やったー! できたー!
昨日とうとうハカドリネコさんがやってきてくれて、
学会発表の準備、あとはスイスイ進んでしまいました
久しぶりにパワーポイントで作りました。
哲学、倫理学系の学会発表ってたいていは、
雑誌に投稿するのと同じような完全原稿を準備して、
それを皆さんの前で読み上げるというスタイルで行われます。
私も、けっきょく学会発表後、雑誌に投稿するときに、
別途また原稿を書かなければいけないのが二度手間と思い、
このところの学会発表はほとんど完全原稿スタイルで行っていたんですが、
今回はテーマがテーマだし (ポスト3.11の哲学・倫理学的課題!)、
あまりきちんと論じ切れる気がしなかったので、
文章化してあっちこっち突っ込まれるよりは、
画像とかを多用してみんなを煙に巻こうというつもりで、
早くからパワポでの発表を計画していました。
それにしてもこのところ、震災・原発系のシンポジウムとかに、
福島なんだから小野原さんやってよ、みたいな依頼が舞い込むので非常に困ります。
私は震災復興とか原発問題とか技術倫理とかを専門に研究してきたわけではないので、
3.11みたいなことがあったからといって、
じゃあ急にそれについて語れるかというと、そんなことはできません。
今から思うと18年も福島に住んでいて、原子力発電所のことをまったく意識もせず、
研究テーマとしてまったく取り上げないまま生きてきたことを、
倫理学者として本当にふがいなく思います。
そんな私が今さら後勉強で何を言ったってまったく説得力がないでしょう。
授業やブログで何も語らないというわけにもいきませんので、
教育者という立場として時折そういうネタに触れたりはしますが、
学会という場で研究者として発言するというのはできれば避けたいところです。
とはいえずっと沈黙しっぱなしというのも無反省な態度でしょう。
これまで何も考えてこなかった罪は罪として引き受けながら、
これから少しずつ自分にできる範囲内で、
この問題に立ち向かっていかなければならないのでしょう。
今回のシンポジウムはその取っ掛かりの作業になるのかもしれません。
問題は巨大で、私ごときではまったくまだその全体像を捉えきれていませんが、
群盲象を撫でるがごとく、的外れであろうとも少しずつ考えていければと思います。
とりあえず今回は、専門家としてではなく福島在住だからという理由で呼ばれたので、
あの日福島にいた者としての主観的感想から出発しつつ、
今も福島に暮らす者としての心の叫びを聞いてもらってこようかと思います。
やっとできた全体構想はこんな感じです。
「ポスト3.11 ―FUKUSHIMAからの提言―」
1.はじめに ―複合災害としての 「3.11」―
2.共通点 ―「根こぎ」 から 「災害難民」 へ―
3.相違点 ―「目に見える危機」 と 「目に見えない危機」―
4.「情報災害」 としての原発事故
5.「反原発」 の定言命法と仮言命法
6.おわりに ―FUKUSHIMAからの提言―
はたしてどんなことになりますやら、ボコボコに叩かれてきます。
印刷も終わったし、今日は前夜祭で飲みに行っちゃうかなあ
昨日とうとうハカドリネコさんがやってきてくれて、
学会発表の準備、あとはスイスイ進んでしまいました
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久しぶりにパワーポイントで作りました。
哲学、倫理学系の学会発表ってたいていは、
雑誌に投稿するのと同じような完全原稿を準備して、
それを皆さんの前で読み上げるというスタイルで行われます。
私も、けっきょく学会発表後、雑誌に投稿するときに、
別途また原稿を書かなければいけないのが二度手間と思い、
このところの学会発表はほとんど完全原稿スタイルで行っていたんですが、
今回はテーマがテーマだし (ポスト3.11の哲学・倫理学的課題!)、
あまりきちんと論じ切れる気がしなかったので、
文章化してあっちこっち突っ込まれるよりは、
画像とかを多用してみんなを煙に巻こうというつもりで、
早くからパワポでの発表を計画していました。
それにしてもこのところ、震災・原発系のシンポジウムとかに、
福島なんだから小野原さんやってよ、みたいな依頼が舞い込むので非常に困ります。
私は震災復興とか原発問題とか技術倫理とかを専門に研究してきたわけではないので、
3.11みたいなことがあったからといって、
じゃあ急にそれについて語れるかというと、そんなことはできません。
今から思うと18年も福島に住んでいて、原子力発電所のことをまったく意識もせず、
研究テーマとしてまったく取り上げないまま生きてきたことを、
倫理学者として本当にふがいなく思います。
そんな私が今さら後勉強で何を言ったってまったく説得力がないでしょう。
授業やブログで何も語らないというわけにもいきませんので、
教育者という立場として時折そういうネタに触れたりはしますが、
学会という場で研究者として発言するというのはできれば避けたいところです。
とはいえずっと沈黙しっぱなしというのも無反省な態度でしょう。
これまで何も考えてこなかった罪は罪として引き受けながら、
これから少しずつ自分にできる範囲内で、
この問題に立ち向かっていかなければならないのでしょう。
今回のシンポジウムはその取っ掛かりの作業になるのかもしれません。
問題は巨大で、私ごときではまったくまだその全体像を捉えきれていませんが、
群盲象を撫でるがごとく、的外れであろうとも少しずつ考えていければと思います。
とりあえず今回は、専門家としてではなく福島在住だからという理由で呼ばれたので、
あの日福島にいた者としての主観的感想から出発しつつ、
今も福島に暮らす者としての心の叫びを聞いてもらってこようかと思います。
やっとできた全体構想はこんな感じです。
「ポスト3.11 ―FUKUSHIMAからの提言―」
1.はじめに ―複合災害としての 「3.11」―
2.共通点 ―「根こぎ」 から 「災害難民」 へ―
3.相違点 ―「目に見える危機」 と 「目に見えない危機」―
4.「情報災害」 としての原発事故
5.「反原発」 の定言命法と仮言命法
6.おわりに ―FUKUSHIMAからの提言―
はたしてどんなことになりますやら、ボコボコに叩かれてきます。
印刷も終わったし、今日は前夜祭で飲みに行っちゃうかなあ
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