脳死や臓器移植の問題を考える際に、
死体に対する考え方・感じ方が、この問題への賛否を左右しているということがわかります。
英語の場合、body という語が面白くて、
「身体」 という意味ももちろんあるのですが、
元はというと body は 「物体」 を意味しています。
物体である body に anima 「霊魂」 や spirit 「精神」 が宿っているうちは、
body は身体であるわけですが、
anima や spirit が抜け出てしまえば、body は物体に戻り、
body は 「死体」 という意味にもなるのです。
物体も身体も死体もすべて body という語で表せてしまうというところに、
英米人の死体観が集約されているように思います。
個人差は当然ありますが、body ということばを三種の意味を重ね合わせて使っているかぎり、
死んでしまった人の肉体にそれほど執着しないであろう、ということは想像がつきます。
それに対して日本人は死体にこだわる民族だなあと思います。
若い人たちに聞いてみても、だいたいみんな、
死んだときは死体が 「五体満足」(?) にきちんと全部揃っていることを望んでいます。
足がないと三途の川を渡れない、とか、
目がないと天国でものが見えなくて困るだろう、という発言が、
看護学校で医学を学んでいる学生さんたちからも頻繁に聞かれます。
かつて日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落したとき、
考えられないような山奥であり、かつ遺体の回収が困難な状況であるにもかかわらず、
遺族たちは現場を何度も訪れ、遺体をすべて集めようと努力されていました。
このように死体を大事にする日本人ですから、
臓器提供に対する抵抗感が大きいのは当然と言えるでしょう。
心臓や肝臓や腎臓などに関しても、死ぬときにはきちんと揃っていないと、
あの世に行ってから困るだろうというわけです。
ところが不思議なことに、これほど死体にこだわる民族であるにもかかわらず、
日本人はあっさりと死体を焼いてしまいます。
世界的に見て、火葬を行っている国というのはそれほど多くありません。
文化や宗教によっては、燃やすというのは死体に対する最大の侵犯や冒涜を意味することがあります。
それほどではなくても、死体は棺桶に入れて、そのままお墓に埋めるという、
土葬がごく普通の埋葬法だと世界中の多くの人びとが思っているのです。
その中で日本人はほぼ100%の割合で火葬を行っています。
土地が狭いのでしかたないといえばしかたないのでしょうが、
死体に対する日本人の感覚というのはどうなっているのでしょうか?
あれだけ大事にしていた死体を、葬儀終了後すべて燃やしてしまうというのは、
どういう感覚なのでしょうか。
実際、臓器提供に賛成の人たちの中には、
どうせ焼いちゃうんだから、それくらいなら有効活用してほしいという意見も聞かれます。
火葬してしまうというところを重視するなら、
臓器移植の賛成派が日本にはもっと居てもいいように思われます。
おそらく多くの日本人は、火葬が特異な埋葬法であるということを知らないのだろうと思われます。
したがって、遺体を大事にするという自分の感覚と、
遺体を焼いてしまうという習慣の残虐性とのあいだのギャップを理解していないのでしょう。
まずはそのあたりからきちんと考えてみる必要性がありそうです。
死体に対する考え方・感じ方が、この問題への賛否を左右しているということがわかります。
英語の場合、body という語が面白くて、
「身体」 という意味ももちろんあるのですが、
元はというと body は 「物体」 を意味しています。
物体である body に anima 「霊魂」 や spirit 「精神」 が宿っているうちは、
body は身体であるわけですが、
anima や spirit が抜け出てしまえば、body は物体に戻り、
body は 「死体」 という意味にもなるのです。
物体も身体も死体もすべて body という語で表せてしまうというところに、
英米人の死体観が集約されているように思います。
個人差は当然ありますが、body ということばを三種の意味を重ね合わせて使っているかぎり、
死んでしまった人の肉体にそれほど執着しないであろう、ということは想像がつきます。
それに対して日本人は死体にこだわる民族だなあと思います。
若い人たちに聞いてみても、だいたいみんな、
死んだときは死体が 「五体満足」(?) にきちんと全部揃っていることを望んでいます。
足がないと三途の川を渡れない、とか、
目がないと天国でものが見えなくて困るだろう、という発言が、
看護学校で医学を学んでいる学生さんたちからも頻繁に聞かれます。
かつて日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落したとき、
考えられないような山奥であり、かつ遺体の回収が困難な状況であるにもかかわらず、
遺族たちは現場を何度も訪れ、遺体をすべて集めようと努力されていました。
このように死体を大事にする日本人ですから、
臓器提供に対する抵抗感が大きいのは当然と言えるでしょう。
心臓や肝臓や腎臓などに関しても、死ぬときにはきちんと揃っていないと、
あの世に行ってから困るだろうというわけです。
ところが不思議なことに、これほど死体にこだわる民族であるにもかかわらず、
日本人はあっさりと死体を焼いてしまいます。
世界的に見て、火葬を行っている国というのはそれほど多くありません。
文化や宗教によっては、燃やすというのは死体に対する最大の侵犯や冒涜を意味することがあります。
それほどではなくても、死体は棺桶に入れて、そのままお墓に埋めるという、
土葬がごく普通の埋葬法だと世界中の多くの人びとが思っているのです。
その中で日本人はほぼ100%の割合で火葬を行っています。
土地が狭いのでしかたないといえばしかたないのでしょうが、
死体に対する日本人の感覚というのはどうなっているのでしょうか?
あれだけ大事にしていた死体を、葬儀終了後すべて燃やしてしまうというのは、
どういう感覚なのでしょうか。
実際、臓器提供に賛成の人たちの中には、
どうせ焼いちゃうんだから、それくらいなら有効活用してほしいという意見も聞かれます。
火葬してしまうというところを重視するなら、
臓器移植の賛成派が日本にはもっと居てもいいように思われます。
おそらく多くの日本人は、火葬が特異な埋葬法であるということを知らないのだろうと思われます。
したがって、遺体を大事にするという自分の感覚と、
遺体を焼いてしまうという習慣の残虐性とのあいだのギャップを理解していないのでしょう。
まずはそのあたりからきちんと考えてみる必要性がありそうです。