まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

「反原発」 の定言命法

2012-10-22 17:40:54 | グローバル・エシックス

土曜日に東北哲学会でシンポジウムやってきました。
「ポスト3.11の哲学・倫理学的課題」 です。
この看板と同じくらい、なんて重たくてバカでっかいテーマなんでしょう。
私なんて災害とか科学技術とか原発とかの専門ではないので、
勘弁してくださいと固辞していたのですが、
「小野原さん、福島なんだから」 というよくわからない理由で押し切られてしまいました。
私以外の若手2人がそれぞれ御専門の立場から発言してくださることになっていましたので、
私は前座として、現地の人間の雑駁な思いをダラダラ話すだけでよければということで、
けっきょくお引き受けすることになりましたが、準備を始めてみてやはり後悔しました。

苦悩のプロセスは若干ご報告させていただきましたが、
いろいろ悩んだ挙げ句、まずは①福島 (市) から見た 「3.11」 について語り、
②そこで一番問題であったこと、困ったことの源泉を探り、
そこから③福島に今なお暮らす者として一番伝えたいことを言い、
最後に④若い哲学・倫理学研究者の皆さんに課題を託すという形で話を作りました。
当日の朝に大トラブルが発生するなど一時はどうなることかと思いましたが、
とにかく何とか切り抜けることができました。

話の内容を簡単にご紹介すると、
① 「3.11」 は、東日本大震災と福島第一原発事故という、
 まったく性質を異にする2つの災害から成っており、
 地震・津波は 「目に見える危機」 であるが、
 原発事故は 「目に見えない危機」 であるということ。
②放射線被害は目に見えないため、情報や知識や専門家の意見が大事になってくるが、
 今回の事故ではそれらがことごとく信じられなかったため、
 福島県民は振り回され、分断され、棄てられてしまった。
 その意味で今回の原発事故は私たちにとっては 「情報災害」 でもあったということ。
 その情報災害を生み出した背後には 「原子力ムラ」 という巨大権力が存在した。
③原発事故と放射線被害を目の当たりにして、改めて原発というものを考えてみると、
 本来、科学というのは失敗や誤謬から学んで進歩していくべきものであり、
 また正確な情報の公開によって支えられているものであるはずだが、
 原発は一度たりとも事故を起こしてはならず、
 その危険性のゆえにそもそもすべての情報を公開することができないということは、
 原発は科学とは言えない、つまり 「非科学」 なのではないか。
 また、放射性廃棄物というまったく制御不可能な産物を生み出し、
 その最終処分方法を提示できずにいるということは技術としても完成されていない、
 「非技術」 なのではないか。
 地方住民や被曝労働者や未来世代の犠牲と差別の上に構築されているという意味で、
 「反民主主義的システム」 であったのではないか。
 したがって、あのような事故が起きなかったとしても、
 原発は許されるものではないのではないか。
 ましてや福島のこの惨状を見たら、もはや 「反原発」 という答えしかないのではないか。
 問題は原発に賛成か反対かではなく、原発をやめるのは当然のこととして、
 いかにして安全にすべての原発と放射性廃棄物を処分することができるか、
 それを真剣に考えるべき時代になっているのだということ。
④しかし、原発を推進しようとする巨大権力は情報や世論を操作することができるので、
 「反原発」 を唱えるためにはそれに対抗できるような強力な武器が必要である。
 哲学・倫理学は新しいものの見方を提供できる学問として、
 環境倫理学、生命倫理学、情報倫理学、科学倫理、情報倫理、正義論、ビジネスエシックス等、
 個別の応用倫理学を統合した新しい 「攻めの倫理学」 を構築してほしい。
 私にはムリなので、若い研究者の皆さんにぜひそういうものを生み出してもらいたい。
という感じで、最後は聴衆に投げっぱなしで話を終えました。

③の話をするときに 「反原発の定言命法」 という概念を用いました。
「反原発」 はすべての人間にとって絶対的・無条件的命令であるという意味です。
この内実を示すためにいくつかの 「反原発の定言命法」 の実例も紹介しました。

「作ってはいけないものは、作ってはいけないのだ」

これは1週間前の日本倫理学会の自由課題研究での高木哲也氏の発表タイトルです。
「ならぬことはならぬものです」という会津日新館の掟にも似た力強い言葉ですね。
このままではただのトートロジー (同語反復) と言われるかもしれませんが、
これを 「東京に作ってはいけないものは、福島にも作ってはいけないのだ」 と言い換えると、
差別と犠牲の構造がクリアになる気がして気に入っています。

「汝の行為の諸結果が、地上における真に人間的な生の永続性と一致するように行為せよ」

これは有名な環境倫理学者のハンス・ヨナスの
『責任という原理』 という本の中に掲げられた定言命法です。
そしてもうひとつ、原発事故が情報災害であったということに関連して、
カントによる公開性の原理も引いておきましょう。

「みんなに関わる事柄で公開できないようなものはすべて不正である」

カントの 『永遠平和のために』 の中の 「公法の超越論的原理」 というやつですが、
わかりやすくするためにちょっと超訳しています。
政府と東電に聞かせてやりたいセリフですね。

質疑応答ですが、私がトップバッターで30分の持ち時間のところ、
ほんの1、2分長く喋ってしまったら、
あとの2人がつられるようにどんどん発表時間を延長してしまい、
十分に議論を尽くすことはできませんでした。
おかげでボコボコにされるだろうなあという予想に比して、
それほどヒドイ目にあわずにすみました。
懇親会でも大御所の先生方が3名ほどスピーチされたのですが、
皆さん 「反原発の定言命法」 に言及してくださり、
1人は賛成、1人は反対、もうお1人は定言命法としてではなく、
仮言命法としての反原発には賛成とおっしゃってくださいました。
1勝1敗1引き分けといった感じでしょうか。
でもむちゃくちゃエライ先生方が私の発表内容に言及してくださっただけで感激です。
翌朝の会場では東北哲学会の会長である座小田豊先生が寄ってきてくださり、
東北大学の先生方で書かれた共著のシリーズ
「今を生きる 東日本大震災から明日へ! 復興と再生への提言
の第一巻 『人間として』 を献本してくださいました。



座小田先生によるまえがきや論文をはじめとして皆さん、
あの日の生々しい恐怖とその後の再生への苦闘を描いておられました。
私の発表を聞いてこれらを共有したいと思ってくださったのでしょうか。
だとするとこれに勝る栄誉はありません。
まったく筆が進まず気の重い学会発表でしたが、
なんとか大役を果たすことができホッといたしました。
懇親会からさらに国分町に流れてベロベロに打ち上げたことは言うまでもありません。


P.S.
そう言えば今回、何が驚いたって、当日の朝打ち合わせに行ってみたら、
発表者のうちのお一人、山本史華 (ふみか) さんとは初対面だったんですが、
なんと史華さん、男性だったんですね (↓一番左の方)。



打ち合わせのためのメールのやりとりは何度もしていたんですが、
ずーっと女性だと思い込んでおりました。
まだまだ先入見に囚われているなあ。
修業が足りんっ