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なぜ朝鮮人虐殺の記憶を否定したがるのか 虐殺否定論者の戦略

2019年09月07日 | 社会・経済

  Imidas時事オピニオン2019/09/06 

   1923(大正12)年、関東大震災直後に自警団や軍などによって多くの朝鮮人が虐殺されたことは、中学の教科書にも載っている近代史上の大事件だ。ところが近年、ネット上に、「虐殺などなかった」と主張する人々が現れている。

 荒唐無稽にもほどがあるが、それで済む話ではない。なぜなら、そうした主張が実際に現実世界に侵入し、虐殺事件をめぐる教育や展示、犠牲者の追悼などを潰そうとする動きとなって現れているからだ。

 

関東大震災時に広まった朝鮮人の狂暴などについてのデマに注意を呼び掛ける警視庁のビラ。東京都復興記念館所蔵資料より

朝鮮人虐殺事件とはなんだったのか

 まずは、朝鮮人虐殺とはどのような事件だったのか振り返ってみよう。

歴史の教科書、たとえば『中学社会 歴史』(教育出版)は、「混乱のなかで、『朝鮮人が暴動を起こす』などの流言が広がり、住民の組織した自警団や警察・軍隊によって、多くの朝鮮人や中国人が殺害され」た事件として説明している。

 関東大震災が発生したのは1923年9月1日の昼前。東京と横浜の中心部がほぼ全焼し、約10万5000人という死者・行方不明者を出す惨事となった。突然の厄災に不安と怒りが渦巻くなかで、「朝鮮人が暴動を起こしている」「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といった流言が広まり、至るところで自警団などが朝鮮人を殺害した。「虐殺」と呼ばれるのは、無防備の相手を集団で取り囲み竹やりで刺す、火の中に投げ込むといった方法の残忍さのためだ。虐殺は1週間ほど続いた。

 この事態に対しては行政機関の責任が大きかった。警察は真っ先に流言を信じて人々に拡散させたし、戒厳令によって市街地に進出した軍隊の一部も、各地で朝鮮人を銃殺した。

 内閣府中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会が2008年に発表した報告「1923関東大震災【第2編】」は、以下のように書いている。

「関東大震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった」

「特に(9月)3日までは軍や警察による朝鮮人殺傷が発生していた」

流言を基にしたネットの虐殺否定論

 ところが冒頭に述べたように、ネット上に「朝鮮人虐殺はなかった」と主張する人々が現れている。正確に言うと、彼らが言っているのは、「朝鮮人テロリストたちが武装蜂起し、街に火を放ち、井戸に毒を入れたのは事実だ。自警団が朝鮮人を殺したのはこれに対する正当防衛であって、虐殺とは呼べない」ということである。つまり、朝鮮人の「暴動」「放火」「投毒」といった流言を、彼らは事実だったと考えるのである。

 その証拠として彼らが示すのは、当時の新聞記事の数々だ。

 たとえばこんな見出しの記事が、画像つきでアップされている。

「不逞鮮人1千名と横浜で戦闘 歩兵一個小隊全滅か」(「新愛知」1923年9月4日)

 同工異曲の内容の記事画像が、ネット上にはいくつもアップされている。「主義者と鮮人一味、上水道に毒を撒布」「鮮人浦和高崎に放火 高崎にて十余名捕わる」などなど。

 なるほど確かに、「朝鮮人暴動」を伝える当時の記事は無数に存在する。だがそれらは、震災直後の混乱期にあふれた流言記事として知られているものだ。当時、東京の新聞社のほとんどは焼失し、焼け残った在京紙と地方紙は被災者から聞き取った流言をそのまま書き飛ばしていたのである。その結果、朝鮮人関連以外でも、「伊豆大島沈没」「富士山爆発」「名古屋も壊滅」といった誤報が氾濫した。

 混乱が落ち着くころには、それらが虚報・誤報であったことは誰の目にも自明だった。著名な新聞記者の山根真治郎は、「在留朝鮮人大挙武器をふるって市内に迫る」などの虚報が氾濫したことを回想して「数えるだにも苦悩を覚える」と悔いている(山根『誤報とその責任』1938年)。

 ちなみに先の「不逞鮮人1千名と横浜で戦闘」という記事も、震災の3年後に内務省がまとめた『大正震災志』に典型的なデマ記事の一例として挙げられている。

 実際には当時、殺人、放火、強盗、強姦の罪で起訴された朝鮮人は一人もいなかったし、武装蜂起やテロ、暴動の存在についても司法省や警視庁、神奈川県知事、陸軍の神奈川警備隊司令官などが否定している。朝鮮人の暴動をこの目で見たという証言も(震災直後の流言記事以外には)全く存在しない。

朝鮮人虐殺否定論の仕掛け人

 一方で、無防備の朝鮮人が日本の民間人や軍によって殺されたという記録は、公的な記録から目撃証言に至るまで無数に残っている。日本のまともな歴史学者で、「朝鮮人が暴動を起こした」とか「虐殺はなかった」などと言っている人は、左右を問わず存在しない。

 震災直後の流言記事の画像を見て「朝鮮人暴動」の証拠だと考えるのは、早合点なのである。

 だが、こうした流言記事を最初に「朝鮮人暴動」の証拠として掲げた人々がいる。彼らは、決して早合点だったわけではない。世の人々に「朝鮮人虐殺はなかった」と信じさせるために、分かった上でそのように喧伝してみせたのである。それは、彼らが「発明」したトリックであった。

 彼らとは誰か。ノンフィクション作家の工藤美代子・加藤康男夫妻である。

 工藤氏は『なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか』から『美智子皇后の真実』に至るまで、幅広いジャンルで旺盛に執筆してきた作家だが、日本会議系の団体の呼びかけ人を務めるなど、右派言論人の顔も持つ。夫の加藤康男氏も、1928年に起きた張作霖爆殺事件にコミンテルンが関与していたと主張する本などを出している人で、やはり右派言論人と言ってよい。

 2009年、工藤美代子氏の名前で『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)が刊行される。これによって「朝鮮人虐殺否定論」が誕生する。5年後の14年には、同書の「新版」として『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック)が刊行される。しかしこちらの著者名は「加藤康男」になっている。工藤氏の夫である。同じ本なのに著者が交代するとは奇妙な話だが、加藤氏による新版の後書きによれば、もともと妻との「共同執筆」だったので今回は自分の名義にしたのだという。共同執筆なのであれば、2人の名前を出して共著ということにすればよいはずだ。著者が「交代」するなど、前代未聞である。面倒なので、本稿では以下、この本を書いた人物を“工藤夫妻”とし、本のタイトルを“この本”としておく。

虐殺否定論のトリック

 さて、工藤夫妻はこの本において以下のような主張をしている。

「震災に乗じて朝鮮の民族独立運動家たちが計画した不穏な行動は、やがて事実の欠片もない『流言蜚語』であるかのように伝えられてきた。(略)何の罪もない者を殺害したとされる『朝鮮人虐殺』は、はたして本当にあったのか。日本人は途方もない謀略宣伝の渦に呑まれ、そう信じ込まされてきたのではあるまいか」(加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』p20)

 つまり、朝鮮人テロリストたちが震災に乗じて暴動を起こしたのは流言ではなくて事実だった、自警団の行動はこれに対する正当防衛だったのであり、「虐殺」と呼ぶべきではないというのだ。

 その証拠として彼らが示すのが、震災直後の流言記事である。たとえば「朝鮮人が放火した」と書いてある記事を示して、それをそのまま朝鮮人が放火を行った証拠だとしてみせる。こうした主張の羅列が、この本の軸をなしていると言ってもよい。

 だがすでに触れたように、彼らが自らの主張を本当に信じているかといえば非常に疑わしい。なぜなら、この本を仔細に検証すればするほど、それが史料の恣意的な切り貼りをはじめとするトリックの上に成り立っていることが分かるからだ。奇術師が自分を超能力者だと思い込むことがないのと同様に、意図的なトリックを作り出して読者に何かを信じさせようとする著者自身が、それを信じているとは考え難い。

工藤夫妻は、それらの記事の多くを姜徳相/琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(1963年、みすず書房)に収録されたものから“引用”している。

『現代史資料6』は、朝鮮人虐殺関連の資料を包括的に集めた本である。そこに収められている新聞記事は、震災直後の「朝鮮人暴動」記事だけではない。世の中が落ち着いて以降の、朝鮮人虐殺の凄惨な様相を伝える記事や、虐殺を行った自警団を裁く裁判の記事も収録されている。それらを読めば、震災から1カ月もたったころには誰も「朝鮮人暴動」を信じていなかったことも理解できるだろう。そして、『現代史資料6』を出典として繰り返し明記している工藤夫妻は、当然、そうした記事にも目を通しているはずである。ところが彼らは、朝鮮人暴動が事実ではなかったことが分かった震災翌月以降の新聞記事をすべて黙殺した上で、震災直後の流言記事だけを抜き出して「朝鮮人暴動」の「証拠」として読者に提示してみせているのである。

 この資料集には、新聞記事以外にも、公的な記録や数年後に書かれた手記なども収められている。工藤夫妻は、そうした手記からも“引用”を行っている。ところが、その切り取り方が作為的なのである。たとえば、朝鮮人暴動の噂を聞いていた人が実際に市街地に行ってみたところ、朝鮮人暴動どころか自警団の朝鮮人迫害を目撃したという内容の手記から、前半の「朝鮮人暴動の噂」だけを切り取って朝鮮人暴動があった証拠として読ませるといった具合である。また、“引用”に際して、至るところで「略」とも示さずに都合の悪い部分をこっそりブツ切りにしている。

 この本には、他にも大小のトリックがちりばめられている。初歩的な数字の詐術で朝鮮人犠牲者の数を極小化する、権威ある資料を出典として明記しながら、そこにまったく書いていないことを書いてみせる、などなどである。そうした作業の上に、空想をまぶして虐殺否定論を成立させているのである。詳しくは、ブログ「工藤美代子/加藤康男『虐殺否定本』を検証する」か、あるいは拙著『トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(ころから刊)を読んでいただければと思う。要するに、虐殺否定論は仕掛けが分かれば脱力するようなレベルのトリックなのである。

 

加藤直樹『TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(ころから、2019年)

差別が虐殺に行き着いたという史実

 だが、この本が生み出した「朝鮮人虐殺否定論」というトリックは、その後、確実に社会に広がり、現実を動かし始めている。
 まずはネット右翼、次いで政治家たちがこれに飛びついた。たとえば自民党文部科学部会の部会長である赤池誠章参院議員が自らのブログでこの本を讃え、「『朝鮮人虐殺』という自虐、不名誉を放置するわけにはいきません」と書く(14年9月1日「9月1日 防災の日 関東大震災を考える」)。憲法改正を掲げる「日本会議」は、ブックレット『緊急事態条項Q&A』(明成社、16年)の中で、この本を引用して「朝鮮人独立運動家」などがテロを行ったと記述し、憲法改正による緊急事態条項の必要性の根拠とした。
 この動きは行政の現場にも波及する。12年には、横浜の歴史を教える中学生向け副読本の中の朝鮮人虐殺の記述を自民党市議が市議会で批判。「虐殺」などという表現はおかしいと主張した。これを受けて教育長がその場で回収を明言し、実際にすべて回収するに至った。こうした動きのきっかけとなった産経新聞の記事(2012年6月25日)には、工藤美代子氏の「当時は朝鮮独立運動のテロがあった」とのコメントが添えられていた。
 17年には、東京都議会で自民党の都議が「小池知事にぜひ目を通してほしい本があります」として工藤美代子氏の本を紹介し、朝鮮人が震災に乗じて凶悪犯罪を行ったのは事実であり、歴代の都知事が行ってきた朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付をとりやめるべきだと小池都知事に迫った。これを受けて、小池都知事は実際に追悼文送付を取りやめてしまった。以来、18年、19年と送付を行っていない。
 トリックにすぎない虐殺否定論が現実の世界に侵入し、虐殺についての教育、追悼、展示を押し潰す武器となっているのだ。いくら荒唐無稽であっても、虐殺否定論を主張し続けていれば「朝鮮人虐殺の有無については諸説あるらしい」という雰囲気を社会に醸成することはできる。そうなれば、「諸説ある事柄について公共の場で教育するな、展示するな」といった圧力を加えることができるようになる。虐殺否定論を広める人々の「目的」はそこにある。つまり、虐殺の記憶を封印することだ。
 ではなぜ、虐殺の記憶を封印したいのか。そこには、民族差別をガソリンとする、排外的で歪んだナショナリズムの高揚がある。そうした傾向を煽りたい人たちにとって、差別が虐殺に行き着いた朝鮮人虐殺の史実は喉元に刺さった骨だからである。
 だが、朝鮮人虐殺の史実が本当に忘れ去られてしまったら、どうなるだろうか。
 先に紹介した内閣府中央防災会議の専門委員会報告「1923関東大震災【第2編】」は、朝鮮人虐殺の史実から受け取るべき教訓として、「民族差別の解消の努力」と災害時の「流言の発生」への警戒を挙げている。この教訓が忘れ去られ、むしろ災害時には外国人のテロや凶悪犯罪に備えよという「教訓」にすり替えられたとき、100年前の惨劇がかたちを変えて繰り返される。実際、東日本大震災のときは「被災地で中国人窃盗団が暗躍している」といった流言がネット上で広がったし、それを真に受けて、中国人を見つけたら殺してしまおうと武装して被災地に乗り込んでいった右翼団体もあったのである。
 虐殺否定論は犠牲者への冒涜であり、歴史への冒涜であるとともに、未来の惨劇を招き寄せかねない恐ろしさをもっているのだ。民族的な多様化が進む日本社会で、決して許してはならない「トリック」なのである。

 


1923年9月1日、関東大震災、そして昨年9月6日は北海道胆振東部地震があった。「教訓」は生かされなければならない。「教訓」のすり替えは許さない。