですが、時間がたつうちに、どんどん現実との“ズレ”に違和感を感じるようになると思います。

求められる虚像をずっと演じ続けるのか、打ち破ってゆくのか・・・上手く打ち破れれば良いのですが、そうでない場合はタレント生命にもかかわるのでしょう。

打ち破っても打ち破っても・・・そう言う現実かも知れません。

“虚像”としての商品になるわけですからね。

また、何十年も女優をやっている人も、若い時は“綺麗で可愛い虚像”を演じられますが、歳には抗えない。

いくらヒアルロン酸やコラーゲンを注射しても、整形を続けても、さすがに20代をキープしたまま50代60代はムリでしょうから、“商品としてのイメージ”の転換に迫られる。

それで、面白キャラを演じたり、汚れや天然キャラや色々転換を迫られる。

最近CMでは、アニメのキャラクターを登場させた洗剤や石鹸などのコマーシャルも登場しますが、製作する側としては、せっかくお金をかけて作ったCMのタレントがもし不祥事やら何やらで“イメージに傷がつく”・・・つまりダメージを受けて、商品のイメージがダウンするというリスクを避けるためには、無難で長期間同じキャラクターを使えるというメリットもありますよね。

テレビや雑誌などの2次元の世界・・・これはいくら3Dだと主張しても、画面はどこまでも2次元で平面なので、そこから受けるイメージの世界は、どこまでも作り上げられた虚像の世界。

私たちが心の中で作りあげた、非現実の世界で、本当の生身の人間に近付くことは難しい。

対面して、じっくり話して、心からの言葉を聞かなければ、本当に分かるものではない・・・いや、それでも本当に分かるなんてことは、なかなか難しいことなんだと思います。

簡単に「分かった分かった」・・・という事は、本当は分かっていないことなんだ、、と言いますが、苦労して得たものでなければ、ほとんど表層的な虚像に近いものなのだと思います。

いくらスクリーンを通して夕陽を見て、「ああ、夕陽ってあんなものね」。と認識したつもりでも、本当に大海原で、或いは高い山で、或いは近所の空き地で見た夕焼けとは、異なるものではないでしょうか?

「体験」こそが、私たちの心の糧となるのであって、バーチャルはどこまで行ってもバーチャルでしかないと思います。

では、ピアノや読書はどうでしょう?

これも、ある意味「イメージ」や「想像」の世界です。

ただ、これは、自分の中で「創造」することでもあるので、一方的に与えられたイメージや虚像ではないのです。

そして、心の中で想像する世界は、2次元・3次元という世界に縛られることなく、広く深く飛翔します。

目覚めている時と眠っている時の中間あたりに、「夢」の世界が出現しますが、このような世界に近いのではないでしょうか?

「神話」や「夢」は「無意識」の思考なのだと思います。

そして、ピアノにを弾くこと(他の楽器を演奏することも)、楽譜をよむことなどは、運動機能まで使わなければならないので、脳のあらゆるところを目覚めさせ、活性化させなければ、演奏という行為は成り立ちません。

右脳的思考と左脳的思考、そして脳の上位部を占めるこうした活動にとどまらず、人間以外の動物たちも素晴らしい機能を持っている、運動や覚醒や意識や呼吸など、生命維持そのものにかかわる脳の機能もフル活動させ、脳の神経シナプスを繋ぎ合わせ、全体を繋ぎ合わせる活動をしているのではないだろうか・・・

そんなことを「芸術活動」を通じてしているように思います。

約10万年程前に今のアフリカに登場した、私たちの直接の祖先であるホモサピエンス・サピエンス(現生人類または新人と呼ばれる)が、長い期間をかけ、地球のいくつかの地域に拡散してゆき、その一つである現在のフランスに位置する場所で発見された、「ラスコーの洞窟」内部の

「ラスコー壁画」

約4万年前ごろこの地域・・・ピレネー山脈の麓から中部フランスの渓谷辺りにかけて生活していたと考えられる「新人」たちの芸術活動。

この洞窟から発見された壁画(およそ紀元前1500年と言われている)は、現代人のそういった活動と何ら変わりない、現代人の思考はそこから殆どと言っていいくらい進化していないそうです。

人類の過渡期だ・・・と叫ばれている現代。

え・・・テレビもインターネットも電話も何もかも生まれた時からあったじゃない・・・昨日が今日になり明日になるだけ。。

一般的にはそう思われるのかも知れませんが、直接手に取ったり体験することなしに「認識」したと「錯覚」することに慣らされてしまいがちな現代社会。

セーラームーンもアンパンマンも長澤まさみも、2次元の世界に在っては、虚像の世界の住人としか認識できていないのだと思います。

モモクロも、AKBも、初音ミクも、大差ないと思えます。

もう一度人間復興・・・ルネッサンスを・・・でしょうか?

またまたメンドウな長い話になりそうなので、今日はこの辺で~~

そうそう・・・

時々、うちの主人がblog見てます。。とお聞きします。

こんな些末な文章をありがとうございます。

更に幾人かの方には、同じ本を買って読んでいます。。等々。

しかもご主人が!

おバカな私なので、まだまだ浅はかな思考ではありますが・・・ありがとうございます~

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心を育てる・・・目に見えないもの大切さ

2014-05-03 07:28:40 | おもうこと

子供が勉強しないからさせないと・・・



ピアノ練習しないからさせないと・・・



etc.



etc.



。。。



悩むところですよね。。



先日、うちのスタッフの先生や、お母様方と話していて、「私たち、勉強しろって言われたことそんなにないよね」。。という話になり。。



何が違うんだろう・・・と・・。



これはいつも。



私が小学3年生の頃、常にやる課題が出されていて、それを翌朝教卓に先生に見ていただくページを開けて下向きにふせ、みんなが提出する。。



それが常時出される課題でした。



日記の様なものであったり、計算や漢字だったかもしれません。



夏休みはどっさり“夏の友”以外にも課題が出て、夏休みの終わりになると、ヒーヒー言いながらやってる。。毎日の課題などは、どんなに遅くなってもやらないと気が済まないから遅い時間までやっていると、「子供は寝なさい!」と怒られる。



もちろん外遊びもたくさんしました。



「暗くなったら帰りなさいと言っているでしょう!」



と言われても、徐々に暗くなるのだから、いつを境に暗くなったのか、気付いた時は一番星も二番星も出ていた・・・なんて言うこともよくありました。



これも、けっこうたくさんの生徒さんにも言った話ですが、6年生の時は毎日4時に起きて机に向かっていました。



これ自慢話じゃないんです。



4時に起きて何やってたかって言うと、とにかく調べ物をして発表したかった。



朝4時から7時まで3時間、勉強したと記録したかった・・・きわめて単純な理由です。



テスト勉強じゃないから、当然それでものすごく成績が上がったとか、そういうんじゃない。



ただ、11歳とか12歳の子供が、毎朝起きよう。。とする“意志”だけは大変なものだと思うんです。



これが、ジョギングでもいいし。



それをやらないと気が済まない。



絶対やってやろう、と思う。



そういう心。



この子たちのそういう強い心を育てられたらなぁ・・・って。



子供が悪いわけじゃない。



子供にしてみたら、あ!そうだ!と思ったり、不思議だ~と思ったり、何だろう、、何かしら自分で感じたり考えたりする前に、どんどん与えられるから、じっくり心が育つ間もなく、たまったものじゃない・・・むろんそれに気付く間もない・・・そんな状況でしょうか?



もちろん親御さんだって一生懸命大切に育てている。



社会がどうのかと悪者を探しても無益です。



おそらく今の風潮が、早急な結果を求めすぎていて、何か目立つことがあればマスコミが騒ぎ立てるし、心穏やかでない。



どっしり構えて、目に見えないものを育むことが難しくなってくる。



目に見えて、ここまで課題をこなした、賞やご褒美をもらった、成績が上がった、有名校に入れた。





情報があり過ぎることで、穏やかな気持ちで胆を据えてじっくり見つめることが、大人も子供も難しくなっているのでしょう。



自分自身の考えとして、物事を考え感じ、葛藤を抱え、自分の内面のあらゆること(羨望、焦り、矛盾)を見つめ、ある意味苦しみ戦うことで、大人も子供も成熟するのだと思います。



昨日の奥様向け午前中の情報番組(くだらんヤツですが世の風潮が分かる)では、有名大学を出て一流企業や医師や、そんな仕事を持ちながら、親同士が代理で結婚相手を探すと・・・本人同士のお見合いでさえなく、親同士のお見合い。



それで、幸せになるかもしれないけど、じゃぁその子供は?孫は??そのまた子供は??



ケアのされ方がハンパなく、人として成熟することがあるのだろうかと、そら恐ろしくなります。



宮崎アニメの「千と千尋の神隠し」に登場する“ぼう”・・・大きな大きな赤ちゃんですよね。



仕事がバリバリできるキャリアウーマンの湯ばあばも、自分の子供となるとからっきしダメで、心が成長しないまま大きな赤ちゃんとしてしか成長できていない。



しかし自分の権利だけはしっかりと主張する。



宮崎監督、言いたいことはたくさんあると思います。



私たち大人世代も、生活する中で、大変なこと、矛盾、色々なことを抱えていますよね。



そういうことを長い間抱えて考えているうちに、人生が熟成されてゆくのかもしれません。



子供たちに葛藤を与え、ストレスを感じさせることは、一見かわいそうなのですが、人としての成熟がそれなしには出来ないので、見守るしかない時もあると思います。



たかだか“ピアノ”なのかも知れませんが、色々なことが“音”に如実に表現されてしまいます。



「豪華な造花じゃなくて、道端に咲いている小さな花でいいから、生きているもの、そして自分で摘んできたものを持って来てね」



ここのところ、そんなこと言っています。



そこに芸術の真価が隠されているのだと思います。



大そうなことではないんですよ。



本当に庶民感覚として、実直に愚直に生きるってことかな。。



今日はめちゃくちゃ真面目なモードでした~



連休は、ピアノ弾いて、本読んで、生徒さんと出会って、昼間っから飲む約束なぞ~~



楽しみでございますぅ~





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無知の知・・・知らないということを知っている・・・ということ

2014-04-29 05:44:56 | おもうこと

「無知の知」



ご存知でしょうか?



ソクラテスが2500年も前に言っていたようです。



2500年前の古代ギリシャ。。



とても遠い世界のようにも感じますが、言っていることはそんなに難しいことじゃない。



明治時代に海外から導入した学問に「哲学」・・・と名付けてしまったことで、えらく難しいこと・・・と言う錯覚の様なものが生まれたと言われています。



「ただ生きるな。 より善く生きよ。」



より善く生きる。



その事を問い続けているのでしょう。



人は何故に生まれて生きて死ぬんだろう。



私とは誰だ。



何故にこの宇宙が存在するのか。



等々。。



何か・・・を問い続けているだけです。



そんなに難しいことじゃない。



子供でもふとした時に感じ、考える事。



なんで? なんで?



と聞きますよね。



子供って哲学しています。



じゃぁなんでピアノ教師が??



って・・・



絵を観よう、本を読もう、いい音楽を聴こう。



心の栄養の為に大切なこと。



で、その作者たちが、何を考え求め続けたって、そういうことなんですよ。。



















ラファエロやダヴィッドのの画にも、ソクラテスは登場します。



1500年ごろに描かれたラファエロの「アテネの学堂」には、古代ギリシャの賢人が数多く登場しますし、1787年に描かれたダヴィッドの「ソクラテスの死」は、その最期をめぐる物語を絵画に収めています。



作者も、「より善く生きる」とは・・・



と考え続けていたことでしょう。



音楽の作品も、このような問いは内在していて、ドビュッシーなど、本当に古代ギリシャには憧れを抱いていたようです。



実際それを反映させた作品もありますしね。



ソクラテスについて・・・





プラトンの『ソクラテスの弁明』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロン神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会い、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。



しかし、実際に賢者と世評のある政治家詩人などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。それぞれの技術に熟練した職人達ですら、たしかにその技術については知者ではあるが、そのことを以って他の事柄についても識者であると思い込んでいた。



こうした経験を経て、彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているのだと理解しつつ、その正しさに確信を深めていくようになり、更には、「神託において神がソクラテスの名を出したのは一例」に過ぎず、その真意は、「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになる。こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神への奉仕」として、ソフィスト達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず、極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことをライフワークとするようになる





知らないことを自覚することなく知っていると思うより、知らないということを知っている方が、賢明であるという考えは、現代でも全く同じですね。



哲学・・・と言う言葉の響きが、難しさ・・・を感じさせているのかも知れません。



「より善く生きる」「真善美」を求める心。



キレイごとではないんです。



本当に心や魂が喜びます。



絵を観る時、本を読んだり音楽を聴いたり。



それはただただ綺麗・・・と言うばかりでない、深い意味が込められている。



その謎解きをするのが面白く、人生の醍醐味と言えるかもしれませんね。



そうそう!



林檎さんからのコメント、すごく興味深かったので、皆さまにもお伝えします。



“自然からの贈り物・・・そして恩恵”の回に、寄せて下さったコメントの中で、



























「潮の満ち引きは、一分間に18回(呼吸も同じ)で、18の2倍は体温の36℃、36の2倍は脈拍の72、72の2倍は血圧の144・・・・・」



これは知らなかったので、すごく感動しました!



でも、「ああ、やっぱりそうだよね。私たちは自然の造形物のひとつで、宇宙の節理の元に生きている」



間違いないなぁ~!



そんな感想です。



ご興味ある方は、コメントクリックしてご覧ください



「私たちは、驚くために存在する」ゲーテ



だそうです。。



ゲーテはベートーヴェンと友人でしたしね~



しかも・・・ベートーヴェンはソクラテスを大変敬愛していた。。

ベートーヴェンという人と作品を理解する為にも、ソクラテスについて、哲学について、、少し考えていみるのも良いかも知れませんね。。



ではでは~~






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俵屋宗達・・・“風神雷神図”

2014-04-28 00:01:15 | おもうこと

ファイル:Fujinraijin-tawaraya.jpg

日曜日・・・3月までは、受験生のレッスンで結構根詰めてレッスン(・・って、私のことだから大したことはありませんが・・)していて、ピアノレッスンばかりじゃなく、楽典、聴音、新曲視唱、ソルフェージュ一般等にプラスして、ピアノレッスンも入っていたので、月曜日のリトミックを朝からこなすと、火曜日はぐったり・・・でしたが、、4月からは何ともスッキリ

今は、たまーに日曜日のレッスン後、スーパーにふらふらと買出しに行ったり、なかなかゆるりとしております。

今日は午前のレッスンをした後、午後から高校生のMちゃんを誘って、コンサートに行ってきました。

プッチーニとロッシーニの珍しい宗教音楽。

プッチーニの若かりし頃の作品は、テノールとバリトン、そして合唱とオケ。

ロッシーニは、ソプラノ、アルト、テノール、バリトン。

珍しい曲で、なかなかの好演でした!

その後、「おなか減ったね~」・・・と言って、Mちゃんと全日空ホテルでアフタヌーンティーを楽しみました

さてその後、ピアノを弾いたりしてから、お楽しみの“日曜美術館”

今日は午前中、奥村土牛をやっていまして、ちょちょっと見てレッスンへ・・・

夜は、俵屋宗達・・・おお~今日は日本画日和~?

なーんて思いながら観ていたのですが、これが面白かった。

最近ずーっと気になっていたことを、なんと中沢新一さんが考えていらっしゃった。

どうもこの本に書いていらっしゃることが、私が最近絵を観て、日本人の思考の方向性を考えて、ずーっとずーっと気になっていたことと同じかも~

そりゃあ、スゴイ思想家の方なので、私のは思考の入り口でふらふらしているに過ぎませんが・・・

矢も楯もたまらず、今井書店へ走ったのですが、もちろん目的の本があるわけではなく・・・ちょっとは期待したが・・・そのほかの本を買い、コーヒー買って、結局Amazonで注文となりました

芸術人類学

インヴェンション (La science sauvage de poche)

最近いつも絵画展に行っては、“人々が何を思考してきたのか” “ヨーロッパと日本文化の中でどこに視点、思考の違いがあるのか”

な~んて、どうでも良いような壮大な問いがありまして~

日本のアニメ文化。

これは、対象物を単純化しデザインすることに長けている日本人の得意とするところなのかなぁ~?

奈良美智や村上隆に代表されるようなポップアートから来ているし、それを言うなら鳥獣戯画は日本最古の漫画と言っていい。

でも、尾形光琳の燕子花(かきつばた)屏風。。(土牛や光琳は画像がひっぱってこれずスミマセン)

美しいけど、極限まで単純化しデザイン化されて、何か肉迫してくるものが少ないような気がしていたのですが、中沢新一さんがこれに近いことを言われていて、“お~おもしろ~い!”と、かなり頷きつつ見ていたのです。。

光琳は江戸初期の画家。

江戸初期でも、少し前に生まれ活躍していた宗達の“風神雷神図屏風”を、模写していて、かなり似通ったものではあるのですが、宗達に在ったものが光琳では削ぎ落されている。。と。。

音楽で言うところの、ジャズのような即興性。

野性味溢れる、生命のほとばしりのような、感情の表現。。

そういったものが、そぎ落とされてゆく。

それは、ある意味、単純化、形式化、純粋化された“美”であったのかもしれません。

高度な技術と洗練された形式美。

けれど、フォルムを重視することで、そぎ落とされてしまった“肉声”のような深い世界が、どこかへ追いやられてしまう結果になったのではと思ってしまうのです。

以前にも“型”から入る傾向が、われわれ日本人には強く出ているのでは・・・と書いたことがありますが、なかなか“型破り”ともならず、“型”の中にいることで安心し、その事が評価の対象にもなってしまう。

これ、子供の学習塾や教育方法、はたまたピアノ教育界にも言えているような気がしてなりません。

そしてついでに、本屋さんで面白そうな本を見つけたので、ついつい買ってしまいました~

一冊の単価が高い。。

先日も何冊か買ったら、「1万7千円です」と言われ、あちゃ~・・でしたが・・・

今日も2冊だけなのに、6千円ぐらい払いました・・・・・・とほほ・・・オヤツヌキだ・・・

Dscn0637 Dscn0579

とほほ~~読むスピードが追い付いていない~~

ぁ・・・でも、2番目の画像中5冊は読みました。

連休は、卒業生との“飲み”&“読書”かな~?

“ソウジ”もせねば!!~~

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ピアノを習うということは・・・案内人として・・・

2014-04-09 05:35:55 | おもうこと

過去のblogで山登りに例えて書いたことがあるのですが、ピアノ教師に限らず、指導者というのは案内人なのだと思います。



寄り添って、道案内をする。



おそらく、ピアノの指導に限らず、おおかたのものは同じようなことが言えるのではないでしょうか?



野球、テニス、書道、空手、弓道・・・挙げていたらキリがないですが・・・



春・・・



まっさらな子供たちがたくさんやってきます。



これから、一緒にいろんなものを見つけに行く旅が始まる。



とも、言えるんです。



小さな子たちの、リトミックや幼児グループレッスンで、音楽体験、リズムや音感をつけることをはじめとするソルフェージュ指導にあたって、皆さんによく説明するたとえ話。



畑の種まきをする前に、畑の「土」をよく耕しましょう。



と。。



「土づくり」が出来てない、やせた土地に、いくら種をまいても育ちませんよね。



よく耕し、程よい栄養や光、水を与えなければ、種が芽をだし、育ち、花が咲き、実が生って収穫し、また次の世代を作る。。ということは難しくなりますし、逆に言えばそういうことをちゃんとすることで、美しい花を次々咲かせたり、美味しい実を収穫することができるのです。



さて、山登りに例えた場合。



それはより具体的に、自分の力で歩いて、きれいな花や景色を探しに行く旅でもあります。



初めは自分が立っている、ふもとの平らなところで、身の回りの景色や咲いている花を探したり、摘んでみたり。



教師は水先案内人として寄り添い、この花は本当にきれいだね。 



よく見ると花びらはこうだよ。 



すぐ横にこんな花も咲いているけど、違う色もきれいだね。 



などと話しかけ、一緒に感動したり喜んだり。 



そんな役割でしょうか?



もうちょっと勇気を出して、あそこにある湖まで行って、いろんなステキなものを探してみよう。



と、少し先の方も示してみるかも知れません。



そうやって、少しずつ高い山をめざし、そこにしか咲いていない花を手に取ってみたり、そこでしか見えない景色を眺め感じてもらう案内をします。



ただし。。



その為には、それなりの体力が必要です。



日々のトレーニングも積んでいなければ、遠出をしたり、山に登ったり、時には急な坂や崖、岩場を上り切るのは困難でしょう。



その為には体力だけでなく知力も必要でしょうし、経験を積んでいかなければ乗り越えられないことに直面するかもしれません。



体力や知力とは、すなわち、テクニックであり多少の楽曲分析できる程度の音楽理論であったり、ソルフェージュ力であったり、、、
そういった基礎的な音楽力は、曲の難易度が進むにつれて同時進行で力をつけてゆくのが良いでしょう。

非常に難しい本を読むのに、文字の読み方だけ知っていても読みこなせないのと同じです。


そして感動するしなやかな心の状態がなければ、せっかく体力をつけて登ったのに、美しい花や素晴らしい景色を目にしたとしても、何の感動や喜びもなく終わってしまうことになります。




体力や知力ばかりでなく、感動するしなやかな感受性がなければ、本当の意味で曲を弾きこなしたことにはなりません。



そうやって、難易度の高い曲を弾けるようになれば、自力で小高い山に登ってみたり、もっと上を目指すことにもなるでしょう。



でも、いつもいつもエベレストやマッターホルンを目指すことはないのです。



勉強が忙しくなってきたりしたとき、少し頭を休めて、近くのきれいな景色を眺めたり、池に浮かぶ睡蓮や水面の光の移ろいを楽しんだり、小さな山に登ったり。。



そんな楽しみが出来るのも、高い山に登った経験のある人にこそ、深く味わえるものもあるでしょう。



私としては、そういうことが楽しめる人たちを育てたいなぁ・・と常々(つねづね)思っているのです。



人の心は、表層的な日々の事の下に、奥深い世界を持っていて、無意識のうちにそことつながっています。



例えば、夢を見ること。。



不思議ですよね。



何であんな夢を見たんだろうと、現実生活ではあり得ないような経験を、心の中ではしています。



眠っている間に、現実から解き放たれ、深い世界とつながっているところが浮上してきます。



私は専門家ではないのですが、おそらく日常生活の中にだって、そういう「隙間」や「ぽっかりとした穴」があって、心に栄養をもたらしてくれたり、時には自分でも不可解なことをしてみたり、たまーには不思議体験をすることもあるかもしれません。



ここでは詳しく論じませんが、体に良い「栄養」を与えてあげるように「心の栄養」も必要です。



絵本などもいいですよね。



そして自然の中に身を置くことは、本当に素晴らしいことなのだと思います。



それが音楽で言えば、先ほど言った、ちょっと近くの小高い山や、川や、そういったもので例えられる、「小品」



そういったもので、心の中の世界を広げ、自由に羽ばたき、遊び・・・また良い日常の生活者となる。



よく、勉強が忙しいから、と言われますが、本当はこういう楽しみ方が出来る人は、逆によく勉強ができる人でもあるのです。



、、、またピアノ?!



と言われる塾の先生があるようですが、この事が邪魔になって勉強が出来なかった人を過去にみたことはありません。



良く書きますが、東大京大のピアノ率は高いのです。



もちろん、東大京大の人たちだけが賢いなんて、全く思っていませんが、体の栄養ばかりでなく心の栄養を充分に取っている・・・と言えるのではないかと思います。



山登りは、自分の力で登らなければ意味がありません。



ヘリコプターでちょちょっと登って景色を見てきても、ダメんです。



少なくとも、またあの山の景色を観よう、花を摘んで来ようと思ったら、その都度チャーターしなければいけないし、本当の意味で景色を味わったり、花を愛でることにはならない。



しっかりと体と心を育て、いつでも心の中の素晴らしい景色と出会ったり、花を愛でたり・・・そうして豊かな人になることで、現実生活の中で、いろんな工夫をして力強く生きてゆける人になるのでは・・・と、思っているのです。



如何でしょうか?



今日のたとえ話。



分かっていただければ幸いです~







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うちの子は表情に出さないので分かりにくいと思いますが・・・

2014-03-23 06:14:42 | おもうこと

「うちの子はモノも言わないし、表情にも出さないので分かりにくいと思いますが・・・」

よくお母さんたちに言われますが、全くそんなことはありません。

もの凄くはきはきとモノを言っていたり、大きなリアクションをする子がいたとして、それと何ら変わりないのです。

なぜなら、その「大きなリアクション」や「ハキハキとした発言」そのものの裏にある真意のようなものを聞き取ろうとして、話をしているので、発言してもしなくても、そう大きな違いはありません。

ニュースなどで、死に至るほどの重大な事件を引き起こした加害者や自ら命を絶つ子供(大人も)、周りの人は全く様子は変わらなかったと言いますが、本当にそうなんでしょうか?

せめてご両親などの身内だけでも、何か・・・に気付いてあげられたら・・・そんな風に思ってみたり・・・

もちろん私は出来ます・・・と言っているのではありません。

心の声を聴く努力をしてほしいな・・・と思うのです。

殆ど喋らない子や、心が閉ざされそうになっている子・・・思春期には多かれ少なかれそういうことはあります・・・そんな状態の子も、「何か」を語っています。

その多くは「目」の表情や輝き、微細な表情筋の動き、そして「音」です。

これはものすごく繊細なことなのですが、じっと見つめ聴き入ると、分かるようになります。

むしろハキハキものを言っている子の、心の声を聴く方が難しいかも知れません。

表面的な言葉面(ことばづら)に惑わされてしまうから。。

そして、等の本人も、自分の心の真意や真相が理解できていないこともあります。

何かウソ臭い。

これは「お利口さん」の発言にむしろ多い。

求められるであろう「ムナシイ言葉」を、つい口に出してしまう習性。。

ヒドイ言い方かもしれませんが、私自身も覚えがあるので、分かるんです。

大人はこう言ってほしいんだろうな・・

こういう時はこう言った方がいいんだろうな・・

求められている答えはこういうことかな・・

むろん本人には、そういう意識はないんです。

無意識の心の動きなので・・

ここに、真実の心の声はありません。

こういう「ムナシイ言葉」より、むしろ眉間にシワをよせて首をかしげている子の方が、よほど真実を語っていると思います。

ですから、ハキハキとモノを言ったり、大きなリアクションをしている子の方が「分かりやすい」なんてことは、全くないんです。

テレビに出ている人たちの、判で押したようなリアクションと空しく並んだ空虚な上っ面の言葉を思い出してみて下さい。

この人たちは、どんな悲しみを抱えているんだろうと思わずにはいられません。

クラウン(ジョルジュ・ルオー…ピエロ…これを主題に絵を描き続けた画家がいます)。

ルオーは・・・我々は皆ピエロだ・・・というような内容のことも言っていましたね…。

仮面。

そう。。

心と裏腹な言葉を言って、人を笑わせたり、その場を盛り上げたり。。

繰り返し繰り返しこの主題は、絵画や音楽で取り上げられてきました。

 

「聴く」

というのは、大変な才能なのですが、他人からは全くと言っていいほど、この才能は認知されません。

なぜならそれは、内側で行われているほとんど心の中の・・・あるいは魂の活動だからです。

聴こえている人を理解することができる人も、また、ある意味、それを理解する才能がある人でしょう。

ミヒャエル・エンデの代表作「モモ」

モモ (岩波少年文庫(127))

ここに現れる、主人公「モモ」は、聴く才能がある。

そんなことは簡単だ・・と言う人は、本当に「聴く」・・ということを真剣に考え直してみて下さい。

そんなに簡単なことではないですよ。。

モモが真っ直ぐなまなざしで、その人の言葉に、じっと耳を傾かると、ふしぎと「良い考え」が浮かんだり、思わず「真実」を吐露してしまう。

そういう女の子が主人公です。

生きている人なのか、あるいは魂の表現なのか・・・

ドイツ文学者、子安美智子氏は、「モモは人々の心の中にいます」と語っていましたが、魂の声を聴く・・・という行為なのかもしれません。

さて「モモ」は誰なんでしょうね?

じっくりじっくり読んでみてほしい本です。

非常に内容の深いもので、今、大人が読んでも、多層的に読むことができます。

経済のカラクリに警告も促していますし、「時間」そのものが「いのち」だとも言っています。

忙しさの中で、大事なものを見失っているのかも知れないと、気付かされる人も多いでしょう。

さて。

聴くと言えば、河合隼雄先生も「聴く」ことの天才だった・・と言えるでしょう。

以前に書いたことがありますが、離人症という難しい病気の美しい女性が、約5年ほどの治療の後、完治して言われるには、

「最初に先生にお会いした時に、この方なら治ると思いました(以前いくつかの治療を受けてきたものの成果が得られず、河合先生の元に来たという経緯・・)。 先生は私の顔にも服装にも全然注意を払われなかった(大変美しい方だったそうです)。 先生は私の言葉にさえ全く注意を払っておられなかった。」 ここで爆笑。

「ほほう。 私は何をしていましたか?」

と、先生が尋ねられると、

「あえて言うなら、“魂”のようなものを見ておられました」

。。

先生は、この事をいたく気に入っておられた様子で、何度か対談で語っていらっしゃいますし、

「最高の誉め言葉や! と、思いませんか?」

とおっしゃっています。

むろん、天才なので、引き合いに出すのもおこがましいというものですが、言葉面や表層的なことに捕らわれていては、まず「本質」は見えてこないし、聴こえてこないでしょう。

少なくとも、努力はすべき・・・と思います。

空しく並んだ「小奇麗な音」より、「不器用な真実」の方が良いと思われませんか?

言葉。

言霊(ことだま)。

ここに宿っているのは何なのでしょうね?

言葉が多いほど、逆に分からないこと・・も増えてゆくように思います。

ですから、

はきはきとモノを言わないから、心配だ・・・ということもないし、

はきはきとモノを言うから、心配ない・・・とも言えない。

そういうことなんだと思います。

                                  

そうそう!

やっと受験も終わり、ピアノの周り、ちょっとずつ片付け中。

髪もちょっとだけ切りました。

金曜日土曜日と相次いで合格発表があり、2人の受験生、志望校に入学することになりました

大学生だね~

社会の経済状況が良くない今の時節、国立系は倍率が高いそうで、Nちゃんが受けた大学は、志願した時点では7倍とか・・・

もう一人のYちゃんも、1次、2次・・と、何とか進んだものの、3次の楽典・聴音・新曲・・・そして学科が~~~と、心配しましたが、合格が決まり、ほっとしています。

まぁムリだったら、もう一年勉強し直せということだから、どっちみち、これからも頑張ろう、と話しておりました。

このA大は、今年新校舎完成だそうで、おそらく試験も新校舎のホールだったのでは?・・と推測しています。

すごく立派でキレイだったらしいですから・・・

2人とも発表会参加可能となり、賑やかになりそうです。

既に大学生の2人も参加してくれるので、楽しみですね

今日、23日と、来週30日の日曜日、午後2:30~4:30

うちのピアノ室で練習会します。

都合がつく方は、ご参加ください~

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読書・・そして、ピアノを弾くこと

2014-03-21 07:07:19 | おもうこと

読書とピアノを弾くことは、何か共通点があるのか?

と聞かれたら、

「それは、作者との対話です」

と、答えるでしょう。

絵を見ることも、おそらく演劇などを見ることも、「対話」であり「体験」なのだと思います。

不器用でも、「なにか」がある演奏。

それは、曲から何かしらを感じ取り、音として表現されているということだと思います。

もう少し進めば、曲の構成、転調や和声の移り変わり、リズム、伴奏形の動きや変化、メロディーの動きや装飾される音たち・・・

そういったあらゆることから、作者との対話が始まります。

本当に細やかな、繊細な世界です。

作曲や楽理、歴史観や作曲者の人生観、その時置かれていた状況など、多くのことを学ぶほどに、作曲者との対話は深まります。

では、読書は・・・?

よく、同じ作品も、読む時期や年齢によって、様々な受け止め方の段階があると言われますよね。

前に読んだ時と、少し違う感想を持った。

など。。

やはり、自分が体験し、考え感じていたことが、「読む」・・と言う行為に、力を与えているのではないでしょうか?

本を読みながら、

「うん!そうそう!」

「へ~そうなの?」

「なんでかなぁ~」

「それはないでしょ~」

「なーるほど!」

皆さんも、いろいろ思いますよね。

これって対話の始まりですよね。

「私も同感!」

「いやいや、そうは思わないわ」

から、自分の考え方や感じ方が、はっきりして来たりして、振り返ったり、確認作業が出来たり、

「そういう考え方もあるんだ!」

と、感動したり。。

絵本、童話、児童文学、小説、、

こういったジャンルは、圧倒的に「体験」が主でしょう。

村上春樹の本をお借りして読むと、そこにはシュルレアリズムのような絵画的な世界観の中で、少し戸惑いつつも冷静に感じ思考して、あちらの世界とこちらの世界をすり合わせながら、その中で触れたり感じたりしつつ、調和のような折り合いをつけて、現実世界をよりよく生きる・・・そんな世界観かなぁ・・・と感じていますが、村上ファンの方、そんなとらえ方ではダメでしょうかね~

ついこの間・・・そう、ひと月ぐらい前に知ったのですが、「小説」というのは「小人(しょうじん)の説」という意味らしいですね。

最近ハマっている、小林秀雄が言っていました。

もう、敬称を付ける以上の存在なので、何かの固有名詞化しています~

文学について語っていたのですが、ロマン派以降は「駄作」が増えた・・と・・・

「告白」が始まった。

自分の人生はこうで・・・とか・・云々・・

こういうことは、フランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーから始まったのだそうです。

「エミール」「社会契約論」などで、中学生でも知っている有名な学者。

もーちろん、読んだことなどありません~

で、このblogでもご紹介したことはありますが、彼は音楽家でもあったんです。

子供の時に練習する、フランスの練習曲集「ピアノの練習ABC」の最後から何番目かに、

「3つの音による歌」

という右手はたった3音、左手はちょっと音が多くてしかも静かに弾かないといけないから、ちとムズカシイ・・・と言う曲やら、

「むすんでひらいて」(オペラの中の曲)

など、私たちにも意外におなじみの作品があったりするのですが。。

この方、壮年期には実に立派なことを書き、立派な仕事をした方なのですが、人生の最後の最後で、道徳的にはどうなんだ???

というようなことをやらかしたり、書き綴ったりしているのです。

これが、「告白」

おそらく彼は、「人間って何なんだ」「よりよく生きるとは、立派なことを並べたてることなのか」「人が生きるとはもっと生々しく壮絶なものなのではないか」

いろいろ自問自答するところがあったのではないかと思います。

ピーカンの晴ればかりの人生なんてあり得ない。

とよく言いますが、そんな絵にかいたような、ご立派な人生なんてあり得ないし、人というものはそんなものじゃないと言いたかったのかも知れませんね。

そして、「告白」が始まると、言い訳したり、自分が自分が・・・という「客観性」を欠いた作品も増えるわけで、それを小林秀雄は「駄作」と言っているのです。

なぜ「客観性」が必要なのか?

それは、読者が自分の心の「鏡」として、自分の体験を映せないから。

全く個人的なことでも、そこに「客観性」があることで、「私も同じ感覚を持っている」と、読者が感じたり思ったりできるのです。

これは「演奏」もしかり。

あまりにも、私が私が、、という演奏、、つまり、ナルシスト、、のようなものに出くわすと、ウンザリしてしまう。

その「告白」は、言い訳だったり、自己中心的になり過ぎて、「鏡」にはなり得ないから。

「自己批判」の目を失うと、もはや「芸術作品」からは遠ざかり、お手軽で安っぽい「駄作」になってしまうのだと。。

では、小さい子たちの演奏はどうなのでしょう。

これはもう、「味わう」「感じる」世界だと言えるでしょう。

ここに、どこかから仕入れた「わざとらしさ」「ものまね」は禁物です

その子が心から感じている世界観が表れているかどうか・・・これがポイントでしょう。

そこから、「感じる」・・にプラスして、「思考する」・・ことが、少しずつ深まってゆきます。

こうして、幼い時に始めたことが、10年(6~7年)もすれば、「客観性」を持ったものになり、1人称から3人称へと変換してゆく・・・それが理想だと思います。

ですから、「型」のようなものにはめて、「方法論」・・・つまりhow-toで、どうやったらいいですか?

・・・の姿勢を続けていても、絶対に音楽的自立は無いし、それは他のあらゆることで言えているはずです。

なので、不器用でいいから、

「自分で感じ考える」

これに尽きると思います。

教師とは道案内人でしょう。

先に生まれた人・・・ですから。

「教えることは寄り添うこと」

本当に、河合先生のおっしゃることが沁みます。

ぁ・・・

で・・・読書とピアノを弾くこと・・・

ご理解いただけたでしょうか??

「対話」であり「体験」であること。

独りよがりなナルシストにならず、自己批判の目と耳を持ち、「客観性」を忘れないこと。

「一人称」だった幼い時の感覚から「三人称」にまで、育てること。

これ学術論文でも、同じだと思います。

でも、人まねをしていると、「一人称」にすらなりません。

ここが大事なところかな??

あちゃ~

名文ならぬ「迷文」・・・迷惑のメイ、迷うのメイ・・・ですなぁ・・

では~~

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書店と図書館に行ってみたら・・・♪

2014-03-01 08:22:42 | おもうこと

先日今井書店に行ってみたら、WEEKLY BEST 1 に岩宮恵子さんの「好きなものにはワケがある」

NO.1

になっていました!

好きなのにはワケがある: 宮崎アニメと思春期のこころ (ちくまプリマー新書)

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山崎豊子さんの最期の著作で話題の「約束の海」を抑えて、No.1 !

とても分かり易く書かれていますから、是非お読みください!

中高生に向けて、みなさんもそんなことありませんか?・・・のような文体で書かれていますが、大人が読んでも良いのですよ。

どれだけ分かり易く書くのか・・・が、書く人にとって最大の課題。

専門用語を並べたてた方が簡単なのですが、理解していただくためには、分かり易い言葉で、分かり易く書く・・・そういうことだと思います。

ぜひぜひ~~

さて、米子美術館横の「ハタノ」さんで、美味しいフルーツたっぷりのモーニングを食べ、米子図書館に行くのも、最近の楽しみ。。

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今井書店錦町店に行って本を見たり注文したりして、ラ・バールで美味しいカフェラテ飲みながら本を読むのと、ちょっと似たお楽しみ。。

そして、米子図書館で、初めて本を借りてみました。

池田晶子さん

初めて知りました。

分かり易い言葉で哲学する・・・哲学エッセイ

そんなことをしていらっしゃいました。

1960年生まれの、私と同じ世代。

おお~

と思ったら。

2007年没

若くして亡くなられたんですね。

「私とは 何か さて死んだのは誰なのか」

「魂とは 何か さて死んだのは誰なのか」

「死とは 何か さて死んだのは誰なのか」

ご自身の生死をもって、哲学された方のようです。

「知るより 考えること」

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読みました。

私と同じことで、怒ってる(笑)

非常に共感しました。

図書館に行かなければ分からなかったなぁ~

いい本、いい著者に出会えてよかった。

池田さんの魂とお話ししてみたいと思っています。

もちろん本を通じて。。

「14歳からの哲学」・・・考えるための教科書

「人生のほんとうのこと」

書店で注文してみました。

もう一つ借りたのは。

小林秀雄講演集のCD

もちろん以前から言っている、昭和の3賢人「3人の秀ちゃん」のお一人。

茂木さんも、岩宮さんも、池田さんも・・・

おそらく多くの知識人が、この方の語る言葉に共感しています。

茂木さんなど「親友だ!」

ぐらいの勢い・・・もちろんもう亡くなっていらっしゃいますから、魂の次元でのお話です。

4×2枚

計8枚のCD

もう繰り返し10回ぐらい聞いています。

Dscn0261

今借りている中で、本居宣長について多く語っていますが、1730年生まれの本居宣長

ハイドンと同じくらいです。

方法論・・・つまりhow-toばかりやっていることの愚かしさを、もうこの時代から語っている。

これは本居宣長 言。

コンピューターは、細かくはなっているが、詳しくはなっていない、と、氏は語っています。

もう30年以上前に。

本当に怒っている。。

非常に共感。

「どうやったらいいんですか?」と、何も考えないで、how-toばかり聞くことの愚かしさ。

子供たちに伝えたい。

そして、やはり大人自身が、自分は大丈夫かと、自分の胸に手を当てて考えてみるべきだと思うのです。

もちろんまず自分自身。

自分は大丈夫と思うこと自体が、怖いことなんです。

ぁぁ・・・

もう、レッスンの準備しなくちゃ!

そそくさと、終わります。

お口直しに、スーラの絵葉書

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ただ綺麗なだけじゃないんです。

でもこのお話は、またの機会に。。

ついでに佐野洋子さんも~

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そうそう、小林秀雄の言葉の一つ。

「分かる」ということは「苦労する」と、同じ意味なんです。

非常に納得。

そういうことなんだなぁ~

人生は意味深い~

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美術館巡り♪

2014-02-20 08:05:05 | おもうこと

またまた一週間のご無沙汰でした~

・・・って感じですね・・最近の書き出し・・

先々週、熱が出て2日間お休みさせていただき、けっこう大変でした。

その後であった子たちは、私の風邪に影響も受けず、元気な様子だったので安心しましたが・・

季節がら、お気を付けください

さて、熱が下がると、即効旅に出てまいりました。

・・といっても一泊二日の安近短な旅・・ですが、楽しみにしていた美術館巡りを遂行してきました

アラフォー女子の元生徒さんから情報をもらい、福山美術館で開催されている“佐野洋子原画展”

早朝の“やくも”に乗って、新幹線の駅としての認識しかないこの街に降り立ち、2月16日まで残すところ数日となった特別企画展・・佐野洋子さんの作品の数々に会ってきました。

私は、20代前半から“佐野洋子”という人の魅力に取りつかれ、勝手に自分のお姉さんじゃないかと思うぐらい好きな人で、どんなに辛口のことを書かれても、わかる~~と納得してしまうし、その向こうに見え隠れする、佐野さんの純粋さに魅了されずにはいられない、コアなファンの一人なのです。

「死ぬ気まんまん」という本を書かれ、本の帯にも“元気に逝った佐野洋子さんの鮮烈なメッセージ”などと書かれているのですが、“元気に逝った”??~~なにそれ~~

と笑ってしまうような・・・そんなのアリ??って感じですが、佐野さん待っててください、そのうちそっちに行きますんで!

と言いたくなるような佐野さんの生きざま死にざま。

お線香の代わりに、タバコ・・だったそうです

100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))

おじさんのかさ (講談社の創作絵本)おぼえていろよ おおきな木 (講談社の創作絵本)

パンツのはきかた (幼児絵本シリーズ)

「パンツのはきかた」は、岸田さんも病床にあり、佐野さんもガンが再発した時に、「私もう死にそうよ」と言いながら、仕上げられた作品で、佐野さんの言葉を借りれば、「二人ともギリギリセーフ」だったのだそうです。

佐野さんは、ふわふわとした口当たりの良い砂糖菓子のような作品を嫌い、「ばっかみたいな絵本」は描きたくない・・と。

色にしても、佐野洋子の作品として初期の頃の「おじさんのかさ」は、ほぼ青と黒・・という、子供の絵本にあるのだろうか、というような色と構図なのですが、これが子供の心の奥深いところで残り、後々まで響く作品となるのです。

佐野さんのことを「パンツ一丁で立っている人」と評した人があるようですが、世間の無理解や批判をもろにナマの身体に受けながら、「私はそうは思わない」と言い、ボロボロになりながらもたっているような人で、全く違う畑の人ですが、田中泯さんの「お前らちゃんと立つってことがどういうことか分かるか!」と言っていらっしゃった言葉を思います。

この方も、世間の無理解や批判を体中で受け止めながらも、呻き苦しみながら歩いて来た方だと思うんです。

カッコよすぎるわ。。

こういう人って。。

ある数学者の方が、批判にさらされていた時期、「いつもルオーのピエロの絵を観ていました」と仰っていましたが、本当に勇気づけられるんです。。こんな時期に、その作品と、その作品を描いた作者の生きざまに。

ショップで、今しか買えないであろう「佐野洋子 絵本の軌跡」やら、ポストカードやら、買ってまいりました。

その後一路広島市内へ。。

広島県立美術館で開催されている、「クレラ―ミュラー美術館展」

ゴッホや、シスレー、スーラ、シニャック、ピサロ、モンドリアン・・・

等々。

翌日帰る前は、ひろしま美術館へ。。

ここの美術館は、たたずまいが好きで、時々寄りたいところです。

ゴッホの“ドービニーの庭”・・・これはいわくつきの作品で、恐らくゴッホが自殺を図る一週間前ぐらいに描かれたものだろうとされています。

ゴッホの心情が吐露されている作品なのです。

ロートレックやユトリロ、シャガール、マチス、ピカソ、ルオー、ルノアール、セザンヌ、ゴーギャン、ムンク・・・

程よい作品群で、なかなかいいんです。

そういう意味では、島根県美もほどよいなぁ~と思います。

日本画展も特別開催していて、お宝鑑定団の効能(笑)か、熱心なご年配の観覧者も多くいらっしゃいました。

印象に残ったのは、東山魁夷の作品

青い森、白い馬・・の印象の強い画家なのかもしれませんが、今回展示されていた日本の家屋や風景のデザイン的な作風が美しく、日本人の作品観、視点、など、改めて考えさせられました。

美味しいものも食べ(とは言え、病み上がりだったので暴飲暴食は慎みましたが・・)、数々の名画を観て、病み上がりで無理していったけど、行った時より元気になって帰って来たので良かった~

                 

行き帰りの車中はなかなかの雪景色でした

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なお、画像の絵画はもちろんパネルです。

本物は写真では写せないんで・・念のため~

さて、発表会やら受験やら、いろいろ目白押しで忙しい時期ですが、みなさまも健康にお過ごしください~

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