私の 「愛は時間である」 の議論に対して、下記のような質問を頂戴しました。
> 相手のために割く時間ということは一緒にいる時間、も含まれますよね?
> 割く時間のなかで、共に過ごす時間は愛に比例するのだろうか?
> と疑問がわいてしまって…
> 責任感というか性格的な問題、遠距離など物理的な問題が、絡んでくる気がして、
> これは例外扱いでしょうか?
なるほど、「一緒にいる時間」、「共に過ごす時間」 というのは、
相手のために時間を割いているということになるかという質問ですね。
これは、ひとくくりに答えることはできない問題のように思います。
相手と一緒にいたいと思ってわざわざ時間を作り、
共に過ごしているのなら、当然それは愛の時間となるでしょう。
未婚のカップルや遠距離恋愛のカップルがデートをしている時間などがその例です。
それに対して、質問者が想定しているのは、
たぶん長年連れ添っているカップルで、
愛が冷め切っているけれどしかたなく一緒にいる、
というような事例ではないでしょうか。
たしかにそれを愛の時間とは呼べないような気がします。
一緒に暮らしていながら、相互にまったく無関心という場合、
そもそもそれは時間を共に過ごしてはいないように思いますし、
そういう場合、相手のために時間を割いているとは言わないでしょう。
ただ同じ家に住んでいるというだけでは、
相手のために時間を使っているということにはならないのだろうと思います。
とはいえ、じゃあ全否定してしまっていいかというとそれもちがうような気がします。
質問者は 「責任感」 ということばを使っていらっしゃいましたが、
もう愛してはいないのだけれど、責任感から相手のために食事を作ってあげるとか、
逆に相手が作ってくれた食事を同じ食卓で一緒に食べるとか、
しつこくねだられたので一緒に旅行に行くというような場合は、
それはそれで相手のために時間を割いているし、
それもひとつの愛の形かなという気もいたします。
ただし、じゃあその時間全部をその相手への愛の時間としてカウントしていいかというと、
やはりそうではなくて、食事の時間中に相手と一切話さず別のことを考えていたり、
旅行中に別の人のためのお土産を選んだりしていれば、
その時間は相手のために割いた時間とは呼べないでしょう。
というわけで、「一緒にいる」 とか 「共に過ごす」 ということの中身をしっかり見極めないと、
相手のために時間を使っているのかどうか一概に決めることはできないように思います。
わざわざ自分の人生の有限な時間を割いて誰のために使っているのか、
そこがポイントではないかと思います。
> 相手のために割く時間ということは一緒にいる時間、も含まれますよね?
> 割く時間のなかで、共に過ごす時間は愛に比例するのだろうか?
> と疑問がわいてしまって…
> 責任感というか性格的な問題、遠距離など物理的な問題が、絡んでくる気がして、
> これは例外扱いでしょうか?
なるほど、「一緒にいる時間」、「共に過ごす時間」 というのは、
相手のために時間を割いているということになるかという質問ですね。
これは、ひとくくりに答えることはできない問題のように思います。
相手と一緒にいたいと思ってわざわざ時間を作り、
共に過ごしているのなら、当然それは愛の時間となるでしょう。
未婚のカップルや遠距離恋愛のカップルがデートをしている時間などがその例です。
それに対して、質問者が想定しているのは、
たぶん長年連れ添っているカップルで、
愛が冷め切っているけれどしかたなく一緒にいる、
というような事例ではないでしょうか。
たしかにそれを愛の時間とは呼べないような気がします。
一緒に暮らしていながら、相互にまったく無関心という場合、
そもそもそれは時間を共に過ごしてはいないように思いますし、
そういう場合、相手のために時間を割いているとは言わないでしょう。
ただ同じ家に住んでいるというだけでは、
相手のために時間を使っているということにはならないのだろうと思います。
とはいえ、じゃあ全否定してしまっていいかというとそれもちがうような気がします。
質問者は 「責任感」 ということばを使っていらっしゃいましたが、
もう愛してはいないのだけれど、責任感から相手のために食事を作ってあげるとか、
逆に相手が作ってくれた食事を同じ食卓で一緒に食べるとか、
しつこくねだられたので一緒に旅行に行くというような場合は、
それはそれで相手のために時間を割いているし、
それもひとつの愛の形かなという気もいたします。
ただし、じゃあその時間全部をその相手への愛の時間としてカウントしていいかというと、
やはりそうではなくて、食事の時間中に相手と一切話さず別のことを考えていたり、
旅行中に別の人のためのお土産を選んだりしていれば、
その時間は相手のために割いた時間とは呼べないでしょう。
というわけで、「一緒にいる」 とか 「共に過ごす」 ということの中身をしっかり見極めないと、
相手のために時間を使っているのかどうか一概に決めることはできないように思います。
わざわざ自分の人生の有限な時間を割いて誰のために使っているのか、
そこがポイントではないかと思います。