明日で東日本大震災から10年になります。
メディアでは様々な特集が報じられていますが、自分自身にとってどんな10年だったのか考えることも大切ではないでしょうか。
10年前の3月11日のことは鮮明に覚えています。
所用で車を運転中に揺れを感じ、まわりの電柱がいつまでも大きく揺れているのがわかりました。これは大きな地震だとすぐにわかりました。
ラジオのニュースで情報が次々と入り、自宅のテレビには津波の映像が流れていました。
この時は大変な状態だと思ったものの、まだ他人事でした。
その後、何日かして知人から支援の要請があり、いわき市まで野菜を運び、現地の福祉施設で支援者のサポートをしてきました。
この時、津波の被災地を見て、家の土台だけが残っている光景に声も出ませんでした。
多くの方が犠牲になったここで写真も撮ってよいものかどうか迷い、数枚しか写せませんでした。
そんなことがあって、東日本大震災は自分のこととしてとらえることができるようになりました。
この頃、すでに退職していた私は、地区社協の活動に関わりを持つようになっていました。
震災後の地区社協の広報紙を見ると、「絆」ということばが随所に使われています。それだけ「絆」がクローズアップされていた時期だったと思います。
地区社協の活動も、地域社会の人々のつながりを強め、支え合いができる地域づくりを進めようということが強調されるようになりました。
それから10年、地域の中にはボランティアによる支え合いの仕組みが作られました。体調を崩した時などに、ゴミ出しを手伝う、公的な支援ではできない庭の草取りを手伝うなど、暮らしの中のちょっとした困りごとをボランティアの力で助け合っていこうというものです。
被災した地域や人々を直接支援することも大切ですが、被災から私たちが学ぶことがあるとすれば、災害が起きた時はもちろんですが、日常生活の中でどれだけ地域の支え合いの力を発揮できるのかということではないかと考えています。
そういう意味で、3.11は被災した地域だけでなく、日本全国どこでも地域社会の人々のつながりを考え、それを強めていくことにつながっているのではないでしょうか。
被災地の復興を願うとともに、コロナで分断される危険性をはらんでいる今の社会が、改めて「絆」を考え、支え合いができる地域社会であってほしいと願うものです。
3.11当時、多くの方が放射能に不安を感じ、福島に足が向かない中で、あえていわき市まで支援に行ったのは、1週間ほどそこにいてもそんなに多くの放射線を浴びることはない、どのように対応したら良いのかという科学的な知見があったからです。ある意味、今の社会状況と似ているところがあります。不安に思うことはやむを得ないにしても、正しく理解し、どのように対応するのか科学的な知見により行動していくことが大切だと考えます。
3.11を前に、そんなことを考えました。
今日の遊水地で見つけたつくし。
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