乳をすふ まろき子を見る うれひかな 夢詩香
*今日は少しやさしいのにしましょう。これはだいぶ前の作ですが。
まだわたしが女性の芝居をしていたころの句です。かのじょの人生に材をとり、かのじょの気持ちになったつもりで詠みました。
赤子を抱いて乳を飲ませたことのある女性は、だれも一度はこんなことを感じたことがあるでしょう。
赤子というものは、丸くてかわいらしい。無心に乳を吸う様子が愛らしい。見ているだけで、なんでもしてやりたいと思う。だが、すべてをやってやれぬのも親なのだ。
いつかはこの子も、親を自分とは全然違うものだと感じて、離れていくだろう。反発してくるだろう。そして、自分の力で築いていかねばならない自分の人生に入っていくだろう。
その人生には、幾多の苦悩が待ち受けている。自分を生きていくということは、本当は生易しいことではないのだ。だが、代わってやりたくても代わってやることはできない。そんなことができるはずがない。自分の人生は、自分で生きるのが本当で、最も幸せなことなのだ。
だが、それがわかるようになるまで、きっとこの子は身もだえするほどに苦しむだろう。
そんな人生を、自分はこの子に与えてしまったのか。この子はそれを憎むだろうか。
だが無心に乳を欲しがる子を放っておくことなどできるはずがない。母親は何かにせき立てられるように、子供を育てなければならない。
子供の人生の、どこまでが親の責任だと言えるでしょうか。それはおそらく、40歳くらいまでです。なぜなら、本当に子供が自分の人生を生きられるようになるのは、それくらいからだからです。それまでは、どんなに大人になったつもりでいても、子供は親の一部なのです。
親も、子供が40にもなれば、だいぶ諦めがつくのですよ。だがそれまでは、心配をし続ける。苦労をし続ける。
それでもいいというのが、親です。愛はそういうもの。苦労をしてもしても、愛してやりたいのです。