つれづれ生活日記in桂林

桂林(中国)での生活体験、見たままの日常を紹介

信長ゆかりの清州城へ行ってみた

2016-01-28 12:50:59 | 帰省日記

何回かの名古屋往復時に電車の窓から見える城が気になっていたので、名古屋からの帰りに清州駅で降り城へ向かった。

駅からは少し距離がありますが途中に案内の看板があるのでわかりやすい。

 

しかし生憎の休館・・残念!。

通常は月曜日が休館日。しかし行った日は火曜日で前日の月曜日が祝日で開館した関係で、振替で火曜日が休館に

なったらしい。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城の外観は新しいように感じたのでWi-ki等で調べてみると・・

現在、城跡は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に・・・etc

現在の天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内にRC造によって建設された模擬天守である。 創建当時の絵図が残っていないため、その規模も不明である。そのため、外観や規模は、実在した当時を想像して建てられた・・

 

という事で城そのものには歴史的価値は無なさそうです。

中高生に戻った気分で 歴史の勉強にもなりますが、ネット検索でさらに調べてみると・・

 清洲城は、戦国史の色々な場面で登場してきます。 信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清州を居城とした。 1562年(永禄5年)信長と徳川家康との間でこの城で同盟が結ばれた(清洲同盟)。1563年(永禄6年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。 本能寺の変で信長がたおれ、後継ぎをめぐってこの清洲城で清洲会議が行われた。1600年の関ヶ原の戦いの時には、東軍の集結地、後方拠点として利用されました。1609年、徳川家康によって清須から名古屋への遷府が指令されます。 清洲(清須)城下町は名古屋城下に移転され、清州城も名古屋城築城の際の資材として利用された為、 名古屋城の築城により清洲城は廃城となりました。

 

ちなみに織田信長ゆかりの岐阜城には昨年行きましたが、歴史好きの人には面白い地域だと思う。

 

 

興聖山総見院

清州城を出た後は織田信長の供養塔、焼け兜がある「興聖山総見院」に行ってみることにした。

歩きながら対向してきた人に総見院の場所を聞くと「少し遠いよ、ここからだと歩いて30分位はかかる」・・

といわれたが30分位なら許容範囲?だ。

何しろこの地域は寺や神社が多い。スマホの地図を見ながら探すが中々見つからない。 半分諦めの心境で清州駅へ戻り

 

 

ながら住宅街を歩くと寺を発見。

目的の「興聖山総見院」だった。

しかし閉まっている?ようだったので中

には入らなかった。

 

後で寺のHPを見ると「拝観は事前予約制」で

突然訪問しても拝観できないようです。

 2016-01-12

 

                       1月12日の時点で一部桜が咲き始めていた

 

 

 

                            少しハデ?な朱塗りの欄干

 

 

                   残念ながら閉館でしたので城の裏手に回ってみた

 

              清州城と五条川をはさんだ清州公園にある 信長と濃姫の像

 

 

                         信長の視線の先は桶狭間の方向だそうです

 

 

                               城の近くを流れる五条川

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