安倍晋三元首相の国葬が秋に行われる見通しに。国葬の歴史に詳しい中央大の宮間純一教授は、「政府が関わって、『国家に特別な功績があった』とされる人を弔う葬儀はいずれも政治的な意図を持って行われてきた」と強調する。
参院選の応援演説中に銃で撃たれて亡くなった安倍晋三元首相の「国葬」が秋に実施されることについて、賛否の声が巻き起こっている。
国葬とは、政府が主催し、国費で行われる葬儀のことだ。戦後、首相経験者の国葬は1967年の吉田茂氏の一例のみで、秋に実施されれば55年ぶりとなる。
近年は内閣と自民党による「合同葬」が主流。一方で過去には、鳩山一郎氏や池田勇人氏、石橋湛山氏らの「自民党葬」など、首相経験者でも政府が関わらない形での葬儀が執り行われたケースも少なくない。
国が主催する公的な葬儀には、どんな問題があるのか。
『国葬の成立』(勉誠出版)の著書があり、政府が関わる葬儀の歴史に詳しい中央大の宮間純一教授(日本近代史)に聞いた。
過去には「戦時体制の強化」に利用も
ーそもそも「国葬」は、日本でいつから始まったのでしょうか。
国葬の始まりは、明治11年(1878年)に士族たちによって暗殺された大久保利通の国葬に準ずる葬儀でした。
当時は反政府勢力が国内に多くおり、盤石な政府ではなかった頃。天皇の名の下に、国家を挙げて大久保という人物に対し哀悼の意を示すことで、反対派の動きを封じ込めるという政治的な目的がありました。国として一つのまとまりを作っていくために執り行われたのです。
その後、岩倉具視や島津久光、三条実美などの国葬は天皇の特旨(特別な思し召し)として行われ、国家を挙げて一人の人を悼む葬儀が完成していきます。
岸田首相は記者会見で、安倍氏が選挙中の襲撃事件で死去したことを踏まえ、国葬を執り行うことで「我が国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」と発言しました。
国葬の実施と民主主義を守ることがどうつながるのか理解できませんが、この発言はまさに大久保を国葬した際の明治政府の意図に通じるものと考えます。
ー1926年の「国葬令」は、法令として国葬について初めて定めています。
天皇の勅令で国葬令が定められると、天皇や皇后などの他、「国家に偉勲ある者」(国家に特別な功績があった人たち)もこれに基づき国葬を天皇から賜りました。
戦前の国葬は、『天皇や国家に尽くした人を国を挙げて悼む』という論理のもと、天皇の支配イデオロギーや国家の統制を高めるための方法として利用されました。
わかりやすいのが、1943年に戦死した山本五十六の国葬です。
当時は戦局が著しく悪化している時期であり、戦時体制を強化するという明確な目的があって行われています。
国葬の始まりやその後の歴史から分かるように、政府が関わって、「国家に特別な功績があった」とされる人を弔う葬儀は、いずれも政治的な意図を持って行われてきました。
国葬というのは、民主主義社会においては国家が主体となり、国民も政府も納得した上でその人を顕彰するために行うべき儀礼ですが、そのような対象はあり得ないはずです。
安倍氏に限らず、その人の業績を良く思わない人がいる中で、国として「偉大だった」と評価を固めてその死を重要だと認定することには疑問が残ります。
国や政府が主催し、多くの税金を投入する国葬などの公葬はもう時代に合わないのではないでしょうか。有志で執り行うのではなく、必ずしも追悼したくないという国民も公費負担という形である意味、強制的に巻き込むことには問題があります。
さらに、安倍氏を国葬の対象とすることは、ひいては安倍政権を評価し、自民党政権を肯定することになります。そうなると、国葬を亡くなった人のために行うというより、現政権のために行うということになり得る。そこに多額の税金を投入することは「死の政治利用」とも言えます。
ー今回の国葬の実施について、岸田首相は閣議決定が根拠だと主張しています。
閣議決定が根拠になるんだという解釈だけで進めることは、非常に問題があります。
国が主体となり、その上全額が公費負担となるからには、国民が選んだ代表者たちが国会の場で審議し、開かれた形で議論を行い、民主的な手続きを経て決定するべきです。
<取材・文=國崎万智@machiruda0702/ハフポスト日本版>
待望の雨が。
週間天気予報を見て「なんや!傘マークばかりじゃないか」と随分前から思っていたのだった。
しかし、一向に雨は来ない。雨どころか晴れ渡っている。傘のマークはどんどん逃げてしまう。昨夜も雨予報だったのでハウスを閉めて帰ったのだが、目を覚ますと晴れている。もちろん夜間の雨もなし。焦って開けに走る。昼前から降り始める。まとまった雨になりそうで、胸をなでおろす。