塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

僕が思う、日本の東南アジア市場の開拓

2016-02-06 00:14:07 | 日記
 新潮新書に「大人の見識」という書籍があります。

 著者は阿川弘之氏で、僕は幾度か読み直していますが、氏の作品はこれしか持っていません。

 氏によりますと、インドでは全ての方がそう考えてはいないようですが、独立の機運を日本が助けたという解釈はあるようです。

 インドでこの考えを持つ方がいるのであれば、シンガポールやインドネシアでも同様の考えを持つ方がいるのかもしれません。

 僕の祖母は祖父が徴兵に落選して無事に帰宅したときは、本当に嬉しかったと語っていましたし、戦時中の

 「大東亜共栄圏」
 「長野にも空襲はあったよ」

 と固有名詞を用いながら、僕に伝えていたものです。

 この大東亜共栄圏は軍部のスローガンでしかなかったものの、僕は今のJリーグのアジア戦略は、良い意味でアジアの発展につながると思います。

 少なくとも、このアジア戦略は搾取ではないでしょう。

 「あなたたちの国にこれぞ!と思う選手をぜひJリーグでプレイさせてください」
 「そうすれば、代表の実力向上が期待できます」
 「また、選手の獲得でファンの関心がお互い生まれますよ」
 「ならば、新しい雇用が期待できそうですよね」

 という、お互いがお互いを尊重しあうことが可能のように見えます。

 欧州も東南アジアにアカデミーを設立していますが、日本ほど彼らの現状を踏まえているようには見えませんし、そこには

 テレビマネー
 選手を廉価で獲得

 という損得勘定はあるでしょう。

 もちろん、日本も損得勘定はありますし、商売で行っています。

 でも、そこに意味のない搾取が無いのであれば、それはお互いの良い解決策が得られるように思います。

 アルディージャの取り組みが先日、スポーツナビに掲載されたと思います。

 サッカーを軸に、文房具、衣類の供給、病院を近所に作るとか、様々な立案もできるでしょうし、もし実現できたならば、それは凄い事だと感じます。
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僕が感じる言葉の違和感の正体とは

2016-02-06 00:04:42 | 日記
 信越放送が夕方のニュースで、長野市界隈で多くの外国籍の方が目につく、という放送をしていました。

 確かにその傾向は顕著で、僕が高校時代に長野に出かけていたときと比べるとその数は断然違いますね。

 長野がそれだけ観光資源に恵まれているという見方はできますが、解せない部分もあります。

 それは外国籍に寄り添うことは大切であろうが、現状は「寄り添いすぎではないか」と感じます。

 僕は今まで海外に出かけた事は一度もありません。

 仮に僕がサッカー観戦のために渡欧したと仮定します。

 プレミア観戦ならば英語、リーグ1観戦ならばフランス語の準備を、渡欧の前から初めてできる範囲で現地に馴染もうとするはずです。

 それは僕に限らず日本人が

 「現地の人間が旅行者に寄り添うのではなく、現地に我々が寄り添うのだ」
 「海外に出かけた際、現地の言葉を話すことが、彼らに敬意を払う最大の要素」

 と思うためでしょう。

 恐らく熱心に海外でサッカーを観戦している方は、あいさつ文やホテル、レストランでの会話だけでなく、警察や病院などトラブルに遭遇したときのために言葉を学んでいると思います。

 でも、観光で来日している外国籍の方は、まず日本語を用いません。

 ですから、僕の考えと齟齬が生じています。

 「私たちの国にみなさんが来たとき、我々は日本語であなたたちを応対しますよ」

 というのであれば、それはフェアだと思いますね。

 でも

 「我々は母語でしか話さないよ」
 「でも、君たちは日本語ではなく、我々の言葉に合わせてくれ」

 では意味がないと思います。

 サッカーに限らず、長期滞在、短期滞在に限らず、旅行者はまず母語を封印して現地の言葉を用いることが、最低限の配慮であると思います。

 僕が海外に出て困ったとき、彼らが日本語で応対する、そんなことはまず無いでしょうし。
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