前に清水義範の 「アキレスと亀」 というパスティーシュをご紹介したことがありました。
先輩男性社員が新人女性社員にいろいろと教えていくというお話です。
電話の応対やらコピー機の直し方など何でも教えていったあげく、
最後は哲学の大問題まで教え始めてしまう、という恥ずかしいお話です。
そこで取り上げられている哲学の大問題というのが、「アキレスと亀」 というお話で、
これはギリシア時代から伝わる有名な哲学的アポリア (解きがたい難問) です。
テーマとしては 「無限」 を扱っているのですが、
先輩男性社員のみごとな説明、すなわち、清水義範の明解な叙述を引用することによって、
その問題をご紹介することにしましょう。
「足の速いアキレスがね、足の遅い亀を後ろから追いかけるわけ。ところがね、ところがアキレスは亀をどうしても追い抜くことができないんだよ。知ってる、この話」
「知りません」
「ね、じゃ話すよ。これ面白いんだから。まずさ、まず亀を追い越そうとするには、アキレスはまず、今その亀がいるところまではとりあえず行かなきゃいけないでしょう」
「そうですか」
「そうだよ。まずはたったたった、と歩いてそこまで行くでしょう。追い越そうとしているんだから、そのためにはまず、並ばなくちゃ」
「でも、その間に亀だって少しは進んでますから…」
「あっ、鋭いなあ。そうなのよ。いきなり答を言われちゃったなあ。そういうことだよね。まずアキレスは亀のいるところまで行こうとするわけだけど、その間にね、亀も少し前へ進んでいるから、並ぶことができない。そこまで来たんだけど亀はもうちょっと前にいるわけ。そこまでは、わかるでしょう」
「はい…」
「だから次にアキレスはさ、今、亀のいるところまで行くわけ。そうするとさ、さっきと同じで、亀はまた、ちょっと前まで進んでいるわけでしょう」
「そうですけど」
女の子の顔に疑問の色が浮かんだ。
「そうするとまたアキレスは行く。でもまた亀は、ほんのちょっとだけ前へ行ってる。また行く。また亀がちょっと前。また行く。またちょっと前。こういうふうになってしまって、足の速いアキレスは、足の遅い亀にどうしても追いつかないの。追い越すどころか、追いつくこともできないの」
「でも、本当は追い越しますよね」
私は笑いをこらえて、茶そばをすすっている。
「追いつかないじゃない。だって、さっき説明した通りになっちゃうよ。まず亀がいるところまで行こうとするでしょう」
「どうしてそんなふうに思うんですか」
「だって、追い越すためには、まず追いつかなきゃ。そのためには、とりあえず今、亀がいるところまで行こうとするでしょう」
「そんなふうに区切って考えることはないと思うんですけど」
「区切りたいんだもの。そうやって区切って考えてみると、どうしてもアキレスは亀に追いつくことができない。ね。これ面白いんだから」
「アキレスはバカなんですか」
ぷっ、と吹きだして、茶そばが鼻の穴に入りそうになった。私は目に涙をため、あわててハンカチで目と、鼻をぬぐった。もちろんさり気なさを装ってそれをした。
「そうじゃなくてさ、考え方の問題なのよ。そういう考え方をするとね、とても不思議なことが起こっておかしいなあ、という話」
「でも、追い越せるような気がします」
「でもさ。まず亀が今いるところまで行くでしょう。そうすると亀はちょっとだけ前に…」
男はまたしても同じ説明をくどくどとやった。私は気を取り直してそばにとりかかる。
「そうやって何度もやっていると、亀とアキレスとの差はすごくちょっとになりません」
「そうそう。そういうことになるよ。でもどんなにちょっとでも、亀が前にいることは確かなんだから、追いついてはいないわけだよ」
「もう、1ミリくらいの差になりますね」
「なるだろうね」
「そして、アキレスがその1ミリを前へ進むとします」
「すると亀はまたちょっと前へ」
「いや、亀はたまたま4本の脚が全部地面についていたとして、さあ、脚をあげようかなあ、と思っているうちにちゃっ、とアキレスに並ばれてしまいますよ。きっとそういうふうになるんです」
わはははは、と私は大声で笑いだしてしまった。
隣の2人はびっくりして私のほうを見た。私は、ほんの少し茶そばを残したまま、そそくさと伝票を持って席を立つしかなかった。
逃げるように、支払いをすませてその店を出たのである。
そして店の外で私は、もう一度笑った。
うーん、素晴らしいっ
この問題をこんなにわかりやすく説明できる人は清水義範くらいでしょう。
しかも、女の子の返しもただのボケのようで、
実はこの問題に対する根源的批判をうまく表現しています。
これは、みごとな問答法になっているのです。
さて、無限に関する問題といってもいろいろあるのですが、
この 「アキレスと亀」 の話は無限分割に関わる問題です。
無限分割に関しては、私もふだんよく考える事例がありますので、
次回その話をご紹介することにいたしましょう。
先輩男性社員が新人女性社員にいろいろと教えていくというお話です。
電話の応対やらコピー機の直し方など何でも教えていったあげく、
最後は哲学の大問題まで教え始めてしまう、という恥ずかしいお話です。
そこで取り上げられている哲学の大問題というのが、「アキレスと亀」 というお話で、
これはギリシア時代から伝わる有名な哲学的アポリア (解きがたい難問) です。
テーマとしては 「無限」 を扱っているのですが、
先輩男性社員のみごとな説明、すなわち、清水義範の明解な叙述を引用することによって、
その問題をご紹介することにしましょう。
「足の速いアキレスがね、足の遅い亀を後ろから追いかけるわけ。ところがね、ところがアキレスは亀をどうしても追い抜くことができないんだよ。知ってる、この話」
「知りません」
「ね、じゃ話すよ。これ面白いんだから。まずさ、まず亀を追い越そうとするには、アキレスはまず、今その亀がいるところまではとりあえず行かなきゃいけないでしょう」
「そうですか」
「そうだよ。まずはたったたった、と歩いてそこまで行くでしょう。追い越そうとしているんだから、そのためにはまず、並ばなくちゃ」
「でも、その間に亀だって少しは進んでますから…」
「あっ、鋭いなあ。そうなのよ。いきなり答を言われちゃったなあ。そういうことだよね。まずアキレスは亀のいるところまで行こうとするわけだけど、その間にね、亀も少し前へ進んでいるから、並ぶことができない。そこまで来たんだけど亀はもうちょっと前にいるわけ。そこまでは、わかるでしょう」
「はい…」
「だから次にアキレスはさ、今、亀のいるところまで行くわけ。そうするとさ、さっきと同じで、亀はまた、ちょっと前まで進んでいるわけでしょう」
「そうですけど」
女の子の顔に疑問の色が浮かんだ。
「そうするとまたアキレスは行く。でもまた亀は、ほんのちょっとだけ前へ行ってる。また行く。また亀がちょっと前。また行く。またちょっと前。こういうふうになってしまって、足の速いアキレスは、足の遅い亀にどうしても追いつかないの。追い越すどころか、追いつくこともできないの」
「でも、本当は追い越しますよね」
私は笑いをこらえて、茶そばをすすっている。
「追いつかないじゃない。だって、さっき説明した通りになっちゃうよ。まず亀がいるところまで行こうとするでしょう」
「どうしてそんなふうに思うんですか」
「だって、追い越すためには、まず追いつかなきゃ。そのためには、とりあえず今、亀がいるところまで行こうとするでしょう」
「そんなふうに区切って考えることはないと思うんですけど」
「区切りたいんだもの。そうやって区切って考えてみると、どうしてもアキレスは亀に追いつくことができない。ね。これ面白いんだから」
「アキレスはバカなんですか」
ぷっ、と吹きだして、茶そばが鼻の穴に入りそうになった。私は目に涙をため、あわててハンカチで目と、鼻をぬぐった。もちろんさり気なさを装ってそれをした。
「そうじゃなくてさ、考え方の問題なのよ。そういう考え方をするとね、とても不思議なことが起こっておかしいなあ、という話」
「でも、追い越せるような気がします」
「でもさ。まず亀が今いるところまで行くでしょう。そうすると亀はちょっとだけ前に…」
男はまたしても同じ説明をくどくどとやった。私は気を取り直してそばにとりかかる。
「そうやって何度もやっていると、亀とアキレスとの差はすごくちょっとになりません」
「そうそう。そういうことになるよ。でもどんなにちょっとでも、亀が前にいることは確かなんだから、追いついてはいないわけだよ」
「もう、1ミリくらいの差になりますね」
「なるだろうね」
「そして、アキレスがその1ミリを前へ進むとします」
「すると亀はまたちょっと前へ」
「いや、亀はたまたま4本の脚が全部地面についていたとして、さあ、脚をあげようかなあ、と思っているうちにちゃっ、とアキレスに並ばれてしまいますよ。きっとそういうふうになるんです」
わはははは、と私は大声で笑いだしてしまった。
隣の2人はびっくりして私のほうを見た。私は、ほんの少し茶そばを残したまま、そそくさと伝票を持って席を立つしかなかった。
逃げるように、支払いをすませてその店を出たのである。
そして店の外で私は、もう一度笑った。
うーん、素晴らしいっ
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この問題をこんなにわかりやすく説明できる人は清水義範くらいでしょう。
しかも、女の子の返しもただのボケのようで、
実はこの問題に対する根源的批判をうまく表現しています。
これは、みごとな問答法になっているのです。
さて、無限に関する問題といってもいろいろあるのですが、
この 「アキレスと亀」 の話は無限分割に関わる問題です。
無限分割に関しては、私もふだんよく考える事例がありますので、
次回その話をご紹介することにいたしましょう。