デボラさん、白馬ではお会いできて感謝でした。
デボラさんのコメントに答えようとしたら書ききれなかったのでこちらに書きます。
勝海舟は、徳川が崩壊した時、各大名などから徳川に大金を出させています。
それをもとに、たくさんの土地や株などを買い、徳川の財産が増えるようにしました。
個人でも、郵船の株をたくさん買っていて、孫の代までお金に不自由しないようにしていました。
本来、15代将軍は、徳川家達(いえさと)がなる予定でしたが、4才だったので、徳川慶喜(よしのぶ)が15代将軍になり、幕府は大政奉還したのです。
家達(いえさと)は、天璋院篤姫と一緒に赤坂の勝家のすぐ側で暮らしていましたが、クララの家に出入りして外国暮らしの訓練をしてからイギリスに留学しました。
その間に、天璋院は、勝が買っておいた千駄ヶ谷に引っ越しますが、木造平屋の質素な暮らしだったそうです。
家達(いえさと)は19歳で帰国して天璋院が決めて武家の嫁として教育しておいた公家のお姫様と結婚します。
しかし、子供が生まれる前に天璋院は亡くなりました。
そして、家達は、戸籍上慶喜(よしのぶ)の養子になり徳川宗家となりました。
慶喜は徳川慶喜家として分家ではなく同格の家を起こしています。
慶喜は、明治30年まで平民として静岡にいましたが、勝の裏工作もあり天皇・皇后に招かれ東京に住むようになりました。
もともと、明治天皇の皇后と慶喜の奥さんは戸籍上は姉妹なのです。
慶喜が静岡にいた時、子供たちは、家達(いえさと)の家に住んで学習院に通っていました。
この家達(いえさと)の千駄ヶ谷の家が銀行のようになっており、通称徳川銀行と呼ばれていました。
勝海舟は、その徳川銀行の窓口になっていました。
旧幕府の武士たちは、慶喜について静岡に行きましたが、そこで初めは喧嘩ばかりしていましたが、2年後、荒れた地を開墾してお茶畠を作るようになったのです。
そのお茶を、勝が、横浜から外国に売るようにしたのです。
そして、開墾している間、勝が徳川のお金を出して旧幕臣を養ったのです。
しかし、代表の者が年中お金を要求に来るので、勝が怒ると涙を流しました。
それで勝は、見るに見かねてお金をあげていました。
それなのに、家達たちからは、自分の好きな者にばかりお金をあげていると陰口を言われていたそうです。
勝海舟日記には、お金のことが細かく書かれています。
徳川が崩壊した跡、功労者の家族にはそれぞれにお金を与えたり、息子の留学費用を出したりしています。
死ぬまで、苦労の絶えない人でしたね。
最新の画像[もっと見る]
- 全てのことについて感謝! 4日前
- 新しい出会い 1週間前
- 血栓のいやし 3週間前
- PatoDan(パトダン) 3週間前
- いやしの集いのメッセージ 3週間前
- 2024/12/06 4週間前
- 緑内障 1ヶ月前
- 鬼柚子 1ヶ月前
- 健康診断の結果 2ヶ月前
- お茶席 2ヶ月前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます