盗人宿

いまは、わかる方だけ、おいでいただければ。

いちばん最後?

2018-08-26 14:28:24 | にゃんころ
物書きをやっておりますと、世間で使われる表現がいろいろと気になってまいります。

「いちばん最後」なんかがその典型ですね。
いちばん終わりのことを最後というのですから、2番目の最後というものはありません。
つまり「いちばん最後」とは「腹痛が痛い」といっているのと同じです。

「全然平気」も、全然平気ではないです。
本来「全然」の後ろには否定形、つまり「全然〇〇ない」と使うものです。
だから「全然大丈夫」や「全員似合う」は,大丈夫でもないし似合ってもいないことになります。

「勝利する」も耳障りですね。
「~する」は「行為の後ろにつく」もので、名詞の後ろにはつきません。
「運転する」「ドライブする」とはいうけど、「自動車する」とはいわないでしょ。
日本には昔から「勝つ」「勝利を収める」という立派な日本語があるのですから。

もともとこの「勝利する」を使い始めたのは、数十年前の学生運動の連中です。
「次の闘争には必ず勝利するぞ」と。
で、その連中が社会人になっても使いまくったものだから、まるで正しい日本語のように市民権を得てしまい、若い連中が「ネットする」「パソコンする」とかいうようになってしまったわけです。

まあこれは他にも下地があって、昔から「電話する」といいますよね。
私は親から躾けられて「電話をかける」といいますが、「電話する」は先ほどの「自動車する」と同じ意味で間違っているのです。

このあたりはすべての日本語が正しく使われているわけではないし、私も日本語学者ではないし、明治や大正の時代はいまと違うことばが使われていたのでの、あまり細かくいうのもどうなのかと思います。


ただ、どうしても許せないのは、「感動をありがとう」「勇気をもらった」です。

感動や勇気とは、もともと自分の中から湧き上がってくるもので、誰かに与えてもらうものではありません。
アジア大会で池江が6冠を達成して、そりゃ感動もするし勇気も湧いてきます。
しかし、それは池江が天性の才能と猛烈な練習によって得られたものを見て「間接的に」感動し勇気が湧くものであって、彼女から直接貰ったものではありません。

「感動した」「自分も勇気を持てた」でよいではありませんか。
相手がくれたのは、感動や勇気の「きっかけ」にすぎないのですから。


それからネットを使う人の多くに見られる傾向ですが、自分の発言のなかに「(笑)」を使う人がたくさんいます。
本来「(笑)」はインタビューなどで他人の発言を聞き、その相手が笑った時に使う技法であって、自分の発言につけるものではありません。
「わっはっは」「うふふ」とでも書けばよいではありませんか。

「w」に至っては、どれだけまともな事が書かれていても、使っているだけで「あ、この人は馬鹿だな」と思われてしまいます。


ほんの一部にすぎませんが、自分は使わないけれど他人が使って気になる、というより恥はかきたくないなあと思う表現に言及しました。
もちろん私も言語学者から見れば(ここも「言語学者が読めば」が正しい)、赤ペンが山ほど入るでしょうが、まあ数をこなせば同じミスでも「全体的な確率」は下がるので、あまりにみっともない間違いには気をつけながら毎日タイピングをしているわけでございます。

もう8月もあとわずか。残暑はまだまだ続きそうですが、世の中は夏休み明けに否応なく進みつつあります。
私は何十年も体重 50kg 前後を保ってきましたが、先日計ったら 43kg でした。
「10kg 減ったら癌を疑え」といわれるので、こんど精密検査を受けようと思っています。

という奴に限って、受けないんだよねえ。