ホイットニーさんの家族は、明治時代にアメリカに留学した日本人たちをいろいろを助けるために家に招きました。
そのために、アメリカに来た日本人の多くが、その家を訪れています。
当時は、日本人は差別され、下宿もなかなか見つからない時代でした。
徳川幕府が崩壊し、藩主達が多く留学しましたが、その中に、3人の十代の若様がいました。
江戸時代だったら、各藩のお殿さまになった方々です。
松平定教(さだおき)16才=桑名藩知事。桑名藩は、養子の定敬(さだあき・会津藩主・松平容保(かたもり)の弟)が継いでいたが、朝敵となったため藩は滅亡し尾張藩の直轄下に置かれたので、義理の父親である松田定敬(さだあき)とともに留学した。
彼らは、日本にいた時、宣教師ブラウンから英語を習っていました。松平康倫(やすのり)=12代将軍家慶の異母弟で、8代津山藩主松平斉民(なりたみ確堂)の子で、松平慶倫(よしとも)の養子となった。慶倫が斉民の養子となっていたが死亡したの で、実の父親の家督を継いだ。
南部栄信(さきのぶ)16才=旧八戸藩9代藩主の長男。 八戸藩の江戸藩邸は、売却され静寛院宮(和宮)の屋敷となった。
それぞれ、複雑な家系です。
このうち松平定教以外は、すぐに亡くなってしまいました。
たぶん結核です。
当時の日本人の病は、結核か脚気が多く、和宮も、その夫の徳川家茂も脚気で亡くなっています。
この時代は、早く亡くなる方がたくさんいました。
長生きをして、子供をたくさん作った方々の多くが、繁栄しました。
初代徳川家康も、最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)も長生きをして、たくさん子供を作りました。
慶喜は、30年間、静岡にこもっている間に11人もの子供を作り、その子供たちが皇族や華族と結婚しているので、皇室と徳川家の関係は深いのです。
彼らの関係者が、日本に来たホイットニー家にまたやって来て福音に触れたのです。