まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

あれから10年、あれから半年

2011-09-11 08:46:00 | グローバル・エシックス
今日は2011年9月11日、あの日からちょうど10年が経ちました。
そして、奇しくも今年起きたあの大震災から数えてもちょうど半年という区切りの日です。
昨日は 「〈9.11〉を多角的に考える哲学フォーラム」 に参加してきました。
2001年からずっと続けてきた活動で、
『グローバル・エシックスを考える 「9.11」後の世界と倫理』
が出版された以降はしばらくお休みしていましたが、
10年という区切りを機に再び研究仲間が集いました。
シンポジウムのタイトルは、
「〈9.11〉から10年 ―なおも多角的に考える哲学フォーラム」 です。
3名の方が提題者として発表されたあと4時間くらいかけてみんなで議論しました。

3名の方々の提題要旨を載せておきます。
あの出来事をきっかけとしてみんながずっと考え続けてきたことが、
あの問題だけにとどまらず、グローバルな世界のあり方に関わっているということが伝わってきます。

「〈現住民〉 として応答する」
 「日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷」 に関わる 「証言」 の意味を、2001年9月11日以後も、フェミニズム/ジェンダー視点を仮設し考察してきた私は、2011年3月11日以後の世界・地球になお生存することを選択している 「日本〈現住民〉」 である。この位置から、西欧近代の諸帝国あるいは帝国日本が行使した暴力の反復またそれらに対抗する暴力が連鎖する構図を剥落、脱力させるグローバル・エシックスの可能性を、なおも考えたい。

「なおも 〈9.11〉 を考えるとはどういうことか」
 〈9.11〉 から10年たった今、恣意的・過剰な意味づけは慎み、〈9.11〉 の恣意的な解釈を掲げて無法な行動に出た合州国と、それを阻止できず一部容認すらした国際社会のあり方をこそ考えるべきである。そして、そのような世界のあり方が生んだ他の多くの悲劇を想起し、犠牲者たちの声に耳を澄まし記憶に留めること、さらにそのような世界のあり方に代わる世界のあり方を構想すること、そこに 〈9.11〉 をなおも考える意味はある。

「ある会議の可能性に向けて」
 カントは、緊急権を問題にする際に、正不正に関する主観的な判断と客観的な判断の混同を批判するとともに、ひとつの共通の法を 〈罰すること〉 とは異なるレヴェルで論じている。こうした法が実現される場としてのある会議に、一国主義的パースペクティヴ (Lothar Brock) を克服する可能性を見出すことができるのではないか、ということをちょっとだけ論じたい。

今年5月には 〈9.11〉 の真相を知っていたかもしれないオサマ・ビン・ラディンが、
なんの証言を残すこともなく、パキスタン国内で米軍の手によって殺害されました。
そんな無法がまかり通るこの世界で、私たちは何を求めていけばいいのか、
これからも考え続けていきたいと思います。