同じ曲を教えるのでも習う側(教える相手)が変われば当然、教え方も違ってくるもので。
もちろん教える人間が違っても変わってくるだろうけどね。
あたしと師匠(=母R子)でも、それは違うし。
教える側も習う相手も生身の人間でナマモノだから(ナマケモノではない)、
その日その時間その稽古そのものがいつも新鮮でライブ感覚に溢れている。
緊張感と刺激に包まれている。
まずはストレッチで相手に横並び、たわいない会話を繰り広げながら状態を見極める。
その時々の“ノリ”とゆうか。
そして身も心も解放させたところで、いよいよ稽古に突入するわけですが。
踊ってみれば、さらに詳しく相手の今(というか今日)が把握できる。
それによってムチを入れるのか、たづなを緩めるのかも違ってくる。
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基本的に、とゆうか滅多に怒らない人※(あたし。
(※娘M嬢に対しては別)
にこにこ笑って、きついことを指摘することはあるが怒りはない。
それだけ一生懸命な愛弟子に恵まれている証拠だといえるから感謝してる。
怒るとすれば不真面目という状態に対してだけ。
下手でも間違っても、できなくても一生懸命さが伝われば怒ったりしない。
とりわけ自分で月謝を払って通ってくる人たち(要は大人だ)は実に真面目なものです。
だって、お金がもったいないもんね。
嫌なら辞めるという選択肢も持ってるわけだし。
だから教えることをしてストレスやフラストレーションが溜まることは、ほとんどない。
自分の役不足や未熟さを悩むことは多々だけど。
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それで同じ曲を教えるにしても、いつも新しい発見があって手応えがある。
その人によっても苦手な面?点?が違ってくるのが、また興味深い。
ある人は自分以外の何かになるのが苦手だ。
自分を捨てる、ともいわれるが捨てなくても他に成り切れればそれでいいんだけど。
なかなか、それが難しいんだよね。
また別の人は非常に良く踊れているのに伏し目がちなせいで自信無さげに見える。
もっと自信を持って!眼力を発揮して!間違ってもいいからアピール!
とゆうと、それが一番苦手なところかもと目を伏せた。
うんうん、そうだね。
それじゃ、そこを克服していこうよ。
他にも教えたように習ったとおり正確に踊れるが枠にハマり過ぎて個性が出てこない、とか。
表現力は抜群にあるが観客の視線を意識し過ぎて本番で存分に発揮できにくいタイプとか。
様々ですね~。
テクニックの面で、できないことが沢山あるのは気にならない。
積み木やブロックのパーツを一つ一つ積んだり組み立てるように、
じっくりと時間を重ねていけば必ず技術は身につく。
継続の力は他の何にも及ばない。
才能を越せるのは努力の力さ!(カッコイイw
でも、それ以外のそれぞれの苦手というか弱点は自分が自覚して意識しないと。
なかなか克服できないもので。
それを見つけて教えたり導いたりするのも、あたしの役目かなと思ってます。
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それぞれが踊っている姿を見ると本当に感動の2文字しかないよ。
稽古場で、たまに涙ぐみそうになることもあるくらいだもの(ナイショ笑。
でも、それはそれとして。
指揮官?は常に冷静と情熱のあいだになくてはならないのだ←?
いつか気づいたら飛び越えてたと、その人が思えるようにさりげなく寄り添ってたいな。
もちろん跳ぶのは皆自身です。
あたしも一緒に跳ぶからさ。
前、朋友に借用(本だ)した時には、、まだ来てなかったんだよな自分の中に。。。
自分時流。
今やや来てる感がある。
自分ムーブメント。
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ピクトさんです。
「無口でけなげ」というのが、もっぱらのピクトさん評だが果たしてそうか?
やる気なさげだったり余計なことをしたり、
なんか気がつけば俺っていつもこんな目に遭ってると。
うつむき加減のとき、なんらかの事故や事象に巻き込まれてる気がする。
たまに職務熱心なピクトさんもいるが(って“非常口のピクトさん”は自分が逃げ足速いだけじゃないの?
(トップ画像のピクトさんは体を張って日々がんばられてますけども)
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会長の挨拶では、
「ピクトさんの解釈に、正解などないのだ。
見る者に自由な解釈を促し、想像力という名の翼を与えてくれる存在、それがピクトさんなのだ。」
と述べられている。
“無口でけなげ”も“ドジでおっちょこちょい”も。
投げやりも脱力も、
それら全てがピクトさんなのね。
しかし学会まであるとは知らなかった(笑)
日本ピクトさん学会 ←
会長こと内海慶一氏は作家です(らしいですが著書といえば、コレばっかりなんだよな。
実は会長こそが本物のピクトさんだったりして。