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収容されている外国人たちが苦しむ長期拘束と「仮放免」問題ー入管施設で100人がハンスト?!

2019年09月11日 | 社会・経済

在留資格なき外国人に人権はないのか?

 Imidas時事オピニオン2019/09/10

 2019年夏、茨城県牛久市にある東日本入国管理センターで、長期拘束に抗議して、約100人の外国人収容者がハンガーストライキを行っていると報道された。いったい牛久の入管で何が起こっているのか? 樫田秀樹さんの〝入管〟取材、第2弾です。(掲載されている写真は省略させていただきました。)

 日本人と結婚しても在留資格が与えられない?

「私たちは愛し合って結婚しました。でも、私が日本人であっても、彼が『仮放免』の外国人なら彼には日本の在留資格はありません。在留資格がない以上、いつまた彼が『収容所』に送られるのか。その不安に怯える毎日です」

 こう話すのは、トルコ国籍のクルド人の夫を持つ嶋津まゆみさん。この夫婦をして「もしかしたら今日収容か」との不安を抱かせるのは、日本の入国管理制度がここ23年で徹底した長期収容に動いているからだ。

 日本には、17カ所の法務省の入国管理施設がある。このうちの9施設で は、日本での在留資格がない、もしくは失った外国人が、「母国への帰還の準備が整うまで」を前提に収容されている。その人数、20196月末時点で1253名。最多が東京出入国在留管理局 (東京都港区。以下、東京入管)の425名、それに次ぐのが東日本入国管理センター(茨城県牛久市。以下、牛久入管)の316名だ(出入国在留管理庁作成資料より。資料提供:「牛久入管収容所問題を考える会」 )。

 牛久入管総務課の話によると、被収容者の約3分の2を占めるのが、難民認定申請中、もしくは申請はしたが不許可となった人たちだ。母国での弾圧や差別を逃れ短期観光ビザなどで来日した。

 彼らは入管施設で難民認定申請をすると、審査期間の数年間は日本に居住できる暫定的な在留資格を付与される。もし難民認定不許可との裁定を下されると、在留資格がない人間となり「退去強制令書(強制送還命令)」が出される。しかし、母国での虐待を恐れて帰国を拒否する人もいれば、そもそも強制送還者の帰還を受け入れない国もある。そこで入管施設は、「帰還の準備が整うまで」との前提で、そういった外国人を収容する。

 被収容者の残り約3分の1は、不法就労が発覚したり、在留資格(労働ビザや永住者資格など)があったが何かしらのルール違反(禁止事項の副業をした、刑事事件を起こしたなど)で在留資格が抹消された人たちである。

つまり、在留資格のない外国人は母国に送還するか、それができない場合は収容するということだ。

ただし、人道的配慮から長期収容を避けるため収容を一時的に解く「仮放免」という措置が取られている。これは、「母国に送還する」との前提は変わらないが、本人に逃亡の恐れがなく、保証人がいて、「就労禁止」と「居住県からの許可なき移動の禁止」さえ守れば一般社会での居住が許可される措置だ。被収容者本人が申請し、各収容施設長の判断で許可・不許可が決まる。

 問題は、ここ23年で、仮放免を許可される被収容者が激減し、長期収容が常態化していることだ。

牛久入管で20年以上も被収容者との面会を続ける市民団体「牛久入管収容所問題を考える会」の調査で明らかになった数字がある。

196月末で、牛久入管の被収容者316人のうち、1年以上の長期被収容者が約9割の279人。長い人で5年だ。この数字は、132月時点の97人から3倍弱も増えている。牛久入管以外では、長崎県の大村入国管理センターと東京入管と大阪出入国在留管理局に長期収容の傾向がある。

これは、入管が仮放免を許可せず、外国人を長期にわたり閉じ込めているという状態が続くことを意味する。

NPO法人「難民支援協会」によれば、牛久入管で2016年に許可された仮放免378件に対し、不許可は375件。それが1年後には、それぞれが224件と803件と不許可が断然多くなっている。

 その理由を牛久入管総務課に問い質すと、担当職員は「上からの収容を継続せよとの指示があるので」と回答した。

 確かに指示はある。16年4月7日付で入国管理局長(現・出入国在留管理庁長官)が全国の収容所長に通知を出した。その概要は、2020年の東京オリンピックまでに、不法滞在者等「我が国社会に不安を与える外国人」の効率的・効果的な排除に積極的に取り組むことというものだ。さらに18228日には、「収容に耐え難い傷病者でない限り、収容を継続しろ」との指示を出しているのだ。

 つまり、外国人の収容や国外退去を徹底したうえで、無期限の収容に努めよと命令したということだ。

仮放免の実態は?

「確かに入管がひどくなったのは2016年からです」

 こう話すのは、まゆみさんの夫で埼玉県川口市に住むトルコ国籍のクルド人、ウチャル・メメットさんだ。

クルド人は、トルコでは差別と弾圧の対象になっている。ウチャルさんも小学生のときクルド語を喋っただけで教師から殴られ、周囲の大人も反政府デモへの参加を理由に警察で拷問された。

 ウチャルさんは2008年、18歳のとき、「平和な国」日本へと飛び、成田空港で難民認定申請をした。すぐに成田空港の収容施設、次いで牛久入管へと送られ、合計半年を過ごす。仮放免されると14年にまゆみさんと出会い、翌年1月に入籍した。

 だが日本人と結婚しても、ウチャルさんの身分は今も「仮放免」のままだ。まゆみさんは「同じような組み合わせでも、子どもが生まれたら在留資格が与えられる事例はあるようです。子どもがいない場合は難しいですね」と語る。

仮放免が許可され、普通に生活できる期間は2カ月前後。つまり、仮放免者は2カ月ごとに東京入管(住んでいる場所によって出向く入管は異なる)に赴いて、入管からインタビューを受けるといった更新手続きを取らねばならない。

 この更新の際に、仮放免が不許可となる場合がある。理由は一切教えられない。

17112日、ウチャルさんは仮放免更新のためにまゆみさんとともに東京入管を訪れた。まゆみさんが待合室で待ち、ウチャルさんがインタビュー室に入ると、職員が告げた。

「更新が不許可となったのであなたを収容します」

「私がいったい何をしたのですか?」

「あなたが判っているのではないですか?」

「妻に連絡させて」

 携帯電話でまゆみさんを呼び出し「まゆみ、オレ収容……」と言ったとたん、10人ほどの職員がウチャルさんの全身を確保し、床に組み伏せた。携帯電話が床に転がる。まゆみさんの電話にはガヤガヤした不穏な物音しか聞こえない。

「マモ(ウチャルさんの通称)! マモ! どうしたの!」

 まゆみさんは「もしかして……」と恐怖を覚えた。果たして、ウチャルさんはまゆみさんに会うことなく、そのまま東京入管内に収容され、その後、牛久入管に移送され、1876日まで収容された。

 この8カ月間は「人として扱われなかった」とウチャルさんは振り返る。

 夫婦であっても面会はアクリル板越しだ。互いの手に触れることも許されず、面会時間も30分だけ。一日5時間程度の自由時間以外は、5人の外国人が6畳の部屋に押し込められ施錠をされる。外出は一切禁止。いつ出してもらえるかの情報は与えられない。その環境に、多くの人が閉塞感と展望なき明日への不安から熟睡できず、睡眠薬や精神安定剤を服用する。その結果、徐々に精神バランスを崩していく人もいる。

 私は牛久入管で延べ30人以上の被収容者に面会取材をしたが、素人目にも精神状態を疑える人は多くいた。視線が合わない人、口が開きっぱなしの人、体を洗わない人……。

仮放免者が辛いのは、収容生活の体験がPTSDとしてまとわりつくことだ。じつはウチャルさんも、毎日、寝る直前まで外で過ごしている。

「ダメなんです。四方を壁に囲まれていると収容の苦しさがフラッシュバックして」

まゆみさんも同様の辛さを訴えている。

「彼とは2カ月おきに東京入管に仮放免の更新手続きに行きますが、入管に入ったとたんに収容されたあの日が思い起こされ、怖くて自然と涙が出るんです」

1973日、ウチャルさんは更新手続きに臨んだ。数日前から特に強い不安に襲われ、収容に備え着替えを準備した。まゆみさんも睡眠不足に陥った。幸いにもこのときは、仮放免は更新された。だが、入管職員は「難民認定の結果が不認定になったら再収容します」とウチャルさんに伝えた。

 これは脅しではない。ウチャルさんは今、複数回目の難民認定申請中だ。入管は18112日に「難民認定制度の適正化のための更なる運用の見直し」との方針を出し、繰り返される難民認定申請に対しては再申請を認めないということにした。つまり、複数申請者には収容か強制送還かの措置を取るということだ。

さらに、入管は新たな「指示」文書を出して、仮放免を許された者への監視を強めることを表明している。ウチャルさんにもこんなことがあった。

 ウチャルさんが東京入管での更新手続きを済ませ、電車で自宅のある川口市まで戻るとき、電車の中で自分をチラチラ見る黒いジャンパーの男がいたという。

「その人、同じ駅で降りると、私が喫茶店で友だちと話していても近くにいる。そのうち、ジャンパーの開いている胸元から制服の『IMMIGRATION』(入管)のロゴが見えたんです。友だちが飛んでいって『お前、入管だろ!』と怒鳴って追い返しました」

 こういった尾行のほかにも、入管の監視活動には抜き打ち訪問や抜き打ち電話などがあり、私は複数の仮放免者からその証言を得ている。

まゆみさんはこう訴える。

「私たちが安心して暮らすためには何かしらの在留資格が必要です。私たちは今後法的措置も視野に入れて闘っていきます」

施設内では死を賭したハンストが始まった!

 なかなか仮放免の許可を出さなくなった牛久入管では、最近憂慮すべき事態が起こっている。これに抗議するため、最大時で約100人の被収容者が「死を賭した」ハンガーストライキを行っているのだ。

 この本気のハンストが功を奏したのか、牛久入管は少しずつハンストを行った被収容者に仮放免の許可を出している。被収容者の支援団体も当初は「よかった」と胸をなでおろした。ところが、その仮放免期間はわずか12週間と異常に短く(通常は1カ月以上)、その後の再更新はほぼ例外なく不許可となり、期間終了しだい即日で牛久入管に送り返されるという異常事態が続いている。

 水以外を口にしないハンストは、20195月、イラン人男性のシャーラムさんが一人で始めた。すでに2年以上も収容され先の展望が見えないシャーラムさんの「生きて出るか、死ぬか」を覚悟しての行動だった。

1週間後、シャーラムさんは体調を崩し倒れた。それでもハンストを続ける姿に徐々に同調者が現れ、集団無期限ハンストに発展。その数は最大時で約100人に膨れ上がり、牛久入管では誰かが吐血したり、昏倒する毎日が当たり前になった。

 私が牛久入管でもっとも多く面会取材をしたデニズさん(40歳。トルコ出身のクルド人)もその一人。妻は11年に結婚した日本人女性だ。

 デニズさんがハンストに参加したのは6月から。デニズさんはトルコで反政府デモに参加したことがある。すると警察に連行され殴る蹴るの暴行を受けた。クルド人というだけでトルコ人から差別される日常に嫌気がさし、075月に来日した。これまで幾度も難民認定申請をしているが、いずれも不許可となっている。

同年、デニズさんは生きるために不法就労をした。それが発覚し10カ月牛久に収容された。翌年に仮放免と2度目の収容を経験。そして(2度目の仮放免のあと)3回目の収容で、ハンスト開始。その時点で収容期間は3年にも及んでいた。

 前述したように、長期収容は被収容者の体と心を壊す。デニズさんもあまりの絶望感からこれまで4回の自殺未遂を収容中に起こしている。

 絶望の淵にいる夫を助けたい。その想いから、妻のA子さんは、牛久入管にデニズさんの仮放免を求めて手紙を書いた。A子さんの許可を得て、内容を紹介する。

「収容されてからの彼の精神面は心配なことばかりで、月に一度は必ず面会に行き、電話でも話をします。私の母は心臓も悪く、一人で外出もできず、車椅子で生活をしております。

私は仕事をしながらの介護と彼の収容で、そして毎日が一人っきりの状態で、精神的にも、肉体的にもギリギリのところに来ております。もう一度、夫婦二人で力を合わせ、法律厳守を誓い、生きていく所存でございます。どうぞデニズの仮放免の許可をいただけますようお願い申し上げます」

 デニズさんが一日も早く妻に会うためには、とにかく仮放免を待つしかない。だが3年間で10回以上申請しても仮放免は一度も許可されなかった。その絶望感が時に限界を超えることがある。17129日、デニズさんは天井を破壊し、むき出しになった軽量鉄骨に破いたシーツを使って首をかけた。幸いにもシーツが伸び、長身の体のつま先が床についたことで一命はとりとめた。3度目の自殺未遂だった。

たった2週間の仮放免。再収容後の闘い

 デニズさんも、今年5月から始まった「生きるか死ぬか」のハンストに「生きて出る」ことを賭け参加した。

6月になると、最初のハンスト者、シャーラムさんの仮放免の方針が決定された。シャーラムさんの今回の仮放免は、79日からわずか2週間。デニズさんは職員から「彼はまた戻ってくる」と聞かされていた。そして722日、シャーラムさんは東京入管に仮放免の更新手続きに訪れたが「不許可」となり、職員の言っていた通り、即日で牛久入管に戻された。

「最初からそのつもりだったのか!」と被収容者たちはこれを知って怒りに燃え、新たにハンストに加わる人が増えた。長期化するハンストの中で、デニズさんはA子さんとの電話でこんな言葉を漏らした。

「もう死んでもいい」「面会にはもう来なくていいよ」「あなたのそばにいきたかったよ」

A子さんは泣いた。死を賭ける選択肢なんてあんまりではないかと。A子さんはすぐに牛久入管に電話をして「どうか夫を死なせないでください!」と訴えた。

724日、私の携帯電話にデニズさんから弾んだ声での連絡があった。「仮放免が決まった!」。ただし、2つの条件をのまねばならない。ハンスト中止と血液検査を受けることだ。デニズさんはこれに従い、82日についに仮放免される。だが、期間はシャーラムさんと同じ2週間……。この時点でデニズさんは再収容を覚悟したようだ。

 仮放免されてすぐに、デニズさんは精神科で診察を受けると、「拘禁反応の疑いあり」との診断が下された。その病巣ともいえる場所に、治療もせずに、たった2週間後に戻るのか。32カ月ぶりに会った妻とわずか2週間で別れるのか。難民認定申請をするだけなのになぜ犯罪者のように扱われるのか。813日の更新手続きを前にした記者会見の席で、デニズさんは絶望感から泣いた。

816日の朝920分、東京入管にバスで降り立ったデニズさんは取り乱した様子もなく、覚悟を決めたのだろう、淡々と報道陣の取材に答えていた。

「この2週間、毎日、奥さんと一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、楽しかった」

 彼の言葉に支援者の中には涙をこらえる人もいた。

1020分。デニズさんは仮放免更新手続きのためのインタビュー室に入った。支援者たちは彼と握手を交わし「ここで待っているから!」と声をかけた。デニズさんは悲しそうに「いえ、牛久に行きますから。面会に来てくださいね」と笑った。

1250分頃、入管職員がデニズさんの主任弁護士に仮放免の不許可を伝えた。デニズさんは姿を現すことなく、牛久入管に移送された。

「再収容されたら、またハンストやるよ。もし、また仮放免2週間という提示を受けたとしてもハンストは続ける。1カ月以上の仮放免が出るまで食べないよ」

 デニズさんは、私にこう話していた。大丈夫だろうか。体も心も壊れないだろうか。

821日。私はデニズさんに会いに牛久入管を訪れた。面会室に入ると、アクリル板の向こうにいたのは、車椅子に乗って、目に力がなく、無精ひげを生やしたデニズさんだった。

「早速ハンストをしていますが、もう体力がなくて歩けない。体重は5日間で5キロ減りました。でも今度は1カ月間とか2カ月間の普通の仮放免が出るまでハンストをやるから」

牛久入管では821日時点で約80人がハンストを続けているという。この日、デニズさんに面会を申し込んだ支援者によれば、デニズさんは起き上がることができない状態にまで衰弱し、面会は実現しなかった。そして92日には、デニズさんから私に弱々しい声だが「まだハンスト頑張っています。ここから出るか、死ぬかのどちらしかありません」との電話が入った。私にはデニズさんが生きぬくことを祈るしかなかった。

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 収容中も収容後も苦しむ在留資格なき外国人たち。特に、この7月からの「短期仮放免+再収容」といった入管の運用はいったい何のためなのか。

 私の周囲を見れば、この問題に関心を持つ人は少ない。普段は「人権を守れ」と声高に訴える組織もこの問題にはほぼノータッチ。遠い外国で難民支援に携わるNPOなども足元にいる難民(申請者)には目を向けない。メディアも同様で、私がこの件で企画を出すと編集者から言われるのが「彼らは不法滞在してるんだろ。自業自得だよ」との一言。一般市民も同様で、その奥にある問題に意識が向けられないのが現状だ。

 この問題は、国会で入国管理法などを審議しない限り解決しない。だが、その国会議員が牛久入管などを視察するのは年にほんの数人だ。

 現実は実に厳しいが、それでもインターネット上で情報を発信したり、街宣行動をしたり、入管施設前で抗議行動をする市民団体や個人は存在している。私も、せめて国会でこの問題が審議されるまでは、今後もこの問題に関わろうと思っている。


 生きずらい世の中で、生きるか死ぬかの闘いをしている。彼らは「犯罪者」ではない。ただ、命を守るために逃げて来ただけだ。